觚觚ならず
子曰く、觚、觚ならず。觚ならんや、觚ならんやと。――雍也篇――
「先生、買って参りました。」
そう云って、門人の一人が、孔子の前に、十ばかりの觚を箱から出してならべた。觚はその当時の酒器の一種である。
孔子は、一々それを手にとって仔細に眺めていたが、いいとも、悪いとも云わないで、じっと考えこんだ。門人は手持無沙汰で立っていた。しかし、いつまでたっても、孔子が默りこんでいるので、お辞儀をして、そのまま室を出ようとした。すると孔子が云った。
「これが觚というものかな。」
門人は、不思議そうな顔をして、孔子を見た。彼は、孔子が觚を知らないわけはない、と思ったのである。
「觚には稜があるはずじゃ。もともと觚というのは、稜という意味じゃでの。」
門人は可笑しくなった。今ごろ名称なんかにこだわって、どうするつもりだろう。そんな昔風の觚が、何処の店を探したってあるものではない、と思った。で、彼は微笑しながら答えた。
「それがこのごろの觚でございます。」
孔子は、しかし、いよいよ真面目な顔をして云った。
「そうか、これがこのごろの觚か。……いや、これは觚ではない。觚ではない。」
門人は当惑した。彼は一生懸命で弁明するように云った。
「でも、どこの家でも今ではその型のものを使っています。第一、稜のある觚なんか、店で売っておりませんので。」
「ふむ、売っていないのか。しかし、これは觚ではない。觚ではない。歎かわしいことじゃ。」
孔子は首をふった。それから、眼をとじて、また考えはじめた。
門人はいよいよわけが解らなくなった。彼は、おずおず、孔子の前に並んでいる觚を重ねはじめた。すると孔子は、急にやさしい声をして云った。
「まあ、お掛け。觚はそのままでいい。」
門人が腰をかけると、孔子はしずかに話し出した。
「何物でも、その特質を失うことは、よくないことじゃ。そこに道の紊れるもとがある。」
門人は、孔子が何を考えていたかが、やっとわかって、急にいずまいを正した。
「1人間には人間の特質がある。その特質を守るところに人間の道があるのじゃ。とりわけ中庸の徳は至高至善のもので、それを忘れたら、名は人間であっても、人間の実があるとは云えない。」
ここで孔子は、ふたたび、自分の前に並んでいる觚を、まじまじと見つめた。そして、いかにも思い入ったように云った。
「名実相伴わない世の中になって、もう久しいものじゃのう。」
門人は、ただうなずくより仕方がなかった。
「いや、これはつい繰言になってしまった。……では、あちらに行ってお休み、ご苦労であった。」
孔子はそう云って、窓の方に立って行った。門人もすぐ立上ったが、觚をどう始末したものか、しばらく迷った。そして、きまり悪そうに孔子に訊ねた。
「では、この觚は店に戻すことにいたしましょうか。」
孔子は、急に声を立てて笑いながら、門人をふりかえった。
「いや、それはそれでいい。觚は酒を注ぐための道具じや。酒さえ注げれば、稜があろうと無かろうと、構うことはない。箱に入れて、あちらにしまって置いてくれ。」
門人は、いくたびか首をかしげながら、觚を箱に納めて室を出た。
1 子曰く、中庸の徳たるや、其れ至れるかな、民鮮(すくな)きこと久しと。(雍也篇)