金銭無情
最上清人は哲学者だ。十年ほど前、エピキュロスに於ける何とかといふ論文と、プラトンの何とかといふ論文を私も雑誌に見かけたことがあるが、その後は著作はやらなくなり、講壇に立つたことは一度もないので、哲学専門の学生でも彼の名は知らない。
先日私のもとに訪れてきた雑誌記者の話によれば、彼の恩師のDD氏は、哲学界の新人は? といふ記者の問に答へて、さて、新人かどうか、彼はすでに旧人だが、と、最上清人の名をあげて、彼の思想はギリシャにもローマにも近代にも似てゐない、たゞ人間に似てゐる。最も個性的な仕事が期待できるのだが、彼は著作しないだらうと答へたといふ。実際彼は記者から執筆の依頼を受けて応じたことは、すでに十年、絶無であつた。
私は然し他でも彼の評判を耳にしたことがあつた。QQ神父及びLL氏、LL氏は日本の大学では文学史や中世思想史を講ぜられたが、本国仏蘭西に於ては著名な羅典語学者で、私はこの御両名から、日本に於て本当に羅典語を解する人は最上清人だらうと承つたことがある。彼はそのころある書店で古典の叢書編纂に当つてをり飜訳者を探してゐた。私は彼と中学時代の同窓であるが、彼が羅典語に通じてゐるといふことは、その時まで知らなかつた。
彼は昔、心中したことがあつた。相手の女は銘酒屋の娼婦で、女は死んだが、彼は生き返つた。警察の取調べを受けて、死んでも生きても同じことだ、と呟いたといふ。私は旧友の名を新聞記事の中に見出しながら吹きだしたのであるが、後日彼と交游を深めるやうになつて、僕は首くゝりを主張したが、女が催眠薬にしようと云つてきかなかつたんだ、僕は自殺は考へてゐたが心中といふ考へはなかつたので、女が催眠薬をのむといふなら、僕は僕で首くゝりをした方がよかつたんだが、僕が先に死んぢやつてぶら下つたんぢや怖しいと女が言ふんでね、万やむを得ず心中的になつちやつたんだ、と言つた。
彼が著作をやめたのは、その頃からだ。彼は哲学者とよばれると、時にはおつくうさうに否定する。僕は人間しか見てゐない。宇宙を見なくなつたから、宇宙を見なければ哲学者ぢやないんだ、と呟いたこともある。そして、まア、人間観察家とでも言ふんだらう。そのほかに情熱もないんだからと言つたりしたが、近頃ではもう人間観察家とも自称しない。僕は飲み屋の亭主だと答へるのである。彼が自分とは何者かハッキリ答へるやうになつたのは全く近頃のことであり、はじめて彼はいくらか生き生きと自分は何者か、自覚した様子であつた。彼は「タヌキ屋」といふ飲み屋の亭主に相違ない。
彼は心中をやりそこねるまでは独身だつたが、その後女房を五人かへた。そのうち二人は女の方から逃げだし、二人は彼が追ひだして、五人目は戦争中つとめてゐた軍需会社へ徴用で入つてきた女で、待合の娘であつた。結婚したとき、娘はまだ女学校を卒業したばかり、十九であつたが、清人は四十であつた。
これはまつたく「幻想的」な結婚であつたと富子は自ら述べてゐる。
富子は生家の職業によつて幼少から男には馴れてをり、女学校の頃から大学生と映画見物にでかけたり、お客に旅行に連れて行つてもらつたり、然し実の心は芸者や遊客の生態に反感を覚えてゐると思つてゐた。その実さういふ生態に同化して育つてしまつたといふことには気がつかないだけの話であつた。
芸者は義理人情だの伊達引だの金より心だの色々に表向きのお体裁はあるけれども、本心はみんな単純な男好きで、美男子好みで、旦那に隠れて若い色男と遊んでゐる。富子も美男子好みで、色男の大学生や若い将校などゝ映画見物や物を食べにでかけるのが好きであつたが、そのうちに、さういふ自分をだんだん軽蔑するやうになつてきた。つまり芸者の世界を軽蔑するやうになり、自分はもつと高尚な別な人間だといふ風に考へる習慣がついたのである。
だから十八ぐらゐからの富子の書斎をのぞいた人は呆気にとられた筈で、アランだのヴァレリイだのベルグソンだのテーヌだの、小説でもスタンダール、ボルテール、メリメ、プルウスト、ヴァンヂャマン・コンスタン等々、それに美学の本がたくさんある。なんでも表題に美といふ字のある有難さうな本はみんな買つたといふ感じなのだが、まつたく又一生懸命に読んだものだ。
徴用の会社で清人と同時にまだ大学を出たばかりの美男子の技術家にも言ひよられ、待合へ遊びにきた青年将校にも結婚を申込まれて、これが又絶世の美男子で、顔を見つめるとからだが堅くなつて息苦しくなり胸のぐあいが拳を握りしめるやうな感じになる始末であつたが、富子は美男子などは軽蔑すべき存在だと考へた。美男子を愛すなんて低俗で不純なことであり、高い恋愛はもつと精神的なものだと思つたのだ。
もとより小娘の幻想的恋愛論などゝいふものは、彼女にまことの恋愛が起つてしまへば一挙に効力を失ふものだが、富子は要するに美男子を見るとマッカになつたり息苦しくなつたといふだけで、恋愛までには至らなかつた。だから結婚は早すぎたので、当人も結婚の慾求などはなかつたのだが、生めよふやせよといふ時代思想で、十九などはもう晩婚の御時世であり、家も焼け会社も焼け、一家は田舎へ疎開といふ時に、なんとなく疎開がいやで、清人と結婚してしまつた。
然し、清人との結婚までには半年あまりの恋愛的時間があつた。富子はこれこそまことの恋愛なんだとその時は思つたのだから。
一方清人は四度目の女房に逃げられたあとの一人暮しで、哲学者といふところから富子に物をきかれたり本を貸したりするうちに、これは脈があるなと思ふと、こゝをせんどゝ食ひ下つて口説きはじめた。
彼は人間観察家などゝ自称はしても所詮は学究で、彼のアフォリズムなど実生活では役に立たない寝言の類ひ、惚れた女はいつも逃げられる始末であつたが、この美少女に成功したのは犬も歩けば何とかいふまぐれ当りで、美男子の競争相手があるのだから、不安になつたり、わくわくしたり、然し案外馬鹿な娘だななどゝ考へて、計画をねつてゐた。
富子の母親にはお金持の旦那があつて金に不自由がないから、娘を芸者に一稼ぎなどゝいふ考へはなく、然るべき男と結婚させてと大いに高い望みをかけてゐる。だから四十男の貧乏な哲学者など話の外だと思つてをり、無口で陰鬱で大酒のみで礼儀作法を心得ず、社交性がみぢんもなくて、おまけに風采はあがらない。一つも取柄といふものがないから頭から罵倒する。山奥から来て花柳地に住みついた女中共は半可通の粋好みだから悪評は決定的の極上品で、土の中からぬきたてのゴボウみたいだと言ふ。なるほど、うまい。全く孤影悄然、挨拶一つ言はず、頭をペコリとも下げないから土だらけのゴボウのやうだ。
富子は意地を張つた。周囲の悪評の故に、この恋は純粋高尚だと考へた。俗物どもに分らないから純粋なので、彼が色男でなく、お金持でもないから高尚なのだ。富子は男の高い知性だけを愛してゐる自分がひどく優秀で、俗ならぬ深遠な恋を神に許された特別な女のやうに考へた。
そこで清人もこれは知識以外の他のすべてをみすぼらしくする方が却つて好かれる方法だと知るに至つた始末で、富子はお金持だから、奢つてくれたり、ウヰスキーを持つてきてくれたり、ネクタイをくれたり、洋服をつくつてくれたり、遂にはお金までくれる。彼は嬉しさうな一本の小皺も見せず面白くもないといふ顔付をしてそれを貰ふ。すると富子は清人が高雅で精神的そのものだと云つてひそかに大満足するといふ寸法で、だから清人は外見はなるべくみぢめ貧弱にして、精神的高さといふものだけ見せるといふ戦法にたよつた。
元来は十九の美少女と結婚するのも亦面白しといふ発願であつたが、意外やお金持で色々おごつてくれるから、これはもうお金のためにもぜひとも娘をものにしなければならないのだと考へた。金が宇宙の中心だといふのは彼の説で、だから彼は哲学などは馬鹿らしくなつてしまつたのである。
終戦後、破壊のあとは万事享楽から復興するといふ彼の明察によつて、富子の母の旦那からお金を貰はせて、駅前の横町へバラックをたて、一杯飲み屋を始めた。彼はカントの流儀によつて哲学は又食通だといふ建前で、ソースなどは自分で作れるぐらゐ、昔は相当料理の本を読んで、牛の脳味噌、牛の尻尾、臓モツの料理、雉の腹へ色々の珍味をつめて焼きあげる奴、マカロニ料理からチャプスイに至るまで自ら料理のできるほど色々と通じてゐる。そこで八月十五日正午ラヂオの放送が君が代で終ると、よろしい、もう相手はアメリカだ、進駐軍の味覚を相手に料理の腕をふるつて、大いにお金をもうけ、新日本のチャムピオンとなつてやるんだ、と野心を起した。もとより富子は大賛成で、母の旦那にたのんで大金をだしてもらつた。
バラックの出来上つたころはもう進駐軍は日本の一般飲食店へは這入れぬ定めになつたけれども、元来がさういふ魂胆の設計だから、ちよつとあちらの一品料理屋といふ感じで、コック場などもあちらのお客の潔癖に応じて安心感を与へるやうに工夫がこらしてあるといふ心掛けである。沈思黙考の哲人たるもの処世に於て手ぬかりはなかつた筈だが、あちらのお客はダメだとなつて、なんだ、日本人か、バカバカしい、彼は料理の情熱がなくなつた。そこであちら名の気のきいた店名なぞ三ツ四ツあれこれ胸にたくはへてゐたのを投げだして、タヌキ屋、これでたくさんだ、お前、お金をもうけろ、もうけたお金は余が飲む、といふやうなわけで、彼はつまり、僕は飲み屋の亭主です、最も一般的な型をとることにしたのである。
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富子は結婚してみて、哲学者だの精神的だの、凡そとんでもない、タヌキ屋、なるほど、まさしく宿六は大狸だと気がついた。大狸、大泥棒、まさしく宿六は金銭の奴隷、女郎屋のオヤヂ、血も涙もない、金々々、女房にかせがせておいてお金はみんな自分のふところへ入れ、自分は毎晩大酒をのむが、富子が十円のミカンを買つてたべてもゼイタクだと怒る。二日二晩ぐらゐ怒るのだ。
哲人は実務にうといなどゝはマッカないつはり、ソロバン勘定にたけ、凡そソツがない、ちよつと料理をしても、富子も相当気転のきく女だけれどもうちの宿六にかゝつてはてんでダメで、庖丁や皿や醤油の壺の置き場所まで無駄足のないやう最短距離の心得によつて並べてあり、なんでもその流儀で、ツと云へばカと云ふ、めまぐるしいほど注意が行きとゞいて、太刀打ちができない。
そのくせ骨の髄からの怠け者で、たゞもう飲み屋の亭主の一般的な型によつて、麻雀とか碁などで昼を送り、夜は虎になつて戻つてくる。哲学いづこにありや。精神的などゝはもうそんなことを考へたゞけでも富子の方がはづかしくて赤くなるぐらゐ、又、助平なこと、やたらにベタベタ、からんだり吸ひついたり、理想などゝいふものは何一つない。たゞもう守銭奴であり、大酒のみであり、大助平である以外に何もない。
ベタ/\モチャ/\いやだつたら、このろくでなしの大泥棒、よその女に好かれるものなら好かれてきてごらん、一度でいゝから、好かれておいで。私はもうお前さんとは寝てやらないから。富子がかう叫んで起き上つて蹴とばしたら、宿六は洟水をたらして半分居眠りながら、人間か。この人を見よ。僕はさう言へる。そんなことを言つた。
然し富子はうちの宿六はたしかにほんとに偉いんぢやないかと思ふことがあつた。それはつまり、守銭奴で大酒飲みで大助平で怠け者で精神的なんてものは何一つないといふのはつまり人間が根はそれだけのくせに誰もそれだけだといふことを知らないだけなんだ、といふうちの宿六の説がどうも本当にさういふものかしらと思はれるやうな時があるからである。然し本当にさうだつて、本当にさうでは困る。本当にさうだといふことなんか、ちつとも偉くないぢやないか。
富子は芸者の生態に反感をいだいたことが失敗のもとで、若い美男子の好きなのが自分の本音であり、実際は芸者と同じやうに自分も浮気性なので、だから飜然本然の自分に立ちかへつてやり直してやれ、と考へた。
そんな考へになつたのは「タヌキ屋」をはじめてお客の接待にでるからで、料理は女中がやる、富子が接待に当る、開店の時は美人女給も一名おいてみたけれども、お客の評判は富子の方がむしろ甚だ好評だから、まんざらではない、結婚して大損した、さういふ気持が強くなつた。
するとそこへ現れたのは絹川といふ絶世の美男子で二十七になる会社員だ。油壺から出てきたやうなとはこの男で、お酒は一本しか飲まない、お料理は殆どとらない、そして長く話しこんで行く。毎日いらつしやいな、と言ふと、でも貧乏でダメといふから、富子は外のお客から高く金をとつて、値段は書きだしてないから高くとつても分らないので、それで宿六の知らない利潤をあげて、今日は半分にまけてあげるわとか、今日はお金はいらないことよ、とか、だから毎日おいでなさいといふ意味をほのめかしても五日に一度ぐらゐしか来ない。奥さんは美人だなア、とか、教養が高くて僕の始めての驚異の女性だなどゝ嬉しがらせを言つて帰る。然しどうもお酒を安く飲ませて貰う御義理の御返礼といふ感じでピッタリしないけれども、富子はそれを承知の上でなんとなく嬉しい気持になる。
そこへもう一人現れた。ダンスホールのバンドにゐるというヴヰオリンをひく男で、三十歳、荒みきつた感じだけれども、話してみると子供のやうな純粋なところがある。戦争中は満洲に流れてゐたといふが、まつたく見るからのボヘミアン、内職に闇屋をやつてお金をもうけてゐるなどゝいふのが、信用ができないやうな、何か痛々しいやうな感じがする。病的なぐらゐ透きとほるやうな白い顔で、荒れ果て澱んだ翳の奥に、冷めたい宝石のやうな美しさがたゝへられてゐる。悲しくなるやうな美しさで、よく見るとひどく高雅で、孤独で、きびしい何かゞある。
瀬戸といふこの楽師は大酒飲みだ。来始めると毎晩きて、とことんまで飲む。かなり収入はあるやうだが、飲む分量が多すぎるから、忽ち借金はかさむ一方だが、そこで富子の心痛がふへた。清人は客の借金を極度に嫌つて、がむしやらに催促させ、借金とりに日参させ、現金でなければ飲ませないと言明せよと脅迫する。まつたく脅迫で、一度でも借金したら、必ずさう言明しろ、借金の支払はれるまでお前の食事を半分に減らせとか、お風呂へ行く小遣ひもくれない。
けれども富子はなんとかして瀬戸には毎晩来て貰ひたいから、この借金は清人に知らせたくない。清人は深夜に帰つてくるから店のことは知らないが、朝目がさめると前夜の酒の減り方をしらべて売り上げと合はせ、綿密に計算してみぢんもごまかす隙がないから、富子はどうしても外のお客に高く売つてツヂツマを合せたいが、瀬戸の酒量が大きすぎて、とても埋合せがつきかねる。
スタンドだからチップを置くといふ客もすくなく、おまけに清人が小遣ひをくれず、チップを稼げ、それが腕だ、それで小遣ひをこしらへろ、酒場で働く女のくせに遊んで暮すチップもかせげない奴はバカだと言ふ。一晩に千円のチップを置く奴には接吻ぐらゐさせてもいゝし、一万円おく奴には身をまかせてもいゝ。その代り、接吻と身をまかせたチップは俺が貰ふ。なぜなら俺は亭主だから、女房の貞操を売るのはお前でなくて俺なんだから、と言ふ。清人は相当チップがあるものと考へて、時にはヘソクリを見せろ、少し貸せなどゝ云ふけれども、富子のチップは意外に少く、一月分を合せても瀬戸の一夜の飲み代の半分にも当らぬぐらゐ、そこで万やむを得ず外のお客に法外の代金をつける。それでお客がめつきり減つて、もうゴマカシがつかなくなつた。瀬戸一人の借金を十人ぐらゐの名前にわけて宿六の罵倒脅迫暴力を忍んでゐたが、急に借金の客がふへる一方、売上げがぐんぐん減るから、もとより清人は人一倍鋭敏、これは臭い曰くがあると思ひ、自分は知らぬ顔をして、旧友の一人にたのんで、お客に化けて行かせ様子を見て貰ふ、この旧友が然るに意外のその道の達人で、五日通ひ、瀬戸も絹川の顔も見て、なぜ客が減つたか法外な値段の秘密、みんな隈なくかぎだした。然し胸に一計があるから、すぐさまこれを打ち開けなかつた。
富子はもうセッパづまつてゐた。宿六には秘密で誰かに身をまかせてお金をかせいでごまかすか、瀬戸とカケオチするか、瀬戸に心がひかれるけれども、絹川の男つぷりも捨てられないところがある、といふやうな気持もある。
瀬戸はいさゝか酒乱で、泥酔すると、狂暴になるとき、陰鬱になるとき、センチになるとき、皮肉屋になるとき、意地悪になるとき、色々で、然し酔つ払ひはみんな大言壮語、自慢をはじめるものであるが、この男ばかりは自慢といふことをやらぬ。自嘲ばかりだ。その代り人を皮肉り、いやがらせる。そして、必ずエロになり、富子を客席の側へよんで膝へのつかれと言ふ。膝へのつかると、あとはセンチな唄を唄ふばかりで別に何もしないのだが、然し富子は外のお客がゐる前でも、言はれると下のくゞりをくゞつて、膝へのつかりにノコ/\出向くから、お客が減るのも当然だ。富子はもうヤブレカブレなのだ。金々々、色だか金だか見当もつかないムシャクシャした気持で、瀬戸さへゐなければ外のお客の膝の上にも乗つかつてチップにありつきたい、然し瀬戸に知れると困る、実際は瀬戸の膝にのつかることではお客は減らず、却つてこれは脈があると、瀬戸のまだ現れぬ時間、なぜなら瀬戸はいつも九時半すぎてくるから、早めに来て、オイ俺の膝にものつかれと言ふ客がたくさんある。お客が減るどころか、却つてそのために一応お客はふへるぐらゐだ。けれど酔つ払ひはブレーキがないから、味をしめて瀬戸のゐる時にもやられると困ると思ふから、大いにチップにありつきたくて仕方がないが、どうにもダメで、やむなく変な風にニヤ/\笑つて尻ごみする。そのニヤニヤがなんとなく色好みらしく、その気がある様子に見えてカン違ひをする客もあり、おい泊りに行かうなどゝ札束をみせて意気込んでくる五十男があつたりすると、まつたくもう泊つてやらうか、金のためには何でもするといふやうな気持にもなりかけるほどだつた。恋のためではあるけれども、さしせまつた現実の問題としてはたゞ金で、金々々、まつたく宿六の守銭奴が乗りうつり、金銭の悪鬼と化し、金のためには喉から手を出しかねないあさましさが全身にしみつき、物腰にも現れてゐる感じであつた。
瀬戸は富子に良人があるかときく。あると答へると、良人ぐらゐあつたつていゝや、俺は口説くんだと言つてみたが、良人は何をする人か、哲学者? え、名前は、そして最上清人ときくと彼の顔は暗く変つた。
「最上清人。その人の奥さんか」
「あら、その名前知つてる?」
「知つてる。尊敬してゐた。僕は高等学校の生徒だつた。エピキュロスとプラトンに就て雑誌に書いてたものを愛読し、今でも敬意が残つてゐる。あの人の奥さんぢや、ちよつと口説いちやいけないやうな気持になつたな」
「あら、瀬戸さんは音楽学校をでたんぢやないの?」
「音楽は世すぎ身すぎといふ奴の心臓もので、元々余技ですよ。おはづかしいが、美学をでたんだ。然しそつちは尚さら余技だな。たゞ一介の放浪者にすぎん。僕の一生には定まる何物もないですよ」
まつたくこの男は自慢といふことをやらぬから相当つきあつても学歴など知らなかつたので、この時は富子がアッと驚いた。そこでもうこの飲んだくれとカケオチしようか、地獄へ落ちても、あとは野となれ山となれ、一思ひに、にわかに富子はそんな気持にもなつたが、同時に又、するとうちの宿六はやつぱり偉いのかな、さういへばこの放浪者よりはどこかしら自信があるやうに思はれる。
瀬戸は口では最上さんに悪いななどゝ言ひながち、酔つ払ふと相変らず富子をだきよせる。一思ひに、といふ気持が日ごとにメラメラ燃え立つて激しくなるが、一方にこの放浪者の心の幅が却つて狭く見えてきた。なまじひに学歴などを知り宿六と同列に考へる根拠ができたら、今までモヤ/\雰囲気的な観賞だけで済ましてゐられたものが、もつと冷酷に批判的に見る目ができてしまつたせゐで、たしかにうちの宿六よりも幅が狭い。うちの宿六はやつぱり見どころがあるのかな、然し、男つぷりが良きや、それでいゝんだ、カケオチして女給でもして男に酒をのませたり、又、良い男がみつかつたら、それからどうなつたつて構ふもんか、などゝ色々と心が迷ふのである。
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清人の依頼で富子の稼ぎぶりを五日にわたつてつぶさに偵察したのは倉田といふこれも哲学くづれの闇屋であつた。この人物は宿六が女房に隠れて浮気をし、女房が宿六にかくれて男をもつのは当り前だと思ひこんでゐるから、タヌキ屋の情勢ぐらゐではビクともせず、これはどうも清人御夫妻どちらも教育の必要がある。教育などゝいふものはこれも愉しみなものだ、などゝ考へた。
六日目には、彼は昼間まだお客のないうちにやつてきて、
「やあ奥さん、僕はしらつぱくれてゐましたが最上の悪友で倉田といふ者です。最上にたのまれてお店の情勢を偵察といふのが仰せつかつた役目だけれども、どうも奥さんも、まづすぎるな、色男に飲ませてやりたい気持は分るけれども、外の客からあんな法外のお金をとつたんぢや、お客がこなくなりますよ。お金といふものはそんな風に稼ぐものぢやないですよ。社長とか何とかいふ五十男が札束をとりだして口説いとつたぢやありませんか。あゝいふ人物とちよつと昼間かなにか二三時間うち合せておいて、よろしくやつてくるのですな。亭主が疑つたら、そんなこと大嘘と言ひ張るのです。現場を亭主につきとめられて布団の中で二人でねてゐるところを見つけられても、嘘よ、と言ひ張るのです。徹頭徹尾知らぬ存ぜぬと言ひ張るのが浮気のコツなんですな。お金といふものはそんな風にして稼ぐもんです。そして可愛いゝ男に飲ましてやるんですな」
倉田の忠告はたつた一日遅すぎた。却々倉田の報告がないので、清人は富子を追及した。富子はムカッ腹をたてゝ、もう堪らなくなつて洗ひざらひ叩きつけて、私はもう瀬戸とカケオチするんだと言つてしまつた。
よし出て行け、今晩必ずカケオチしろ、さう言ふと富子の横ッ面をたつた一ツだけ叩きつけておいて、いきなり万年筆を持ちだして紙キレへせかせか何か書きだした。おやおや、これが三下り半といふ奴かと思つてゐると、さうぢやなくて、美人女給募集といふ新聞広告の文案だ。これを握つて物も言はず五六杯お酒をひつかけて新聞社へ駈けて行つた。
「そりやまづいな。好きな人があるんだなんて間違つても亭主に言ふもんぢやありませんや。第一あなた、カケオチなんて、こんなバカバカしいものはありませんや。亭主なんてえものは何人とりかへてみたつて、たゞの亭主にすぎませんや。亭主とか女房なんてえものは、一人でたくさんなもので、これはもう人生の貧乏クヂ、そッとしておくもんですよ。あなたも然し最上清人といふ日本一の哲学者の女房のくせに、あの男の偉大な思想が分らねエのかな。惚れたハレたなんて、そりや序曲といふもんで、第二楽章から先はもう恋愛などゝいふものは絶対に存在せんです。哲学者だの文士だのヤレ絶対の恋だなんて尤もらしく書きますけれどもね、ありや御当人も全然信用してゐないんで、愛すなんて、そんなことは、この世に実在せんですよ。それぐれエのことは最上がしよつちう言つてる筈なんだがな。へえ、一日に三言ぐれエしか喋らないですか。もう喋るのもオックウになつたんだな。その気持は分るよ、まつたく。最上も然し酒ばつかり飲んでゐて、なんだつて又浮気をしないのかな。あなたにも最上にも私からそれぞれおすゝめします。そしてあとは私の胸にだけ畳んでおきますから、御両人それぞれよろしく浮気といふものをやりなさい。浮気といふものは金銭上の取引にすぎんですから、まア、ちよつとした保養なんですな。それ以上のものはこの世に在りやしないです。それにしても、かう申上げては失礼だけれど、絹川といふ色男も、瀬戸といふ色男も、どうもあなた、少し役不足ぢやありませんか」
「えゝそれはうちの宿六はたしかに偉いところもあるけど、あゝまでコチコチに何から何まで理ヅメの現実家なんて、息苦しくつて堪らないものよ。恋愛なんてどうせタカの知れたものですから、どうせ序曲だけでせうけどね、序曲だけだつていゝぢやありませんか。私はかう胸元へ短刀を突きつけられたやうな、そんなふうな緊張が好きなのよ。瀬戸さんは飲んだくれで、弱気で、ボヘミアンなんて見たところちよつと詩的だけど、まつたく、たよりないわね。だけど私はもうヤケだから、苦労はするでせうけど、一思ひにカケオチしてやれと思ふわ。カケオチしてからの生活なんて、私は二人の家庭なんてもの考へずに、私がどこかの酒場かなんかで働いてゐる、そんなことばかり考へてゐるのよ」
「いけません、いけません。それは誤れる思想です。酒場で働くなら、こゝに酒場があります。第一あなた、苦労する、苦労なんていけませんや。この世に最も呪ふべきものは何か、貧乏です。貧乏はいけません。これだけは質に置いてもこの地上から亡さねばならぬものですよ。夢を見ちやいけません。幸福とは現実的なものですよ。こゝはあなた自分の酒場ぢやありませんか。こいつを活用しなきや。こいつを捨てゝよその酒場で働いて男を養ふなんてえミミッチイ思想は、ミーチャンハーチャンにはよろしいけれども、最上清人の女房たるものに、なんですか、あなた。こゝは先づ当分は私の指図通りにやつてごらんなさい。差当つて、恋愛なるものは、これは地上に実在しないものですから、この酒場からも放逐することが必要ですな。ちよつと痛いでせうけれど、心を鬼にして、瀬戸、絹川、この両名の色男に退場を願ふ、代つて千客万来、これが先づ大切なんですよ。つゞいて、恋愛でなしに、浮気、これをやりなさい。面白をかしく、人生とは、人生を生きるとは、これですな。それはあなた最上清人は面白をかしくなんて、面白をかしいものなんて在りやしねえと言ふでせうけれど、それは彼に於て大真理ではあるでせうけれど、これが実在するといふことも真理なんですよ。小真理ですかな。人生は断じて面白をかしく在りうるです。先づ、お金です。金々々。最上先生も常にそれを言つとる筈ではありませんか。金の在る無しによつて、人生は全く別な二つの世界に分れます。然し、なんだなア、最上先生みてえに、金々々つて言ひながら、毎日毎日、たゞもう飲んだくれてゐるてえ心理は分らねえ、先生はどうも偉すぎて、何を考へてゐるんだか、手がとゞかねえ。然し、彼は、実際に於て、日本随一の哲学者です」
富子もその日は朝から心境がぐらついてゐた。出て行けと言はれて以来ひどく不安になつたので、出て行くことゝ、出て行けといふことは、結果に於ては出るといふ同じ事実に帰するけれども、これを受けとる心持には大いに差があり、出て行けと言はれる、なんとなく不安だ。
うちの宿六はたゞ金銭の奴隷なのだから千客万来がモットーで、ちらと見た広告の文案も美人女給「数名」とある。こんなチッポケな店へ数名は無茶だが、宿六は実際さう考へてをるので、なんでもかでもエロサービス、ついでに自分も数名から代りばんこにサービスを受けるつもりに相違なく、富子が出て行く方がまつたく万事宿六の方には都合がよい。
一方よければ一方悪しと云ふ通り、出たあとの富子の方はどうも分が悪い。えい、ヤケだ、とか、どんな苦労でも、とか考へてゐたが、宿六の方に分が良すぎるといふことを思ひ知ると、残念で、不安で、追んだされては大変だといふ気持になる。
まつたく倉田の言ふ通り、亭主や女房は万人の貧乏クヂで、何度とりかへても亭主は亭主にすぎないだらう。ねてゐる現場を見つかつても知らぬ存ぜぬと言ひはれといふ、なるほど、浮気のコツはそのへんか。こゝは堪へ忍んで、瀬戸に退場してもらひ、千客万来、相手をみつけて浮気する。この浮気は始めはもつぱら金のためで、ヘソクリを十万百万とつみかさねて、それから瀬戸でも誰でも構はない、手当り次第に美男子と遊ぶんだ、もうかうなればこつちも金の鬼なんだ、宿六め、見てゐるがいゝ、さういふやうな気持になつた。
ところが清人はその晩十時頃酔つ払つて店へ現れた。彼はお客といふものは酒のついでに女を口説きにくるものだと信じてゐるから、宿六の姿を見せては営業成績にかゝはるといふ深謀遠慮で、帰宅は毎晩一時二時、たまに店の終らぬうちに戻つてきても、客席へ顔を見せることがない。
この晩は出て行け、カケオチしろといふ、その実行を促進、見届け役で、開店以来の宿六初登場といふことになつた。
ところが店にはちやうど又あつらへ向きに瀬戸と絹川が両端に、その中間に倉田がしたゝかきこし召してゐる。両端に色男が二人ゐるから、清人は富子に、おい、ドッチがドッチだ、あゝさうか、あつちが瀬戸さん、こつちが絹川さんか。彼は瀬戸のところへ歩いて行つた。
「君はもうこの店へ来ない方がよいよ。お金のある時だけ来たまへ。然し今までの借金は必ず払つて貰ふから。毎日誰かを取りにやります。お金のあるとき、ある分だけ必ず貰ふ。全部払ひ終るまで毎日誰か取りにやります。君はこの女から借りたんぢやなくて、僕が貰ふお金なんだ。その代りこの女を連れて行きたまへ。君のところへ行きたいさうだから」
「まアまア最上先生、お待ちなさい。色恋の話はもつと余韻を含めて言ふものだ。あなたみたいに、さう棒みたいに結論だけを言つたんぢや、話にならない」
倉田がかうとめ役にでたが
「いや、僕のは色恋の話ぢやないんだ。単純な金談だ。女のことは金談にからまる景品にすぎない」
「いや、金談でもよろしい。ともかく、談と称し話と称するものは、あなたも喋れば、こちらも喋る、両々相談ずるうちに序論より出発して結論に至るもので、いきなり棒をひつぱるみたいに話のシメククリだけで申渡すんぢや片手落だな。よろしい、ここはかうしよう。金談の方は、これはもう、借りた金は払ふべきものなんで、序論も結論もいらない当然な話だから、こちらの方は相当無理な稼ぎもして、闇屋もおやりの由承つてゐるから、よろしく稼いで、こゝはあなたの男の意地ですよ、女の問題がはさまつてるなら、金の方はサッパリしたところを見せなきや。それぢや、この話はこれで終つた。次に、最上先生、そこへいきなり附録みたいに女をつけたして言つちまふのは無理だなア。ともかく今拾つてきた女ぢやない、女房なんだから」
「女はみんな女さ。この女が出て行きたい、この人と一緒になると言ふんだ」
「さうは言つても、それが全部ぢやない。金談とは違ふです。男女の道に於ては、一つの問ひに答へる言葉が常に百通りもあるもんですよ。それぐれえのことは、私が言ふことぢやなくて、あなたの専売特許みてえなもんぢやないか。やつぱり事、女房となると、あなたのやうな大学者でも、子供みたいに駄々をこねるんだな。精神も物質です。これより我々は、私はでゝ行きます、といふ物質がちやうどまア石炭みたいに、胸の中のどういふ地層で外のどんな物質と一緒に雑居してゐるか取調べませう」
「心理をほじくれば矛盾不可決、迷路にきまつてるよ。心理から行動へつながる道はその迷路から出てきやしない。話はハッキリしてるんだ。君はこの女が好きか、連れて行きたいと思つたら連れて行け。それだけさ。女もそれを承知だし、僕も承知だ」
「最上先生、はじめてお目にかゝりますが、僕、瀬戸です。僕は十年ほど前、高等学校の時に先生の論文を愛読して、尊敬してゐたのです」
「そんなことを訊いてやしないよ。自分の言ふことも分らない奴に限つて、尊敬なんて言葉を使ひやがる」
「まアまア最上先生、さう問ひつめたつて所詮無理だよ。好きだなんて、あなた、好きとは何ですか。女が好きだなんて、あなた、好きにも色々とありますがね、連れて行つて同棲するほど好きだなんて、そんなものが、あなた、バカバカしい、この世に在りますか。女房を貰ふとか、亭主を貰ふとか、これ実に悲しむべき貧乏クヂぢやありませんか。だからこれはもう万人等しく諦めつゝあるところで、あなた方だつて、これぐれえのところは諦めなきや。これは色恋の問題ぢやアない、諦めの問題なんで、この人と奥さんと惚れたハレた、そんなことが問題ぢやアなくつて、女房といふものはこれはもう何をしても諦めなきやアならん。あらゆる女房には一人づゝ必ず諦めつゝある男があるもので、あらゆる亭主にも亦一人づゝ諦めつゝある女があるです。こんなことを俺に言はせるなんて、最上先生もひでえな。私はもうイヤだよ。よさうぢやありませんか。最上先生もよろしく浮気をなさい。浮気ですよ、あなた。この瀬戸君なんて人は何かね、美学なんてものをやると、恋愛だの私の彼女などと、そんなベラボーなことが言ひたくなるのかな」
「むろん僕は浮気だけさ。美人募集の広告をだしたのは、そのためだ」
「そんなことはムキになつて言ふものぢやアありませんよ。あなたも今日は子供みたいだなア」
「富子さん、何か言つて下さい。最上先生、誤解ですよ。僕は恋愛でも浮気でもないんです。たゞそこはかとなく一つの気分に親しんでゐるだけなんで、僕はつまり精神的にも一介の放浪者にすぎんですから」
「あなたは何も言はなくともいゝんだ。あなたのことは金談だけで、もう話が終つてゐる。借金だけは無理矢理苦面しても払ひなさい。さア、あなたはもう帰る時だ。すべて物にはその然るべき場所と時とがあるものだ。退場すべき時は退場する。私がそこまで送つて行つてあげるから」
瀬戸は何か言はふとしたが、倉田は腕をとつて外へ連れだして行つてしまつた。
清人は絹川のところへ行つた。
「帰りたまへ。もう君もこの店へ来てくれる必要はない。オイ、こちらの勘定はいくら?」
高見の見物をたのしんでゐた絹川は、仰天して蒼白になり、金を払つて、遁走した。
清人は富子を五ツ六ツひつぱたいて、くるりと振向いて寝に行つたが、すぐ戻つてきて、
「お客から法外な金をとつて店を寂らせた責任をとれ。二号になれ。そして僕に金を払へ。食事は一日に一合だけ、オカユだ。それ以上たべたかつたら、人にたべさせて貰へ」
言ひすてゝ、酒をのみに出て行つた。
倉田が瀬戸を電車に送りこんで戻つてくると、富子はワッと泣きふしてしまつた。倉田はさすがに少しも騒がず、
「まアまア、あなた、私にお酒」
泣く女に容赦なく酒を持参させて、
「私がついてる。軍師がゐるから大丈夫。安心なさい」
人生が面白をかしくて堪らない様子で彼は再びメートルをあげはじめた。
★
倉田ほどの達人でも、人生は然し、彼が狙ふほど面白をかしくは廻転してくれないのだ。第一にお金が足りない。飲みすぎて足をだすから、ピイピイしてゐる毎日が多く、闇屋みたいなこともやるが、資本を飲むから大闇ができず、人に資本をださせ口銭をかせぐぐらゐが関の山で、何のことはない、大望をいだきながら徒に他人の懐をもうけさせてゐるやうなものだ。あそこの赤新聞で紙を横に流したがつてゐるといふ。それ、といふので駈けつけて売値をたしかめ、それから諸方の本屋につてを求めて買手をさがして、東奔西走、忙しくて仕方がなくても、売手買手、両雄チャッカリしたもので、口銭はいくらにもならない。
彼はどうしても資本家にはなれないといふ性格で、さうかといつて社員には尚さらなれない。諸方の会社や資本家にわたりをつけておいて、儲け口を売りこむといふ天性の自由業、まともなことは何一つできない。
さすがに然し女はたくさんある。タヌキ屋へ女をつれてきて、御両名の見てゐる前で堂々と口説いて、あつぱれ貫禄を見せたこともあるけれども、浮気などゝいふものはハタで見るほど面白をかしくないもので、何のためにこんな下らないところに金を使つちまつたんだか、せつかく骨身をけづつた金をと後悔に及ぶやうなことばかり、イヤ人生は断じて面白をかしいです、などゝ痩我慢に及んでゐるが、実際のところは、倉田達人の人生も万人なみに大したことはないのである。けれども、浮気なんて、つまらんもんです、と言つてしまふと、首をくゝつて死ぬ外に手がなくなるから、人生面白し/\金々々と云つて多忙に働きかつ飲みかつ口説いてゐる。
そこへタヌキ屋事件が舞ひこんできたから、彼はよろこんだ。彼は元々哲学者で、哲学者などゝいふものは天性これ教育者であるから、実際はつまり、自分がやるよりも人にやらせる方が面白い気質で、御夫婦御両名に浮気を指南する、打込んでみると、面白い。尚又面白いのは、タヌキ屋の軍師となつて千客万来を策す、口銭にお酒は安直に飲ませてもらつて、つまり研究室の演習といふ要領で、指南かたがた浮気の演習をやらせる、それが酒の肴で、これは頗る面白い。あげくにタヌキ屋が破算壊滅に及んでも、こつちの身には関係がなく、人生面白し面白し然し彼は外にも忙しい男だからあつちで儲けこつちで稼ぎ、御自身だつてあちこち浮気もしなければならず、まことにどうも多忙だ。
美人募集の広告が紙上に現れ、最上先生のテストがあつて及第したのが五人、女の子が二人ゐても有り余る店へ五人ならべる、女の方で擦れ違ふのが大難儀、お客のないときは五人ポカンと一列に並んで、それより外に場所がないので、そこへお客が一人で舞ひこんでくると相当の心臓でもブルブルふるへてしまふから、これぢやアいけねえな、と倉田軍師がオコウちやんといふ呆れるぐらゐ愛嬌がよくてお喋りでチャッカリしてゐる二十の娘をつれてきた。これ又さる待合の娘で、目下軍師自ら熱心に口説いてゐる最中なので、それぢやこつちで手伝つてもらつて、どこで口説くのも同じだといふ軍師の思想だ。この娘を戸口の近いところへ置く。軍師のお目がね違はず、女の子がアクビをせずにゐられる程度にお客が現れるやうになつた。
こゝに哀れなのは富子で、ある日外出先から戻つてみると、着物が全部なくなつてゐる。アッパッパのやうなものが二着とよれよれのユカタのやうなフダン着が残されてゐるだけ、あとはみんな清人が質に入れてしまつた。だいじな常連を怒らせて営業不振をまねいた責任はとらねばならぬ。着物が欲しけりや二号になつて旦那から出してもらへ、と云つて質札をなげてよこした。
「だつて瀬戸さんの借金は瀬戸さんが払ふ筈ぢやありませんか」
「バカ。瀬戸の借金は瀬戸が払ふのは当りまへだ。そのほかにお客が来なくなつた埋合せはお前がつけなきやならないのだ。二号になりやいゝんだ。五六人ぐらゐの男にうまく取り入つて共同の二号になれ。待ち合の娘のくせに、それぐらゐの腕がなきや、出て行くか、死んぢまふか」
ひどいことを言ひすてたあとは、いつもプイと出て行つてしまふ。
着物がなければ客席へも出られず、専らお勝手でお料理作り専門で、くゞり戸から腕だけ差出す、マダムはどうしたといふお客にも顔がだされず、これでは二号になる術もない。
けれども宿六は富子の顔を見るたびに、二号になつたか、まだならないのか、バカ、と言ふ。外のことは一切喋らない。美人女給もくることになつた。富子は衣裳もちで戦争中はそれだけ疎開させておいたから質に入れて宿六のふところにころがりこんだ金だけでも大きなもの、この金によつて女給を手なづけて口説かうといふ肚がきまつて、もう宿六の思想は微動もしない。これが分るから富子は口惜しい。彼女が出て行けば宿六の勝利は目に見えてゐるが、出て行かなくともオサンドンではもう我慢がならない。どうしても天下有数の二号になつて見下してやりたい。
まつたく富子はもう羞も外聞もない気持になつて、アッパッパで飛びだして、会社の社長や、問屋のオヤヂや、印刷所のハゲアタマのところへ途中まで歩きかけてみたが、さすがにすくんで、動くことができなくなつて、倉田のアパートへ行つた。ところが倉田はもう三日も家へ帰らぬといふ話だが、留守居の奥方が七ツと五ツの二人の威勢の良い子供をかゝへて愛嬌があつて親切だ。マアお上んなさいまし、そのうちに帰るでせうと言ふので、上つて話しこんでゐるうちに、夜になり、夜中に倉田が帰つてきて、もう帰れないからとその晩は倉田のアパートですごした。
ところが、倉田は急にタヌキ屋に興がなくなり、白けきつて、殆ど遊びに行く気持もなくなつてゐた。
一つはオコウちやんなる秘蔵ッ子を差向けたのが手落ちの元で、才腕はあるが、まだ二十の娘で、女といへば芸者しか知らない。花柳界の礼儀で、待合の娘が芸者を遇する仕来り、芸者が待合の娘を遇する仕来り、ちやんと出来上つた枠の中で我がまゝ一杯ハネ返つて可愛がられたりオダテられたり、かつ又経営上のラツ腕もふるつてきたが、タヌキ屋ではダメだ。タヌキ屋の美人女給は事務員やショップガールあがりの二十三四、四五といふ半分泥くさい連中で、いかにも浮気がしたくてこの道へ志したといふ御歴々ぞろひ、最上先生のテストに及第したのも亦そこを見込まれてのことだ。
オコウちやんと肌合が違ふから、小娘に派手にやられてきり廻されて何かと言はれると腹を立て、余波はめぐつて倉田軍師も煙たがられてなんとなく反目を受ける。
倉田は軍師たるの地位により役得は当然あるべきもの、たゞで働くバカはない、勤労に対しては報酬がなければならぬ、と考へてゐる。ところが五名の女給は一丸となり、店側の忠実なる鬼の相を露呈して、自ら特権階級を僭称する倉田を軽蔑してはゞからぬ如くである。
オヤヂが金々々と凝りかたまつてゐるから女房のみならず女給まで忽ちカブれてしまふ、ショップガールだの事務員はソロバン高く仕込まれてゐるから金のことになると善悪を超越して守銭奴たることを恥としない。然し骨の髄から金に徹した最上清人は、金に徹すれば徹するほど勤労への報酬はハッキリする筈で、親の心子知らず、仕方がない、最上に打合けて女給の魂を入れかへて貰はなければ、と、碁会所の彼をよびだして一杯のんで、勤労と報酬に就て一席弁ずる。然し全然手ごたへがない。
「本当に金銭を解する者にはタダ働きといふことはないよ。そもそもお金をもうける精神とは勤労に対して所得を要求する精神で、これこれの事にはいくらいくらの報酬をいたゞきたい、とハッキリきりだす精神だ。靴をみがゝせても三円。金銭の初心者は人にタダで働かせて自分だけ儲けたがるものだが、こいつは金銭の封建主義といふ奴で、奴隷相手の殿様ぢやアあるまいし、現代には孤立して儲けるなんて絶対主義は成りたゝない。この道理を解さなければ、味方といふものが一人もなくなる」
「うん、僕は味方が一人もゐない方がいゝ。僕は金銭は孤立的なものだと信じてゐるんだ。僕は君に女房のこと、店の情勢を偵察してくれと頼んで、それに対しては報酬を払つた筈だが、それから先のことまでは頼んだ覚えがない。頼まないことには報酬を払ふ必要はない。金銭には義理人情はないから、僕の方から頼まないのに靴をみがいたつて、お金をやる必要はないね」
「そんな風に人生を理づめに解したんぢや、孤影悄然、首でも吊るのが落ちぢやないか。万人智恵をしぼつてお金儲けに汲々たるのが人生で、たのまれない智恵も売つて歩く、これがカラ鉄砲なら仕方がないが、当つた時には報酬を払つてやらねばならん。かういふ智恵の行商人、智恵の闇商人といふものを巧みに利用するのが、金銭を解する者といふのだ。信長だの秀吉てえ人々はかういふ智恵の闇商人を善用した大家なんだな。ここの理窟を解さなきやア」
「僕は解さないね。僕には信長や秀吉ほどの夢はないからさ。夢は負担だね。僕の限度と必要に応じて取引するだけで結構ぢやないか」
「だから、それがだよ。限度だの必要に応じてと云つたつて、そんな重宝なものがどこにありますか。失礼ながら、最上先生は必要に応じて取引して所期の目的を達してゐますかな。猿面冠者が淀君を物にするには太閤にならなければならなかつたが、むろん太閤だつて蒲生氏郷の未亡人や千利休の娘にふられる、だから本当の限度はきりがない。けれどもともかく狙つた女の何割かは物になるてえ限度はあつて、この限度はつまり国持大名だな。これを今日で言ふと、恒産あり、といふことだ。失礼ながらタヌキ屋の御亭主は未だ一城一国のあるじとは申されませんな。足軽ぢやアねえかも知れねえ。ともかくタヌキ屋てえノレンの亭主なんだから、三四十石とりのサムライかも知れないけど、どうもまだパッとしない貧乏ザムライで、女の苦労よりも暮し向きの苦労が差し迫つてるやうなところだらう。だから、あなた、ともかく、大名にならなきや、ダメですよ。国持大名にならなきやア。あなたが今どうあがいてみたつて、必要に応じて取引して、マル公で通用しやしませんよ。マル公で通用させるにやア、国持大名の格てえものがなきやア、私があなたに入れ智恵するのはその理窟で、あなたは目下三四十石のサムライ、私は足軽。私はあなたを国持大名にして、私はせめて家老ぐらゐに有りつきたい、ねえ、さうぢやありませんか、持ちつ持たれつといふものです」
「君は正統派なんだな。古典派なんだよ。僕はちかごろはやりのデフォルメといふ奴なんだらう。それに現実の規格が生れつき小さいのさ。僕は総理大臣が美妓を物にしようとフラれようと生れつき関心の持てない方で、貧乏な大学生が下宿の女中とうまくやつたり八百屋のオヤジが三銭五厘の大根を三銭にまけてやるぐらゐでどこかの女中やオカミさんとねんごろになつたりするのばかりが羨しいタチなんだよ。だから目下のタヌキ屋の貧乏世帯でやりくり浮気するのが性に合つてるんだ。君とは肌合が違ふんだ」
「いけねえなア、さう、ひねくれちやア。最上先生の思想が如何に地べたに密着して地平すれすれに這ひ廻るにしても、人間が国持大名を望む夢を失ふといふことはない」
と倉田が慨嘆してみても、彼はアクビひとつせず、俺は貧乏な大学生が下宿の娘とうまくやるのが羨しいのだ、とうそぶくのだから手がつけられない。
だから彼はもう軍師の情熱を失つて、オコウちやんにも、もう止しなさい、あなたがいくら働きを見せたつてそれに報いてくれる人ぢやアないんだから、ムダですよ、と言つたが、オコウちやんが又奇抜な娘で、いゝえ、私はもうそんなのが目的ぢやアないのよ、五人の女給さんに一泡ふかせてそれからやめるわ、それまで、ゐるから、と言ふ。知らねえや、勝手にしろ、と倉田はもうタヌキ屋の方へはめつたに現れず、東奔西走、持ちつ持たれつ家老の口といふ奴をあちらこちらに口をかけて極めて多忙にとび廻り飲み廻り口説き廻つてゐる。
倉田は富子の涙話に長大息。
「そいつは、いけないねえ。それでも思ひとゞまつて、しあはせですよ。アッパッパで、小さくなつて、私を二号にしてちやうだいよ、なんて、それぢやア、あなた、闇のチンピラよりも安く値切り倒されてしまふですよ。ともかく着物をなんとかしませう」
とオコウちやんにたのんで、着物をかしてもらつた。ところが富子が着物を失つてお勝手専門になると、お勝手は二人ゐらない、と女中に暇をやつてしまつた。そこで富子が店へでると、今度は女中の手が足りない。
するとその晩偶然倉田について飲み廻つて一緒にとめてもらつた青年がある。彼も元来哲学生で、卒業まぎはに召集されて大陸でぶらぶら兵隊生活をして戻つてきたが、闇屋のかたはら小さな雑誌の編輯など手伝つてゐるうちに倉田と相知り、傾倒して彼を先生とよび、始めて偉大なる思想家に会つたと大いに感激してゐる。
富子の語る一部始終を耳にして、よろしい、そんなら、僕がお勝手をやりませう、と申しでた。
「おい、君も困つたオッチョコチョイだな。お料理なんかできるのか」
「兵隊のとき、大陸でやりましたよ。豚をさいたり、蛇をさいたり、イナゴのテリヤキ、なんでもできますよ」
「そんな荒つぽい料理はいけない」
「いえ、学問の精神は応用の心がまへなんで、わけはないです」
「心がまへと経験は違ふよ。第一君、高級料理から下級料理への応用てえのは分るけれども、蛇とイナゴの方からウナギやエビへ応用をきかせるわけにはいかねえだらう」
「次第に間に合ふものですよ。まア、たべて見てごらんなさい。兵隊は食通です」
「そんなものかな。俺は知らねえけど、危ねえもんだな。それに君、最上先生は君に充分の報酬をくれる筈はないのだから」
「いや、よろしいです。こつちは闇屋渡世でほかに儲けの口はありますから。料理の手腕で、今までのコックが三十円の原料で五十円の料理を作つたものなら、僕は十五円とか十円で五十円の料理をつくる。その差額でタヌキ屋のカストリ焼酎を四五杯のんで引き上げてきて、眠るですよ」
「その思想はよろしい」
といふので、コックもできた。そこで店には美形が七人居並び、楽屋にはコック一名、このコックが、いつたい哲学者は浮世離れがしてゐるなどゝは、いづこの国の伝説だか、彼が又実に発明、ひどい奴で、よそのうちのハキダメから野菜だの何だの切れはしを拾ひあつめてマンマとお客に食はせてしまふ。そこは哲学者だから、天機もらすべからず、腹心のマダム、女給にも口をぬぐつて、ひそかによろしくやり、毎晩カストリ七八杯傾けるだけの通力を発揮してゐる。
★
借り着に及んで店へでたが、富子のやうに金銭にやつれてしまふと、借り着まで如何にも借り着といふやうに板につかなくなつてしまつて、心に卑下があるから、その翳がそつくり外形へ現れて、どことなく全てに貧相で落附きがない。
それになんとか二号の口にありつきたいといふ身にあまる焦りがあるから、いかにも哀れに、いやしく、飢え果てゝガツガツした感じがつきまとひ、昔の颯爽たる面影はなくなつてゐる。
知らないお客はとてもこれがマダムなどゝは思はれず、最も新マイの半分色キチガヒではないかなどゝ思ふほど、落附きなく、アハヽと笑つたり、オホヽと笑つたり、妙に身体をくねらせてニヤニヤしたり、この人の本来を知る者にとつては、まことにどうも見るに堪へない。
かうなつては宿六たるもの女房が蛆の如くに卑しく見えるから、顔を見るたびに出て行け、としか言葉がない。五人の女給を代りばんこに口説いてみたが、フゝンと笑つて逃げたり、アラいやよ、すましてくるりと振向いたり、いけませんよ、と叱られたり、見事に問題にならない。
次には手を代へて、改めて代りばんこに話を大きく持ちかけてみたが、着物を買つてあげるからといつた相手は、アラ、マダムの着物を質においたお金でゞすかと言ひ、お店を持たしてあげやうと言つた相手は、三十万ぐらゐなきやダメよ、とニヤニヤてんで取り合はない。温泉へ行かうと誘つた相手は、私もう温泉へ一緒に行く人あるのよと軽く一蹴されてしまつた。
世界に女が五人だけしかゐないわけではないから、最上先生、驚きもせず、金さへありやアいゝんだ、倉田の言ふ通り、豊かでないのが知れてゐるからかうなるので、女房の着物をはいでミヂメなところを見せたのなんぞは特別まづかつたが、本当に金も欲しかつたんだから仕方がない。クヨクヨすることはない、奴らが揃つてその気持なら、こつちは奴らに稼がせて儲けて、儲けた上で、美人女給は広告一つで集つてくる。マスターの口説は柳に風のくせに、みんなそれぞれ二三人はいゝ人ができてよろしくやつてゐることが知れてゐるから、そねむ心は仕方がない、それならそれで、いゝ人のふところからしぼつてやるまでだと、
「よそぢや、ビール一本二百円から二百八十円で売つてるから、うちは明日から百九十円にするんだ」
とそれだけ言ひすてゝ寝てしまつた。富子も困つて女給に相談すると、女給もそれぢや気の毒で客にすゝめられないからと、碁会所から最上にきてもらつて交々たのむが、百九十円ならよそより安いんだと受けつけない。
「だつてそれはカフェーの値段でせう」
「カフェーぢや、お通しづき三百五十円から五百円まであるんだ。女のお給仕のついてる店、小料理屋、ちよつとしたオデン小料理で二百円なんだから、百九十円ならよそより安い。客に悪くて売れないなんて、猫の目のやうに変る相場を知らず、生意気なことを言ふもんぢやない」
「だつて仕入が八十円ぢやありませんか。よその相場の比較よりも、仕入れ相当に売つて、よろこばれたり儲けたり、それが商売のよろこびぢやありませんか」
「相場よりも十円安けりやオンの字だ。仕入れの安価は僕の腕なんだから、それを売るのが君らの腕ぢやないか。僕の腕にたよつて、楽に商売しようといふのは、怪しからん料見だらう。それで厭なら止すがいゝ」
言ひすてゝプイと消えてしまつた。一同茫然たるとき、調理場でゴミダメのクズを煮込んだり整理してゐたコック先生、そのころはもうどこで手に入れたか白いシャッポに白の前だれなんかをしめて、ヤア、みなさん、とはいつてきた。
「僕が明日から安いカストリを仕入れてくるから、それを主として常連に売つて、売切れたら店の品物を売る。ビールやお店のお酒はお値段を前もつて申上げて御覚悟の方だけ飲んでいたゞくのさ。僕が毎日カストリ五升づゝ仕入れてきて御一同に千八百円で卸すから、それを三千五百円なり四千円也で売つても、あなた方七人で割つて一人あたま三百円ぐらゐのもうけになる。この儲けはワリカンで辛抱しなさい。腕次第のもうけはチップの方でさあ。こゝの大将の儲けなんぞは、そのおこぼれでたくさんだ。店がはやつてくれば、カストリの方は一斗でも二斗でもその他ウヰスキーでも僕が仕入れてきますから。いかゞです、この案は」
アラ大賛成、と富子がまつさきに喜んだ。三百円でも自分のもうけがあるなどゝは夢のやうだからである。十一時になるとコック先生早目にカストリのカラ缶をぶらさげて引上げてしまふ。彼は五升を六百円で仕入れてくるから、九百円もうかる。然し元値は千五百円で、あなた方なみに三百円しか儲からない、犠牲的奉仕だと言つておく。
「ビール、酒が高すぎる、こゝのカストリも高すぎるてんで、みんなよそで飲んできて、こゝぢや、甜めてゐるばかりで、もつぱら女を口説いてますな。女で酒を売らうとすると得てしてコレ式になるもんでしてな」
とコック氏が素知らぬ顔で大将に言ふ。すると女給も富子も大将の顔を見るたびに、
「飲み物、値上げしたら、全然のまなくなつちやつたのよ」
と、こぼしたり、
「いつそ、コーヒーでも置いたら?」
などゝ言つてみたりする。
売り上げは値上げ前の三分の一から良い日でも半分に落ちてゐる。どうせ一本二本しか飲まないなら、百円のお通しをつけて、カストリ百五十円、日本酒二百円、ビール三百円にしろ。御無理御もつとも、困つたな、と顔をしかめて、然し、一同、もう内心は平然たるものである。
二人づれのお客にはお通しつきを一つだけ無理してもらひ、三人づれには二つ、一人でくるお常連は二日目か三日に一度無理してもらう。あとはカストリのサービス。これが当つて、今日は二つ無理してやるよ、といふ人もあるし、ナニ、俺は三ツ無理してやる、アラいゝわよ、さう無理しなくつても。全く、無理しても女人連は内心よろこばないので、カストリの売れる方がよい。近頃ではコック氏は自転車を新調して一斗五升のカンカラカンをつみこんでくる。お通しの売り上げも十五人前から三十人前ほどもでる時があるが、かうたくさん大将に儲けさせる手はないからカストリのお通しはもつぱらコック氏のカンカラカンから捻出して、大将の所得は平均してお通し十人前、といふところ、これでも昔日の比ではない。
最上先生ほくそゑんで、まア、これぐらゐにいけば一日に純益千五百ぐらゐあり、女給の給料や諸がゝり差引いて千円は残るから、毎日のんだくれてもカストリで我慢してりや一年に十万ぐらゐ残るだらうと、計算してゐる。
ところがお店の連中の儲けはそれどころぢやない。先づコック氏はカストリの純益千八百円、女人達は九百円づゝ、これにカストリのお通しが平均して一日に二千円あつて、これをコック氏も入れて八ツに割り、結局コック氏二千円、女人連千円余、それに女人連にはチップがあり、コック氏にはハキダメの屑の上りがあつて、おまけに給料も貰ふのだから、大将よりも利益をあげてゐるのである。
かうなるとコック氏の人気は素ばらしい。富子は自然お金がもうかつてみると、無理矢理ハゲアタマの二号になることはないのだから、コック氏みたいなたのもしい人物と一緒になつて今の宿六をギャフンと云はせてやりたいと考へた。女人連は女人連で各自浮気にいそしんでゐるが、さて浮気といふものも、やつてみると、さのみのものぢやアない。もつと何か心棒のある生活がしてみたい。この男ならといふので、それぞれコック氏に色目を使ふ。
然しさすがにコック氏は倉田大達人の弟子であり、浮気などは女房と同じぐらゐつまらぬものだと知つてゐる。目先の浮気などよりも、一城一国のあるじ、国持の大名になるのが大功なんだと、彼は齢が若いから理想主義者で、倉田が自ら考へながら為し至らざる難関を平チャラに踏みこす力量を持つてゐた。
彼は観察して、オコウちやんの人気は抜群であり、愛嬌もお客のあしらひも、金勘定のチャッカリぶりも、顔も姿も第一等で、浮気心もまだ知らない。そこで白羽の矢をたてゝ談判すると、オコウちやんも彼の手腕に魅了されてゐるところだから、意気投合、然し利巧な二人だから、誰にさとられることもなく、資金ができ、マーケットの一劃に店をかり、大工を入れて万事手筈がとゝのひ、愈々開店となつてお客に発表、手に手をとつて消えてしまつた。
カストリの卸元が引越したから、残された女人連だけでは、あとが続かない。お店のお通し付きばかりでは元より商売にならない。そこで旬日ならずして、他の店へクラガヘの者、お客と一緒になるもの、五人の女は一時に消え失せ、残されたのは茫然たる富子たゞ一人。
今まで心を一つに働いてゐた。敵は大将たゞ一人、あとは戦友のやうなもの、うらはらなく打開けてたのしく日々を暮してゐた筈であるのに、たのむコック氏はオコウちやんと手に手をとつてアッといふ早業であり、残る女人連もヒソヒソ五人同志で相談しても富子には相談しかける者もなく、あなたはどうする、と訊いてくれる者もない。自分達だけ話をきめて、さよならとたゞ一言、みんな消え去り、富子だけ置いてきボリをくはされた。
みんなに裏切られ、置いてきボリをくはされ人情の冷めたさに泣いたあとで、気がついたのは、こゝは自分の家だといふこと、自分の家とはこんなもの、路傍の人情よりはいくらかマシだといふやうなセンチな気持になつた。これが失敗のもとで、一部始終をうちの宿六に打開けたから、いけない。
宿六はきゝ終ると、静かに顔をあげて
「おい、ヘソクリをだせ」
富子はアッと顔色を変へて
「アラ、オコウちやんから着物を三枚も買つちやつたわ」
「バカ。あれから四月にもなるんだ。着物の三枚ぐらゐ買つたつて、十万以上残つてゐるはづだ。こゝだな」
と、箪笥や戸棚のヒキダシやトランクをかきまはし、ナゲシの隙間や畳をめくつてみたが分らない。久しく使はない冬の布団をとりだして縫目を解いて綿の間をしらべても見当らない。
「うちに置いてないのよ」
「どこにある」
「倉田さんの奥さんに預けてあるのよ」
もとより嘘にきまつてゐる。執念の女がヘソクリを人に預けて安眠できるものではない。
「私の稼いだお金だもの、私のものよ」
「バカ。営業妨害だ」
「だつてあなたの営業方針なら、あなた自身の売上げだつて今より不足で、とつくにお店はつぶれてゐた筈よ。私たちのおかげであなたも儲けてゐたのだから、自業自得ぢやありませんか。口惜しかつたら、あなたもコックさんのやり方で、安直にやり直して、もうけるがいゝぢやありませんか。私たちが心を合せて、新に女給を募集して、うんと儲けてやりませうよ。ねえ、あなた」
「ぢやア、お前すぐ新聞社へ行つてこい」
「あら、あなたよ」
宿六は委細かまはず、広告の文案を書いて女房につきつけて、
「すぐ行つてこい」
「イヤ」
「行かないか」
たまりかねて、五ツ六ツ、パチパチとくらはせる。富子がこれだけねばるのだから、ヘソクリはこの家のどこかしらに必ずある。ふと気がついたのは、春先の安値に買つた四ツの火鉢だ。それを押入の奥へ積み重ねてある。あの灰の中が怪しい。
やにわに押入をあけて火鉢に手をかけると富子が腰に武者ぶりついた。富子を蹴倒しポカポカ殴つて延びさせておいて奥の火鉢をとり下す、とたんに富子が忍び寄つて足をさらつた。ひつくり返る胸の上に火鉢の灰が傾いて札束が見えたのが最後であつた。富子が灰をつかんで宿六の眼の中へ押しこんだ。チラと見た札束を最後にして、宿六の眼は暗闇の底へとざゝれてしまつた。
富子は着物をきかへる。宿六は七転八倒、途中に正気づいては大変と、もう一つの火鉢の灰を頭からぶちまけて、眼も鼻も口も一緒にグシャ/\灰を押しこんでやる。ゆつくり着物をきかへて、奥の二つの火鉢から十万ほどのヘソクリをとりだして、着物や手廻りの物と一緒に包みにした。
宿六はお勝手へ這ひ下りて、まさに水道をひねらうとしてゐる。出がけにもう一握りの灰を鼻の孔にぶつかけ、オカユのはいつた鍋を頭へグシャリとかぶせて、とびだした。
★
最上清人は店をしめて、ひねもす飲み暮してゐた。店では一週間用ぐらゐの酒類が、一人で飲むと却々飲みきれない。夜になると外へでゝ、千鳥足で戻つてきて、万年床へもぐりこむ。飲む金がなくなつたら、首をくゝつて死ぬつもりなのである。そのくせ一日に七八回胃の薬を飲み、胃袋を大切にしてゐる。
死を決して、思ひ当つた思想といふやうなものは、別にない。たゞひつくりかへる灰の下からチラと顔を見せたあの札束が残念だ。富子の奴はあの札束でどこで誰と何をしてゐやがるか、札束だけが残念でたまらない。セッカチはどうもいけない。ハハア、火鉢だなと、気がついたら、素知らぬ顔、長期戦で店の酒をのみ家から一歩も離れずねばつてやる。そのうち富子が便所ぐらゐは行く筈で、その時便所を釘ヅケにしてもよかつたのである。かう思ふと、残念でたまらない。
店のお客がきて戸を叩いたり、倉田がきて、最上先生、ゐないかね、と怒鳴つたこともあるが、知らぬ顔、戸締りをして、主要なところは釘づけにして、酒をのんだり、万年床にごろついてゐるのだ。
二ヶ月あまりで店の酒類も飲みほしたが、彼のヘソクリも終りを告げるところへ来てしまつた。然しまだ店を売るといふ最後の手段が残つてゐる。これより、この店を飲みほすと思ふと、なんとなく胃袋に手ごたへのあるやうな爽やかな気もする。その代り、いつたい、どこで首をくゝつたらいゝのかな、とバカなことを心配したもので、街路樹へブラ下つてもいゝではないか。焼跡へ行くと、風呂屋だか工場の跡だか煙突のまはりに鉄骨のグニャ/\してゐるところがあるから、あの鉄骨へブラ下つてもいゝ。
もう冬がきてゐた。彼は皮のヂャムパーをきて、マーケットのコック氏とオコウちやんの店を探し当てた。商用にきたのだ。店を売らうといふのだが、昔のナジミでいくらか高く買ふだらうと思つてゐたのに、どう致しまして、彼が一式居ぬきのまゝ三十万といふのに、コック氏は七万なら、と言ふあつぱれな御返事。するとオコウちやんが横から、あそこは場所が悪いから、いやだわ、などゝ足もとを見て、いぢめぬく。
ちやうど倉田がきてゐた。
「店を売つちやうのかね。残念ぢやないか。店さへありや、一花さかせるのはワケない筈なんだが、店を売つて何か別の商売やるのかね」
「それを飲みほして、首をくゝるのさ」
「なるほど。それもよろしい。然し、なんだな。ちと芸のないウラミもあるな。芸といふものは、これは人生の綾ですよ。誰だつて、ほつときや自然に死ぬんだから、慌てゝ死んでみなくたつて、どうも、なんだな、お金がないからお金をもうける、女がないから女をこしらへるてえのは分るけど、お金がねえから自殺するてえのは分らねえ。ぢやア、どうだらう。最上先生、私がお店を買ひたいけど、お金がないから、私に貸してくれねえかなア」
「貸してもいゝよ。毎月三万円なら」
「三万円も家賃を払ふぐらゐなら、誰だつて買ひますよ」
「僕は月々三万円いるのだ」
「するてえと、最上先生の言ひ値で店が売れて、十ヶ月の命なんだな。オコウちやんの買ひ値ぢやア、二ヶ月と十日か。人殺しみてえなもんだなア。俺なんざア、一夜にして全財産を飲みほしてあしたのお食事にも困つたり、オコウちやんを彼氏にしてやられても、酒の味がだん/\うまくなるばかりで死ぬ気になつたことなんぞは一度もないけど、最上先生の思想は俺には分らねえ。ぢやア、かうしちやアどうだらう。オコウちやんにタヌキ屋の方へ支店をだして貰ふんだな。私を支配人といふことにして、店の上りの純益六割はオコウちやん、二割づゝ、支配人の給料と家賃てえのはどうだね。これはけだし名案ぢやないか」
「だめですよ。先生みたいな支配人、無給だつて雇ふものですか」
「さう言ふものぢやアないよ。それはオレはハキダメから料理をつくる腕はないけど、タヌキ屋の店なら一夜に平均してカストリ二斗、これだけは請合ふ自信があるです。カストリ二斗といふ請負ひ制度で行かうぢやないか。二斗以上の純益は私のもうけ、二斗以下の日は私の給料から差引く。いかゞです」
「お勘定」
「いけねえなア。最上先生、たまに会つて、呆気なく別れたんぢやア、首くゝりに出かけるところを引きとめなかつたみたいで、寝ざめが悪いよ」
「僕は商用にきたんだ」
「相すまん。最上先生の商用を茶化すわけぢやアないんで、あはよくば私も一口と思つたんだが、オコウちやんが相手ぢやア。こんなところへ商用に来るてえことが、最上先生は決定的に商才ゼロですよ。こゝに於て商談は中止に及んで、もつぱら飲みませう。首くゝりも最上先生の商談のうちでせうから、すでに拙者はとめないです。首くゝりも商用てえのは、意気だなア。首くゝりが意気てえわけぢやないけれど、人生、なんでも商用、なんでも金談てえのが、たまらねえな。然し、だんだん身の皮をはいで首くゝりへ近づいて行く商用てえのはあんまりイタダケないやうだけど、これが浅はかな素人考へといふのだらう。私は然し、最上先生には一つだけ足りないものがあると思ふな。それはつまり浮気は宗教である、といふ思想に就てゞすな。即ち浮気は宗教であるですよ。キリストも釈迦も説法をやるです。これ即ち口説ですよ。衆生済度といふですな。浮気も即ち救ふといふことです。口説は即ち女人を救ふ道ですよ。浮気によつて救ふ。肉体によつて救ふ。口説のカラ鉄砲といふのは、いけねえな。一万円あげるとか、お店をもたせてあげるとか、嘘をついて女を口説いてはいけないです。金なんかやる必要はない。有りあまるムダな金ならやつてもいゝが、無い金を有るやうに見せかけて女を口説かうなんてえのは、いけない。遊びとか浮気は、それを為さゞるよりは面白い人生なんだから、よつて我々はそれをやりませう、とかう言ふです。私はその真理たる所以を信じてゐるから、私が女を口説き、女がそれに応ずることによつて、女は救はれるといふことを信じてゐるです。即ち私の浮気精神はキリストなんで、最上先生の浮気はキリストぢやアねえな。こゝのところが最上先生に足りねえから、最上先生は首をくゝる。仏教に於ては孤独なる哲人を声聞縁覚と言ふです。彼等は真理を見てゐるが、人を救ふことを知らんです。よつて、もつぱら自分を救ふ。何によつて救ふかといふと、死によつて救ふ。真理をさとる故に自殺するです。それは死にますよ。人間は生きてるんだからな。生きてるてえのは死ねば終るから、真理を見れば、死ぬ。死ぬてえぐれえ真理はねえや。つまらねえもんだよ、真理てえものは。そこで、これぢやアいけねえな、といふので、印度に於ては菩薩といふものが現れた。これは色ッポイものだ。孤独なる哲人はいけねえといふので、菩薩の精神はもつぱら色気です。人を救ふといふのは、これ即ち色気です。人生は色つぽくなきや、いけねえ。色ッポイてえのは何かといふと、男ならば女を救ふ、女ならば男を救ふ、これ即ち菩薩です。浮気てえものは菩薩なんだ。たゞあなた、金をしぼらうとか、女をものにしようとか、それは印度の孤独なる哲人の思想ですよ」
「考へなきや、いゝんだよ。そんな風に考へて、言つてみたいのかね。言葉なんてものは考へるために在るんぢやなくて、女を口説いたりお金をもうけるために在ればいゝのさ。死なんてものは、言葉の上にあるだけだ」
「喋るのがオックウになつちやアいけねえなア。ムダな言葉はいけねえと言つたつて、女を口説くにも、やつぱりあなた、情緒といふものが必要ですよ。女人に向つて、この道は佳き道だから余にしたがへ、と言ふ。真理は明快だけれども、オ釈迦サマなら方便とか、救世軍なら楽隊とか、こゝに芸術てえものがあるんだね。芸術てえものは、ムダなもんだ。あなたはムダがねえから、お金の裏が首くゝりなんだなア。然し、あなた、お金の裏はお金、女の裏は女、きまつてるな、これが生きるといふことだ。生きることには、死ぬてえことはねえな。あゝ、さうさう、この店へは近頃毎晩富子さんが現れますよ。例の彼氏、美学者と一緒にね。目下ダンスホールの切符の売子で、彼氏と同じ屋根の下の伴稼ぎなんだが、近頃はなんとなく、口説いてみたいやうな色ッポサがでゝきたね。あなたと一緒の頃のあの人は口説く気がしなかつたけど、つまりなんだなア、あなたの思想は自分の女房まで色ッポクなくさせてしまふんだから、最も孤独なる哲人は、最もヤキモチヤキのやうなものかな。然し、女房といふものは、万人に口説かれるぐらゐ色ッポク仕込まなきやアいけねえのかも知れねえなア」
そこへ富子が瀬戸と並んでやつてきた。昔の宿六を見て、アラ珍しい人が来てるわネエ今晩は、と言つたが、富子がこの店へ瀬戸と並んで毎晩くるのは、実は昔の宿六に、二人お揃ひのところを見せつけてやりたいからだ。
けれども近頃、富子は再び貧乏が身にしみてゐる。十万円握つて瀬戸のところへ駈けつけたまではよかつたが、宿六が追ひかけてきて取り戻されては大変と、温泉へ瀬戸を誘つて豪遊したから忽ちにして文無しとなり、伴稼ぎを始めたが、瀬戸の飲み代で青息吐息、ちつとも面白くない。一緒に飲みにくるのは、昔の宿六に見せつけたい魂胆の外に、三杯ぐらゐで切上げて帰らせるためだが、すると美学者は途中で富子をまいたり、引ずつたり引ずられたり、なぐつたり、なぐられたり、もう一軒、もう一杯と立ち寄つて、とゞのつまり家へ戻ると、ひねもす喧嘩に日を暮してゐるなどゝは、誰も知らないだけの話なのである。富子は肚の中では、どうしてかう宿六運が悪いのだらう、今度はあの絹川といふ色男のところへ押かけてみようか、いつそ社長のハゲアタマの二号に押しかけてみようか、色々と考へてゐる。
最上清人はポケットから手帳をだして調べてゐたが、顔をあげると瀬戸の方に向つて、
「君の借金がまだ九百六十五円あるから、今日いたゞかう」
「どうも、すみませんでした。今日は実は持ち合せが不足なんで」
「ぢや、外套をぬぎなさい」
「さうですか、ぢやア」
瀬戸が立上つて外套をぬいだ。
そのとき私がこの飲み屋に居合せたのである。私は見たまゝ逐一を書く必要はないだらう。馬鹿げてゐるのだ。大づかみに結末だけおつたへしておかう。
「これで千円借して下さい」
と言つて、瀬戸がオコウちやんに外套を差出した。この外套は彼の満洲生活の記念品だから品物は立派で、千円のカタにはなるからオコウちやんは千円貸した。
最上清人は千円をポケットへねぢこんで、三十五円のおつりをおいて、そのまゝブラブラと、ポケットへ両手をつッこんで、ゐなくなつてしまつた。倉田が何か言つたが、彼は返事をしなかつた。
瀬戸が帰るとき、外套をぬぐと寒いな、すると富子が大声で、寒むさうねえ、可哀さうねえ、と云つたが、オコウちやんは一心不乱にオツリを数へてそれをハイ、アリガトウと差出したばかり、瀬戸はクスリと笑つて、ぢやア、又と二人は外へ消え去る。
要するに私が見たといふのは、たゞそれだけのことなのである。その日から私はこゝで飲むことにした。ところが三日目に、この店でも変つたことが起つた。
オコウちやんはもうオナカが大きくなつてゐた。すると宿六もすでに一国一城のあるじとなつたから何百年前からの仕来りでダンサーをお妾にしてよろしくやつてゐたのをオコウちやんが嗅ぎだしたから、覚悟をしろと、百万円ほどの札束をさらつて大学生と駈落に及んでしまつたのである。
私は聴いたまゝ見たまゝ有りのまゝ書いたゞけの話で、これからどうなるのやら、幸、不幸、誰の運命も分らない。
私が小便から戻つてきたら、置き去られの宿六先生、コックと給仕人と両方忙しく立廻りながら、
「これぢやア又、ハキダメからやり直さなきやアいけねえ。気を悪くしねえで、しばらくつきあつて下さいよ。ヘエ、お待ち遠」
と一心不乱であつた。