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二、三の山名について
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二、三の山名について
木暮理太郎
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Chapter 9 of 10

筑波山

筑波山は関東の名山である、恐らく東国の人で其名を知らぬ人はあるまい。殊に雪の富士紫の筑波は江戸の詩人墨客が好んで吟咏の題目としたのみならず、遠く万葉の昔から此二山は相並んで東国では最も多く歌材とされていた。『万葉集』巻九に高橋虫麿が筑波山に登って作った長歌が三首掲げてある、其中で検税使大伴卿に従って登った時の作は

衣手 常陸の国 二並ぶ 筑波の山を 見まくほり 君来ましぬと 熱けくに 汗かきなげ 木の根取り うそむき登り 岑の上を 君に見すれば 男の神も 許し給ひ 女の神も 幸ひ給ひて 時となく 雲ゐ雨ふる 筑波嶺を さやに照して いぶかしき 国のまほらを つばらかに 示したまへば うれしみと 紐の緒ときて 家のごと 解けてぞ遊ぶ うち靡く 春見ましゆは 夏草の 茂くはあれど 今日の楽しさ

というので、筑波の双峰が早くから男神女神として崇められていたことが分る。各地にある二上山というのも二神山であって、二峰相並んで聳立していることを示す。

筑波の起源に就ては二、三の異説がある。ツクハはツクマ(佃間)の転で、早くから此地方に移住した高天原民族の一派が蝦夷を駆逐して次第に領域を広め、鬼怒川(今の小貝川)流域にツクマを設けて米作を興した。そのツクマがツクバとなり、地名から終に山名となったのであるというのが一説で、又之をアイヌ語の聳え立つ頭の意であるツクパとする一説もある。実際東側の恋瀬川の畔から西望すると、筑波の双頭は相重なりて一尖峰をなし、鋭く天を刺しているのでツクパ説の出るのも無理はないと思われる。然し私はこれはチアム語のツクハで、地名から山名が導かれたものと推するのである。

一体常陸の国殊に筑波山を中心とする山地には、南洋系民族に関係ある地名や信仰の遺蹟と思われるものが少くない、彼等は何処から入国したものであろうか。東京湾から其儘丸木舟で筑波山を目標として河筋伝いに霞ヶ浦に出たかも知れないし、或は陸路を辿ったかも知れない。更に或は九十九里から犬吠埼を廻り、銚子から霞ヶ浦に入ったものとも考えられる。銚子岬角の東端にある黒生という村名は、察するに其の前面の海中に羅列する岩礁群の名であり、後になって村名となったものと思うが、このハイ又はハエという語は、山陰道出雲地方等日本海岸に最も多く、九州及瀬戸内海にも分布し、紀州の南海岸にも散見する古い韓語で、主として海中の岩礁を指し、稀に岬角等にも用いられている、之を銚子辺に見ることは珍らしく、それが陸上の地名となったことは一層珍らしいのである。恐らく武甕槌神を奉戴して鹿島香取地方を平定した高天原民族の一派が海上から霞ヶ浦に入る際名附けたものであろう。南洋系民族の移住はそれよりも以前のことであると考えるが、彼等は其特色である大蛇崇拝の跡を至る所に遺したものと見えて、常陸の住民には其風習が深く浸みこんで居た。石岡町の西北なる村上村の竜神山、東西茨城郡界の哺時臥山(今浅房山という)の神話、行方郡玉造新田の夜刀神、新治郡の大神郷(今の西茨城郡の笠間町、山内、那珂等に亙れる地である。尚オガミに就ては両神山の条に述べてある)、及真壁郡下郷谷字八竜神の竜神社、新治郡中村の竜神社等は、すべて神崇拝の民族が住まっていたことを示している一方に於て、農業の神である月神即ち月読尊を奉洞した民族のいたことも疑いなく、前者はモン・クメール、後者はチアム民族である。

『常陸国風土記』を見ると、茨城郡の条に

従レ郡西南近有三河間謂二信筑之川一、源出レ自二筑波之山一、従レ西流レ東、経二歴郡中一入二高浜之海一。

という記事がある。今は郡名は新治、川は恋瀬となっている。けれども川の中流右岸に、志筑という村が儼存しているので、この川が古の信筑川であることが推定される。この信筑という地名は後世師付山、師付の森などいう名所として歌によまれ、『万葉集』巻九の高橋虫麿の長歌にも

草枕 旅の憂を 慰もる 事もあらむと 筑波嶺に 登りて見れば 尾花ちる 師付の田井に 雁がねも 寒く来鳴きぬ 新治の 鳥羽の淡海も 秋風に 白浪立ちぬ 筑波嶺の よけくを見れば 長き日に 念ひつみ来し 憂は息みぬ

として取入れられて居る。それならなぜさして景勝の地でもないこの里が夫程名高くなって、後迄も伝わったのであろうかと云えば、それは疑いもなく此附近で最も早く拓けた土地という以外に、月の神を祭った大社が曾て存在していたことに基くものと推定するのである。私は最近二度其処を訪うて月読社は残っていないものかと探し廻ったけれども、僅に中志筑に稲荷社あるを知り得たのみで、遺憾ながら目的は果されなかった。農業の神と五穀の神とは全然無関係ではないにしても何となく物足らない。尤も『風土記』にすら夫に就て何の記載もない所を見れば、其当時に於ても既に社は勿論口碑さえも残されていなかったのかも知れぬ。

シツクという地名は他に淡路、長門、備中、美濃等の諸国にあるけれども、同意語のツクシ即ち九州が本元であったろうといわれている。チアム語シ(Si)は尊称で、ツク(Tuk)は月をいい、シック即ち月の神である。印度では月は太古から農業の神として厚く尊崇され、同じく熱帯の住民であったチアム民族も之を受け継いで来住したものであろう。斯く志筑の地に月の大神が鎮座していた為に、此平野を月の神のいます平野の意でツクハ(Tuk-ha)と唱えたのが附近一帯の地名となり、地名からして筑波山なる山名が導かれたものであろう。

Chapter 9 of 10
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