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The Search for Life, Continued
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The Search for Life, Continued
島木健作
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Chapter 10 of 23

十

翌朝、駿介はいつもの時間に快い眠りから覺めた。床の中にゐた時から、ひどく暖かだと思つた。起きて少し動いてゐるうちにもう汗ばんで來た。

「馬鹿にあつたかだなあ。今日は。まさかおれのからだのせゐぢやないだらうな。」

と、彼はお道に云つた。

「ええ、今日はえらうぬくといわ。」

「まるで時を間違へたやうだな。」

雨かな、と思つて空を見たが、空はまだほとんど暗い。雨らしい樣子もなかつた。

「じゆん!」と、彼は外に向つて呼んだ。裏口からじゆんが馬穴に水を入れて、下げて入つて來た。

「今日、お父つあんの代りにおれが行くからな、古崎へ。煙草の方はお前してくれろよ。」

「大丈夫? 一人で。――はじめてやらうが、兄さんは。」

「はじめてぢやない。お父つさんに附いて行つたことがあるよ。」

古崎は二里ほど離れてゐる一寸した町で、鐵道が通じて居り、女學校がある。白砂の濱で聞えた海岸の景色が美しいので、夏には人の多く集る所である。この邊の百姓はこの町に肥を取りに行く。杉野の家でも行く。

この數日、駿介はお石の事にかまけて、家の事が人任せになつた。さういふことがあつた後には反作用的に家事に熱心になるのが常であつた。肥取りには今迄いつも父が行つた。駿介も附いて行つたことはあるが、肥桶を車の上に乘せたり、歸りの車を父に代つて引くことがあるくらゐで、汲み取りの仕事には從はなかつた。父を手傳ふといふよりは、何でも見習つておかねばならぬといふ考へからついて行くと云つた方があたつてゐた。

しかしこの仕事を今迄父にだけさせておいたのは不當だつた。彼が代つてやらぬといふ法はなかつた。車に乘せる肥桶は擔ひ桶よりは少し丈が小さく、近頃は昔より一層小さくなり、杉板の厚みは薄くなり、洗つて乾してでもおけばとても肥桶なんぞとは見えない綺麗作りになつた。それは桶を乘せて運ぶ車の、荷馬車から手車への變化に應じてゐるものだつた。荷馬車は近頃餘り見られず、手車は普通よりは長目の荷車だつた。しかしそれでも、内容物の一ぱい詰つた桶一個の重量は、十貫はあらう。八荷あるひは十荷を積んで引くにはずゐぶんの力がいる。若者がゐないならともかく、若者がゐながら年寄りの仕事にしておく法はないのである。

駿介は、間もなく起きて來た父にも、

「お父つあん、今日、古崎へはわたしが行きますから。」と云つた。

「さうけ。お前ひとりでええかな。」今日は自分が從のかたちで附いて行かうかといふことを駒平は云つた。

「なに、いいですよ、ひとりで。――じゆん、辨當を作つてくれよ。辨當は竹行李のを持つて行くから。塗箱のぢやなく。」

飯を食つて少し休んでから駿介は出掛けた。今日は始めてのことだから、八荷だけにした。車を引いて行くうちにあたりがだんだん白んで來た。町がまだ眼ざめぬうちに汲取りをすますやうにしないと、人々に嫌はれる。それで今朝はいつもよりは早く起きたつもりであつたが、この分だとさうはいかぬと思はれた。それに不慣れなために、時間を多く食ふといふこともある。

依然暖かであつた。雨を持つてゐる濕つぽいやうな暖かさではなしに、ほんとうに春が來たやうな、肌ざはりのいい、のんびりした暖かさであつた。しかし餘りに急に來たので、からだの組織がだらけて行く不快さであつた。二月の中頃から彼岸頃までは、氣候が屡々變調する。突然、四月過ぎ五月はじめ頃のやうな陽氣になつたかと思ふと、また俄かに冬の寒さが來る。空から白いものを見たりする。今日もさういふ日の一つだと思つた。駿介ははじめ襟卷と手袋をしてゐたのを、汗ばんで來たので取つた。が、少しすると、車の引手を持つ手がねちやつくので、手袋だけははめて行つた。

前、後ろを見ても、同じ車が行くのは見當らなかつた。彼が引く車の車輪の音だけが靜かな朝の空氣を破つた。暫くするとその音に、もつと大きな他の音が後ろの方から追ひつくやうに重なつて來るので、振り返つて見ると、空の荷馬車が一臺だつた。そしてそのもつと後ろには、駿介のと同じ車が二臺前後して來るのが見えた。何か急いでゐるやうな荷馬車はすぐに、ガラガラと大きな音をさせて彼を追ひ越して行つた。バラスが路面にはみ出してゐるやうな道なので、音は殊更に大きく、通り拔ける時、馬の手綱を取つてゐる男が何か云つたのも駿介には聞きとれなかつた。駿介は返しに、大きな聲で朝の挨拶を云つた。車の音は間もなく遠ざかつて行つた。するとそれが消えたと思ふと、すぐ耳のわきに若々しい話聲がして、振り返つて見る間もなく、二人の學生服の青年が背中にリユクサツクを負つて、輕くはずむやうな足取りで通り越して行つた。朝靄の中から生れ出たやうで、駿介にはそれがいかにも新鮮な感じだつた。リユクサツクを背負つた學生や、さういふキビキビした若い聲は久しぶりなだけに一層だつた。白砂の濱で聞えた町はもうかうした人々を呼ぶ頃になつてゐるのであらう。彼はそこにも季節を感じた。青年達の後ろから何か話しかけてみたいやうな愉快な氣持になつた。

兩側の畑にはぼつぼつ百姓の姿が見えはじめた。この邊になるともう村も違ふし、知つた顏も全然なかつた。人の畑の麥や蠶豆などの生長の樣子が注意されて、自然自分の畑のものと較べて見るやうな氣持になつた。道の右側が溜池の土手に盛り上つてゐる所へ來ると、その土手に白い花をつけた木が一本、ぱあつと浮き上つて見えた。近づいて見ると梅の相當な古木であつた。花はもう終らうとしてゐる。根もとから少し離れて下に、地藏尊が裸のままに祀つてある。雨にさらされて赤い涎かけの色もさめてゐる。公園の芝生のやうに柔かさうな美しい枯草に緻密に蔽はれてゐた。駿介は晝の辨當が、歸りにここで使へるやうだと好都合だと思つた。この枯草の上でなくたつていい。土手の向う側だつていい。そこは水が見えるし、水際には背黒鶺鴒がゐて尾を振つてゐることだらう。

しかしこの梅に一杯に梅が生つたらどうするのだらう。それは一體誰のものになるのだらう。そんなことも考へながら彼はその土手の下を通つた。

間もなく道は海岸に沿うて曲つた。海は右側に、かなり高くなつてゐる道の下の方に、すぐ近く見えた。眼界が展けると同時に、磯の香がぷんと強く鼻をついた。丁度雲が出て朝の光りを包んで了つた海上には、きらきらした輝きはなかつたが、ゆつたりした春の海らしいおだやかさがあつた。波の引く音も聞えるか聞えぬか位であつた。小さな入江を成したその一廓だけの漁師町である。まだ舟は出てゐない。網がひろげて干してある。時々來る生臭いにほひは、その網の目を通して來る風のやうな氣がする。砂の上に石を組み、その上に据ゑた大きな鐵の釜から白い湯氣が上つてゐる。附け紐をだらりと下げた子供が艫に腰をかけて無心に朝の海をながめてゐた。

やがて海の代りにまた畑になつた。道は突き出た岬の根もとの所を通つてゐる。そこを過ぎて少し行つて、駿介は古崎の町へ入つた。

靜かな朝の町へ彼は入つて行つた。小さな町はまだ大方は眠つてゐるやうだつた。駿介が肥を取る家の並びは町の中心から少し外れた所であつた。しもた屋があり、また商家があつた。彼は朝起きることの早い商家から取つて行くことにした。

それでも早い家はもう起きてゐた。表がしまつてゐる家でももう起きてゐるかも知れない。それで駿介は、どの家へも、先づ表から、

「お早うございます。掃除屋です。」と聲をかけてから、柄の長い柄杓を持つて、家のわきについてまがつた。便所は大抵石で土臺がしてあつて、その土臺の一部が、一尺足らずの幅に切られ、取り外しもし、はめ込みも出來るやうになつてゐた。それが汲取り口だつた。取り外し得る石の表面は兩方から抉り込み中央だけ高くしてそこが把手だつた。駿介は柄杓を側に立てかけ、その石を取り外してから、表へ行つて、桶を持つて來た。

駿介はまだまるで慣れてゐなかつた。汲み取ることは今日が始めてだし、汚物の臭ひにもまだ慣れてゐなかつた。彼は百姓になつてまる一年だが、彼の百姓は世間一般の百姓に較べて、まだまるで綺麗事だつた。駒平は息子を急には汚物の中に押しやりはしなかつたし、駿介自身もことさらに避けるわけではなくても、進んで近づくこともしなかつた。しかし彼は自分がさういふ百姓であることを知つてゐたし、それでいいともそれですませるとも思つてはゐなかつた。下肥を扱はぬ百姓などといふものはなかつた。

彼が柄杓の音をカラカラ云はせてゐると、家の奧の方に人の動くけはひがあつて、間もなくすぐわきのガラス戸が明いて、丹前姿の女が顏を出した。

「掃除屋さん、すつかり取つて行つて下さいよ。いつも少し殘つてゐるよ。」それからおや、といふやうな顏をした。

「いつもの掃除やさんとはちがふんだね。」と云つて、ピシヤリと音を立てて戸をしめた。

昔は三度に一度は車の上に季節の青物をのせて持つて來て、その一把二把を臺所口におき、頭を下げて肥を取らせてもらつた。それが今はこの地方でも汲む方が月に拾錢づつもらふことになつてゐた。出してゐた方がもらふ方になり、拾錢が間に入ると、相互の態度も亦一變した。大都市の市營の汲取人夫のやうなことはないが、それでも汲む方は昔のやうに頭は下げなかつたし、他方はまた、それ迄は愛想の一つも云つたのが、ひどくつけつけものを云ふやうになつた。來やうが遲いとか、取り方が汚ないとか、始終何かかにか叱言があつた。

駿介は一軒の家で豫想外の時間がかかつた。慣れぬ上にいい加減には事の濟ませぬ性質だからである。底の方は到底見えぬ壺の中を、不自由にしか動かぬ柄杓をカラカラ云はせながら、抄へるだけ抄はうとした。彼の嗅覺はたやすくは鈍ることは出來なかつた。彼は殆ど肉體的な苦痛を感じた。額や脇の下や背筋に感ずるねばつこい汗は今日の特別な暖かさのせゐばかりではなかつた。臭ひは氣體を傳つて來るのではなくて、臭ひそのものが眼に見えぬ氣流となつて、眼にも鼻にも皮膚にも滲み入るかと思はれた。彼はぼーつとした氣持になつて、一杯になつた桶を擔ひ棒で擔つた。肩に來る痛さで彼のあらゆる感覺は蘇つた。天秤を擔ぐことには幾らか慣れてゐた。野に掘つた井戸から畑に水を運ぶ仕事で經驗ずみだつた。それでも時として足もとの覺束なげに思はれることもあつた。

まだ豫定の家をすつかりまはらぬうちに、段々日が高くなつて來た。町では丁度朝飯の時刻である。

「いやな時に來るね、汚穢屋は。」と彼は一度ならず怒鳴られなければならなかつた。

「それ、蜜柑の皮の乾したのがあつたつけ。あれを火鉢に燻べておおきよ。」などと叫んでゐる聲も聞えた。日が高くなると暑いくらゐであつた。季節外れの大きな蠅が一匹、羽音をさせてしつこく桶のまはりを飛んで離れなかつた。

冬は矢張溜る量が多いと云はれてゐた。その通りで、豫定して來た家を全部まはらぬうちに桶は大方滿ちて了つた。車を引くにはもうひどい力がいる。彼は流れる汗を拭ふまもなく、車を引いて最後の家へつた。

そのあたりは家もまばらな、木の多い靜かな界隈であつた。彼は一本の木の下に車を止めて、汗を拭いてゐた。道の向うから、若い背廣姿の男が、着飾つた若い女を連れて、ぶらぶらした足取りでやつて來る。男は帽子を冠らず、髮を濡羽色に、きれいに後ろに撫でつけてゐる。手には空氣銃を持つてゐる。寫眞機や何かではなくて、空氣銃といふところが田舍だと、駿介は微笑させられた。專門學校を出たての若いサラリーマンといふところであらう。この町にだつて銀行の出張所ぐらゐはある。ふと駿介は今日が日曜であつたことに氣づいた。そして今朝がたのリユクサツクの學生を思ひ出した。

二人の男女は駿介をじろじろ見ながらわきを通つて行つた。通り過ぎて少しした時、後ろで、「眼鏡をかけたりなんかして。」と囁くやうに云つた女の聲を聞いた。くすくす笑ふやうな聲も聞いたと思つた。駿介はしかし振り返つても見なかつた。彼は別に腹もたたなかつた。

田舍へ歸つてから、薄暗い明りの下で、ちやんと机に寄るでもなく本を讀むことが多くなつたせゐであらうか。駿介は此頃眼が近くなつてゐた。それでニツケルの縁と安物のレンズで間に合した眼鏡をかけてゐた。眼鏡をかけた汚穢屋、これは通りすがりの眼には笑つて見たくなるやうなものかも知れない。

駿介は一つ殘つた空の桶を下げてその家の裏手へまはつた。

やがてそこをすましてから駿介は歸途についた。小さな町ながらちまたには車馬が行き交うてゐた。つぶてのやうに飛んで來る小僧の自轉車は殊にあぶなかつたから、彼は注意しながら本通りを横切り、村々に通ずる街道へと出た。

車は重かつた。今までにも父に代つて引いたことはあつたが、今日はことに重いやうな氣がした。それだけ疲れてゐるのであらう。ややうつむき加減にして、ぐつと力を入れると、顏に力みが來て、眼に血が寄り、顳がぷくつとふくれる。所々で休みながら行つた。たばこを吸はぬ彼は休んでゐる間が手持無沙汰で、少し息をつくとすぐに又引き出すといふ風だつた。それでも豫定通り、晝飯は、朝來る時氣をつけておいた梅の木のある溜池の土手で食ふことになつた。梅の木の下ではなく、土手の向う側で、池の水際の石の上に腰をかけて食つた。じゆんの作つた辨當の菜は、ゆうべの殘りの蒟蒻と里芋の煮しめであつた。あれほど働いたあとなのに、いつものやうに食慾がなかつた。

やがて家へ歸りついた。

肥溜は家の側に肥桶小屋があつた。小屋には、高さ五尺、差渡し六尺の大きな桶が二つ、地中に埋めてあつた。畑の縁にも同じやうな桶がいくつか埋めてあつた。歸ると駿介はすぐに車の桶を下ろしにかかつた。兩側に出てゐる短い二つの把手についた繩をつかんで下す。重いから身體にすれすれに、抱きかかへるやうになる。

ある一つの桶を下してしまつてから、駿介はハツと氣づいた。彼の股引の膝から少し上が、汚物にしととに濡れてゐるのだ。勿論下す時、彼は桶を傾けたりはしなかつた。ただそれは桶の底の一部が觸れた所であつた。不審に思つて眼をあげて車を見ると、車の簀子板の上も亦しととに濡れてゐる。

桶は漏つてでもゐるのであらうか?

彼は益々不審の思ひを抱いた。それで次々に殘る七つの桶を下に下して見た。そして彼は知つた。八つの桶が四つづつ二側に並べてある。その一方の側の三個の底が全部濡れてゐるのだつた。が、果して桶の底が漏るのかどうかは、むろん中身を一度全部あけて見てからでなければ、調べるわけにはいかなかつた。

しかし駿介はまたすぐにもう一つの新しい發見をした。

漏つてゐるのは、底は兎も角、今すぐに眼につく所では桶の側なのであつた。一つの桶の側の一ヶ所或ひは二ヶ所から、細い紐のやうな線を成して、水が垂れてゐるのだ。

その漏れ出て來る元を、駿介はさぐりあてた。

板と板の合せ目が、何かの原因でひずみをなし、隙間が出來て、そこから漏れ出てゐるといふやうなことではなかつた。それは小さな圓い穴であつた。桶の側を成してゐる杉板を貫いてゐる圓い穴なのであつた。その大きさは、尖の細い錐で揉んだとほぼ同じ位のものだつた。

これは何かの蟲によつて作られた穴とも思へない。その形から考へるなら、これは明らかに人爲的に作られた穴だ。それは疑ひない。

ではそれは一體何時作られたものだらう。今朝車にのせた以前にか? 以後にか? 何も一々調べてから車にのせたわけではないが、それ以前にであるとは思へなかつた。

彼は家にゐる誰かを呼んで訊いてみようと思つた。何かの心當りがあるかも知れない。彼は聲をあげようとした。――が、すぐにもう少し自分で調べて見てからと思ひ返した。

不意にある一つの考へが、稻妻のやうに彼の腦裡に閃いた。彼はまさかと思ひ返した。が、もしやといふ考へを到底棄て切ることは出來なかつた。疑惑を確かめようとする方法に思ひ至ると彼は迷つたが、それでも兎も角やつてみることにした。

彼は桶を小屋へ持つて行つて、その内容物を少しづつ柄杓で抄つては、肥溜へあけた。彼が尋ね求めるものは、若し桶の中に存在するとしても、細小なものであつた。それは水中では沈下すべき性質のものである。しかし桶の中は單純な水ではない。それは必ず桶の底に沈んでゐるとは限らない。むしろ夾雜物のために、途中で妨げられてゐると見た方がいい。彼は萬一の場合を頼んでゐるのである。

第一の桶は無駄だつた。第二の桶も無駄だつた。柄杓で段々に抄つて行つて、殘り少くなると、彼は桶の下を持つて、傾けて、柄杓の中へあけた。さうして完全に底を干す瞬間は、彼の全身が期待で一杯になる時であつた。その期待が二度ともすつぽかされて、彼は失望した。が、第三の、調べるべき最後の桶は、夾雜物の量も少い、殆ど水ばかりのものであつた。しかもその桶には二つ穴があいてゐた。捜し得る可能性は最も多いわけであつた。彼は非常に愼重に事を進めて行つた。

最後に桶を傾けた時、彼の期待に輝いた眼は、柄杓の中に流れ込まうとしてゐる殘り少くなつた水に、危ふく一緒に流されさうになり、流されまいとしてたゆたうてゐる一つの黒い小豆粒大のものを見た。彼は手の汚れるのを意とせず、指先でそれをつまみ上げた。

駿介の豫想は外れなかつた。それは鐵か鉛かの小さな丸であつた。それは空氣銃の丸であるに違ひなかつた。

駿介はその丸を掌にのせてしばらく見詰めてゐた。それからそれを地上に落した。そして井戸端に手を洗ひに行つた。

彼は腹からの憤りをおさへることが出來なかつた。洗ひながらもその洗つてゐる手の先がふるへるやうであつた。はじめ黒い丸が空氣銃の丸であるとはつきり知つた時、自分の豫想がぴたりと當つたと知つた時、彼は笑ひたいやうな氣がした。彼には事柄が餘りにも馬鹿馬鹿しかつた。しばらくでもその上に心を留めるだけのねうちのない事、まして腹を立てなぞしたら、こつちが汚されるだけのやうな氣がした。それでふふんといふ面持で、丸を地上に落して手を洗ひに來たのだが、彼の心は到底それですますわけにはいかなかつた。馬鹿げたことと笑ひに消さうにも、穴のあいた桶はどうにもならず眼の前にある。桶の新調といふことは少なからぬ現實の負擔である。

しかしさういふ經濟上の事は實は次の次なのだ。腹立ちの一つの根據として頭のなかで思ふだけだ。心が苛立たしく煮えて來るのは、さういふいたづらをする人間の心事を思ふことからだつた。さういふ人間の心事といふものは駿介にはわからなかつた。別に何等の惡意もない、子供のやうないたづらだと云つてすまして了ふことは出來る。しかしあの男は子供ではない。あの男が第一何故さういふことを思ひついたのか、思ひついてそこに何等それを制止する心理が働かぬのか、それを敢て實行して了つた時に何故愉快であることが出來るのか、――愉快でなければ五六囘も同じ行爲を繰り返すことは出來ないだらう――さういふことになると、駿介には、わかるやうでわからなかつた。一通りの心理學的な説明はついても、あとには必ず滓のやうなものが澱むのだつた。意味のないいたづら。これは時にはおそるべきものだ。人間性の隱微な所に深く根ざしたものから來るものらしい。――どうも人間がちがふんだ、ああいふ人間は彼はさうとでも云ふよりほか仕方がなかつた。

空氣銃の丸を桶に向つて打ち込んだ時の、あの男の一擧一動が、駿介の眼には見えるやうだつた。駿介が立ち去るや否や、あの男は立ち止り、連れの女を返り見て、何か意味ありげに笑つて見せただらう。彼はその考へを、駿介の顏を見た瞬間から思ひついたのに違ひない。女も亦意味なく笑ひ返しただらう。やがて銃を取り上げた彼の顏には、鈍い、どす黒い、たるんだやうな表情がある。別に狙ひを定める必要もなく、無造作に打つ。何か餘計ものを打つちやりでもするやうな調子に打つ。ぷすつといふやうな冴えない音がする。昔から見ればずつと薄くなつた杉板から出來てゐる桶の側にはたやすく穴があく。汚水が漏れ始める。女は咽喉の奧でくつくつといふやうな聲を立て、化粧した顏の半分をシヨールに埋めて身體をくねらせるやうにする。男はにやにやして、そのにやにやは女の座興にまでなつたことに得意を感じたからであるが、新に丸込めしてはぷすつと打つ……。

ふと駿介はある一事を思ひ出した。

彼が東京で平山の家に家庭教師として通つてゐた時のことだつた。平山の息子を中心とするグループが、その家に集つて、いつものやうに取り止めない雜談に興じてゐるのに逢つた。彼等の熱心な話は、常に、駿介などの思ひもよらぬ途方もない所で行はれてゐるのだが、その時はどういふきつかけからか、蕎麥屋の出前持のことが話されてゐた。つまり出前持が、幾つもの丼や蒸籠を、自分の身の丈ほども高く積んで肩に載せて、平氣で自轉車を乘りす、あれがどう考へて見ても奇體だといふのである。そのうち、あの今にも落すか落すかと思つて見てゐても、遂に落さぬのがどうにも癪だ、といふものが出て來た。うん、と他の者が相槌を打つた。すると、あれが引つ繰り返るのを見たら愉快だらうなア、痛快だらうなア、といふものが出て來た。引つ繰り返して知らん顏してゐたら一層痛快だらうぜ、と他の一人が云つた。さうだな、ちやんと仕組みをしておいて、物蔭からでも、轉ぶかどうかと固唾を呑んでゐるのはスリルだからな。――スリルはよかつたな、ハハハハハとみんなが笑つた。そんなことが出來るか、と遂に一人が出來るならやつて見たいもんだぜという氣持を込めて云ふと、他の一人が、出來なくつてさ、この家の勝手口から、表道路へ出る所の溝板の上へバナナの皮でも取り散らかしておかうもんならそれつきりさ、と云つた。それから尚もみんなしてガヤガヤと、ほんとうにさういふことをやりかねまじき調子で話し續けてゐた。

その話の結末がどうなつたかを駿介は知らなかつた。つまり勢の赴く所實行に迄なつたか――まさか、實行されたとは思へず、駿介はこの學生達は特別なんだと思つた。餘りの馬鹿馬鹿しさに、親しい者との間の茶飮話にもならず、そのまま忘れてしまつてゐた。「意味のないいたづら」といふ點で共通な、今日の事件に逢ふ迄は思ひ出すこともなかつた。

しかし今日は、ただ馬鹿げたことと笑つては了へぬ氣持に駿介はなつてゐた。あのやうな「意味のないいたづら」の心理は、特別ではなく、人間に根深いもので、社會の色んな所で色んな行爲として現れてゐるのだと思つた。彼が見た二つの最も單純な、また最も馬鹿げたものだ。もつと複雜な勿體ぶつた、時には眞面目でさへある外見をもつて行はれ、社會的に大きな影響を持つものさへもあるのだと思つた。そして社會的事實の中からさういふものを思ひ出さうとした。――それは無智には違ひないが、何に根を持つた無智なのであらうか。彼にはわからなかつたが、今日彼が逢つた一事件は、人間の肉體的な勤勞が、今日の社會では、それとは無關係な世界からいかに下等な方法で、意味なく侮辱されることもあるかといふ、特殊具體的な事實として深く彼の腦裡に刻みつけられたのであつた。

穴のあいた肥桶は、眞綿を細くして穴へ詰めて、當分そのまま使ふことにした。

Chapter 10 of 23
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