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癩
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癩
島木健作
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Original Public Domain
Chapter 5 of 8

5

太田がそうした状態にある時に、一方彼が日々眼の前に見るかの癩病人たちは、身体がもう半ば腐っておりながら、なんとその生活力の壮んなこと! 食欲は人の数倍も旺盛で、そのためにしばしば与えられた食物の争奪のためにつかみ合いが始まるほどであり――また性欲もおさえがたく強いらしく、夏のある夕べ、かの雑居房の四人がひとしきり猥らな話に興じたあげく、そのうちの一人が、いきなり四ツんばいになって動物のある時期の姿態を真似ながら、げらげらと笑い出したのを見た時には、太田は思わず、ああ、と声をあげ、人間の動物的な、盲目的な生の衝動の強さに打たれ、やがてはそれを憎み――生きるということの浅ましさに戦慄したのであった。

おなじ夏のある暁方、肺病の病舎では、三年越し患った六十近い老人が死んだ。死んで死体を運び出し、寝台を見た時、誰も世話するものもなかったその老人の寝台の畳はすでに半ば腐り、敷布団と畳の間には白いかびが生え、布団には糞がついてそれがカラカラにひからびていた。――そして同居人である同じ病人たちは、この死に行く老人の枕もとでこの老人に運ばれる水飴の争奪に余念もなかったのである。

何という浅ましい人生の姿であろう。

太田は慰めのない、暗い気持で毎日を暮した。病気が原因する肉体の苦痛とは別に、このままで進んだならばいつしか生きることをも苦痛と感ずるような日が、やがて来るだろうと思われた。この予感に間違いはないのだ。その時のことを思うと彼の心はふるえた。――人間はしばしば思いもかけぬことに遭遇し、何か運命的なものをさえ感ずることがあるものである。太田がこの病舎生活のなかにあって、ゆくりなくも昔の同志、岡田良造に逢ったのは、ちょうど、彼がこの泥沼のような境地におちこみ、そこからの出口を求めて、のた打ちまわっている時であった。

6

うとうとと眠りかけている耳もとに、遠くの監房の扉を開く音が聞える。――人の足音に何か物を運び入れるような物音もまじっているようだ。全身が何とはなしに熱っぽく、一日のうちの大部分の時間を寝てくらすことの多くなった太田は、半ば夢のなかで、遠く離れたその物音を聞き、どうもあれは一房らしいが、今までずっと空房であったあの雑居房に誰か新らしい患者でも入るのであろうか、などとぼんやり考えていた。

「太田さん、また新入りですよ。一房です」興奮をおし殺したような村井の声がその時きこえて来た。単調な毎日を送っているここの病人たちにとっては、新らしい患者の入ってくるということは、何にも増して大きな刺戟を与える事実であった。――だからその翌日になって、朝の運動時間が始まった時、太田は待ちかねて興味に眼を輝やかせながらその新入りの患者の姿を見たのである。そしてその男の姿をちらりと垣間見た瞬間に、彼はおもわずハッと思い、軽い胸のときめきをさえ感じてそこに立ちつくしてしまったのであった。うららかな秋の一日で病舎の庭には囚人たちの作った草花の数々が咲き乱れていた。その花園の間を縫うて作られた道が運動の時の歩行にあてられているのだが、その歩行者の姿を監房の中からつかまえようとすると、廊下のガラス戸が日光に光ってよくは見えなかった。その上、監房の扉にはめられたガラスは小さいので、視野が狭く、歩行者の姿がその視界に入ったかと思うとすぐに消えてしまうのである。――そういう状態の下に、しばらく扉の前に立っていて、その新入りの男の姿を眼に捕えた瞬間に太田はわれ知らず、おやと思ったのである。

その男は言うまでもなく癩病患者であった。しかも外観から察したところ、病勢は、もうかなり進んでいる模様である。まだ若い男らしいのだ。病気のために変った相貌から年のころははっきりわからないが、その手のふり方や足の運び方には若々しいものが感ぜられるのである。顔はほとんど全面紫色に腫れあがり、その腫れは、頸筋にまで及んでいた。頭髪はもう大分うすくなり、眉毛も遠くからは見えがたいほどである。さほど瘠せてはおらず、骨組みの逞ましい大きな男である。

その男の運動の間じゅう、扉の前に立ちつくしてまたたきもせず、男が監房へ帰ってからも胸騒ぎの容易に消ゆることのなかった太田は、その日から異常な注意をもってその男の一挙一動を観察するようになった。――太田は確かにその男の顔に見おぼえがあったのだ。その顔を見るごとに心の奥底をゆすぶる何ものかが感ぜられるのであるが、ただそれが何であるかをにわかに思い出すことができないのであった。日を経るに従ってその顔は次第に彼の心にくっきりとした映像を灼きつけ、眼をつぶってみると、業病のために醜くゆがんだその顔の線の一つ一つが鮮やかに浮き上って来、今は一種の圧迫をもって心に迫ってくるのであった。――夜、太田は四、五人の男たちと一緒に一室に腰をおろしていた。それは大阪のどこか明るい街に並んだ、喫茶店ででもあったろう。何かの集会の帰りででもあったろうか。人々は声高に語り、議論をし、而してその議論はいつ果てるとも見えないのであった。――太田はまた、四、五人の男たちと肩をならべてうす闇の迫る場末の街を歩いていた。悪臭を放つどぶ川がくろぐろと道の片側を流れている。彼らの目ざす工場の大煙突が、そのどぶ川の折れ曲るあたりに冷然とつっ立っているのだ。彼らはそれぞれ何枚かのビラをふところにしのばせていた。而して興奮をおさえて言葉少なに大股に歩いて行く。――今はもう全く切り離されてすでに久しいかつての社会生活のなかから、そのようないろいろの情景がふっと憶い出され、そうした情景のどこかにひょっこりとかの男の顔が出て来そうな気が太田にはするのである。鳥かげのように心をかすめて通る、これらの情景の一つを彼はしっかりとつかまえて離さなかった。それを中心にしてそれからそれへと彼は記憶の糸をたぐってみた。そこから男の顔の謎を解こうと焦るのである。それはもつれた糸の玉をほぐすもどかしさにも似ていた。しかし病気の熱に犯された彼の頭脳は、執拗な思考の根気を持ち得ず、すぐに疲れはててしまうのであった。しつこく掴んでいた解決の糸口をもいつの間にか見失い、太田は仰向けになったままぐったりと疲れて、いつの間にかふかぶかとした眠りのなかに落ち込んでしまうのである。――真夜なかなどに彼はまたふっと眼をさますことがあった。目ざめてうす暗い電気の光りが眼に入る瞬間にはっと何事かに思い当った心持がするのだ。あるいは彼は夢を見ていたのかも知れない。今はもう名前も忘れかけている昔の同志の誰れ彼れの風貌が次々に思いいだされ、その中の一つがかの男のそれにぴったりとあてはまったと感ずるのであった。だがそれはほんの瞬間の心の動きにすぎなかったのであろう。やがて彼の心には何物も残ってはいないのだ。手の中に探りあてたものを再び見失ったような口惜しさを持ちながら、そのような夜は、明け方までそのまま目ざめて過すのがつねであった。

その新入りの癩病人についてはいろいろと不審に思われるふしが多いのである。彼はここへ来た最初の日からきわめて平然たる風をしており、その心の動きは、むしろ無表情とさえ見られるその外貌からは知ることができなかった。前からここにいる患者たちは、新入りの患者に対しては異常な注意を払い、罪名は何だろう、何犯だろう、などといろいろと取沙汰し合い、わけても運動の時間には窓の鉄格子につかまって新入者の挙動をじろじろと見、それから、ふん、と仔細らしく鼻をならし、どうもあれはどこそこの仕事場で見たような男だが、などといってはおのおのの臆測についてまたひとしきり囁きあうのである。新入者の方ではまた、すぐにこうした皆の無言の挨拶に答えてにこにこと笑って見せ、その時誰かがちょっとでも話しかけようものなら、すぐにそれに応じて進んでべらべらとしゃべり出し、自分の犯罪経歴から病歴までをへんに悲しそうな詠嘆的な調子で語って聞かせ、相手の好奇心を満足させるのであった。――だが今度の新入者の場合は様子がそれとはまるでちがっていた。彼はいつもここの世界には不似合いな平然たる顔つきをし、運動の時にはもう長い間、何回も歩き慣れた道のように、さっさと脇目もふらずかの花園の間の細道を歩くのである。どこかえたいの知れない所へ連れて来られたという不安がその顔に現われ、きょときょととした顔つきをし、何か問いたげにきょろきょろあたりを見まわす、といったような態度をその男に期待していた他の患者たちは失望した。静かではあるが、どこか人もなげにふるまっているような落ち着き払ったその男の態度に、彼らは何かしらふてぶてしいものを感じ、ついには、へん、高くとまっていやがる、といった軽い反感をさえ抱くようになり、白い眼を光らしてしれりしれりと男の横顔をうかがって見るのであった。

静かと言えばその男のここでの生活は極端に静かであった。一日に一度の運動か、時たまの入浴の時ででもなければ人々は彼の存在を忘れがちであった。だだっ広い雑居房にただひとり、男は一体何を考えてその日その日を暮しているのであろうか。書物とてここには一冊もなく、耳目を楽します何物もなく、一日一日自分の肉体を蝕ばむ業病と相対しながら、ただ手を束ねて無為に過すことの苦しさは、隣りの男とでも話をする機会がなければ発狂するの外はないほどのものである。新入りの男はしかし、ただ一言の話をするでもなくまた報知機をおろして看守を呼ぶということもない。すべて与えられたもので満足しているのであろうか。何かを新しく要求する、ということとてもないのだ。しかも運動時間ごとに見るその顔は病気に醜く歪んではいるが、格別のいらだたしさを示すでもなく、その四肢は軽々と若々しい力に満ちて動くのである。

太田が怪訝に思うことの一つは、その男が今まで空房であった雑居房にただひとり入れられているということであった。今四人の患者のいる雑居房は八人ぐらいを楽に収容しうる大きさだから、彼をもそこに入れるのが普通なのである。その犯罪性質が、彼をひとりおかなければならぬものなのであろうか。それならば太田のすぐ一つおいて隣りの、今、村井源吉のいる独房に彼をうつし、村井を四人の仲間に入れるということもできるのである。村井の犯罪は何も独房を必要とする性質のものではないのだから。――ここまで考えて来た太田は、以前その男の顔を始めて見てどこか見覚えがある、と感じた瞬間に心の底にちらりと兆した不吉な考えに再び思い当り、今まで無理に意識の底に押し込んでおいたその考えが再び意識の表面にはっきりと浮び上ってくるのに出会って慄然としたのであった。――自分の一つおいて隣りの監房に移してはならぬ独房の男、自分に近づけてはならぬ犯罪性質を持った男、といえば、自分と同一の罪名の下に収容されている者以外にはないのである。――かの新入りの癩病患者は同志に違いないのだ。そしていつの日にかかつて自分の出会ったことのある同志の一人の変り果てた姿に違いはないのだ!

太田はかの癩病人が、自分の同志の一人であろう、という考えを幾度か抛棄しようとした。すべての否定的な材料をいろいろと頭の中にあげてみて、自分の妄想を打ち破ろうと試みた。そして安心しようとするのであった。太田はあの浅ましい癩病人の姿が、自分の同志であるということを断定する苦痛に到底堪えることはできまいと思われた。しかしまた他の一方では、確かに彼が同志であるということを論証するに足る、より力強いいくつかの材料を次々に挙げることもできるのである。彼は何日かの間のこの二つの想念の闘いにへとへとに疲れはてたのであった。その間かの男は毎日思い出せそうで思い出せないその顔を、依然運動場に運んで来るのである……。

だが、物事はいや応なしに、やがては明らかにされる時が来るものである。その男がここへ来て一と月あまりを経たある日、手紙を書きに監房を出て行った村井源吉がやがて帰ってくると、声をひそめてあわただしく太田を呼ぶのであった。

「太田さん、起きてますか」

「ああ、起きてますよ、何です」

「例の一房の先生ね、あの先生の名前がわかりましたよ」

Chapter 5 of 8
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