一
つねの年にも増して寒さもきびしく、風も吹き荒れることの多いその年の暮れであつた。この地方は、北と東に向つて開き、海も近く、そこから吹き上げて來る風は、杉野たちの部落の後ろの山で行き止まりだつた。晝も夜も山に鳴る風の音に包まれながら、山裾の地のわづかなくぼみに、杉野の家はひつそりとしてゐた。家のなかは、平和な、物靜かな空氣にあたたまつてゐた。舊暦の節季までにはまだひと月あつたが、その節季への備へがすでに一應はととのつてゐたからである。
今年の葉煙草收納の結果は、先づいいとしなければならなかつた。十二月の初めに豫定されてゐた葉煙草の收納は、役所の都合で月の終りに變つた。何月何日に幾百個の包を收納せよとの示達が、役所から村の耕作者組合にあり、組合ではこの包數を各組合員に割り當てる。その前後から夜晝休みなしの葉の選別作業が始まる。米國種葉煙草の葉分けは三通りだつた。幹の最下部の二三枚が土葉、土葉の上部の四五枚で肉の薄いのが中葉、中葉の上部の肉の厚い葉全部が本葉であつた。この三通りに區分される、乾燥した幾萬枚の葉を、その各區分に從つて、一枚一枚、その形態や葉肉の厚薄や乾燥の工合や彈力や色澤や損傷の程度やによつて品位を鑑別し、品質の近いものどうしをまとめて一つ束にするといふ葉選みの作業は、熟練を要することであつた。土葉は三十枚、中葉は二十枚、本葉は十五枚を以て一把とし、一把のうちの一枚で葉柄の上部を包み、その端を螺旋形に卷き附け、結束する、これが規則である。杉野の家の五人のうち、一番の手利きは一番年少のお道だつた。いくら經驗を積んでも敏速に行かぬものもあるが、お道のは熟練といふよりは勘のするどさだ。山のやうな葉を、人の倍の速さで、次々に處理して行く。彼女がゐなければ、杉野の家でも、ほかの家がよくさうするやうに、熟練者をその期間中傭はなければならぬかも知れなかつた。駿介も、お道の側に坐つて、見まねで少しづつおぼえて行つた。仕事に熱してゐる時のお道は、いつも妹として見てゐる彼女とはちがつた。仕事は彼女をおとなにした。わきから言葉をかけることもなんとなく遠慮されるきびしさを持つてゐた。
結束した葉は、藁製の薦の上に、兩方から十把づつ、葉の先きを互ひ違ひにして、並べた。つまり二方積一段二十把になるわけだ。その上に何段も積み重ねて行つた。何段といふ規定はなかつた。規定は目方によつた。かうして積み重ねると、その上からも下のと同じ薦をあて、繩で固くしばつてそれを一包とした。一包は五瓩以上三十瓩以下といふことになつてゐた。煙草耕作はその最初から持たねばならなかつた獨特な細々しい規則から、この包裝といふ最後の仕上げの時になつても免れることは出來なかつた。薦は藁製の新しいものに限り、古いものは決して使へなかつた。それもどんな藁製の薦でもいいといふのではなく、「一手二本宛四ヶ所編み縱二尺五寸横二尺一寸一枚の重量三百瓦内外」のものといふ風にきまつてゐた。また繩は、「太さ徑曲尺三分とし撚數曲尺一尺の間二十撚内外とす」ときまつて居り、その掛方も、「一筋繩にて横三ヶ所縱一ヶ所とし各一重しとなし三寸内外の餘裕を存し上部に於て堅く結束すべし」ときまつてゐた。かうした指示事項を見てゐると、駿介は頭が痛くなつて來るほどだつた。云はれてゐる通りに、薦や繩を編むといふことも、駿介にはまだ自信がなかつた。すべてこれら最初から最後までの細々しさの一切が、本來的に煙草耕作に結びつかねばならぬものかどうかは、駿介にはわからなかつた。しかし、煩雜を煩雜とも思はぬらしく、平氣で、默つて事を片附けて行く父のやうになることが、今の自分にとつては先づ何よりも必要だと思つた。
包裝が全部すんで、すべての作業が終つて、包を積み上げた夜は、さすがに感慨が深かつた。春から今までの辛勞のすべてが思ひ出された。しかしその思ひ出も今は甘かつた。あとはこの十四包が、いい値で引き取られて行くことを、心から祈るばかりである。今年は一段歩足らずだから、積み上げた包もわづか十四だ。しかし來年はこの三倍を積むことが出來るだらう。
いよいよ明日は收納日といふ日の前日、村の耕作者組合では、全組合員の荷をトラツクに積んでN町の收納所に搬入した。荷は、搬入場に、各個人別にまとめて積んだ。そして各包毎に、村名、氏名、納付月日、受付番號、納付包數等をそれぞれに書き込んだ荷札をつけた。
收納の當日、駒平と駿介は朝六時にはもう出かける仕度をした。收納は八時から始まる豫定だつた。しかしそれまでに荷を提出順に整頓し、遺漏の無いやうにしておかねばならなかつたから、早く向うに着くことが必要なのだ。
朝飯をすますと、駒平は裏口へ出て行つて、空を見上げた。
しかし冬の六時はまだやうやく明け初めたばかりだつた。
「どうかな。今日の天氣は。」
彼は戻つて來て、相談するやうに駿介を見た。
「さア……いいと思ふけどなア、今日は。寒いし、それにかう靄がかかつてゐるから。」
この月に入つてから、餘り感じたことのなかつたこの朝の寒さだつた。さつき山羊の小屋へ行つた時、駿介の足の下では、霜柱がざくざく鳴つた。井戸端の桶には、薄氷が張つてゐた。
「さうやなあ、よからうとは思ふんぢやが、靄の濃い日は朝でつかりですんぢまふことも珍らしうはないよつてなあ。」
村のことだから、新聞の配達は日が上つてよほどしてからだつた。天氣豫報を見ようにも見ることは出來なかつた。
間もなく近くに住む組内の二人、石黒と菅原とが誘ひ合してやつて來た。彼等が寄ることはわかつてゐたので、駒平と駿介は待つてゐたのだつた。彼等は互ひに朝の挨拶を交し合つた。
「おつさん、どうやらうなあ、今日の天氣は?」
挨拶がすむと、石黒が最初に云つたのはやはり天氣のことだつた。彼等二人は、ここへ來る途中もそのことを話し合つて來たに違ひなかつた。
「大丈夫や。昨日もあななええ天氣やつたけに。――あんさんも今日は行きなさるんやろ?」と菅原が訊いた。
「ええ、行きます。わたしは何しろ初めてなんだから。收納の模樣も見ておかんことにや。」
「さうやとも。よつく見といて、何ぞ役所に云ふことでもあつたらまた願うて下され。――ぢやあ、往なうぜ、みんな。」
「うん、往なう。」
彼等は自轉車を曳いて、下の道まで歩いた。
「何時頃にすむんです?」
「さやうさなあ。二時にはすみますやろ。この頃は日が短かいよつて、さう遲うなつちや、後になつたものはやりきれんからのう。」
彼等が氣にしてゐるものは一に太陽の光線だつた。朝起きた時から今日の天氣を問題にしてゐるのも全くそのためだつた。葉煙草の賠償價格は鑑定官の鑑定によつてきまつた。鑑定は明るい光線の下で爲されることが絶對に必要だつた。當局でもその點には充分な考慮を拂つてゐた。收納所の建物の周圍は全部ガラス窓になつてゐた。殊に鑑定官が立つ鑑定臺の前の窓は、彼の腰から二間位の高さまで、總ガラス張りになつてゐた。しかしそれによつても尚、雨天や曇天の日を、晴れた日と同じ條件の下におくといふことは無論出來なかつた。晴れた日の明るい光りの下では、葉煙草は、百姓達の言葉で云へば、「見てくれがいい」のだつた。晴れた日とさうでない日とでは、葉は一等級を上下すると云はれてゐた。賠償金一瓩一圓四錢の三等品になつたかも知れないものが、その日がたまたま雨天だつたといふだけのことで、賠償金一瓩七拾四錢の四等品と認定されねばならぬとしたら、生産者にとつて諦め切れぬことではないか。
收納所までは自轉車で四十分の道のりだつた。彼等は道の途中で他部落の者とも一緒になつた。向ひ風のなかを彼等は元氣よく飛ばして行つた。走りながら聲高に話して行つた。すぐ前と後ろに連なつて話しても、その話聲を途中で切つて飛ばして了ふやうな風の強さ冷たさも、今日の彼等には一向苦にもならなかつた。風が出て來たといふことは、空がからツと吹き拂はれ、空氣の乾燥した、寒い明るい日を思はせて、却つて彼等を喜ばした。
やがて彼等は收納所に着いた。着いて暫くすると係員の手から、一人一人に、番號の附いた木札が渡つた。この木札は、各人が最初に鑑定に出す包に附けてやるものだつた。この木札は鑑定順を示してゐた。番號の早さ遲さにも何となく拘泥して彼等は互ひに仲間の番號を聞き合つたりした。
各自の荷は、各自がきめた順番によつて鑑定に送り出すことになつてゐた。それで彼等は昨日の搬入場へ來て、自分達の荷を調べ、提出順をきめるのだつた。その頃搬入場にやつて來るるものはしかし彼等だけではなかつた。明日鑑定を受ける者達がもう荷を運んでやつて來てゐた。天井の高い明るい建物の中に微塵が躍つて、薦の藁の匂ひが仄かにしてゐた。たたきの上に荷の落ちるやはらか味のある鈍い音。入り亂れる人々の足音、彼等はお互どうし餘り口をきかなかつた。何となく急き立てられるやうなざわめきのなかに自分の荷のことを思つて、彼等はだんだんに興奮して來るのだつた。
日はいつか高く上つてゐた。空は吹き拂はれたやうに晴れてゐた。彼等が豫想したやうな天候になつた。
りりりりりりりりり……りーん。
その時よく冴えた鈴の音が乾いた收納所のなかの空氣をふるはして響き渡つた。八時の鈴であつた。鑑定開始の合圖である。係員や人夫が出て來て、それぞれの持場についた。
駿介は、最初に荷を送り出さうとしてゐる一人の後ろに近く立つて、鑑定の行はれるさまを見ようとしてゐた。
十四間に十二間の收納所の建物は、ほぼ中央で、黒いカーテンに仕切られ、こつち側が事務所や搬入場で、向う側は鑑定所に荷造場だつた。駿介達はそのカーテンの手前に立つてゐた。作業中はカーテンが引き絞られてゐるから、鑑定は少し離れて眼の前で行はれることになる。駿介達が立つてゐるすぐ左の方に、眞中にもう一本木が渡してある點は梯子とは違ふが、梯子によく似てもつと長い形のものが、コンクリートのたたきの上にぢかにおいてある。これは送り臺であつた。送り臺の上にはもう荷が鑑定を受ける順でならんでゐる。端の方には、荷主達が、緊張した顏で待つてゐる。
送り臺が押されて行く向うには、直徑二間半の大きさで、圓形にレールが走つてゐる。鐵製のトロツコがその上を走る。レールを前にして、その左の方に鑑定臺がある。二人の鑑定官と一人の書記とが、鑑定臺をはさんで待つ。
ガラガラガラガラと音を立てて、人夫がトロツコを送り臺の方へ走らせて來た。
「それツ。」と、口には出さないが、その氣構へで、番になつてゐる荷主とほかの者とが一緒になつて、送り臺を前に押しやつた。送り臺の上の荷は、すでに包裝の繩が解かれ假結びになつてゐる。人夫はその荷をトロツコの上へ移し、ガラガラガラとトロツコはまたつた。鑑定臺の前まで行くと、待つてゐた二人の下手間の女がそれを引きとめた。黒い上つ張りを着た彼女等は素早く假結びの繩を解き、包裝の薦を取り去り、積まれた葉を中頃から左右に開いた。同時に傍に立つた二人の鑑定官は、葉の束を一把づつ手に取つて見た。
いかにも慣れ切つたさまでちらつと一瞥し、葉の裏を返してまたちよつと見て、すぐにもとの所へおいた。一人はそれきりだつたが、他の一人は積んだ葉の下の方からもう一把を取つて見た。見終ると二人は別々に鑑定臺の上の釦を押した。すると二人の反對の側に臺に向つて腰をかけてゐる書記の前に細長い箱がおかれてある、その箱の中から外へ、ぼーつと仄かな晝の電燈の光りがもれた。箱の中を見て、書記はだまつて臺の上の紙に何かを書き込む。それを人夫に渡す。トロツコはまたガラガラと走つて荷は今度は右手隣りの量目係の方へ送られて行つた。
百姓達は硬く緊張した表情でこのさまを眺めてゐる。駿介のやうに今年始めてこの場に臨むといふものは居さうになかつたが、皆はじめて見るもののやうな眞劍さであつた。これら一連の作業は全く敏捷に、素早く行はれた。三十秒ぐらゐの間のことだつた。はじめての駿介は全く驚かされて了つた。あまりにあつけなく、ぽかんとさせられて了つた。彼は水の流れのやうになめらかに進む統一ある仕事とその素早さに感心するといふよりは何か不滿であつた。彼は鑑定といふ仕事がもつと念入りに行はれるものだと思つてゐた。耕作者が滿足するほど念入りにやつてゐたら山ほどの荷をあとに殘して日が暮れて了ふだらう。日は何日あつても足りないだらう。念入りは鑑定には必ずしも必要ではなくて、必要なのは熟練なのだ、そして熟練は當然時間を短縮する――しかしそれにしても尚駿介には早すぎる氣がした。あんなに意氣込んで來たことがかうも簡單に片附けられることで、ふいに肩透しでも食つたやうな氣がした。彼には不當の事のやうにさへ思はれて來るのだつた。あの一包にこめられたあらゆる辛勞が彼の心の底にはあるからだつた。
「早いんだね、隨分。」と、駿介は、トロツコの音が止んだ時、小聲で傍に立つ石黒に囁いた。
「ああ、どうしてもう慣れてるけんのう。」その言葉からは石黒の感情は汲み取れなかつた。「一時間に百五十包からの鑑定をすますといふんぢやけに。一段歩が六分か七分ぢやさうな。えらいもんぢや。」
「あの釦を押すのは何かな。」
「あの釦を押すな、すると書記の前の箱ん中の豆電燈に明しがつくんや。豆電氣はこつちからは見えんけどな。電氣は赤と白とでな、これは本葉と中葉とを區別するんぢや。その前には等級板があるけに、明しがつきや、こりや本葉の何等ぢやこりや中葉の何等ぢやといふことがわかるんや。」
「ふん……成程な。二人は相談し合ふといふことはしないんだね。何等にきめたかをお互ひに知らないんだね。」
「知らんのぢや。鑑定官が二人ゐるな正確と公平を期すためちうことになつとるんやからね。」
「ぢやあ、もし二人が一致しない時は?」
「そんな時は書記が知らせるけに、見直すといふことになるんや。」
しかし石黒が一層聲をひそめて話すところによれば、さういふことは殆ど無いといふことだ。鑑定官がそれほどに熟練してゐるとも云へるが、一つにはまた、鑑定官の一人が主任で、他は從屬的な存在だといふことにもよつた。つまり主任の鑑定が動かし難いものになつてゐるのだ。書記は多くの場合主任の鑑定にそのまま從ふ。
送り臺は引き續き押しやられ、トロツコは走り、それはまたもとへ戻り、葉煙草の包は次々に消化されて行つた。百姓達は送られて行く荷を見、また鑑定官を見た。眼鏡をかけ髭のある鑑定官はだが彼等の方を見ることはなかつた。彼等は無用の言葉を云つたり、またどんな意味の笑ひにしろ笑ひを見せたりすることはなかつた。彼等は周圍に對しては殆ど無關心で、車が軌道を行くやうに、きまりきつたことをきまりきつたやうにやる時の事務的な冷たさを持つてゐた。その冷たさといふものは、彼等の役目柄から來るおのづからなものであり、また仕事に慣れ切つてゐるといふところから來るものであり、鑑定に對する高ぶりとも云へるほどの強い自信から來てゐるものでもあつた。仕事に敏速であることは鑑定官の生命であり、誇りだつた。鑑定臺の後ろ、窓に近く、念のために等級別の標本が備へてあるが、疑はしい時に標本に照らし合して見なければならぬといふことは、その道の專門家ともあらうものの恥であつた。二人のうち若い方の鑑定官に見られる一種の誇張は、彼が人々のさまざまな眼を感じて居り、自分の一擧一動を強く意識してゐることを示してゐた。
百姓達の關心は自分の荷の運命についてまはつた。だから、荷が鑑定官の手を離れ量目係の手に移ると、彼等の眼も亦そこへ移つた。ここでは三人が自動看貫を取りまいてゐた。二人は量目係、一人は記帳係だつた。鑑定の方からつて來た紙を人夫の手から受け取ると、記帳係は讀みあげる。
「中葉の四等!」
その時はもう包を看貫にかけ終つた量目係は言下に應じる。
「二十キロ!」
記帳係は、「ええ、二十キロ!」――と復唱して記入する。
「本葉の三等!」……「十五キロ!」……「ええ十五キロ」――淀みなく、二人の聲は一つのリズムを以て相和して行く。等級が聲高く讀み上げられる毎に、見てゐる百姓達の間にざわざわが起る。
彼等はここへ來てはじめて自分の包が何等級になつたかを、はつきり知ることが出來るのだ。彼等は眼に見えて興奮して來る。彼等は思ひ思ひの批評をはじめる。彼等は鑑定官に對して、自分達の評價を對立せしめずにはゐられない。
「あれが四等かいや! さつきはあななものが三等やつたのに。あの三等より今の四等の方がずんとええやないか。」
その、「あの三等」の荷主がすぐ傍にゐることをも彼等は忘れて了ふ。まれに一等が出たりすると、ざわめきは大きくなる。誰だ、誰だとかたきでも探すやうにさわぎ立てたりする。豫想外の成績をあげてひそかに喜びの聲を胸のうちにあげるものもあつたが、やはり不滿をもらすものの方が多かつた。自分の包の等級がきまつて了ふと、彼等は自分の内に何かごつそりと穴があいたやうな氣持がした。何か一言云はねば氣がすまぬやうな、これだけですんで了ふといふ法はないと云ひたいやうな、さうかと思ふと萬事すんだとがつかり諦めて了ふやうな氣持でもあつた。さういふ氣持の底のあるものは鑑定に對する疑惑と不滿だつた。道々ひそかに考へて來た自分の評價には自信があつた。その自信は容易には棄て得なかつた。こんな筈はないと思ふ。そこにさうして立つてゐるまも實に多くの考へが彼等の腦裏を駈けめぐる。
どうしよう? 云つたものか、それとも默つてゐたものか?彼等はそれについてとくに強く考へる。不服の申立ての道は開かれてゐる。再鑑定を云ふことが出來る。云はうか云ふまいか?
ためらひながら向うを見ると、そこに立つ鑑定官の姿といふものは大きく見える。云ひたい口をも強張らせて了ふやうな何かが彼にはある。憎まれては損だ!と彼等は考へる。しかも再鑑定を云つて、取り上げられたとして、それの實際の結果が殆ど云ふに足らぬものであることを、彼等は餘りにもよく知りすぎてゐる。それでも、たとへわづかでも、評價額が増加した場合はいい。前鑑定以下になつた場合にはどうだらう。費用までも自分が負はねばらぬ!
しかし豫想外の好成績をあげるものもなくはなかつた。そして杉野の荷は少數なものの一つであつた。
彼の荷は少なかつたから、ほんの數分間で片附いて了つた。本葉は殆どが三等で、なかに四等が少しまじつた。中葉は四等が大部分だつた。土葉は六等七等だがこれは僅かであつた。そして一瓩當りの賠償額、三等は壹圓四錢、四等は七拾四錢、五等は五拾錢、六等は參拾錢、七等は拾四錢だつた。
「ほう!」と、この結果には駒平も滿足らしくほほゑんだ。今年の出來は杉野の家としては例年になくよかつたのだが、三等がかう澤山出ようとはちよつと豫想外だつた。わづかの耕作段別だから、金額から云つて幾らの違ひでもないが、何と云つてもこれは嬉しかつた。石黒や菅原やその他部落の連中が、喜んだり羨ましがつたりした。
もう十一時に近かつた。するとその頃になつて場内が俄かに暗くなつた。日が陰つて來たのだ。ガラスに圍まれてゐる收納所の内部は明暗の變化の度合が大きかつた。これから荷を出さうといふ人々は不安な面持になつた。外へ出て空を仰いでみるものもあつた。風は依然強く時々びゆーんといふ鋼鐵板のふるへのやうな音で吹きつけて來た。しかしさつきまではからツとした高い空をつくつてゐたやうな風は、いつの間にか薄黒く濁つた汁を空一ぱいに撒き散らしてゐた。雲で一時日が覆はれてゐるといふのではなかつた。薄墨いろの空はどこまで行つてもきれ目がなかつた。彼等は場内へ戻つて來て、もう鑑定のすんだ仲間達が量目係から少し離れて立つて、話したり笑つたりしてゐるのを見ると、自然ひがんだ氣持になつた。さつきまであんなに天氣を氣にしてゐた連中が、自分の分がすんだとなると、俄かにこんなに暗くなつた場合にも氣づかぬ風で居れるのだ。後番の人々は不機嫌に默り込んで、自分達の荷を送り臺へと載せて送つた。搬入場の入口から吹き込む風は冷たく、コンクリートの床は冷えて、腰から下は冷え切つてゐた。順番を待つてふところへ交互に手をさし込んで立つてゐると、すぐに小便がたまつて來るのだつた。
量目係の手を通つた包は、必要事項の記載のすんだ用紙と共に、すぐその傍の檢査係の手に渡つた。ここでは包が各耕作者別に並べられた上で讀み合せがあつた。荷にも一包毎に、記帳係によつて票が添附されてゐる。下手間の女が、やや鼻にかかつたやうな聲で、慣れ切つた早い口調で、その票に記された包數、葉分、等級、量目について讀み上げる。檢査係は手にした用紙の記入と引き合して行く。間違ひがないときまつたところで、耕作者が一人一人呼び出される。
百姓達は、煙草耕作許可證と認印とをぐるぐる卷きにした風呂敷包の固い結び目を解くのに苦勞しながら、いそいそとして呼ばれて行つた。そして認印を押し許可證を渡し、「等級量目票用紙」の複寫をもらつて歸つて來ると、大急ぎで、葉煙草賠償價格表が貼りつけてある壁の前に行つて立つた。それともらつた複寫紙とを照らし合して見さへすれば、自分が幾ら金を受け取ることになるかがわかるのだつた。一年の、葉煙草耕作勞働が、どんな實を結んだかがはつきりわかるのだつた。半紙四ツ切型のうすいペラペラしたその紙には、一包毎に等級と量目とが、カーボンで複寫してあつた。この複寫の他の一枚はあの許可證と一緒に今頃はもう事務所の計算係の手に渡つてゐるだらう。今から二三時間の後にはあの窓口で金を受け取ることになるのだ。
すんだものから順次にそこへ來て立ち、表を眺めまた手にした紙を眺めてがやがや云ひ合つてゐた。ふところから紙を出して壁にあてがひ、鉛筆を嘗め嘗め、いくらになるかを計算してゐるものもあつた。
「いくらになつたんや? え?」と、後ろから仲間がのぞき込む。「えらく景氣が好ささうやないか。」「いやあ、」とのぞきこまれたものは照れ臭さうな顏をする。「どうもあかんが。すつかりどうも行かれつちまうたが、お前はどうや。」
果して「すつかり行かれちまつた」かどうかは顏でわかつた。同じやうに云ひながら喜びを隱し得ないでゐるものもあつた。駿介もそこへ來て仲間の誰彼と話し、計算に行き惱んでゐる二三人のために計算をしてやつてから、もとの送り臺の所へ戻つて來た。
「急にえらう暗うなつて來たなア。」と、彼は、ほかのものと一緒になつて送り臺を押しながら誰にともなしに云つた。
「お前さんはもうすみなさつたで、安心ができますのやろ。」それを引き取つて答へた隣の男の言葉には思ひがけなくひがんだ調子があつたので、駿介はふいに胸をつかれた感じだつた。彼は他部落の男だつた。「照らうと曇らうとお前さんにはもう何ちうことはござんすまいが。」男はつぶやくやうに云つて、新しい荷を、どしんと送り臺の上にのつけた。
さうしておいて彼は鑑定官の方を見た。鑑定官の前には彼の荷の一つが擴げられてあつた。鑑定官の一擧一動は強く彼の注意を惹かずにはゐないが、その時彼の注意をうばつたものはまた特別だつた。いつもはあんなに敏速に一つの荷を捌いて行く鑑定官の手が、容易に今の包を行かしめようとはしないのだつた。包の中が上から下まで引つくり返して調べられてゐることは明らかだつた。何か無ければそんなに念入りであるわけはない。
その時、主任の鑑定官がわきを向いて、書記に何か云つた。鑑定臺に向つてゐた書記が、立つて、つかつかと引き絞つたカーテンの前までやつて來た。
「十七番は? ゐるかね、十七番は?」と、彼は受附番號を云つて荷主を呼んだ。
「はア、」と、駿介の隣のその男は、さつと緊張した顏になつて、前へ出て行つた。「わしですが……何でござんせうか知ら?」
書記はだまつて鑑定官の方を指し示し、自分はもとの席に着いた。
十七番の男はおづおづと鑑定官の前へ進んで行つた。そしてかきまはされた自分の包にぢつと眼を注いだ。
「だめだね、かう品混が多くつちや。」と、鑑定官は男を見るなり云つた。「葉分が出來とりやせんぢやないか。再調し給へ。」
「へえ、そりやどうも。」と男は全く恐縮して、低く頭を下げると、擴げられた包を素早くもとに直し、また一つ低く頭を下げて包を抱へ込んで歸つて來た。彼はあがつて、心もち赤い顏をしてゐた。
「頼むぜえ。あとを。品混が出やがつたけに。」
同部落のものに、殘つてゐる荷を送り出すことを頼むと、彼は包を抱へたまま、急いで控室の方へ去つて行つた。
「たうたう品混が出やがつたなあ。」
「今日始めてやらう、品混は。今日はめつたに出ないと思つとつたが、野島の奴、たうとうやられよつたわ。」
彼等は笑つて話しながら、仲間から品混が出た以上は、今日の歸りはおそくなるといふやうなことを思つてゐた。葉分が出來てゐないで、各種の葉がまざつてゐたりするのが品混だつた。これは再び選別して、一つの包を幾つかにしなければならなかつた。大抵はむしろ乾き過ぎてゐたが、濕氣の過ぎたものがあつても同じやうに再調を命ぜられた。これは風にあてたり、火を焚いたりして乾燥しなければならなかつた。その上で改めて鑑定に出すのだが。再鑑定はみんながすんでからのことだつた、當然金を受け取るのも最後であつた。
今日はいつもよりは少ないと云はれてゐたこの品混は、午後になつてから急に出て來た。朝のうちに出てくれれば時間がたつぷりあるから始末によかつたが、皆がもう終らうとする頃になつて出て來るのでは、役人と耕作者の兩方にとつていかにも迷惑な話だつた。それで仲間中の熟練したものが力を貸して、素早く調理をし直して行つた。
午後になると、午前中收納された葉煙草は早くも荷造りされ、積み出されて行つた。檢査ずみの荷は、一等から七等までに區分した仕切りのなかに整理されてあつたが、下手間の男女が大勢でこれを薦に包み、繩をかけ、どしどしトラツクに積み込んでしまつた。これはT市の專賣局出張所に送られ、ここで再乾燥にかかるのである。
早くに收納がすんだものにとつては隨分待たされた感じで、午後三時近くなつて、漸く賠償金の支拂ひが行はれることになつた。
支拂ひは事務所の窓口で行はれた。事務所は搬入場の入口を入つたつきあたりだつた。自分達の荷は全部運び出され、代りに明日收納される荷が運び込まれてゐる廣い搬入場に、百姓達はふるへながら立つてゐた。下がコンクリートのたたきで、周圍がガラス張りの收納所の内部は、日が陰り出してからはだんだん冷えがきつくなつて行つた。長時間そこに立ち盡し、あれこれと氣を使ひ、最後に金を受け取る頃には、彼等は何となく堪へ性をなくして了つてゐた。黒ずんだ唇のいろをして、時々足踏みをしながら絶えず窓口の方を氣にかけてゐた。話も餘りはずまなかつた。長い間の辛勞が今報いられようとする直前の光景としては、陰氣に過ぎる感じだつた。風はやまぬらしく、窓ガラスが時々ガタガタ鳴つた。
小さな窓口の戸が開いて、顏が半分出た。
「一番から十番まで。」
呼ばれたものはぞろぞろと出て行つた。
彼等が金を受け取つて歸つて來ると、また次の一句切りが出て行つた。金を受け取つたものは、窓口から離れて後も、向う向きになつて、節くれ立つた指で何度も札を數へては見、數へては見した。それから袋の中や、三つ折れの大きな財布の中へ入れて、紐でぐるぐる卷きにしてしつかと縛つて、内ふところ深く押し込んだ。そしてこつちへ歸つて來ると、受け取つたものどうしで互ひに話し合つた。
「どうや、なんぼ引かれた?」
「うん……。」
「肥料代はなんぼになつたんや?」
「肥料代は二十五圓ばしぢやが……。」
「なにや、二十五圓ばしか。わしはちよつと六十圓近くになつたが。」
「そりやお前とは段別が違ふけに。わしは肥料代のほかにも、乾燥室の借入金なんぞがあるけんのう。」
金の支拂ひは銀行から出張して來て、行員の手から直接なされた。いろいろなものが、賠償金の中から豫め差し引かれて支拂はれた。肥料代はその中でも大きかつた。油粕は一俵六圓だつた。一段歩につき三俵は要つた。これは勸業銀行から低利で借りて共同購入するのだから、二月頃肥料を買ひ入れ、十二月頃の收納とすると、ほとんど一ヶ年の利息がかかるわけだつた。煙草耕作者組合の書記も出張つて來てゐて、組合の諸經費もやはりこの場で引かれた。
同じ組のものの支拂ひが全部すむのを待つて彼等は歸りかけた。駿介も、父や仲間と一緒に收納所を出た。
もう四時になつてゐた。日の短い最中だし、曇つてゐるので、あたりは暗くなりかけてゐた。百姓達は外へ一歩踏み出すと、思はずぶるツとからだをふるはせるやうにして、空を仰いだ。今にも雪でも來さうな空模樣だつた。
「よくまア吹きやがるなあ。」そんな風に云つて、手袋をはめ襟卷をし直して、鼻をくすんくすん云はせながら、自轉車をならべてある軒下の方へと行つた。横から來る風に逆らひながら、背をかがめ、顏をそむけ、ハンドルにしがみつくやうにして、村々に通ずる街道を歸つて行く彼等の後姿は寂しかつた。
「さア、わしらも一つ元氣で飛ばさうかい。」と、駒平がチユンと手洟をかみ、襟卷の端をふところへ押し込むやうにして云つた。
「ああ、行かうぜえ。早う歸つて今晩は熱い奴を一杯引つかけて、ゆつくりと寢んことにや。」と、菅原が云つた。
「そのうち案内しますけに、どうぞ一つわしとこさ一杯やりに來ておくんなさい。」と、これは石黒だつた。
「大きに。」とみな禮を云つた。「毎年毎年石黒の振舞ですまんのう。」
「なんの、なんの。」と云ひながら、石黒は歩き出した。
組内で、段當り賠償金の一番多かつたものは、組内のものを招んでお客をするしきたりになつてゐた。この組ではそれは今迄大抵石黒にあたつた。そして今年もさうきまつた。彼等の仲間うちでは、煙草を作ることにかけて、石黒は最古參者だつた。仕事に熱心でもあつた。それだけに品物の出來もいいのだつた。
「たうとう暗くなつちまひやがつた。」
石黒を先頭に一列になつて、風の中に向つて走り出した。