Chapter 1 of 14

第一回

何にする積りかこの間学校で担任の先生が皆のお父さんの職業を取調べた。級長から席順に官吏大蔵省技師とか、実業白木屋店員とかと答えて、僕の番が近づいた時、僕は尠からず当惑した、僕のお父さんは商売なしだ。今に何かやるよと言うのは口先ばかりで、僕を長男に五人の子供の親になってまだ一定の職業がない。四十にして惑わずというからイヨ/\最早惑わずに無職業と度胸を据えたのらしい。何にもしないで生きているのを徒食というと先日読書の時間に習ったが、まさか徒食業と答える次第にも行かず困っていると、僕の前の奴がすっくと立ち上って、

「無職!」

と元気好く答えた。おや。仲間があったか、と思ったら、僕は急に心丈夫になった。しかし先生は、

「無職! 実はその無職というのに困るのですが、全然無職という人は滅多にありません。何かしていらっしゃるでしょう?」

と森下君を追究した。

「何にもしていません」

「それなら金持で唯遊んでいらっしゃるのですか?」

「否、金持じゃありません」

と森下君は否定した。

「それでは生活は何うしてなさるのですか?」

と先生が立ち入った。世智辛い時勢だ。中学一年生が生活問題の解答をしなければならない。

「家賃が入ります」

「それなら家主じゃありませんか。家作は沢山ありますか?」

「沢山あるようです」

「そうして御自分の地面でしょう?」

「そうです。地代も入ります」

というような問答のあった末、森下君のお父さんは地主という判決を受けた。そうして次は僕の番だった。

「無職です」

と答えて、僕はこれは矢張り簡単には済むまいと思ったから、立った儘でいた。果して先生は浮浪無頼では納得せず、家作や地所の有無を確めてから、お宅へ物を頼みに出入する人はありませんか等と言って、高利貸の嫌疑まで掛けた後、

「全然の無職には困りましたな。それならばお父さんは主に何をなすって一日をお送りですか?」

と訊いた。

「大抵本を読んでいます」

と僕は有りの儘を答えた。

「何ういう御本ですか?」

「さあ、文学の本が主です」

「それなら文学者ということにして置きましょう。全然無職では困る」

と先生は奥さんまで職業婦人の所為か無職を良民と思っていない。

調査はなお次から次へと進んだ。結局四十何名かの父兄の中で純粋に徒食を業としているものは僕のお父さんだけだった。皆何か彼かして、稼いでいる。僕の一席置いて隣りには海軍中将がいた。それから五六人飛んで三井銀行の支店長というのがあった。職業に貴賤なしと態修身で教えるのは事実に於て動かし難い高下の差別が因襲的に附き纒っているからだ。近道があればこそ、「通り抜け無用」と書いて置く。今四十何名かの生徒が父兄の職業を申立てた場合でも得意らしいものと失意らしいものがあった。殊に腰弁や会社員の如き一種の雇人で無産無識階級に属するものが相応に豪い積りで尊大に構えているのに一方独立の生業を営んでいる商家が兎角自ら卑下する傾向のあったのは僕の腑に落ちないところだった。就中哀れを止めたのは末席を汚している土屋君で、この生徒は最初、

「陸軍御用!」

と言って、直ぐに又、

「陸軍衛戍病院御用です」

と訂正した。

「御用商人ですか? 商業ですね?」

と先生は念を押して書き留めようとした。この時土屋君は「はい」と答えればそれで済んでしまったのに、

「否、商業じゃありません。品物を拵えて衛戍病院へ納めるのです」

と説明を加えた。

「それでは製造業ですね?」

と先生は最早お仕舞い際だったから早く片付けたがって又万年筆を持ち直した。しかし土屋君は製造業でも満足せず、

「否、そうでもありません。やはり陸軍衛戍病院御用です」

と何処までも家業を官辺に結びつけようと努めた。

「病院へ納めると……成程、分りました。薬種商ですね?」

「否、薬種じゃありません。もっと反対のものです」

「反対のもの? 一体何ですか?」

「拵えて病院へ納めるのです……棺桶です」

「あ、分りました。宜しい/\。もう宜しい」

と先生は妙に慌てゝ土屋君を坐らせた。皆はクス/\笑い出した。

僕は土屋君の努力を甚だ面白いと思った。葬具店は必要欠き難いこと米屋同様だ。否、パン食をやっていて米屋のお世話にならない連中でも葬儀社の御厄介には早晩ならざるを得ないのだから、白米商よりも更に一層正業だといって差支ない。土屋君だってこの辺の道理は充分弁えているのだが、何分縁起の好くない商売柄で、等しく正業でも此方から催促的に御用を伺うべき筋のものでない。「今日は、葬儀社でござい」等と言えば叩きされる危険がある。そこで土屋君も露骨には答え兼ねて旁多少の箔をつけるために、日頃取引関係のある陸軍を担ぎ出したのだ。唯迷惑なのは衛戍病院で、彼処では患者が毎日コロ/\死ぬとしか受取れない。しかし問題の如何に拘らず無暗に官憲の力を藉りたがるのは日本人の通有性だから、軍医諸賢の思惑は兎に角、土屋君ばかりを咎めるのは無理だろう。

さて、余談は措いてお父さんの無職業の件だが、僕は土屋君が葬具商を持て余した以上にお父さんの徒食に肩身の狭い思いをした。全くの商売なしでは陸軍へも海軍へも持ち込みようがない。労働が神聖なら不労働は不神聖に定っている。何かやってくれると宜いのだが、真正に困ってしまう。お母さんもこの点は僕と同感と見えて、

「三輪さんがあんなに仰有ってお勧め下さるのですから、その学校へ御勤務になったら如何です? 謙一もダン/\成人しますから、親の毎日のらくらしているところを見せるのも何んなものかと存じます」

とつい先達而も稍強硬に説いていたが、お父さんは例の調子で、

「今に何かやるよ。屹度やる。まあ/\然う急き立てないでお呉れ――食うに困るという次第でもないんだからね」

と気休めを言っただけで矢張りその儘になってしまったらしい。

お父さんに定職を望むのは僕よりもお母さんの方が急だ。殊に此年に入ってからはお母さんの急っ付き方が頻繁になった。絶えず機会を覗っているらしい。次のような問答は僕の度々洩れ聞くところだ。

「あなたは最早四十じゃございませんか?」

「それは分っているよ」

「分っていらっしゃるなら、何かなすって戴きたいものですね」

「今にやると言っているじゃないか」

「あなたの、『今に』はこれで最早十五年続きますから恐れ入りますわ。そう億劫がらないで、何でも宜うございますから……」

「学校でも新聞でもだろう? そうして若しお厭でなければ会社でもだろう?」

「そう暗誦していらっしゃる程まで申上げているのですから一つ本気になってお考え下さいよ。何でも宜うございますが、この間申上げたように里の方を助けて下されば一番結構ですわ」

「乃公に商売のことが分るもんかね。第一算盤が皆目出来ない。一体彼の鬼瓦は乃公に何をさせると言うのだい?」

「何にもさせますまいよ。図体が大きいから鹿爪らしい顔をして店に坐っていて呉れゝばそれで宜いと仰有っていましたわ。家で書斎のお机に坐っていらっしゃるのも店へ行って支配人の椅子に坐っていらっしゃるのも同じことじゃありませんか?」

「同じことだから家にいるのさ。そう/\急き立てるな。今に何かやる」

「私、あなたが何時までも商売なしでいらっしゃると里へ帰っても肩身が狭うございますわ。秋子のところでは自動車を買い入れるという勢ですもの。芳江のところでは博士になりましたしね。私、黙っていても実際気が気じゃありませんよ。それをお父さんは少しもお察しなく、私の顔を見ると何時も、『愚迂多羅兵衛は相変らずのらくらしているかい?』とお訊きになるじゃありませんか?」

お父さんはお母さんと話をする時には里のお祖父さんのことを鬼瓦々々と言う。その返報かお祖父さんの方では僕のお父さんを愚迂多羅兵衛と呼んでいるらしい。こう綽名をつけて茶化し合っていてもお父さんとお祖父さんはお互を能く理解している。現に婿の中では謙一の親父が一番話相手になると言ったことが二度あるとか三度あるとか、お母さんが指を折って数えていた。それは兎も角、鬼瓦の方から碁の客が来ているからと小僧を寄越すこともあれば句会があるからと言って愚迂多羅兵衛の方から僕が使者に行くこともある。囲碁では外舅殿がお師匠さんで、俳句ではお婿さんが宗匠らしい。まず以て申分ない舅婿の関係を保っている。なお筆の序だから説明して置くが、自動車の秋子叔母さんと博士の芳江叔母さんというのはお母さんの妹だ。妹思いのお母さんはこの二人の配偶がそれ/″\発展成功して行くのを喜ぶと同時に、兄弟は他人の初まりといって自然競争心があるから、お父さんの煮え切らないのを歯痒がるけれども、お父さんは相変らず晏如として愚迂多羅兵衛を極め込んでいる。

もう一つお父さんの無職のためにお母さんが困るのは、客来の殆ど絶えないことだ。主人公が相手欲しやの閑人だから、友達が入り替り立ち替り押し寄せる。そうしてそれが愚迂多羅兵衛と肝胆相照らす手合ばかりだから、皆多少愚迂多羅気分を具備していて、談論に興が湧いて来ると日の暮れるのも夜の更けるのも忘れてしまう。中には、

「君のところへ来るのは一挙両得だね。必ず誰か仲間のものに会えるから、友達に御無沙汰ということがなくなる。調法で好いよ」

とか、

「何うです――正月は此処で会うのを年賀と見做して面倒な形式は一切廃そうじゃないか?」

とかと言って、家の客間を倶楽部と心得ているのがある。実に能く人が来る。去年町内が毎晩のように泥棒に襲われて両隣りまで難に遭った時僕のところだけ免れたのは余り人の出入が繁いので泥棒の方で怪しい家だと思ったのかも知れない。お父さんはこんな風でも平気だが、お母さんは忙しくて堪まらない。それに子供が多いから女中や婆やは手一杯で頻に愚痴を零す。他所の家では主人は少くとも日中は勤めに出るから主婦はその間息がつける。凡そ細君は良人の見ていない時までもそう/\働くものでない。大将御帰館という頃合を見計らって襷をかける。僕の家にしても稀にお父さんのいない時にはお母さんは子供が泣いても知らん顔をして雑誌を読んでいる。これは決して横着でも陰日向でもない。細君当然の権利だ。主人は朝から夕刻まで外で働き、主婦は主人が帰ってから夜寝るまで内で働く。主人が働く間は主婦が休み、主婦が働く間は主人が休む。かくて男女共に働くと称する時間が略公定相場の八時間になるのだが、家ではお父さんが終日在宅だから、お母さんは十六時間労働に服さなければならない。

こういう次第で僕はお父さんに早く何か始めて貰いたいと思っていたところへ、先生に「全然無職では困る」と言われたのだから、感銘が至って痛切だった。尤も先生は無職業では自分の調査の上から差支えると言うので、何も人間として不都合だという意味ではなかったのらしい。それにしてもやはり僕はその日は始終お父さんの職業問題が気になって、これを機会に一つ僕から諫めて見ようかと思いながら、学校の門を出た。電車道から家の方角へ折れた時、

「君のお父さんは文士なのかい?」

と道連れの森下君が突然尋ねた。

「否、文学者だよ」

と僕は答えた。

「文士と文学者とは違うのかい?」

と森下君は怪訝な顔をした。

「それは違うさ。文学を玩味する能力のあるものは文章を書く書かないに拘らず皆文学者さ。そうして文章を書いて食っているものは文学を玩味する能力の有る無しに論なく皆文士さ」

と僕はお父さんの受売をした。実は文士だと言いたかったのだが、愚迂多羅は理窟を捏ねるばかりで少しも書かないから仕方がない。

「それじゃ君のお父さんはその書かない方の口だね?」

「そうさ」

「それじゃ僕のところも文学者と言うと宜かったにな。親父は始終講談本を読んでいる」

と森下君は残念がった。

家に着くと例によって客が来ていた。平常は誰が来ていようと一切無頓着だが、今日はお父さんに関係あることゝいえば何でも注意を惹く。僕は机に坐った儘何時の間にか客間の談話に聞耳を立てゝいた。お客さんは三輪さんだった。又学校へ出るように勧めに来て呉れたのなら天の与え、僕も及ばずながら加勢をしよう等と考えていると、

「僕もイヨ/\何かやらなくちゃならない。今に/\と思っている中に年が寄ってしまうね」

とお父さんが言った。時の経つと共に年の殖えることを初めて悟ったような口吻だった。それにしても悪い傾向ではない。

「何か感ずるところあったのかね」

と三輪さんが訊いた。

「別に発憤した次第でもないが、この四五日の中に君は最早青年じゃないという判決を思いがけない人から二度までも言渡されて、少々慌て出したのさ」

とお父さんが答えた。五人の子供があるのに青年の積りでいられてはお母さんが堪らない。三輪さんも稍驚いて、

「ふうむ、君は青年だと思っていたのかい?」

と笑った。

「無論青年だとは思わないが、誰かの小説に最早正確にはヤング・マンと呼べない年輩でという形容のあったのを見た時、丁度僕の年恰好だと思ったことがある。西洋では三十五六、否、七八まではまだ青年だからね。ところがこの間靴を誂えに行って、『今度は一つ編上にして見ようか?』と僕が言うと、番頭の奴め、『矢張り深ゴムが宜しゅうございますよ。お年を召したお方は皆様深ゴムでございます』と来た。そうしてその語調が如何にも自然で、迚も咄嗟の間の判断じゃなかったね。僕は一寸面喰ったよ」

「小っぴどくやられたね。自ら任ずるところ余り若過ぎるからさ。そうして註文は見合せて来たね?」

「否、一も二もなく深ゴムということにして尻尾を捲いて逃げて来た。ところがその翌日のことだ。母の眼鏡の度が合わなくなったと言うから、僕が出た序に眼鏡屋へ寄ったと思い給え。『これより一二度強いのと入れ替えて貰いたいが』と頼むと、番頭は玉を検めてから仮枠に老眼鏡を箝めて、『これくらいでは如何でしょうか? 一寸お掛けになって御覧下さい』と又来たね。僕の眼鏡だと確信している。それが靴屋と昨日の今日だったからね。僕はイヨ/\最早青年を諦めた」

「当然さ。しかし迷いが晴れて宜かったよ。毎日のように顔を合せていると分らないが、純然たる第三者が見ると君もこれで最早相応の年輩なんだね。そこで僕はもう一遍君に勧めるが……」

「学校は御免だよ。時間で縛られる商売は迚も僕のようなものには勤まらない。推薦者の君に迷惑をかけるばかりだ。しかし僕も青年じゃないと相場が定った以上は斯うしちゃいられない。イヨ/\やるよ」

「何をやるんだい?」

「何だか分らないが、兎に角やる」

「到頭隠居から苦情が出たんだね?」

「否、子を見ること親に若かずで、親父は決して僕に就職を勧めない。お前がうっかり商売に手を出そうものならこんななけなしの身上は瞬く間に飛んでしまうよと言って、却って現状維持に賛意を表しているのさ。しかしやるよ。屹度やる」

とお父さんは唯やる/\とばかり言って、何をやるのだかまだ見当がついていないらしい。けれども先頃までは、「やる」という動詞には必ず「今に」という未来の副詞を冠せたものだが、今日はそれを省いている。何だか分らないが、もう直ぐやる気らしい。お父さんは靴屋と眼鏡屋の番頭のお蔭で発憤したと見える。少くとも「今に」という言葉を靴屋か眼鏡屋へ落して来た。

「時に君は熊本だったが、熊本は余程まだ人文の進まないところだね」

と少時してからお父さんが話を全く別の方面へ持って行った。

「何うして?」

と三輪さんは直ぐに釣り込まれた。

「水道もない。電車もない。都会というよりも森の中に家が沢山寄り集まっているようなところじゃないか?」

とお父さんは見て来たようなことを言った。

「能く知っているね」

と三輪さんは案外の感を語調に表した。

「日本にいて日本のことを知らなくて何うするものか。君は横手の五郎が木山弾正の生れ更りだという話を知っているかい?」

「横手の五郎? 知っているさ。しかし君は妙に熊本のことが明るいね!」

「然う見括ったものじゃないよ。『嫁入りしたこたしたばってん。権左衛門どんの痘痕面だっけん、まあだ盃やせんじゃった。村役、捕役、肝煎どん、あん人達の居らすけんで、後は何うなと、きゃあ、なろたい』と何うだね?」

「豪いことを知っているね。何処で覚えて来たんだろう?」

「恐れ入ったもんだろう? まだ沢山あるんだが、蘊蓄を一々披瀝していると果しがないから、この辺で止めにして置く」

「その辺で恐らく種切れと認めるが、一寸驚いたよ。僕は子供の時に此方へ来てしまったから、今の『おてもやん』の歌なんか全くうろ覚えだ。誰から聞いたね?」

「実は必要があって最近に調査したのさ」

「熊本のことなら僕の親父が詳しいから、何でも訊いてやる。しかし何にするんだい?」

「書く支度さ。別に熊本に重きを置くんじゃない。今のは偶君が熊本だから、研究の一端を発表して度胆を抜いたまでの話さ。僕はピックウィック・ペーパーズ見たいなものを書きたいと以前から思っているが、それには書斎にばかり引っ込んでいちゃ駄目だ。世間が些とも分らないからね。そこで一つ広く人情風俗に通じるため近々孤影飄然日本全国遊覧の旅途に上る積りだ。先刻からイヨ/\やると言っているのはこの旅行のことさ」

とお父さんは高が名所見物か何かを北極探検のように大形に言った。それでも三輪さんは、

「ふうむ、大奮発だね」

と十何年かの躄が立ち上ったように感服して、

「好い思いつきだよ。屹度面白いものが出来る。ピックウィックとは考えたね。君のところは一種のピックウィック倶楽部だ。何なら僕がお供をしてタップマン君やウインクル君の役を務めても宜い」

「道連れがあればこの上なしだ。実を言うと孤影飄然は少し心細いからね。しかし君は閑がないだろう?」

「休暇の時なら何うにでも都合をつける。それに例の神経衰弱で医者から保養を薦められているから旅行は持って来いさ」

「それじゃ君の春休みを待つかな」

そこでお父さんと三輪さんの間に一緒に旅行に出掛ける約束が忽ち成り立った。お父さんは余程以前からこういう目論見をしていたと見えて、旅行日程の書いてある手帳を持って来た。そうして二人がなお話しているところへ団さんがノソッと姿を現した。

「団君、珍らしいことがあるぜ。村岡君がイヨ/\発心したよ。ピックウィック・ペーパーズを書くそうだ」

と三輪さんは直ぐ吹聴した。

「ピックウィック・ペーパーズ? 何だい。ピックウィックてのは?」

と団さんは文学者でなくて建築の技師だ。

「君はヂッケンズを知らないのかい?」

と英文学専門の三輪さんは呆れたように言った。

「ヂッケンズ? 知らないね。そんな建築学者は少くとも英米にはないよ」

と団さんは眼中に小説家がない。

「然う/\、アインホーを自転車の積りでいたのは団君だったね」

と三輪さんはヂッケンズは沙汰止みにして、お父さんの旅行の趣意を平明な言葉で説明した。しかし工学士は、

「それなら要するに遊覧旅行じゃないか? ピックウィックでもヂッケンズでもない。何うも君達は言うことが大袈裟でいけないよ」

と貶しつけたばかりで、一向驚かない。

「相変らず愛嬌がないね」

とお父さんが笑った。

「野郎共を相手に愛嬌を振り蒔いても始まらないさ。しかし君は真正に旅行に出掛けるのかい?」

と団さんが訊いた。

「真正さ。三輪君も行くから君も来ないか?」

「まあ、御免蒙ろうよ」

「何故? 忙しいのかい?」

「否、商売は不景気以来全く閑だ。無理にやれば損をするばかりだから、万事手控えという形だけれどもね」

「それなら丁度誂え向きじゃないか? 行こうよ。君の郷里へも寄るよ。君は名古屋辺だったね」

「名古屋さ。名古屋も市中だ」

「それじゃ『笹島駅から三丁目』かい? 『一軒置いて二軒置いて三軒目』だろう? 『名古屋へ入りゃあたら寄て頂戴も』は何うだい?」

とお父さんが節をつけて言うと、

「おや、妙なことを知ってるぜ!」

と団さんは怪んだ。

「行きゃあすか、置きゃあすか、何うしゃあすか? 一寸も埓明かんとぐざるぜも。行こうよ」

「聊か驚いたね。何処で修業して来たい」

「君、こんなことは朝飯前だよ。僕等は建築家と違って、居ながらにして名所を知る組だ。方々珍しいところを見せて上げるから黙って跟いて来給え」

とお父さんは大きく出た。

「さあねえ、僕も生命は惜しいからね」

と団さんは相手にならない。

「アフリカへでも行きはしまいし、何の危険なことがあるもんか」

「否、アフリカなら案内人を頼むけれど、なまじ言葉の通じる日本だけに、却って始末が悪い。考えても見給え。数理の観念のない君と方角の観念のない三輪君に引き廻されるんじゃ、何処へ行くか何時帰れるか分ったもんじゃないよ」

「僕に数理の観念がないとは聞き捨てにならないね。何か証拠があるのかい?」

とお父さんは不服を唱えた。

「あるさ。君は数理どころか数そのものゝ読み方さえ怪しいぜ。御希望ならこの場で証明して上げても宜い」

と団さんは確信のあるように言った。

「参考のため一つ願いたいもんだね」

「お安い御用さ。それじゃ、村岡君、十万円が十で何円だい?」

「百万円さ」

「百万円が十なら?」

「千万円さ。人を馬鹿にするなよ」

「千万円が十では?」

「一億万円さ」

「夫れ見給え」

「何だい? 千万円が十なら一億万円に相違ないじゃないか?」

「億万という単位はないよ」

「ふむ、一億円か? 占まったな! 一寸言い間違えたんだ」

「否、君は何時でも然う言っている。誤魔化しても駄目だ」

「僕に方角の観念がないという証拠があるなら見せて貰おうか?」

と三輪さんも団さんの手の明くのを待っていて苦情を持ち込んだ。誰でも自分のことは分らないと見える。

「君のは村岡君のよりも更に甚だしいぜ。君は去年の正月僕の家へ来てからその後一度も顔を見せないね?」

「そうさ。しかしそれは此処で度々会うからで、お互いじゃないか?」

「そんなことを訊いているのじゃない。君は彼の時僕の書斎に掛けてあった大きな建物の写真を見たろう?」

「見たとも。あの上海の何とかいう独逸商館のことだろう?」

「感心に記憶力だけはあるね。しかしあれは上海でも独逸商館でもない。丸ノ内ノ海上ビルデングだぜ。海上ビルデングと左から右へ書いてあるのを君は逆にグンデルビ上海と読んで、『上海には海上ビルデングに能く似た建物があるね。独逸商館か知ら?』と言ったじゃないか?」

「成程、それは大失敗だったね。しかし考え違いということは誰にでもある。詰まらないことを何時までも根に持っている男だな」

「根に持つ次第でも先刻のアインホーの仇討でもないが、証明して呉れと頼むから実例に利用したばかりさ。左から読むものを右から読んで一年も平気でいるようでは西へ行く積りで東へ行く汽車に乗るよ。上海のグンデルビと一億万円に日本中を引っ張り廻されるんじゃ何んなに丈夫な生命でも別状なしでは済むまいと言うのさ。ハッハヽヽヽヽヽ」

と団さんは哄笑一番痛快を極めた。

「それじゃ一つ団君に引き廻して貰おうじゃないか? ねえ、三輪君」

「それが宜い。団君、僕等がお供をしよう」

と二人は又勧誘に努めた。何んな形式でも道連れが出来さえすれば宜いという肚だ。

「然う出て来れば又考えようがある。尤も無職業や教員と違って、僕は事務所の方の都合があるから、確答は少時待って貰わなければならない。しかし冗談は偖措いて或は君達のお供をするかも知れないよ。斯ういう閑なときでないと保養なんか出来ないからね」

と団さんは到頭本音を吹いた。

「然う来なくちゃ嘘だ。一も二もなく賛成したんじゃ勿体がつかないからね」

「役人時代の出張旅行で方々を歩いているんだから一緒だと心丈夫だ。実際好いものが引っかゝったよ」

と二人は最早約束が出来た積りでいる。

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