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次郎物語 01 第一部
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次郎物語 01 第一部
下村湖人
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Traducción Pagera AI
Original Public Domain
Chapter 1 of 40

一 お猿さん

「癪にさわるったら、ありゃしない。」と、乳母のお浜が、台所の上り框に腰をかけながら言う。

「全くさ。いくら気がきついたって、奥さんもあんまりだよ。まるで人情というものをふみつけにしているんだもの。」と、竈の前で、あばた面をほてらしながら、お糸婆さんが、能弁にあいづちをうつ。

「お前たち、何を言っているんだよ。」と、その時、台所と茶の間を仕切る障子が、がらりと開いて、お民のかん高い声が、鋭く二人の耳をうつ。

お糸婆さんは、そ知らぬ顔をする。お浜は、どうせやけ糞だ、といったように、まともにお民の顔を見かえす。見返されて、お民はいよいよきっとなる。

「お浜、あたしあれほど事をわけて言っているのに、お前まだわからないのかい。恭一は何と言っても惣領なんだからね。どうせあの子を、そういつまでも、お前の家に預けとくわけにはいかないじゃないか。」

「そんなこと、もうわかっていますわ。どうせ御無理ごもっともでしょうからね。」

「お前何ということをお言いだい、私に向かって。……お前それですむと思うの。」

「すむかすまないかわかりませんわ。まるで欺しうちにあったんですもの。」

「欺しうちだって。」

「そうじゃございませんか。恭さんをちょっと連れて来いとおっしゃるから、つれて上ると、すぐにお祖母さんに連れ出さしておいて、そのあとで、こんなお話なんですもの。」

「それで、お前すねたというのだね。」

「すねたくもなろうじゃありませんか。私にも人情っていうものがございますからね。」

「すると、恭一の代りに、次郎を預るのは、どうしても嫌だとお言いなのかい。」

お浜はそっぽを向いて默りこむ。

「何というわからずやだろうね。私に乳がないばっかりにこうして頼んでいるのに、やさしく言えばつけ上ってさ。……嫌なら嫌でいいよ、もうお前にはどの子も頼まないから。その代りこの家とはこれっきり縁を切るから、そうお思い。飯米に困るなんてまた泣きついて来たって知らないよ。恭一にだって、これからはどんな事があっても逢わせるこっちゃない。」

お民は、そう言ってぴしゃりと障子をしめた。

「奥さん、そりゃあんまりです。あんまりです。」

お浜はしめられた障子のそとでわめき立てた。

「何があんまりだよ。」

「あんまりですわ。やっと恭一さんを一年あまりもお育てしたところを、だしぬけに、今度の赤ちゃんのような、あんな……」

「あんな、何だえ。」と、また障子ががらりと開く。

「…………」

「はっきりお言い。」

「まあまあ、奥さん、わたしからお浜どんにはよう言って聞かせましょうで……」と、お糸婆さんが、やっとなだめにかかる。

「言って聞かせるもないもんだよ。年寄りのくせに、お浜にあいづちばかりうっていてさ。」

「へへへへ。」お糸婆さんは、お歯黒のはげた歯をむき出して、変な笑いかたをする。

その時、奥の方から赤ん坊の泣き声がきこえた。お民は障子をしめながら、二人をぐっと睨めつけて、おいて、その方に立って行く。

「どうせお前さんの思う通りにゃなりっこないよ。あきらめたらどうだね。」と、お糸婆さんはお浜に寄りそって小声で言った。

「やっぱり今度の赤ちゃんを預るのさ。飯米のこともあるしね。」

「あたしゃ、飯米のことなんか、どうだっていい気がするんだよ。」

「そりゃ、お前さんの今の気持はそうだろうともさ。だけど飯米もふいになるし、恭さんにもこれから逢えないとなりゃ……」

「ほんとうに逢わせない気だろうかね。」

「そりゃ、あの奥さんのことだもの。……お前さんも随分勝気だが、奥さんにあっちゃ叶いっこないよ。こうと決めたら、てこでも動くこっちゃないからね。」

「そのうちには、恭さんもわたしたちを忘れてしまうだろうね。」

「そりゃ、何といってもね……だから、やっぱり今のうちに、お前さんの方で折れた方が何かと工合がいいんだよ。」

「でも、恭さんの代りにあんな猿みたいな子を預るのかと思うと……」

「そんなこと言うのは、およし。聞えたらどうする。」

「だって、本当だろう。お前さん、そうは思わないかい。」

「それほどにも思わないよ。そりゃ恭さんとはくらべものにならないけれど。」

「恭さんは、そりゃ生まれた時から品があったよ。」

「今度の赤ちゃんだって、育てていりゃ、そのうち可愛ゆくなるさ。」

「あんなお猿さんみたいな顔でもかい。」

「およしったら。ほんとに聞えたら知らないよ。」

「聞えたら、聞えたでかまわないさ。」

「でも、それじゃ、何もかも駄目になるじゃないかね、第一、恭さんにも一生逢えなくなるよ。それでもいいのかい。」

「ああ、ああ、癪でも、やっぱり預ることにしようかね。」

「そうおし、飯米のこともあるしね。」

「また飯米のことかい。よしておくれよ。あたしゃ、恭さんが可愛いばっかりに、あんな猿みたいな赤ちゃんでも、預ってみようというんだよ。」

「おやおや、えらいご奮発だね。でも、預る気になってくれて、わたしも奥さんに申訳が立つというわけさ、……どうれ、また気が変らないうちに、奥さんに知らしてあげようか。」

お糸婆さんは、にたにた笑いながら奥に行った。そして、お民にさんざん噛みつかれながらも、ともかくもうまく話をまとめた。

そこで次郎はその日から、恭一に代って、お浜の家に里子に行くことになったわけなのである。

だが、お浜が次郎をいつまでもお猿さん扱いにして嫌っていたかというと、そうではない。三四ヵ月もたつと、彼女の愛情は、もうすっかり恭一から次郎の方へ移ってしまっていたのである。

お民は、次郎が次男坊なためか、或いはお浜が言ったように、実際猿みたいな顔をしていたためなのか、恭一を預けていた頃にくらべて何かにつけ冷淡だった。お浜にはそれが癪だった。そして、それがかえって彼女の次郎に対する愛着を増す原因のひとつでもあったのである。

ある日、お浜は次郎の大きくなったのを、お民に見せたいと思って、しばらくぶりでやって来た。するといきなりこんな会話が始まった。

お民――「おかげで、お猿さんも随分大きくなったわね。」

お浜――「まあ、お猿さんですって?」

お民――「そう言っちゃ、いけなかったのかい。」

お浜――「だって、自分の御子様じゃございませんか。」

お民――「でも、お猿さんって言うのは、お前がつけてくれた名だっていうじゃないの。ちゃんと婆さんに聞いて知っているのよ。」

お浜――「あの時は、あの時ですわ。いつまでもそんな……」

お民――「少しは人間らしい顔に見えて来たと、お言いなのかい。」

お浜――「奥さんたち、わたし、くやしいっ。」

お民――「おや、泣いているの、ついからかってみたくなったのだよ。すまなかったわね。」

お浜――「からかうのも、事によりますわ。奥さんがそんな気持でしたら、私にも考えがあります。」

お浜は、ぷんぷん怒って、次郎を抱いて帰ってしまった。そして、それっきり、お民から何度使いをやっても顔を見せなかったばかりか、月々の飯米さえ受取りに来ようとしなかった。で、とうとうお民の方が根負けして、自分でお浜の家に出かけることになった。

今度は、無論お猿の話なんか、どちらからも出なかった。それどころか、お民はこんなことを言って、お浜の機嫌をとったのである。

「この子は八月十五夜の丁度月の出に生まれたんだよ。だから、きっと今に偉くなると思うわ。」

お浜は、それですっかり気をよくした。そして、それ以来、「八月十五夜の月の出」が、いつも二人の話の種になった。話の種になっても、それはちっとも不都合ではなかったのである。と言うのは、次郎の生まれた時刻は、実際その通りだったのだから。

尤も、その時刻に生まれたことが、果して次郎にとって幸福であったかどうかは、疑わしい。それはおいおいと話していくうちにわかることである。

Chapter 1 of 40
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