五
××日の夜明、警察署からは帽子の顎紐をかけた警官が何人も周章た樣子で、出たり入つたりしてゐた。それが何度も何度も繰返された。空色に車體を塗つた自動車も時々横付けにされた。自動車がバタ/\と機關の音をさせると警察のドアーが勢よく開いて、片手で劍をおさへた警官が走つて出てきた。自動車は一きわ高い爆音をあげて、そこから直ぐ下り坂になつてゐる處を、雪道の窪みにタイヤを落して、車體をゆすりながら、すべり下りて、直ぐ見えなくなつた。一寸すると戻つてきて、別な人を乘せると、又出た。
留置場は一杯になつてゐた。
先きに入られた者等は、扉の錠がガチヤ/\し出すと、今迄勝手にしやべり散らしてゐたのを、ぴたりやめて、其處だけに眼を注いで――待つた。入つてきたのが、渡、鈴本、齋藤、阪西達だと分ると思はず一緒に歡聲をあげた。警備に當つてゐる巡査が鷄冠のやうに赤くなつて、背のびをしながら怒鳴つたが、ちつとも効めがなかつた。一緒にされた十四五人は皆何時も顏を合せ、第一線に立つて鬪爭してきたものばかりだつた。
彼等は、それ/″\自分の相手に、興奮してこの不法行爲に就いて、大聲で議論をし合つた。そして彼等は、皆が一緒になつたといふ事から、それに恃んで、無茶苦茶な亂暴をしたい衝動にかられた。
齋藤は、いきなり身體をマリのやうに縮めると、ものも云はずに、板壁に身體全部で打ち當つて行つた。唇をギユツとかんで、顏を眞赤にして力みながら、鬪牛のやうに首を少しまげて、それを繰り返した。
「チエツ!」
駄目だと分ると、今度は馬のやうに後足で蹴り出した。皆も眞似をして、てんでに、板壁をたゝいたり、蹴つたりした。石田は(彼だけ)腕ぐみをして、時々獨言を漏らしながら、室の中央を歩いてゐた。
又扉が開いた。然し今度は鈴本と渡が呼び出されて行つた。「どうしたんだ。」――皆は頭株の二人がゐなくなると、變に氣拔けしてきた。そして壁をたゝくものが、一人やめ、二人やめ、だん/\やめてしまつた。
石田は、壁の隅ツこに兩足を投げ出したまゝ眼をつぶつてゐる龍吉に、氣付いた。彼は、小川さんも! と思ふと今度の事はとてつもなく大變な事である氣がした。と、同時に、その親しさから、何處か頼りある氣持になつた。
「小川さん。」石田は寄つて行つた。
龍吉は顏をあげた。
「今度のは何んです。」
「ウン、俺にも分らないんだよ。今、渡君にでも聞かうと思つてたんだ。」
「今日やる倒閣。」
「さうかとも思つてるんだ――が。さうなら今日一日でいゝわけだ――が……。」
皆が二人を取卷いてきた。何等理由もきかせず、犬の子か猫の子を處置するやうに、引張つてきて、ブチ込んだことに對して奮慨した。龍吉もそれはさうだつた。
「ねえ、法律にはかう決めてあるんだよ。日出前、日沒後に於ては、生命とか身體とか財産に對して、危害切迫せりと認むる時だ。又はさ、博奕、密淫賣の現行ありと認むる時でなかつたら、そこに住んでゐる人の意に反してだ――どうだ、いゝか――現居住者の意に反して、邸宅に入ることを得ず、ツてあるんだ。それを何んだ、夜中の寢込みを襲つて! それに理由も云はずに檢束するなんて! ××はこんな事をする處だよ。」
勞働者達は一心に聞いてゐた。そして、畜生、野郎、と叫んで、足ぶみをした。
龍吉は興奮してゐた。「所が、どうだ、憲法にはかうあるんだ、憲法にだぜ。――日本臣民は、だ、法律によるに非ずして逮捕、監禁、審問、處罰を受くることなし。俺達は、ところがどうだ。ちアんと正式の法律の手續をふんで、一度だつて、その逮捕、監禁、審問を受けたことがあつたとでも云ふのか。――このゴマカシと嘘八百!」
かう云はれて、皆は今の場合――現實に、その××な仕打のワナにかゝつて、身もだえをしてゐる場合、それ等のことがムシ齒の神經に直接に觸はられるやうに、全身にこたえて行つた。
「おい、そこの扉を皆でブチ割つて、理由を聞きに行かうぢやないか。」
「やらう!」他の者も興奮して、それに同意した。「ひでえ騷ぎ、たゝき起してやるべえ!」
「駄目、駄目。」龍吉が頭を振つた。
「どうしてだい?」齋藤は組合などでもよくする癖で、肩でつツかゝるやうに龍吉に向つて行つた。
「かう入つてしまへば、何をしたつて無駄さ。逆に、かへつてひでえ目に會ふが落さ。――萬事、俺達の運動は、外で、大衆の支持で! 五人、十人の偉さうな亂暴と狂燥は何んにもならないんだ。俺達が夢にでも忘れてはならない原則にもどるよ。」
「そ、そんなことで、ぢつとしてられるか! それこそ偉さうな理窟だ、理窟だ!」
石田は側で、相變らずだなア、と思つた。巡査が四人入つてきた。
皆はギヨツとして、そのまゝの恰好に、ぢいツとしてゐた。顏一面ザラ/\したひげの、背の低い、がつしりした身體つきの巡査が、留置場の中をグル/\見廻はしてから、
「貴樣等、こゝは警察だ位のことは分つてるんだらうな。何んだこのやかましさは!」
一人々々の肩をグイ/\と押しのめした。齋藤の處へ來たとき、彼はひよいと肩を引いた。はづみを食らつて、巡査の手と身體が調子よく前にヨロ/\と泳いだ。と、巡査は「この野郎!」と無氣味な聲で云ふと、いきなり、齋藤の身體に自分の身體をすり寄せた。齋藤の身體は空に半圓を描いて、龍吉の横の羽目板に「ズスン」と鈍い音をたてて、投げつけられてゐた。
巡査はせわしく肩で息をして、少しかすれた聲で「皆、覺えておけ。少しでも騷いだりすると覺悟が要るんだぞ!」と云つた。
後から入つてきた巡査は、紙を見て、一人々々名前を呼んで、その者だけを廊下に出るやうに云つた。ブツ/\云ひながら、呼ばれた者は小さい潜り戸を、蹲みながら出て行つた。あとに六人殘つた。
倒れた齋藤が横になつたまゝ、身體を尺取蟲のやうにして起き上らうとしてゐた處を、先の巡査は靴のまゝ、續けて二度蹴つた。
しばらくして、又別な巡査が入つてきて、中にゐる六人に一人づゝ付添つて、話も出來ないやうにしてしまつた。
龍吉は高く取り付けてある小さい窓の下に坐つた。汚く濁つた電燈の光が、皆の輪廓をぼかして、動いてゐるのは影だけでゞもあるやうな雰圍氣だつた。それが五分經ち――十分經つて行くうちに、初め黄色ツぽい光だつた電燈がへんに薄れて行くやうで――一帶が青白くなり、そしてだん/\に、室の中が深い海底でゞもあるやうな色に變つてゆくのが分つた。何處か一部分だけがズキ/\する頭で、龍吉は夜が明けかゝつてゐるのだな、と思つた。
構内は靜かになつた。凍え切つた靜かさだつた。時々廊下を小走りにゆくコツ/\といふ靴音がした。足音が止んで扉を開ける、それが氷でも碎ける音のやうに聞えた。ドタ/\と足音か亂れて、誰か腕をとられながら、何か云ひ爭ふやうにして前を通つて行つた。それが終ると、もとの夜明らしい何處か變態的な靜けさにかへつた。誰か、やつぱり短い生あくびをして、表を通り過ぎて行つた。
「寢むてえ。寢せてけないのか。」
ボソ/\した調子で、片隅からさう云ふのが聞えた。
「もう夜明けだ。夜が明けるよ。」
巡査も寢不足の、はれぼつたい、ぼんやりした顏をしてゐた。
龍吉は板壁に身體を寄りかゝらせて、眼をつぶつてゐた。身體も神經も妙に疲れきつてゐた。ぢつと、さうしてゐると、船にでも乘つてゐるやうに、自分の身體が靜かに巾大きく、搖れてゐるやうに感じた。彼は檢束された時、何時でもさうする癖をつけてゐたやうに、取りとめのないことの空想や、想像や、思ひ出やに疲れてくると、一度讀んだ事のある重要な本の復習や、そこから出てくる問題を頭の中で理論的に筋道をつけて考へることに決めてゐた。又組合や黨などで論爭された自分の考などについて、もう一度始めから清算してみることにしてゐた。それを始めた。
龍吉は、この前の研究會の時、マルクスの價値説とオーストリア學派の限界効用説に就いて起つた議論を、自分が考へ、又讀んだことのある本の中から材料を探がしてきて、もう一度考へ直さうと思つてゐた……。
彼はすつかりアワを食つてゐた。ズボンをはきながら、のめつたり、よろめいたり、自分ながらさういふ自分に不快になるのを感じさへした。然し、彼は襖一重隣の室で自分を待つてゐる巡査の、カチヤ/\するサアベルの音が幸子の耳に聞える、今にも聞える、さう思つて、ハラ/\してゐた。彼はその音が幸子に聞えれば、幸子の「心」にひゞが入ることを知つてゐた。
「お父さんはねえ、學校の人と一緒に旅行へ行くんだよ。」
幸子が黒い大きな眼をパツチリ、つぶらに開いて、彼を見上げる。
「おみやに何もつてきて?」
彼はグツとこたえた。が「うん/\、いゝものどつさり。」
と、幸子が襖の方へ、くるりと頭を向けた。彼はいきなり兩手で自分の頭を押へた。ピーン、陶器の割れるその音を、彼はたしかにきいた。彼は、アツと、内にこもつた叫聲をあげて、かけ寄ると、急いで幸子の懷を開けてみた。乾萄葡をつけたやうな二つの乳首の間に、陶器の皿のやうな心がついてゐる――見ると、髮の毛のやうなヒビが、そこに入つてゐるではないか!
あつ、あつ、あつ、あつ…‥龍吉は續け樣にむせたやうな叫び聲をあげた……。
眼を開けると、室の中はけぶつたやうな青白い夜明けの光が、はつきり入つてゐた。皆は疲勞してゐるやうな恰好で、大きな頭を胸にうづめたり、身體を半分横にしたり、ぼんやり洞ろな眼差しを板壁に向けてゐたりしてゐた。龍吉は輕くゴツン/\と板壁に自分の頭を打ちつけてみた。頭の左側の一部分が、やはり、そこだけズキ、ズキしてゐた。彼は今うつゝに見た夢が、無氣味な實感の餘韻を何時迄も心に殘してゐることを感じた。
然し、龍吉は今では自分でもさうと分る程、かういふ處にたゝき込まれた時のオキマリの感傷的な絶望感から逃れ得てゐた。それは誰れでもが囚はれる――そして、それは或る場合、當人を事實全く氣狂ひのやうにしてしまうかも知れない――堪え難い、ハケ口のない陰鬱な壓迫だつた。このためにだけでも、何人もこの運動から身を引いて行つた人のあることを龍吉は見て來てゐた。龍吉だつても、勿論そこを危い綱渡りのやうに通つてきた。そして一回、一回不當な××な××を受ければ、受けるその度毎に、今迄に彼のうちに多分に殘されてゐた抹梢神經がドシ/\すり減らされて行つた。ムシ齒に這ひ出てゐる神經のやうに、一寸したことにでもピリ/\くる彼の(輕蔑の意味でのデリケートな)心がだん/\鋼鐵のやうに鍛えられてゆくのを感じた。それは然し龍吉にとつては文字通り「連續した××」の生活だつた。龍吉のやうに「インテリゲンチヤ」の過去を持つたものが、この運動に眞實に、頭からではなしに、「身體をもつて」入り込もうとする時、それは然し當然の過程として課せられなければならない「訓練」であつた。そしてそれは又、單純な道ではあり得なかつた。――髮の毛をひツつかんで引きずり廻はされるやうな、ジグザツクな、しかも胸突八丁だつた。
――龍吉は妙に、心にしみこんでくる幸子のことを頭から拂ひ落さうとするやうに、大きくあくびをした。片隅で齋藤が餘程長く延びてゐる髮を、やけに兩手の指を熊手のやうにして逆にかき上げた。
交代の時間が來て、一人に一人づゝ付いてゐた巡査が出て行つた。時々龍吉の家にくるので知つてゐる須田巡査が出て行きしなに彼へ、
「ねえ、小川君、實際こんなことがあるとたまらないよ。――非番も何もあつたもんでない。身體が參るよ。」――さう云つたのに、變な實感があつた。
彼は、人をふんだり、蹴つたりする巡査らしくない親しみを感じ、ひよつとすると、それが彼の素地であるかも知れないものを其處に見た氣がして、意外に思つた。
「實際、ご苦勞さんだ。」
皮肉でなく、さう云つてやつた。
齋藤は「ご苦勞――を。」と、ブツ切ら棒に捨科白のやうに巡査の後に投げつけた。
外の巡査が皆出てしまうと、須田巡査が、
「何か自家にことづけが無いか」とひくゝ訊いた。
龍吉は一寸何も云へずに、思はず須田の顏を見た。
「いゝや、別に――有難う……。」
須田は頭でうなづいて出て行つた。少し前こゞみな官服の圓い肩が、妙に貧相に見えた。
「あ――あ、煙草飮みたいなア。」誰かゞ獨言のやうに云つた。
「もう、夜が明けるぞ……」