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天国の記録
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天国の記録
下村千秋
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Chapter 5 of 12

五

老婆は、おきみをその部屋へ殘して、階下の玄關座敷へ降りて行つた。そしてそこにぐしやりとなつて坐つてゐる周三の前に、立て膝で坐りながら、狼が兎に向つて牙をむき出して見せるやうな調子で言つた。

「お前さんは、今日から、目も見えず、耳もきこえず、口もきけなくなつた男だと思ひなさるがいゝよ。お女郎屋から逃げ出した女についてゐるやうなひもは、さうならねば生きてゐられないのだからね。」

そして老婆はニタリと笑つた。それから下唇をつき出し、舌なめずりをしながら、

「お前さんの寢起きする部屋も世話して上げませう。夜具や炊事道具も貸して上げませう。そこでお前さんはぢつとおとなしく寢といでなさいよ。そしたら、あの女が稼いで食はしてくれるからね。それで、ひもといふものは、お殿樣見たいに、お腹がすいてもひもじうないといふ顏をしてゐるものですよ。もしも夢にでも、あの女を連れて逃げ出さうなどと考へたら、二人共、命はないものと思ひなさいよ。この中は、お女郎屋のやうな間ぬけには出來てゐないのだからね……」

周三は、蛇の毒氣に會つた蛙のやうになつてしまつた。もし、おきみはその咽喉元を絞められて、この闇のどん底へ叩きのめされてしまつたとしても、周三だけはむしろ餘計者として他界へ抛り出されるのかと思ひの外、同じやうに、その首と足とに、この闇の鐵鎖を結びつけられてしまつたのであつた。この男があつておきみは生きてゐるのであり、おきみが生きてゐる限り、その血と肉とを搾り取ることが出來ることを、老婆はすつかり見拔いてしまつたのである。これと較べると、周三を邪魔物とした辰つアんなどはまだ他愛がなかつた。

こゝに於て周三も、おきみと同じやうに買はれた一個の商品といふよりは、おきみを生かすために捕へられた一匹の生き餌とされてしまつたのである。

その夕方、老婆の手に依つて、周三は表通りの蒟蒻屋の二階へ人質の如く預けられ、おきみはその近くの倉田といふ銘酒屋へ賣り込まれてゐた。そしておきみはその夜から再び、野良犬のやうな男を呼び込まねばならなくなつた。あのなまづのやうな醫者の不可解な言動もこゝで始めて解せたのである。

表通りではきれいな商賣をしてゐて、その裏へつて私娼屋を經營し、彼女達から卑怯な搾取をしてゐる者が非常に多くあることは既に言つた。が、この外にもつと卑怯な搾取者があるのだ。それは、この私娼窟を圍んで商賣をしてゐるもの、醫者を初め、藥局、八百屋、豆腐屋、荒物屋、化粧品屋、要するに、彼女達の生活と直接關係を持つもの悉くが、有料、或ひは無料で、この私娼窟の女を周旋してゐるのであつた。彼等もまた、この私娼窟に寄生して生活してゐる寄生蟲であるからだ。一人でも多くこの世界へ私娼をふやすことは、取りも直さず、彼等自身の生活を豐かにすることであるからだ。

それは、蟻の一族が、油蟲の一族を育てふやしてその甘汁を吸ひ取るのと變りがなかつた。

この方法は、彼等自身をうるほすばかりでなく、私娼屋經營者側に取つても非常な利益となつた。即ち、本職の女衒や口入屋から女を買ふのは、高い金がいるばかりでなく、上玉が容易に得られない。が、かういふ素人の手を通せば、世間知らずのうぶを殆んど無代で手に入れることが出來るからであつた。

兩者はこゝで完全に手を握り合つてゐるのである。が、この握手は以上の目的のためばかりではない。もう一つの重大な目的、それは、一度この巣窟へ引きずり込んだ女は、いかなる理由に依つても絶對に外界へ逃がさないための握手であつた。故にこの目的のためには、彼等は單なる握手には止まらず、更らに水も漏らさない連絡を取り、一つの大きな有機體をつくり上げてゐるのであつた。

例の老婆が、その妖怪の凄みでおきみを引つ捕へて一室に監禁し、脅迫し、その法律的犯罪をも絞り出して、彼女の咽喉元を完全に抑へ込み、同時に周三をも「捕へた一匹の生き餌」としてしまつたことは、この有機體内に於ける一種の毒液の注射であつた。

かうなれば、この有機體は、個人の力では絶對に切り開くことの出來ない荊棘と毒草の原始林であつた。いかに切り開いても切り開いても、幾重の荊棘と毒草とが重なり合つて行く手を鎖し、動くことはます/\その荊と毒とに傷害されることになつた。しかもこの中に包圍されてゐる彼女達は、共同戰線を張ることに依つてこれ等の荊と毒とを相手に鬪ふことは絶對に不可能にされてゐた。彼女達は、めい/\一人づゝ、鋼鐵の檻の中に監禁されてゐるからである。

このやうにして、おきみと周三も、あらゆる自由性を奪はれて、外界へ踏み出す力を完全に殺されてしまつたのである。

「さア、こゝは、きみちやんなんかの働くには、日本一のいゝ場所なんだからね。ひと身代つくるつもりで、どし/\働いてくんな」倉田の主人はさうおきみへ言つた。そして先づ商賣道具の衣裳を買はせた。それは、前の女から卷き上げたものらしい古物の綿紗の羽織と袷とで、袖口やふきはすり切れてゐたが、それにおきみは三十圓を拂はせられた。これと同時に、例の老婆の周旋料としてまた三十圓を取られた。醫者が渡した五十圓は、實はこの倉田の主人が出した金で、それは衣裳代及び周旋料としてすぐに卷き上げるためのものだつたのである。

おきみは、さういふ着物を着せられ、再びいや應なしに店へ坐らされたのである。

その店は、溝に沿つた九尺幅の道路に面してゐた。この道路は私娼窟專用のものでなく、一般人の通路にもなつてゐたので、實はこゝで商賣をすることは禁じられてゐた。といつても女が呼び込み窓に坐つてゐる現場さへ見つからなければ罰にはならなかつた。

そこで、この道路に面してゐる六七軒の家は、互に連絡を取り、警戒しながら女を店へ坐らせてゐた。

倉田では、めざしのやうに干からびたおかみが、いつも便所へ入つてゐて、その窓口から絶えず表を見張つてゐた。主人はまたその反對の家の隅の破目板の隙間から往來を覗いてゐた。主人は、片目で、見える方の目は出目金のやうに出張つてゐるので、それは隙間から覗くために出來た目のやうに見えた。

さうして、恐い目を見つけたものが逸早く店の女へ合圖をするのであつた。合圖がかゝると女は素早く窓を閉めて奧へ引き込む。この合圖は次ぎ/\と傳はつて、そこに並んでゐる店の女は順ぐりに窓から姿を消して行つた。それは、親蛙の鳴き聲で、子蛙が一せいに水面から出たり引つこんだりするのに似てゐた。

「だから、うちでは、パツと目につく着物を着てゐて、客が寄つて來たら素早いところで、いや應なしに引きずり上げなきァ駄目だよ、まアふみちやんのやり方を見習ふがいゝ。」

倉田の主人はさうおきみへ言つた。

ふみちやんといふのは、同じ家に働かされてゐる千葉生れの、十三の時に男を知つたといふ、大根のやうな手足を持つた大女であつた。倉田の店の呼び込み口は一つしかなかつたので、このふみちやんとおきみは、三十分交代に店へ坐ることになつたが、ふみちやんの番が來て店へ坐ると、あのふやけたからだから、どうしてあんな聲が出るかと思はれるやうな、彈力のある強靱な聲がその口からほとばしり出た。またふみちやんの手は吸盤を持つてゐた。呼び込み窓へ近づいて來た男の手首を一度握ると、金輪際離れなかつた。男は泣き顏をしながら上つた。

「どうだ。ふみちやんの腕は凄いもんだらう。上るときはあゝして泣きべそで上つても、かへるときアえびす顏だぜ。きみちやんもあゝならなけりや一人前たアいへねえよ。」

主人はまたそんなことも言つた。

しかしおきみには、ふみちやんの半分の眞似も出來なかつた。彼女は、店へ坐ると、その小さな窓口から、往來に沿つた溝の水をぢつと見詰めてゐた。眞黒な水が澱んでゐる面に、あぶくが上つては消えるのをぢつと見詰めてゐた。

「そんなことぢや商賣にならん」片目の主人はまた言つた。「仕方がない、きみちやんは奧へ引つ込んでゐてふみちやんに客を取つて貰ふことにしよう、その代り分け前は七三だよ。」

それからおきみは、ふみちやんの呼び込んだ客を當てがはれるやうになつた。同時におきみは窓から溝の水も見ることが出來なくなつた。朝から晩まで眞暗な茶の間の隅に、蝙蝠のやうにうづくまつてゐなければならなかつた。

「旦那!」おきみはたうとう言ひ出した。「濟みませんが、とき/″\は蒟蒻屋の二階へかへして下さいませんか。」

「ちえツ!」主人は片目をむいて、「ぢや、かうしなよ。御亭主をうちへ泊りに來さしなよ。きみちやんの大事な人だから、特別ロハで泊めて上げらア。」

この家の二階の部屋は、三角形のと五角形のとで、何疊とは數へられない廣さを持つてゐた。物置小屋をそのまゝ部屋に直したやうなもので、窓はあつても、それは闇を吸ひ込む窓でしかなく、これこそ蝙蝠の棲みさうな眞暗さであつた。

おきみは、からだのあいた夜は、この部屋の一つへ周三を呼び寄せた。そして、周三のふところへ顏をぐい/\押しつけ、くつ/\と聲をしのばせて咽び泣いた。

Chapter 5 of 12
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