Chapter 1 of 37

待遇問題

安達君は乗換の電車を待ちながら、青空を仰いで、意気軒昂たるものがあった。卒業後半歳にして、竟に就職戦線を突破したのである。勤め始めてから丁度一週間、仕事の方はまだ無我夢中だ。サラリーマンとしては文字通りに日が浅い。しかし得意の度合はそれに反比例を保っていた。もう一人前だと思うと、何となく尾鰭がついたような心持がする。

「おい。何うだい?」

「駄目だ。然う言う君は何うだい?」

「矢っ張りいけない」

「いつになったら目鼻がつくんだろうかな?」

と心細い問答を繰り返していた頃とは違う。

待っている電車が来ない中に、もう用のない方が又着いて、乗換の客が際立って数を増した。安達君は多少迷惑を感じた。押し合いになるから、うっかりしていると取り残される。一体、安達君は控え目の性分だ。人を突き退けて自分丈け進む気になれない。学校時代には、その為め見す/\遅刻したことがあった。しかし今は出勤だ。遅れては困る。覚えず腕時計を見て、努力を心掛けた。

「やあ。安達君」

と折から声をかけて、人を分けて来た青年があった。同じ級に机を並べた村上君だった。然う別懇の間柄でもないが、野球の応援団を指導していた男だから、一種の公人として親しみを持っている。安達君と違って、万事積極的だ。

「やあ」

「何うだい?」

「漸くありついた」

「何処だい?」

「○○だ」

「ふうむ。銀行かい?」

「信託の方だ」

「それは素敵だ。あすこの信託はこれからだから、有望だよ。新らしいところに限る。幾らだい?」

「五十五円さ。余り素敵でもないんだよ」

「しかしボーナスとも七十円になるだろう?」

「先ずその辺さ。君は何うだい?」

「これだ」

と村上君は折鞄を動かして見せた。

「何処だい?」

「○○生命さ」

「ふうむ。これこそ素敵だ」

「いや、外勤だ、差当り。一年たつと内勤にして貰える。ところで君、ボーナス丈け何うだい?」

「おい。来たよ」

と安達君が注意した。村上君は機敏だ。側にいた人を押し退けて、安達君の腕を捉えながら第一着に乗り込んだ。しかし朝の電車は混んでいる。坐る席は無論なかった。

「君、ボーナス丈け何うだい?」

「何が?」

「保険へ入ってくれ」

「さあ」

「ボーナス丈け貰わないものと思えば、三四千円入れる。それぐらいの心掛がなければ、出世は覚束ないぜ」

と村上君は釣革に下りながら勧誘を始めた。職務に忠実なものである。

「未だ保険どころじゃないんだよ」

「誰でもそんなことを言うけれど、その議論は成立しない。保険どころじゃない奴こそ保険の必要があるんだ」

「ナカ/\巧いや」

「一体ボーナスは幾つだい?」

「…………」

「皆取ってしまっちゃ可哀そうだから、半期丈けで宜い。五十五円で半期に一つ半なら……」

「おい。聞えるよ」

「うむ」

「よしてくれ」

「それじゃその中に君のところへ行って、ゆっくり話そう。何処だい?」

「待ち給え」

と安達君は釣革から手を放して、名刺を出した。肩書つきだった。拵えたばかりで初めて使う。

「有難う。自宅は、下宿かい? 大谷方ってのは」

「郷里の先輩の家だ」

「方は名刺に書くものじゃないよ」

「僕も少し具合が悪いと思ったけれど、書かないと、郵便が来ない」

「まだ書留を当てにしている方だね」

「当り前さ、まだ一遍も貰わないんだから」

「書留だって何だって来る」

「来ないよ」

「智慧がないんだね。名札を出して置くのさ。方なんて書いたんじゃ信用がつかない。番地丈けにして置けば、堂々たる構えだと思って貰える。僕のを見給え。これで矢っ張り素人屋だけれど、然うは見えまい」

と言って、村上君も、参考の為めに一枚出した。

「何だい? 電話があるのかい? これは堂々たるものだ」

「この調子で行かなければいけない」

「しかし電話のある素人屋なんてものは滅多にないよ」

「いや、電話は筋向いの酒屋だ。小僧に毎月活動の切符をやって取次を頼んである。但しその切符は映画会社へ出ている奴から只貰う」

「凄いんだね」

「ハッハヽヽヽ」

「そのくらい抜目がなければ、成績も好いんだろう?」

「相応やっている。ところでいつ行こうか?」

「日曜の午前中は大抵いるから、やって来給え」

「医者をつれて行くよ」

「冗談言っちゃいけない。僕は未だ些っとも考えていないんだから」

「考えていて会社へ自首して来るようなのは御免蒙っている。叩き殺しても死なないようなのに見込をつけるんだ。何うだい?」

「よせよ、もう」

「僕のところは五大会社の随一だ。他の会社と違う。その辺を詳しく説明してやる」

「幾ら説明しても僕は駄目だよ」

「ナカ/\頑強だね」

「差当りそんな余裕はないんだ」

「それじゃ入るとしたら、僕の手で僕の会社へ契約してくれ給え。何も急ぐんじゃない。枯木も山の賑かしってことがある。勧誘員ってものは、兎に角間口を拡げて置くのが成功の第一歩だ」

「僕は本当に枯木だよ。勧誘しても、見込はない」

「いや、枯木に花を咲かして見せる。そこが僕の腕だ」

「敵わないな、これは」

と安達君は持て余した。逃げ出したいところだけれど、電車の中だから仕方がない。

「君のところへ始終来る連中があるかい?」

「さあ。同級生でかい?」

「うむ」

「二三人ある」

「誰と誰だい?」

「小宮君と吉川君ぐらいなものだ。もう一人、瀬戸君が時々来る」

「吉川君にはこの間会ったよ。しかし、奴、君よりも機敏だ。失敬と言って行ってしまった」

「電車の中じゃ逃げられないよ」

「ハッハヽヽ」

「吉川君は一番早かった。○○電力だよ」

「然うだってね。巧くやった」

「家は僕のところの直ぐ近所だ。自分の家だ。これこそ本当に堂々たるものだぜ」

「有望々々」

「何だい? 勧誘の目的かい?」

「当り前さ。小宮君は何うだい? 何処かへ定ったのかい?」

「これは叔父さんの店だ」

「幾らだい?」

「分らない。そんなことには超越している。叔父さんの娘を貰って後を継ぐんだから、お互い使用人とは格式が違う」

「有望々々」

「しかし、うっかり行けないよ」

「何故?」

「見せつけられる。手放しだからね。迚も溜まったものじゃない」

「もう結婚したのかい?」

「いや、未だ/\。その従妹ってのは女子大学へ通っていて、迚も綺麗な人だ」

「仲が好いのかい?」

「迚も」

「ふうむ。迚も尽しか? これは驚いた」

「小宮君が僕と話しているところへ来て、兄さんと呼ぶんだ。『兄さん』『何だい?』『内証よ。でも急用ですから』って、小宮君の耳へ口を持って行く。小宮君は若子さんの手を取って立ち上る。若子さんというんだ。映画の『終』を思い出させるような恰好になるから、側にいるものは当てられる。僕はいつも庭の方を向いて、木が何本生えているか勘定している」

「ハッハヽヽ」

「見せつけたいんだね、何方も。この間は二人でやって来たよ。小宮君が靴の紐まで結んでやるんだ。僕のところの奥さんはそれを見ていて後から主人に食ってかゝった。この頃の人は違いますと言うんだ。あなたなんか駄目ですと言うんだ」

「そんなことよりも、店は何うだい? 大きいのかい」

「家とは別だから知らないが、高松商事といって、相応のものらしい。何でも屋だ」

「有望々々。これはダブル・プレーだ。二人入れてやる」

「叔父さんの財産が美人ぐるみ転がり込むんだから、好い星の下へ生れて来た男さ」

「そこを睨んでいる。相続税を取られるから、その時の用心に叔父さんまで入れてしまう。一寸こんなものさ」

「あゝ、忘れていた」

「何だい?」

「保険会社の代理店もやっているんだよ。小宮君はその方の係だと言っていた」

「詰まらない! 糠喜びをさせやがった」

と村上君は背負い投げを食った形だった。

「ハッハヽヽ」

と安達君は偶然ながら、少し溜飲を下げた。

「もう一人、瀬戸君の方は何うだい? まさか保険会社じゃあるまい?」

「先生だよ、これは、商業学校だ」

「柄にないね」

「いや、初めから教員志望だった。お互と違って、成績も好い方だったから、納まり返っている」

「幾らだい?」

「七十五円だ。僕よりもグッと好い」

「しかし学校は初めのうち丈けだよ。展したところで天井が支えているから、大したことはない」

「自分でも然う言っている」

「ボーナスなんかあるまい?」

「年末に少しあるらしい」

「訊いて見たのかい?」

「いや、彼奴は金の話をすると、機嫌が悪いんだ」

「そんな変人じゃ心細いけれど、まあ/\、山の賑かしだ。何処だい? 下宿は」

「五反田だ。この間引越したばかりだから、番地は覚えていない。家へ帰れば分るけれど」

「もう他にないかい?」

「ないよ」

「兎に角、その中に遊びに行く」

「来給え」

「矢っ張り同窓ってものは有難い。一寸電車で会っても、これ丈け胸襟を開いて話せる。僕は同級生と先輩の関係で、それからそれと手蔓を手繰って行くから、随分手広く勧誘が出来る」

「成程、君は応援団長をやっていて顔が広いからね」

「何が仕合せになるかも知れない。この頃は学校時代に余り交際しなかった連中と悉皆友達になってしまった。皆就職で一苦労した後だから同情してくれる。お蔭さまで責任額なんか朝飯前だ」

「一体幾らぐらいになるんだい?」

「さあ。月によって出来不出来があるけれど、均し百五十円」

「えゝ?」

「ハッハヽヽ。話半分に聞いて置けば間違ない」

「七十五円かい?」

「先ずその見当だろうね」

と村上君は然う威張るほどのこともないのらしい。随って友達を見かけると、取っ捉えて放さない。何処までも粘着力が強い。それでいて、相手に少しも不愉快な心持を起させないのは、野球の応援が一種の精神修養になっているのだろう。

安達君はその月の中に数名の同級生に行き会って、村上君の言ったことを思い出した。同じ就職難を突破して来たばかりだから、お互に対して興味と同情を持っている。然う親しくもなかった同志が顔を合せるとニッコリ笑って歩み寄る。

「久しぶりですな」

「何うですか?」

「有難う。何うにか斯うにか」

「君は何処ですか?」

「○○信託です」

「はゝあ。好いところへ入りましたね」

「君は?」

「松竹興行です」

「はゝあ。芝居が只見られますね」

「それぐらいが役徳ですよ。君の方は待遇が好いでしょう?」

「いや、駄目ですよ」

「失敬ですが、お幾らですか?」

「五十五円です。君はもっと好いんでしょう?」

「好くても知れたものです。六十円です」

「相場でしょうね、この辺が」

「駈け出しは何処も似たり寄ったりです。僕の方は五十、五十五、六十と刻んであります。僕は少し徳をしました」

「成績が好かったからでしょう?」

「さあ」

「ボーナスは幾つですか?」

と会話は必ず待遇問題だ。急いでいても、勤め先と月給とボーナスを確めてから別れる。学生ではない。学校時代には学科の点数が主な屈託だった。点数を余計せしめるものを秀才と認めて、これに敬意を表した。しかし今はサラリーマンだ。人間の値打が金で定まるものでないという理窟は万々承知していても、差当りサラリーの多寡が尺度になる。

「やあ」

と或日安達君は百貨店のエレベーターの中で級友に対面した。

「何うだい? 景気は」

「有難う。到頭ありついたよ」

「○○信託だってね」

と相手は知っていた。二人は流石に憚って声を潜めた積りだったが、七階へ着くまでに、安達君が五十五円、級友が六十五円、ボーナスは何方も半期に一つ半という待遇が、エレベーター・ガールに分ってしまった。エレベーター・ガールは二人の顔を見てニヤ/\笑った。二人も覚えず相好を崩して、逃げ出した。

「占まった」

「ハッハヽヽ」

「しかし一寸綺麗な奴だったね」

「うむ」

「君は買物かい?」

「いや、何てこともない」

「それじゃ一緒にぶらつこうか? 然う/\、関君がこゝへ入っているよ」

「ふうむ。何をしているんだい?」

「洋書部だ。寄って見よう」

「幾らだい?」

と何処までも待遇問題だ。

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