Chapter 1 of 4

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先々月の新潮合評会席上で、作家の稿料の事などに就いて僕が簡単に発言したところ、今月号の二三の雑誌に多少の反響があつた。発言者として言ひ甲斐のあることである。ただ困つたことには、僕の本当に言はうとした意味を了解してゐるらしい人は殆んどない。わざ/\曲解してゐるとすれば軽蔑して過しただけでも足りるのだが、若しさうでなくて僕の言葉が足りない為め僕の主旨が通じないのだとすると、多少残念でないこともないので、それに前々からいづれは言つてみたいと思つてゐた事柄ではあり、旁々もう一度ここに述べ直してみる。今度は、僕の性分には合はないことだが出来る事ならでくのぼうにでも解るやうに、噛んで含めるやうに申述べたいものである。従つてこの文章の七くどい事は予め御断りして置く。

僕が今日一流の文学者の稿料が高過ぎるやうに思ふといふことは、一般の操觚者の稿料が多過ぎるといふ事を決して意味しないので、却つて一般の操觚者のそれが尠ないのに対して、三四五人の文学者の稿料が過分に多過ぎるだらうといふことを言はうと思つたのだつた。僕の今から言はうとすることの本旨は、一般の操觚者の稿料を今日より引下げたいといふ事を意味するのでないことは、いづれ追々とわかるであらうが、先づ第一に念を押して置きたい事なのだ。

それにしても僕は何故、一般の操觚者の稿料が尠ないといふ事を言ふ前に、少数の作家の稿料が高過ぎるといふ事を言はなければならぬか。又、何に比較してそれが高過ぎるか。その点から先づ言つてみる。

一たい今日の作家のうちの極く少数の人々が得てゐるといふ稿料が、四百字詰めの原稿用紙にして、一枚最高何円であるか何十円であるか僕は精確には知らない。しかし吾々同業社会の消息通が伝ふるところに依ると、婦人雑誌の稿料の如きは二十円以上三十円までだといふやうな事を僕はきく。また僕自身のたつた一遍の経験によれば、或る婦人雑誌は僕に十五円の稿料を支払ひ、その使としてそれを届けて呉れた人は「若しこれで尠くて不満のやうならば、要求して呉れゝばもつと出させてもいい」と言つた。僕は十分だと思つたし、そればかりか要求すればもつとやらうといふ言ひ分の中に、先方は親切のつもりであらうが偏狭な僕には多少つむじを曲げさせる何ものかがあつたので、僕は満足して受取つたことであつたが、後に人から聞けば、要求しさへすれば当然二十円は呉れるといふ話であつたから、世上に伝はつてゐるのも事実に近いだらうと思ふ。だから僕はそれを根拠にしてものを言はうと思ふ。(だが、それが若し事実ではなく、作家自身或ひは編輯者からの一種宣伝的な言葉であるとしたならば、作家自身が、或ひは雑誌経営者が、何故にそのやうな言ひ草を以て宣伝するかといふ事に就いて、これが若し経営者側から出たとすれば、僕はやはり文芸家なるものが侮蔑されてゐるやうな感じを持つものである。また文芸家自身から出たとしたならば、より以上に考ふべき浅はかな事であると僕は思ふ。)

古来東洋では、士君子が金銭上の事を口にするのを卑しむべき事として考へてゐる。阿堵物といふ言葉が出来てゐる所以である。僕自身も亦、士君子ではないかも知れないがしかしそれぐらゐの心持ちは持つてゐる。さうして今日若し物好きや気まぐれで何かを言ひ出すのならば、もつと気の利いた人聞きのいい題目は幾らもある。敢て僕がかういふ問題を口にせざるを得ないのは、この問題が単に個人的の問題ではなくまた所謂文壇的問題でもなく、もつと広く、深く社会的の現象であつて、然かもこれを今日文芸家自身が言はなかつたとしたならば、文芸家全体の良心を社会から疑はせるやうな時代が来ないとも限らないのだ。いや寧ろ来る方が当然で、今日人々がさういふ事を言はないのは文芸家の生活を知らず、また今日世に行はれてゐる文学がどういふ風にして書かれ、またどれだけの価値があるかを判断する事の出来ない為めで、簡単に言へば、社会全体に文芸の教養が行き届かない為めに、今日、吾々文学者が文学者面をして権威を持つてゐるやうなわけである。僕はこの点を反省したいのである。

僕は文学者に清貧の生活を強ひやうといふのではない。ただ、現代を代表する筈の文芸家が商業主義の走狗になつて、賭博者のやうな心理で生活し、而かも自らそれに気づかず、或は気づいても自分を偽つて不正当なる生活を続けてゐることを反省したいのである。(――尤も現代が商業万能の時代だから、それを代表するところの現代の文芸家がさうであるのは当然の結果だと言つて終へば辻褄は合ふ。単純な頭で単純な理屈に合つた事の好きな文芸家のうちの諸君にして、もし気があるならさう言つて見給へ。)

僕が今日の作家の稿料は高過ぎると言つた時、それは一般の社会の他の職業者に対比してこの言を為すので、僕の稿料が何某君の稿料より高いとかやすいとか、そんな点を言はうとするのではない。かういふ事をまで一々断らなければならないのは困つたものだ。

僕はそれ故、士君子らしいなどといふ見えはすててせせつこましい銭勘定をしてまで、もう少し具体的に、また噛んで含めるやうに申述べることの必要を感ずる。

前に述べた合評会の席上で、或る人は僕の言はんとすることの一部分を聞いただけでこの問題を、僕に家族が尠ない為めだと言つた。僕は扶養すべき家族としては、自分と妻と書生と女中とその他にもう半人――といふのは、田舎から遊学してゐる学生――との五人である。その人は一たい幾人の家族かは知らないが、普通の家庭で吾々の如きはあまり尠な過ぎるとしても、八人か十人ぐらゐが先づ標準でなからうかと思ふ。僕はわれ/\の物質的報酬はわれ/\各自の家族や各自の生活慾望などとは一向何の関係もないもので、もつと広い立場からこれを論ずべきものだとは思ふけれども、仮りに他の職業者たちのことは考へに入れないとしてみても、今日の日本の中産階級で八人の、或ひは十人の家族を持つてゐる人等が、平均月に幾らぐらゐの経費で生計を立てゝゐるものだか。僕はその統計は知らない。けれども、老人や子供や女中などを加へて八人或ひは十人の家族が月に千円で生計を立てるといふ事は、一般の標準から見て決して尠な過ぎはしないだらうと思ふ。人間の慾望がそれで十分満足するかどうかは無論別として、僕は専ら今日の社会状態から言つたのである。単に高過ぎると言つただけでも十分にこの意味は判るつもりであつたのに、一々かう断つてかからなければならないところを見ると、今日の文芸家の頭なるものはよほど、狭少なものに出来てゐるらしい。

僕が今述べた程度の生活で今日満足するといふ事は必ずしも清貧を楽しむといふ事ではなく、普通の人らしく生活するといふ事にならないだらうか。若しかすると中流の生活者としては楽な方であらうかと考へる。しかし僕は、文芸家といふものが一たいに理済の才能に乏しい傾向があるのを予め念頭に置いてみても、月に千円の収入で不十分だらうとは思へない。ここで言つて置きたいのは、僕の現在の収入が千円だとも千五百円だとも七百五十円だとも言ふのではない。また僕の稿料が何某君よりもいくら少ないとも、いくら多いともいふのではない。ただ、中流の生活をするのに普通の人数の中流の家族の生活費が、千円あつたら足りるだらうと考へるまでである。無論人々の心がけ次第によつてその半分ででも生活が出来れば、その倍額ででも不足を感ずるだらう。また十五人を、二十人を、養ふべき義務ある人もあるだらう。僕は一般の例を言つてゐるので、例外を以て標準としようとは思はない。天下にはどうやらでくのぼうが弥蔓してゐるらしいので已むなくかういふ風にくど/\と言はざるを得ない。

そこで、一流の作家の稿料を平均して仮りに十円と定めてみる。千円の収入を得る為めに一流の作家は、月に百枚の原稿を書くことを要する。月に百枚といふ事は容易なことではないといふかも知れないが、一日とすれば僅かに三枚と三分の一枚とにしか過ぎないではないか。三枚と三分の一枚を書くのに、どんな遅筆家だつて六時間以上を要するとは僕は考へない。若し一日に平均三枚半を書く事の出来ない作家があつたならば、彼はあまりに寡作家であつて――つまり一種の片輪の才能であつて、即ちそれ自身で文筆生活者としての一資格を欠いてゐるものだと自分は言ひたい。その資格のない例外者のために原則はつくられるべきものではない。

曾て或る人は言つた「文学の仕事は感興の事業である。感興のない時には一行だつて書くことは出来ないのだから、他の職業と同じやうに論じられてはならない」僕は答へやうと思ふ「文学の事業はその通りに相違ない。しかし職業はさうは行かない。天下に無数の職業はあるが、感興のままに働くことによつて成立つてゐる職業がどこにあらうか。文学者といへども、今日の社会に生き文学を職業とする以上は、感興の有無に拘らず労作に従ふの社会的義務を持つてゐる筈である。」僕はただこの際行きがかりでさう答へるだけではなく、事実その信念を持つてゐる。

古来文芸家のうちで、一体幾人の人間が生活に拘束される事なしに、所謂感興の衝動によつてのみ、気楽に、自由に書き得たであらうか。又或は、必要に迫られて書いた文芸家の作品が悉く皆俗悪なものであつたらうか。若しさうであるとしたならば、文芸上の傑作は常に王侯と貴族の手から出来てゐなければならない筈である。ドストイエフスキーやバルザツクやセクスピヤやその他無数の作家は、果して感興なき時には一切の仕事をしなかつた人達であらうか。僕は寧ろ考へるが、僕が彼等の偉大を感ずる所以のものは、彼等がどんな事情のもとででも彼等のペンを執る時に感興は常にそのペンとともにあつたらうと思はれるが故である。しかしこのやうな大才はしばらく措くとして、また創作家の仕事は決して事務的のものではないといふ意見をそのままうけ入れるとしても、諸君よ、吾々の今日持つてゐる創作家の総てが、或ひは大部分が決して感興によらなければ筆を執らないといふやうな、さういふ謹厳な、或ひは律気な作家であらうか。さうしてさういふ極く稀なる感興の報酬としてのみ報酬を受けてゐるであらうか。一晩のうちにともかくも書きなぐつた作品の為めに、稿料を得るやうなことは一切ないであらうか。――僕の疑ひはここに存する。必要ならば――金の必要、名声を繋ぐ必要、その他の必要がありさへすれば、どんな頭をしぼつてでも三枚でも七枚でも書かずに居られないやうな人々が、間に合はせに仕事をしながら、感興呼ばわりは凄じいものである。

また或る人は言つた「文学者の仕事は他の仕事とは違ふ。常にもとでを喰つて生きてゐる生活だ。決して永続的の仕事ではない。」その考へは先づそれでもよいとしよう。しかし諸君よ、今日の社会の状態に於て、所謂ブルジョアでないところの、また所謂商人でないところの何人がもとでを喰はずして生きてゐるか。生れたままで世に生きてゐる総ての人々は、常に刻々の己れの精力をもとでにして喰ひ、また生きてゐるのである。また、刻々に生きてその精力が尽きた時に当然死ぬるのが本来人間の運命である。だからこそ、生きるといふことは刻々に死につつあることと甚だよく似てゐるわけである。但、刻々に深い意識を感じながら死につつあることを生きてゐると言ひ、反対に意識なしに生きつづけてゐる事を刻々に死につつあるといふだけである。文学者の仕事がもとでを喰ふ仕事だからそれ故にその仕事に対しては物質的にも十分に酬いられなければならぬといふならば、もつと刻々に己れのもとでを喰ひ、しかも社会から決して尊敬などをも与へられないところの総ての労働者や、月給生活者などの報酬は、一たいどれだけ多額に支払つたならば、文学者と釣り合ひがとれるといふのだ。僕は再び言ふが、僕が稿料が高過ぎるといふ時、それはこれらの大多数の他の職業者と対比するのである。刻々にもとでを摺り減らしてゐるから物質的に過分なる報酬を得なければならないなどと浅はかな理屈を言ふやうな人物は、芸術家が刻々に自分のもとでを喰ひながらしかもその同じ刻々に、非常なる愉快と生甲斐とを感ずるといふ芸術家のみが知るところの、無限の楽しみを味ふ才能を持ち合はせずに生れて来た気の毒な輩である。かういふ輩はなるほど、物質的報酬でもたんまり受取らなければ、原稿紙に字を埋めることの労苦にはたへられまい。尤もなことだ。さうしてさういふ連中が、事実に於て文学なるものを世俗的の事業にして了つてゐながら、それにしても口先きでは得て感興呼ばはりをしてゐる。

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