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好色破邪顕正
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好色破邪顕正
小酒井不木
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Chapter 2 of 5

留置場の対話

それから二時間の後、戸針康雄は、××署の一室で、彼の初恋の女と話して居た。

丑村刑事の尽力と署長の好意によって、彼は彼女との対面を許されたばかりでなく、警察の妨害をしない限り現場捜査に携ってもよいという内諾を得た。

康雄が留置場の扉をあけたとき、何気なく康雄の方を振り向いた彼女の蒼白の頬は、ぱッと紅をさした。殺風景な、あかるくない電灯に照された留置場で、彼女の姿は掃溜に咲いた大輪の花にも譬うべきであろうか。康雄にとっては、まことに、いじらしさの限りであった。

康雄は、元気よくはいったものの、彼女と二人きりになると、急に物を言うことが出来なかった。

「昨晩は……」

と、細い声で言ったきり、おずおずしながら、彼女の傍に腰かけた。

女は軽くうなずいて、彼の視線を避けるように、手巾で口元を蔽いながら俯向いた。警察で与えられた汚ない履物をはいて居るほか、昨夜のままの姿であったが、髪は一層乱れて疲労の色が頸筋にまで見られた。

「一たいどうなさったというのです」と、康雄は心を強いて落つけながら言った。「今朝あなたの置手紙を見て、私は本当に悲観しました。実際私は一時、あなたの心を恨んだくらいですよ」

女は相変らず顔を上げなかったが、深い呼吸を一つして、

「相済みません」

と、かすかに言った。

康雄はこれをきいて、大に力づいた。一言も発しないかも知れぬという危惧の念が、これで完全に取り去られたからである。

「済むも済まないもありません。ただ私はあなたの身の上を案じたのです。あなたが、大平家から、ただならぬ様子で駈け出して来られたのは、何かそこに深い事情がなくてはなりません。その事情を今朝ゆっくり承ろうと思ったのに、あなたの姿が見えなかったので、全く失望してしまったのです。それと同時に、あなたの身の上を案じたのです。すると夕方になって、更に心配を増したのは、大平さんが昨夜、何ものかに殺されなさったことです。夕刊で読んで、本当にびっくりしました。すると其処へ、丑村刑事がたずねて来られて、色々の証拠から、あなたが昨夜、私に出逢ったであろうと推定して、あなたの身許をききに、来られたのです。ところが私も、もとより存じません。然し、あなたが、大平家から昨夜走り出して来られたことがわかった以上、警察はあなたに疑いをかけて、なおも執拗に訊問するにちがいありません。それを私は堪えられなく思いましたから、あなたのことは私にまかせてくれと願って、ここへ御伺いしたのです」

康雄はこれだけのことをすらすらと言って退けた。彼は女の姿を見れば見るほど、いじらしさが増して、恋の心が募って行った。

「御心配をかけてすみません」と、女は又もや深い呼吸を一つして言った。「けれども、私の身の上だけは、どうぞ御たずねにならないで下さいまし」

「身の上は別に御聞きするには及びません。けれども、あなたは殺人という重大な事件の渦にまきこまれなさったのです。死んだ人のことを思うと、一刻も早く犯人を見つけてあげたい気がします。あなたが、犯人でないことは、私は飽くまでも信じて居ます。ですから、少なくとも、あなたの口から犯人でないというあかしを立ててほしいのです。さもなくんば、いつまでも警察は五里霧中にさまよわねばなりません」

けれども女は返事をしなかった。

「私はまだ、あなたのお名前をさえきいては居りません。然し、強いて御聞きしなくてもよいのです。ただ、私はあなたのためにどこまでも忠実な助力者でありたいのです。何とかして、真犯人を見つけて、あなたに覆いかぶさろうとする疑雲を散らしたいと思うのです。あなたが何の用事で、又、如何なる事情のもとに大平家をたずねなさったかをたずねる必要はありません。ただ、あなたが悲鳴をあげなすって……私はただ直感的に悲鳴をあげたのはあなただと思うのですが、それから戸外に走り出されるまでの事情だけをきかせて頂けばよいのです」

気がつくと女は、しきりに手巾で涙を拭って居た。康雄はいささか狼狽した。

「これは申し訳ないことをしました。何も私は、あなたを苦しめるつもりはなかったです。許して下さい」

「いいえ」と言った女の声は、はっきりして居た。「そうではありません。御親切を思って、つい……」

「それでは私の願いをきいて下さいますか」

女はじっと考えて居た。

「お話しになりにくいかも知れませんから、私から一つ一つ事情を推定して御たずねしましょう。大平さんは、昨夜、何かあなたを苦しめるようなことをしたのですか」

女の顔はその時たしかに紅みを加えた。それは或は憤怒の思い出であるかも知れない。

彼女はだまってうなずいた。

「その時、あなたは救いを求めるための悲鳴をお上げになったでしょう」

女はうなずいた。

「すると、それと同時に、大平さんは、背後から、何ものかのために短刀で刺されて、血まみれになってたおれなさったのでしょう。で、あなたは、その思いがけない惨状にびっくりして、家の中から走り出されたのでしょう」

女は軽く頭を横にふった。

「では、あなたは、大平さんを刺した人を御覧になって、それで、驚いて逃げて来なさったのですか」

「ちがいます」と、彼女は、漸く口を開いた。「私はあの人に襲われて、驚きのあまり一声叫んで、そのまま気を失いました。暫くの後気がついたときには、あの人は血まみれになって私のそばに倒れて居りました。そこで怖ろしさのあまり、夢中に飛び出したので御座います」

康雄は、ほッとした。目的を達した安心と、彼女が無罪であることを知った安心とは、彼の胸の中から重荷を取り除いた。

「そうでしたか、よく仰しゃって下さいました。もう、それだけ伺えば沢山ですが、然し、あなたには、あなたのことを御心配になって居る御両親や、御姉弟は御ありでしょう。その人たちのために、あなたは一刻も早くここを出なければなりません。それには……」

「私には、両親も姉弟も何も御座いません」

「え?」と、康雄は、思わずも、彼女の横顔に眼を注いだ。彼女の置手紙の中にあった、「不幸な女より」の文句が、彼の心に浮んだ。

「有難う御座いました。もう、これ以上は、あなたを苦しめますまい。然し、もう一度だけ、お心をきかせて下さい。あなたは昨夜、私の家を御出になって、中央線の踏切に御あがりになったそうですが、まさか、自殺なさるつもりはありませんでしたでしょう?」

女は強くうなずいた。「そんな気は少しもありませんでした」

「ああそれで安心しました。最後に御願いして置きたいのは、ここを放免されなすっても必ず、行先を私に知らせて頂きたいことです。尤も、この事件が片づくまでは、多分あなたは、不自由な目をなさらねばならぬだろうと思いますから、一刻も早く片附くよう私は及ぶかぎりのことを致します」

Chapter 2 of 5
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