五
種目をならべると、数限りなく魚はあり、又その釣技方法も変化してくるが、何でも来いで滅多矢鱈に釣るよりも、一種の魚を狙つて、自分独特の釣り方を研究した方が面白い。殊に夏は魚が豊富であるから、山へ行けば鮎、ヤマメ、イワナ、海へ行けば鯒、鯛、鱸、カイヅと定めて、鮎なら友釣りでやるか、どぶ釣りでやるか、蚊鈎は何を主として用ふるか、或は自分で作るか、カイヅの仕掛けは、餌は、場所はと、一種目を深く釣りこんでゆくことが肝要である。
その点で私は、生活と時間、費用の関係から、今年は鮎、ヤマメ、イワナを一週間、キスを二週間、カイヅを三ヶ月やつて、夏の釣りを終らうと思つてゐる。無論何か便宜があつて、山へ行くとか、海のある地方へ行く場合は、その土地土地の釣魚を見学して来るつもりであるが、一週間に一日の休日、一日の終りの夕方から十時まで、この釣りに凝つてゐると非常に身体の調子がよい。その代り頭がラフになることも釣りの特質で、何か考へるとか想を纏めるなんてことは出来ない。放情自娯、頭を空つぽにして、水と風の中に感情を抛棄し、動物の眼になつて魚を狙ひ、原始的な智力で釣る工風をしたり、天候や水温を観察する。それも亦釣りに付随する愉快な条件の一つで、その為めにもケチな生活苦を忘れることが出来る。
人がゲームに凝り、庭木に凝り、或は小鳥に凝るやうに、釣りを始めると先づその目的の魚に凝る。それはその魚が美しいから、或は美味だからといふことよりも、その魚への興味はむしろ感覚的のものである。鮎なら鮎が何故いいか、夫れは魚の質がよい、味がよい、よい匂ひがするといふばかりでなく、鮎の闘争性、その跳躍、そのアタリの感覚がよいといふ所からやつてくる。あの冷たい銀鱗の動きが、水の中の不逞な生命の力が、わづか一本の透明なテグスで、腕から神経中枢へくく、づんづんと解つてくるからである。これは明かに原生動物的な自然闘争の快味である。
その点で鮎は、高貴な、しかも野生の処女性をもつて、ツンと来る。キスも同じであるが、然しこの方が潮も深いし柔かく、又一種委曲なところがある。イワナは他の海魚のやうに貪婪にぐいと来るし、ヤマメも鱚に似て少しく遅鈍な感覚である。それも手釣りのヂカに糸を手繰るのと違つて柔軟な竿と糸とを介してやつてくるから、カイヅとなると満点である。誑されるやうにして誑し、一気に引かけて、又慣らしながら、ためつゆるめつ争ふところに、竿釣りの焦点がある。池の鯉もその点ではなかなか手腕を要するが、然し自然の海魚には較べものにならない。よく人は釣堀で、その腕の熟練さを云々してゐるが、私は釣堀は嫌ひだ。あくまでその魚が居るべきところにあつて釣れるのでなくては愉快でない。第一に魚には痛疼感がない――これが気持の上の慰めである。
それに魚釣りといふものは、釣れたからよいとか、量を得たからよいといふのではなく、一つの魚を、いかに自分が工風をして、いかなる場所で、どんな風の時に、潮の調子の時に、どう試みて、どう一致して釣れたかといふ会得の要領が面白いのだ。目的がはづれて釣れなくても、成程と感心して帰つてくる。そして次回の工風を凝らすといふことになる。特に鮎の擬釣り、カイヅの竿調子なんてものは、この考案一つで充分楽しめる。その上で自分の好きな魚、黒鯛、鮎、鱸といふやうな奴が釣れたらたまらない。何しろ居るか居ないか解らない渓谷へ行つて、鮎を嗅ぎ出し、大海の真中で魚の通路、その水圧の層を探検し、一本の糸と鈎で盲目捜しに釣るのであるから、非文化的と云へば云へるし、最も原始的な遊技だと云へば云へる。特に夏はその美しい、溌剌とした魚が、人間界の近くに躍り跳ねてゐるのだ。そこで一度釣つたことのある魚は、木や花や鳥が美しいといつても、より生命的に、より夏の生彩を帯びて、短夜の夢にさへ現はれて来るのである。幸ひこの夏も元気でゐられたら、その生活の過半は、この冷い、美しい、ふしぎな生命をもてる魚属共と游争して暮らしても、私は決して惜しくないと思ふ。(八年・五・十七)
●図書カード