八
と、更に一と月して、思ひがけなく、脱出の機會が掴めさうな事態が生れて來た。それは、その頃、同じK私娼窟内から住みかへて來た女、清ちやんの變事に絡まるものであつた。
清ちやんは、或る秋雨の降る夕方、一人の男につれられてこの新龜へ來た。彼女は泣き腫らした目を伏せて、臺所の板の間にぢつと坐つてゐた。
「そこは冷えるでせう、こつちへいらつしやいよ。」
おきみがさう言ひかけながら傍へ寄つて行くと、彼女はまたワーツと聲をあげて、板の間へつゝ伏してしまつた。
その夜更け、主人夫婦が寢しづまつてから、
「そんなに辛いことがあるの?」さう、おきみは聞いて見た。と、清ちやんはまた涙を一ぱいためて、惡いひもに附かれて、二百圓あまりの借金を背負はされてしまつたことを話した。
おきみは、自分も同じわなに掛けられていることを話して、心から清ちやんへ同情した。
清ちやんは昂奮して、
「あたし、あんたを姉さんと呼ぶわ、だからあたしを妹だと思つてね」と言つた。
まだやつと十六だといふ、色の白い、髮のやはらかい、ふつくらとした顏の、鳳仙花のやうな娘であつた。それが呼び込み口に坐つて客を呼んでゐる姿は、あまりに痛々しかつた。しかも彼女は、夜、泊り込みを掴まないうちは、主人の嚴命通り、正直に、夜明かししてでも客を呼んでゐた。
「清ちやん、いゝ加減で寢なさいよ。」
おきみが姉さんらしくさう言ふと、清ちやんはまた涙ぐんで、
「でも、しかられるわ」といつも答へた。
さういふ女であつただけ、新龜の主人夫婦は、清ちやんの行動に對してはそれほど嚴しい束縛を加へなかつた。それに、彼女に手枷足枷をはめてゐる政略的ひもはあつても、彼女を逃亡させようとする情夫は一人もなかつたのだ。
主人は、彼女の一人歩きにも可なりの自由を與へた。所詮は紐に結はへられた猿の自由であつたが。しかし彼女はその自由を利用しようとはしなかつた。いつも、三尺四方の呼び込み口に坐つて、薄暗く靜まつてゐた。そして、どうかすると、呼び込み窓へ額を載せて、すう/\と眠つてゐた。客を取つた後などには、呼び込み口へ坐るなり、打ちのめされたやうになつて眠つてゐた。
「清ちやん、そんなことをしてゐるなら、二階へ行つて寢たらどう。」
おきみがまたさういふと、
「でも、しかられるわ」と彼女は答へた。
「だつて、からだを毀しちやうぢやないの、こんな寒いところに眠つてゐたら。」
「どうせもう、こはれてゐるのよ。」
果してそれから四五日した夜、清ちやんは、呼び込んだ客を二階へ上げようとして、梯子段の中途から轉げ落ちてしまつた。眞白くなつた唇を喰ひしばり、泡を吹きながら、からだ中をガク/\顫はした。
「清ちやん、清ちやん!」
おきみは夢中で叫びながら、そのからだを抱き上げ、茶の間へつれて行つて寢かした。が、この時の彼女の心臟の鼓動は殆んど止まつてゐた。
主人もさすがに慌てた。彼は、清ちやんのからだを背負ひ上げると、近くの病院へ運んで行つた。この病院が、もう少し遠く、醫者の手當てがあと五分間おくれたなら、清ちやんはもう死んでゐたに違ひなかつた。
カンフルの注射で、清ちやんの心臟はとにかく動き出した。
この病院は、この私娼窟專有の病院のやうなもので、こゝの院長は、T私娼窟のあのなまづのやうな醫者と同樣、私娼經營者の味方ではあれ、私娼の味方では決してなかつた。頭の先から爪先まで完全に買収されてゐた。
病院といへば、材木倉庫のやうなバラツク建で、内部は、一間の廊下をはさんで、二十疊ほどの疊敷の部屋がいくつか並んでゐた。それは柔道の道場のやうにガランとしてゐた。
この一つの部屋の中に、六七人の患者が、思ひ/\の方向に向いて寢てゐた。みんな私娼窟の女であつた。病氣は、大部分、肺病と性病であつた。
清ちやんは、内膜から外膜を冒され、最後に激烈な腹膜をやられた患者として、この部屋の隅へ収容されたのであつた。これは、九十パアセントまでは性病に冒されてゐるといふ私娼のからだに、當然の結果として現はれる病氣であつて、この病院内で死亡するものの半數以上は、この病氣に依るものであつた。
もう秋も末になつてゐた。そして、じめ/\した薄暗い部屋の空氣は、さま/″\の藥品の匂ひに濁されて、避病院内のやうな臭氣が、部屋の隅々までぢつと澱んでゐた。清ちやんは、さういふ中に蝋燭のやうに白い顏を横たへて、辛うじて呼吸をつゞけてゐた。
言ふまでもなく、附き添ひの看護人が必要だつた。新龜の主人は、その看護人として、おきみの良人、周三を引つ張つて來た。煙草屋の二階へ置いとくよりも、この病院へ入れとく方が、人質としても更に完全な人質とすることが出來たからであつた。周三は、清ちやんの枕元へ、木偶坊のやうにぎごちなく坐つて、終日、ぼんやりとしてゐた。
周三がさうして囚はれてゐるためか、おきみは、二日に一度は、この病院の清ちやんを見舞ふことを主人から許された。おきみは清ちやんを、ほんたうの妹の如く愛する心から、清ちやんの好きなドロツプを買つては訪ねて來たが、一つは、そこで周三と顏を合せることに依つて、逃亡の機會を掴まうとしていたのであつた。が、その機會は全く與へられなかつた。醫者や看護婦達の目を偸むことは出來ても、同じ部屋の他の患者の目と耳を偸むことは絶對に出來なかつたからであつた。
院長は、毎日一度、午後三時頃、一人の助手と看護婦をつれて診に來た。頭が禿てゐる上に、その天邊がキユーピーのやうに尖つてゐるので、みんなはキユーピー院長と呼んでゐた。彼は患者の枕元を、そつぽを向いて只ヅカ/\と通り過ぎるだけであつた。可なりの重症患者の所へつて來ても、僅かに腰をかゞめて義理一片に顏を覗き見るだけであつた。只その患者が、數百圓の前借を背負つてゐる場合は、その抱へ主のため、その前借を殺してはならぬといふ義務から――女自身の命を生かさうとするのではない――割合に丁寧な見方をした。
「院長さん、苦しい。サンソを吸はして下さいよ。」
「院長さん、早く注射をして下さい。痛くつて死にさうよ。」
「院長さん、からだ中が焦げさうだよ。何とかして頂戴よ。」
だが、それらの訴へ聲が、僅かの前借か、無前借の女の口から出たものであれば、院長は、尖つた頭をふり向けもせずに部屋を出て行つてしまつた。
「馬鹿! 畜生! 呪ひ殺してやるよ。」
「みんな死んぢまへ! 世界中の人間が死んぢまへ!」
「火をつけて燒き殺してやるよ。日本中、燒き拂つてやるよ!」
さういふ叫び聲が、院長の背中へ投げつけられた。しかし院長は、病人は一面狂人である、といふべら棒な見解から、それを平氣で受け流してゐた。
「一體、淫賣なんて商賣を、だれが發明したんでせうね?」
そんなことを言ひ出す女もゐた。
「そりや、こゝのキユーピー院長見たいな人間さ。」
「それであたし達は、いくら稼いでも稼いでも借金がふえるばかりなんだね。」
「さうさ。先づ旦那にしぼられて、それから借金に卷き上げられて、ひもに取られて、衣裳代に取られて、罰金に取られて、税金に取られて、おしまひにこんな病院に取り上げられてしまふ。……骨も殘りやしないわ。」
「あゝ、早く死んぢまつた方がいゝ。」
「さうよ、死んだ方がよつぽど樂よ。地獄だつて、こんなぢやないわよ。」
みんなはそんなことを言ひ合つてゐるうちに、誰かゞワーツと泣き出す。と、それにつゞいて、そつちでもこつちでも泣き出す。
それは全く堪まらない絶望の叫びであつた。