Chapter 1 of 486

「論語」を読む人のために

東洋を知るには儒教を知らなければならない。儒教を知るには孔子を知らなければならない。そして孔子を知るには「論語」を知らなければならない。「論語」は実に孔子を、従って儒教を、また従って東洋を知るための最も貴重な鍵の一つなのである。

「論語」は、孔子の言行を主とし、それに門人たちの言葉をも加えて編纂したものであるが、すべて断片的で、各篇各章の間に、何等はっきりした脈絡や系統がなく、今日から見ると極めて雑然たる集録に過ぎない。しかし、それだけに、編纂者の主観によってゆがめられた点は比較的少いであろう。

孔子の言葉を記したものとして、「論語」のほかに、しばしば「易」の「十翼」があげられる。しかし、それには、古来学者の間に多くの疑問があり、それを孔子の書であると断定する根拠は薄弱である。従って、今日では、「論語」は不十分ながらも、孔子の言行をうかがうことの出来る、唯一の確実な書とされているのである。

「論語」編纂の年代、ならびにその編纂者が何びとであるかは、まだ十分つまびらかにされていない。しかし、孔子の没後いくらかの年月をへたあと、すなわち西紀前およそ四百数十年ごろ、門人の門人たちの手によって編纂されたものであることは、ほぼ確実なようである。

「論語」という書名は、孔子直接の門人たちが記録しておいたものについて、編纂者たちが、おたがいに意見を交換し、論議しつつ撰定したという意味で名付けられたものであろうと信ぜられている。

「論語」は、秦の始皇が天下を統一した時、いわゆる焚書の厄に会った。始皇は儒教の政治思想が自分の専制的統一国家の政治に合致しないという理由から、ちょうど独逸のヒットラーが書を焼いたのと同一の手段をとったのである。そのため「論語」は他の書と共に一時姿を消したが、漢代にいたって再び世に出ることになった。その時発見された「論語」に三種あった。その第一は斉の国から発見されたもの、第二は魯の国から発見されたもの、第三は孔子廟の壁の中にぬりこめられていたものである。それらはかなり内容をことにしていたので、それぞれ「斉論」「魯論」「古論」と呼んで区別されるようになった。「古論」というのは、古体文字で記されていたからである。

この三種の「論語」は、発見後しばらくの間は、それぞれにそのままの内容で読まれていたが、後漢以後、彼此参酌して内容を修訂し、註解を加えるなどの努力が張侯、鄭玄、何晏等二三の学者によって払われ、宋代にいたって、それらを基にしたの「論語註疏」があらわれた。更に儒教の大成者として有名な同代の朱熹は、「大学」、「中庸」、「論語」、「孟子」の四者を合して、いわゆる「四書集註」を作った。爾来前者を「古註」と呼び、後者を「新註」と呼ぶならわしになったが、今日最も広く読まれているのは「新註」による「論語」である。本訳もまた主として新註により、なお古註その他を参考にすることにした。

「論語」がはじめて日本に伝来したのは応神天皇の十六年であるが、それが刊行されたのは約一千年後の後醍醐天皇の元亨二年である。それは、その後つぎつぎに伝来した儒教の他の諸経典と共に、先ず宮廷貴族の思想と行動とに影響を与え、つぎに武家に及んだ。そして、明治維新にいたるまでの約千五百年間に、儒教は仏教と相並んで――仏教の伝来は儒教におくれること約二百年である――国民生活を支配する最大の精神的基調をなすにいたったが、とりわけ「論語」は、階級の上下をとわず、文字を知る国民の多数に読まれるようになり、その影響力は、徳川時代以後文字を知らない国民の家庭生活や社会生活にまで及び、「論語」をはなれては、国民の道徳生活を語ることが出来ないかのような観をさえ呈するにいたったのである。

かような影響力も、しかし、明治維新後の西欧文化の伝来と共に、急激に退潮しはじめた。そして半世紀とはたたないうちに、儒教は全面的に若き世代の多数によって敬遠され、ついで軽蔑され、最後に忘却され、現在の若き世代の間では、高等の教育をうけた者でさえ、「四書」「五経」の何であるかを知るものが稀有であり、「論語」のごときも、わずかにその名が知られているだけで、専門の学徒以外に進んでその内容を知ろうとする欲望をおこすものは、絶無に近い状態である。

かような急激な退潮、――約千五百年間に亘って高潮しつづけて来たものが、百年とはたたないうちに底を見せるほどのかような急激な退潮が、果して何に起因するかについては、ここではふれない。今はただ、それが、よかれあしかれ、まぎれもない事実であるということだけを認識するにとどめておきたい。

しかし、この事実を認識するについて、忘れてならないことがある。それは、そうした急激な退潮は、主として国民意識の表面において行われたことであって、必ずしも生活の事実においてではないということである。むろん意識の表面にあらわれる変化が、生活の事実に何の変化も及ぼさないということは全くあり得ないことで、その意味で、明治以後の国民生活から、儒教的なものがかなりの退潮を示していることはもちろんである。しかし、それは決して意識の表面においてのように底を見せるほど甚しいものではなかった。いや、もっと適切にいうと、底は見せながら、その底にしみとおった儒教的なしめり気が、今もなお国民生活の根をうるおしており、そしてそのしめり気は、次第に眼には見えなくなるかも知れないが、容易に蒸発してしまいそうには思えないのである。

この事実を認識することは国民にとって極めて重要なことである。というのは、それは、やがて国民をして、儒教の諸経典中、せめて「論語」ぐらいは、もう一度意識の表面に浮かびあがらせることの必要を痛感せしめるであろうからである。私は、このことを、必ずしも儒教精神の復活を希う意味においていっているのではない。ただ私は、儒教精神が、よかれあしかれ、今もなお相当の力をもって国民生活の事実を動かしている以上、国民は当然その精神を研究批判の対象として意識的に取りあぐべきであり、そしてそのためには、少くも「論語」ぐらいは広く国民の間に読まるべきであると思うのである。

「論語」を読むにあたってわれわれの忘れてならないことは、それが「精神の書」であり、「道徳の書」であると共に「政治の書」であるということである。この点で、政治とはかかわりなく、或はむしろ政治否定の立場に立って、人間の幸福乃至社会秩序の維持を、純粋に個々の人間の魂に求めようとしたキリスト教や仏教の諸経典とは、いちじるしく趣を異にしているのである。

「論語」の中で、理想的人物、或は理想に近い人物を表現するために、「聖人」「仁者」「知者」「君子」等の言葉がしばしば用いられているが、それらが、精神的・道徳的にすぐれた人物を意味することはいうまでもない。しかし、精神的・道徳的にすぐれた人物は、「論語」においては、常に為政家としてすぐれた人物であることをも同時に意味しているのである。むろん、だからといって、修徳の目的が政治的権勢の獲得にあるというのではない。権勢の位置につくかどうかは天命によって決する。しかし、天命は必ず有徳の人に下るべきであり、そして修徳の理想は天命をうけてそれに恥じないだけの資格を身につけることにあるというのが「論語」を一貫して流れている思想なのである。その意味で「論語」はまぎれもなく「政治の書」であり、そのことを忘れては「論語」を正しく解することは不可能なのである。

「論語」が「政治の書」であるということは、同時にそれが「未来世の書」でなくて「現世の書」であり、「神の書」でなくて「人間の書」であるということを意味する。その点で、等しく「精神の書」ではあっても、仏典やバイブルとは全くその立脚点を異にするのである。そしてこのことが、孔子自身の性格とその修徳の過程を物語るものであることは、いうまでもない。

古来聖者の名をもって呼ばれている人々の中で、孔子ほど常識的・現世的な人はないであろう。彼には、その一生を通じて、ほとんど神秘的・奇蹟的な匂いがなく、また従って、その向上の道程において、天啓とか霊感とかによる、いちじるしい飛躍の瞬間がなかった。つまり彼は、自分の置かれた環境において、日常生活を丹念に磨きあげ、一歩一歩と自分の世界を昂揚し、拡大しつつ、あくまでも現実に即して現世の理想を構築し、そしてその理想が、超自然の力をかることなく、人間自からのたゆまざる努力によって実現可能なことを証明しようとした人なのである。

孔子にも、なるほど「天」の思想があり、天帝に対する厳粛な信仰があった。その点で彼に宗教的なものが全然なかったとはいえない。しかしその「天」は、人間をその罪悪と苦悩から無差別平等に救済せんとする大悲大慈の力ではなく、むしろ静かに人間個々の境遇や、能力や、努力のあとを照覧しつつ、それぞれの運命乃至使命を決定する力、即ち神というよりはむしろ自然法というに近いものであったのである。彼が「天命を知る」という時、それは彼が彼自身を道徳的に鍛錬することによって生み出した自信の叫びであって、決して遠い天上からの神秘的啓示による飛躍を意味するものではなかった。彼は、かくて、天を語る時においてすら、あくまでもその足を地上に立て、その眼を地上にそそぎ、その全心全霊を、人間自らの力による人間社会の秩序立て、いいかえると政治の理想化にぶちこんでいたのである。

「述べて作らず」――これが孔子の学問の態度であり、また教育者としての態度であった。その意は、古聖人の道を祖述する以上に敢て自己の創見によって新しい道徳律を作るのではない、というのであるが、古聖人とは、孔子においては、「大学」にいうところの「明徳を明らかにした」地上の人であり、「修身・斉家・治国・平天下」を実現した理想的為政家であって、決して現世を超越した神秘的存在ではなかった。もっとも、それほどの人物が果して史上に実存したかは頗る疑わしいのであって、むしろそれは孔子自身の修徳をとおして描き出された理想の象徴であり、創作であると見る方が正しいのではないかと思われるが、孔子自身にとっては、それはあくまでも実存の人物であったと信じられていたのである。ここに孔子の現世的性格と現世的修養の道程とが明らかにうかがわれる。すなわち、彼にとっては、人間の理想社会の実現は決して人間自身の努力の限界をこえたものではなく、それは政治の理想化によって可能であり、そしてその実証として過去の歴史に聖人の治績があったわけなのである。

なお、「論語」を読むにあたって、もう一つ大切なことは、その時代的背景を一応心得ておくことである。このことは、「論語」が政治の書であるだけに、政治とは無縁な仏典やバイブルを読む場合に比して、はるかにその重要度が高い。で、それについて簡単にふれておきたいと思う。

孔子は西紀前五五二年に生れ、同四七九年七十四才で歿したが、この時代は、中国の歴史で普通いうところの春秋時代の末期、すなわち、夏・殷・周とうけついで来た三代の王朝の最後の王朝たる周室が、全くその権威を失って、十二の諸侯が覇権を争い、しかもその諸侯も内部的に決して安全ではなく、内乱が頻発して、徐々に政治の実権が下にうつり、ほとんど無政府的な混乱状態を呈しつつあった時代である。

周王朝の政治組織は諸侯をその下に従えていたという意味で、もとより封建制度であった。しかし有力な諸侯の大部分は周室の同族で、共同の宗廟を持ち、祭祀を共にする宗族関係で周室に結ばれており、しかもこの関係は、氏族を異にする侯国以下との間にも、社稷(土地の神・穀物の神)を祭ることによって延長されていたのである。だから、周代の国家は、封建国家というよりも、むしろ祭政一致の宗族国家という方が適当であった。そして、それに基づいて、天子・諸侯・卿・大夫・士・庶民というように、厳格に身分が定まっており、祭祀・礼法のごときもその身分に応じてそれぞれの規定があり、それをみだすことは、やがて国家の秩序や道義をみだす最大の悪徳とされていたのである。

孔子は、かような国家組織の中に生をうけたのであるが、彼はその組織の根本については何の疑惑も抱いてはいなかった。それどころか、周祖武王をたすけてその組織に基礎をおいた周公(武王の叔父)は、彼にとっては、いわゆる古聖人の一人だったのである。しかも彼の生地魯国(彼は現在の中国山東省曲阜県、当時の魯国昌平郷陬邑に生れた)は、周公の子孫の国で、その宗廟には周公が祭られており、いわば周室の政治と道義の守本尊ともいうべき位置にあった。かくて彼は、周室の諸制度について疑惑を抱くどころか、それを至上のものと考え、誇りをもってその研究に精進することを念願した。「論語」にいわゆる「十有五にして学に志す」とあるのも、少年時代における彼の、この意味での精進を物語るものに外ならないのである。

かような彼が、春秋末期の諸侯・諸卿・諸大夫の下剋上や、僣上沙汰や、権力争いや、利害本位の取引きや、武力抗争等について、深い憂いと怒りとを感じたであろうことはいうまでもない。そしてまた、それがいよいよ彼の研学心や教育熱に拍車をかけ、実際政治に対する彼の欲望をそそり、ひいては彼の苦難にみちた諸国巡歴の旅への大きな刺戟になったであろうことも、疑いを容れないところである。

「論語」には、彼のそうした憂いや怒りの言葉が、いたるところに散見される。否、考えようでは、「論語」の言葉のすべてが、周朝の政治と道義の維持昂揚のための言葉であったといえないこともない。そしてここに、「論語」を読む者の心しなければならない重要な二点があるのである。

その第一は、「論語」の言葉のあるものは、今日のわれわれの時代においては、文字どおりに受け容れられるものではなく、また強いて受け容れようとしてはならないということであり、その第二は、しかし、だからといって、「論語」をただちに時代錯誤の書として早計にすててしまってはならないということである。

なるほど孔子は、中国周代の民として、周公によって基礎をおかれた当時の諸制度を讃美し、その精神を生かすことに努力した。その点で、まぎれもなく彼は封建的宗族国家の忠実な一員であった。従って彼の言行のあるものは、その表面にあらわれたかぎりにおいて、今日のわれわれにはむしろ奇異に感じられ、しばしば滑稽にさえ感じられるものがある。特に、「論語」の中で彼の坐作進退を記した条下や、彼が祭祀その他の礼の形式に関して語るのを読む場合においてそうである。また彼が治者被治者の関係について語るのを読む場合、その中のある言葉については、おそらく今日の何人も重大な疑問を抱かずにはいられないであろう。そして、そうした点から、「論語」が今の日本人の意識の中で影がうすくなって行くことも、一応うなずけないことではない。

では、「論語」は、周代の封建的宗族国家の経典以上の何ものでもないかというと、決してそうではない。かりに「論語」から周代の色をおびていると思われる一切の表現を消し去って見るがいい。また、今日から見て少しでも時代錯誤だと思われる表現があったら、それをも遠慮なく消し去って見るがいい。そのあとに何も残らないかというと、むしろわれわれは残るものの多きにおどろくであろう。しかもそれらはすべて古今を貫き東西を貫く普遍の真理であり、そしてそれらの真理が、時代錯誤だと思われ、周代の考え方だと思われる表現の底にも、厳として存在していることに気づくであろう。

「論語」を通じて見た孔子は、決して単なる周代の忠実な封建人ではなかった。またむろん事大的曲学阿世の徒でもなかった。仁に立脚して知を研き、詩と楽とを愛して調和に生き、敬慎事に当り、勇断事を処し、剛毅正を守る底の万世の師が、たまたま周代の衣を着、周代の粟を食み、周代の事を憂え、周代の事に当ったが故に、周代の色を帯びたまでのことなのである。

かくて「論語」は周代の皮に包まれた真理の果実であるということが出来よう。われわれはその皮におどろいて果肉をすててはならないし、さればといって、皮ごとうのみにしてもならない。皮をはいで果肉をたべる、これが要するに「論語」の正しい読みかたなのである。

孔子の詳伝を知ることが、「論語」の理解を助けるであろうことはいうまでもない。しかし、彼の伝記の研究はまだ極めて不十分で、その詳伝に関するかぎり、伝説の域を脱していないといわれている。漢代の史家司馬遷の「孔子世家」は孔子伝中最古のもので、後世の伝記作者の第一のよりどころとなっているが、それは、「論語」の言葉を主要な材料にして、逆に編まれた伝記であり、むしろ創作というに近い。従って「論語」を読む参考として、極めて便利なようでもあるが、実際は「論語」を別の形で読むに過ぎないともいえるのである。とにかく孔子の詳伝にはまだ権威あるものがないので、それは専門学者の研究にゆだね、ここでは、ほぼ確実だとされていることがらの中から、「論語」を読むに最小限必要だと思われる事項を左に列記するにとどめたい。

○ 彼の出生・死亡の年代、並びに出生地は既述の通り。○ 父は叔梁といい、武功のあった武人で、その社会階級は士であった。母徴在は顔氏の出で父の第三夫人。父母の年齢に五十歳前後の差があった。○ 三歳にして父を亡い、貧困の中で育ったが、幼より学を好み、十五歳で正式に学に志し、二十二歳頃よりすでに子弟の教育を行った。○ 青年時代の職業は魯の大夫季氏の委史(倉庫番)司職(家畜番)等で、極めて低い地位であった。○ 二十五歳、母を亡った。○ 二十八歳、古代官制に通じた子が魯に来朝したのを機会に教えをうけた。○ 三十一歳、はじめて周都に旅してその文物を見、諸家の教えをうけた。○ 三十六歳、斉に旅した。――この頃、魯には三桓(大夫の三家)の乱があり、昭公は斉に亡命して空位時代であった。○ 四十三歳、斉より魯に帰り、子弟の教育に専心。○ 四十四歳、魯の定公即位、空位時代終る。○ 四十八歳、魯に陽虎の専権が始まった。――陽虎は大夫季氏の臣で、魯公にとっては陪臣であった。孔子は陽虎に任官をすすめられたが応じなかった。○ 五十一歳、公山不狃(魯の大夫季氏の宰)の乱があった。陽虎の専制終る。○ 五十二歳、魯に任官、中都の宰となった。その後累進、司空(農事の長官)大司冦(司法長官)となった。○ 五十三歳、魯、斉と夾谷に会盟の際、外交使節として随行し、大功があった。○ 五十五歳、魯の大夫三桓子の専横をおさえ、その城を毀たんとしたが、最後に不成功に終った。○ 五十六歳、大司冦の職にあり、宰相の事を摂行し、逆臣少政卯を誅して治績大いにあがったが、定公が斉の策謀にかかり、美人と戯れ、孔子を疎んじたため、ついに職を退き、外遊、衛に行く。かくて約十四年間の漂泊の旅がはじまった。 漂泊の国名、順序及び重要事件はおおむね左の通りである。 衛――陳(匡の難)――衛――曹――宋(桓の難)――鄭――陳――衛――陳――蔡――葉――蔡(陳蔡の難)――衛○ 六十九歳、漂泊の旅より魯にかえる。その後研学と教育に専心。○ 七十四歳、死。

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