科学と芸術のあいだの関係についての議論である――発疹チフスとは無関係であるが前章で述べた文学者の投げかけた問題である
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職業的文学者はこの章を軽蔑して肩をすくめるだろう。アメリカには仮に垣根越しには興味深く見えても専門家は自分の領分を離れてはいけないという先入観がある。しかし文学批評家たちは科学があれこれであって「科学はその場所より高められるべきではない」などと言っていて文学者が科学を知っているほど科学者は文学を知らないであろうのからウィルソン、ブルックス、マンフォード、イーストマンなど中年になるまで「青年学派」である人々が本書のこの部分を飛ばすことを希望して敢えて先に進むことにする。
生物学者は特に困難な立場に居る。化学者のように個々の反応を分けて1つずつ研究することはできない。しばしば物理学者が実験をするときに役立っている数学的な予想を生物学者は持たない。自然は生物学者が研究する条件を設定し生物学者は自然の条件を受け入れるかまたは完全に仕事を諦めなければならない。
生物学者は物理・化学的な解析によっては生命現象の最終的な証拠が得られないことを知っている。しかし「生気論」や「新生気論」は単なる「機械論」が助けにならないことから生まれた一種の曖昧な神学以上で無いことを知っている。したがって辛抱強い生物学者はこつこつと働き経験的な観察をできるだけ正直に積み上げ無限の増分によって生気論的な曖昧さの程度をできるだけ狭くし手に入れている事実で満足している。ベルグソンは次のように言っている。「曲線の非常に小さな部分は直線に近い;小さくなればなるだけ近くなる‥‥同じように『生気』は物理的および化学的な力の任意のすべての点における接線である‥‥(しかし)実際のところ曲線が直線から出来上がっていないのと同じように生命は物理・化学の要素から出来ているのではない」生物学者は常に生気の曲線を微分し(*接線を求め)ていて人間が完全に理解する「極値」には到達できないが近づけることを知ってはいる。さらに問題を追求しているときにはいつでも対象に進む前に取り扱っている複雑系を構成する個々の要素の解析にまず後退しなければならないことを生物学者は知っている。
このような困難は現在の計画を思案する心境を生むことになった。私はいつも実験計画を始めるときと同じように発疹チフスの伝記を気楽に書き始めた。まず最初に伝記を書く一般的な方法を考ええることにした。次いで何故人々は病気の研究を行うようになったかという問いかけが起こった。予備的な準備は終わったと考えたときに文学者の友達が現れて私の熱意に塩をかけた。
彼は言った。「バクテリアを培養し、モルモット、ウサギ、マウス、ウマ、サルに注射し、世界の汚い隅を旅して疫病を研究し、外国の地下室でラットを捕まえ、消毒し、シラミを除き、燻蒸したりし、発疹を眺めたり、人や動物の咽頭や他の開口を覗いたりし、シラミ、ナンキンムシ、ノミ、ダニを飼ったりし、痰、血液、尿、大便、乳、水、下水を調べて一生を送っている人」彼は繰り返した。「そのように完全な科学者でも芸術家でもない人に芸術家でなければ成功できないような仕事が出来るだろうか? 鍵穴から覗く伝記作家や低温殺菌したラブレー流のフロイト派批評家についての貴方の意見は正しいかも知れないが文学的科学的な老嬢の動きより以上に悪いことだろうか? 貴方はニューヨークのコリンズ博士のように『医師はこれもあれも見る』つもりか?」
「しかし」私は答えた。
「芸術をかじって笑いものになっている中年の科学者などを見てごらんなさい。アトランティック・
マンスリーを読んでみなさい。」
「おやまあ」私は言った。「他のことに知的な興味を持ったからと言って細菌学者を廃業する必要は無い。ここアメリカで専門家はテーラー主義工場労働者になることが期待されているようだ。人は何故たった1つの鍵穴から世界を見なければならないのだろうか?」
「おやおや、好むなら1ダースの鍵穴から覗いても垣根に登って見回してもよい。しかし訓練を受けていないことについては黙っていなさい。伝記は芸術家の仕事である。実験室の窓に頭をつけて外の世界を眺めなさい。もしも書きたかったら頭を引っ込めて『ジャーナル・オブ・エクスペリメンタル・メディシン』に書きなさい。もしも伝記を書き続けるならば今までに得た名声を失って終わりになるだけだろう。」
私は異議を唱えた。「科学についてあることを知っているだけで芸術の知的に理解することを否定されるのだろうか? 朝食後に読む時間のある人だけが文学を評価できるのだろうか? とにかく芸術と科学のあいだの本質的な違いは何だろうか?」
彼は言った。「これは困難な問いかけだ。ゲーテは答えたかも知れないが彼は答える価値があるとは思わなかった。人道主義者と非人道主義者のあいだの(*第1次)大戦は答えがあったかも知れないが両陣営とも相手にたいして怒っていて科学にたいして無知であり重要な問題を無視した。バビットは博識だったので生きていたら答えを見つけたかも知れない。結局、小者が彼を忙しくさせた。とにかく貴方も私もこれに対処するには充分な知識がない。」
この種類の事柄についてのこの友達の意見を重視してこの場合には科学と芸術のあいだに差があるとしたら本質的な違いについて明らかな考えをまとめるまで私の科学的訓練を超えていると彼が言っているこの事業に乗り出すのを延期することにした。
私は他の人たちの意見を調べてこの問題に謙虚に近づき私より賢い人たちの意見が一致していないことを見つけた。エディントンとジーンズは科学を「現象の計量的すなわち数学的な記載」すなわち生物学部門すら除外する概念に限った。しかし理性の険しい路を寒い山頂まで登ってから形而上学のトボガンそりに乗って暖かく気持ちのよい神学の谷間に滑り降りている。ディングルはもっと自由な見解を持っていて「ある性質、すなわち全ての正常な人々に共通な経験をもって合理的に処理する」方法と科学を定義している。これはものすごい英語であるがこれを解析して逆にすると芸術の領域は「個人に特有であるか限られた数の人たちが共有する」経験であることを意味する。この意見は動物を表面的な類似によってクジラは魚でありコウモリは鳥であるとしたダーウィン以前の動物分類方法よく似ている。ホワイトヘッドは問題を単なる形態学より深く下に掘り下げて比較解剖学および生理学に及んでいる。彼は科学の範疇に生物学や地質学だけでなくさらにダ・ヴィンチの自然主義芸術も科学に近いものとみなした。実際、彼は偉大な文学たとえばアイスキュロス、ソポクレース、エウリピデスの「科学的想像」すなわち運命の女神が「悲劇的な出来事を不可避のこととする」に「科学が持つ洞察力」である「秩序」と同じ法則を認めている。もしもアリストテレスが現代科学思想を知るのに充分な長いあいだ現代に戻って来たとしたら彼はホワイトヘッドにかなり近い意見を持つだろうと断言することができる。ついでながらアリストテレスはハーバードでどんなに激しく反対を受けるだろうか!
ハヴロック・エリスは次のように書いたときに科学と芸術をはっきりと分けることは不可能と考えていた。「抱きしめたり、心の中を述べたり、所有したり、指導したり、気高くすること、これは恋をする者にも自然発見者にも共通な仕事であり願望である。したがってロスやフランクリンは極地のヴェルテルであり、恋をしているものは精神上のマンゴ・パーク(*アフリカ探検家)である。」パーク氏の名前がマンゴ(*安っぽい物)で無かったらこの引用はもっと楽しいものであったろう。しかしこのままでは心に生じている考えが重荷になっていることを示している。
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大部分の現代文芸批評家にとっていわゆる科学者は「単なる合理主義者」であり科学と芸術の関係は写真と絵画の関係と同じである。これはたぶん彼らが信じられないほど科学思想に無知なことによるのであろう。精密さによって分けることは適当でない。科学は芸術よりも写真的ではない。精密科学とも呼ばれる物理的科学でさえ測定や数式化は納得できる程度の近似以上ではない。科学的方法は平方根2、平方根3、幅の無い線、大きさが無い点、ゼロ、負数、無限の概念のような抽象概念を繰り返して使わざるを得ないようになっている。科学思想は知性探検のための前進基地である仮説と虚構の港から絶えず出発している。物質は分子となり分子は原子となる。原子はイオンにイオンは電子になる。次にこれらはエネルギーの把握できない源になる。これらは「エネルギー」すなわち詩人が感じる熱望、喜び、悲しみ、としてのみ知られている「魂」以上に把握できる明白な実体ではない。科学の歴史は芸術で霊感と呼んでいるものの例で満ちあふれている。しかしこれにはホワイトヘッドの「思索的な理性」という定義がもっと適当であろう。
さらに科学者も芸術家も決して「創造者」でないことは悲しいことではあるが明らかである。若い批評家たちが絶えず間違って使っている「創造的」という言葉は精神病院で最も盛んであると言われている楽観主義の虚構である。自然はゲーテが言っているように神々すら変えることができない永遠で必然的な法則によって進行している。科学者や芸術家が行っていることの大部分はそれまで常に存在してきた物事の新しい理解に過ぎない。彼らはよりはっきりとした理解を「創造」する。この意味で科学者も芸術家も観察者であり科学者は外界を非個人的に記載するのにたいし芸術家は外部の物が彼の心と心臓に及ぼす影響を表現するのが明らかな違いである。どの例にしても観察が一般に適用できればできるだけ科学または芸術は偉大である。
理性による知覚に頼る理解であるか情緒による知覚に頼る理解であるかによって、観察による成果を科学または芸術とするかは公平ではなかろうか? 知性の能力はいわゆる情緒下から超理性まで広がっている一種のスペクトルを形成している。情緒下の極限には音楽および叙情詩によって動かされる知覚がある。反対側すなわち純粋な理性には数学への知覚能力が存在する。この2つのあいだには芸術が科学的であり科学が芸術的である幅広い重なりがある。散文で表現されている文学は中間であって左方では叙事詩と物語詩に向かい右方では心理学、生物学などから数学に向かって色合いが変わっている。
「どちらかの極限を超えたらどうなるか?」友達は尋ねた。
さあ、10-10の極限を超えると知覚が無くなり物理学者は教会に仲間入りする。他方、ジョイスや女性作家ガートルード・スタインおよびその模倣者たちから判るように脊髄が脳に割り込む。どちらにせよ科学でも芸術でもなくなる。
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次に出会ったときに友達と議論を続けた。
「前に話し合ったことによるとどんな仕事も一種の知性スペクトル分析で楽に分類できるだろう」と彼は言った。
「ふつう古い形式ならスペクトルのしかるべき場所にはめこむことができる。コールリッジやサント=ブーヴのような批評家なら文体、言い回しの美しさ、明瞭な思想、強さ、誠実さ、深さ、漠然としていて繊細ではあるが錯乱してはいない好みと感受性、を取り扱っていればよかった。境界的な精神医学に頼らないでも知識があり知的である批評家なら誰でも芸術を判断することができた。ところがボードレール、ランボー、ヴェルレーヌ、マラルメ、ラフォルグに続くフランスの象徴主義者たちによって角が回されることになった。ときにこれらの偉大な人たちは理解できないところに近づくこともあった。しかし主として彼らは薄闇と霧によって美をきわめこれらを通して彼らの考え、悩み、楽しみは神秘的、グロテスク、曖昧にではあるがそれにしても効果的に知覚された。単に彼らが悲しみおよび醜さに最高の贈り物をしているからといってラセールとともに彼らの正当な場所を否定することはできない。テニソン主義やロングフェロウの時代に戻れと訴えるわけでない。しかしサント=ブーヴが T. S. エリオット、晩年のジョイスやスタインのある一節の批評を頼まれとしたら、神経病学者のシャルコーかベルンハイムに相談したであろう。これは現代の批評家が現代の作品を判断するにあたってしばしばフロイトに相談せざるを得ないのと同じジレンマである。医学の臨床においても正気と境界的な狂気とのあいだにはっきりとした線をひくことはもちろん困難である。しかし芸術作品の批評家が精神病学の訓練を必要とするとしたらこの事実だけでも彼の主題に芸術的な価値があるかどうか疑わせるものである。われわれのスペクトル分析を現代の作品に行うことの真の困難さはこれらの多くが芸術のとしての情緒への訴えが無く科学としての合理性も無いからである。
「どれかを調べてみよう。T. S. エリオットを例にあげよう。散文は考えが非常に明白であり誰も才能、独創性、ときには偉大な美を否定する者は無いだろう。しかし彼の詩は適切に批評されてきているように読者との謎解きゲームであって理由はあるだろうが読者を馬鹿にしているように見える。『明らかに私が一方的に知っているそれとなく言っていることを言い当ててごらんなさい。注6a参照。』荘重な数行を書いて突然に中断して関係の無いおしゃべりに進む。
「部屋の中で女性が行ったり来たりする
ミケランジェロについて話しながら。」
読者は『イーニー、ミーニー、マイニー、モウ』と加えたくなる。または次はどうだろう。
「有名な透視家のソソストリス夫人は、
悪い風邪をひいた、それにもかかわらず
ヨーロッパで最も賢明な女性として知られている
邪悪な1組のカードを持っていて。」
「何故『それにもかかわらず』なのか? 悪い風邪をひいたから賢明なのか? これはどうだろうか(無数の例がある。)
「今アルバートが帰ってきて貴方は少し利口になる。
彼が貴方にあげた金で何をしたか知りたいと思っている
貴方に歯が生えるように。」
「これは詩かい? ありふれた散文のようだ。確かに科学ではない。」
「もちろん前後と無関係にこのように取り出すのは公平でない。全体としては現代における幻滅の『荒地』(*長編詩:1922)を象徴している。もちろん科学者は理解が困難である。」
「あることの理解が困難かどうかではない。理解されて意味をもつかどうかである。私の実験室で時々サルが逃げ出して染色液のビンを顕微鏡やブンゼン・バーナーに投げつけて素晴らしい突飛なことになる。結果は光、音、興奮の刺激的なカオスである。しかし終了すると乱雑とゴミが残って整然とした科学実験をするには掃除をしなければならない。芸術の実験室でも同じことが起きるだろう。私が理解できないのはこのように有能な人がこのようにすることである。」
「貴方はボードレールについても同じことを言うと思っているけれど?」彼は言った。
「おやまあ、これらの人々がボードレール、ランボー、ラフォルグから引き出しているのは古いものだ。しかしボードレールたちは発見をしていた。ボードレールは一種の有機化学者だった。極めてむかつくけれど新しい物質を合成した。」
「さて他のものを試そう。たぶん貴方はこれを知っているだろう。
「Nearly all of it to be as a wife has a cow. All of it to be as a wife has a cow, all of it to be as a wife has a cow, a love story. As to be an of it as to be a wife as a wife has a cow, a love story, all of it as to be all of it as a wife all of it as to be as a wife has a cow a love story....
又は「A meal is mutton mutton why is lamb cheaper, it is cheaper because so little is more.」
「これはスタインの作だ、」私は言った、「次のを聴きなさい:――
「Balloons -- colored balloons -- my colored balloons Who busted my balloons? Bolony balloons; they have punctured my categorical imperative.」
「彼女の作品中でこれは知らないようだ。」
「そうだ、これはスタインの作品ではない。これはアリス・グレーのだ。彼女とはマクリーン病院で知り合った。50歳だったのに幼児と思っていた。他のも聴いてみなさい:
「Pease porridge hot, pease porridge cold,
Pease porridge in the pot ...」
「冗談ばかり言わないで欲しい」彼は話の邪魔をした。
「実際のところスタインは書こうとしたらまったく分別をもって書くことができる。」
「彼女はなぜそうしないのだろう?」と私は尋ねた。
「自動執筆をしているのさ。」
「それでは科学ではないか!」
「そうじゃあない。彼女は意識的なものと意識下のものを交互に爆発させて1つの印象を作り上げている。」
「それでは花火という意味で芸術だね。」
「しかし彼女は若い作家に大きな影響を持っている、」と彼は言った。
「クリスチャンサイエンス教会の創立者エディ夫人もバーナムもそうだった、」私は答えた。
「ボードレールが居なかったらランボーもヴェルレーヌも居なかったであろう。バッファロー・ビル、バーナム、エディ夫人が居なかったらスタインは居なかっただろうし、ジョイスは気品ある散文を書いていただろう!」
「ジョイスについて言ったら、『タムとシェム』を読んだことがあるか?または別の名前かも知れないが。」と彼は言った。
「Eins within a space and a weary wide space it wast, are wohned a Mookse. The onesomeness wast all to lonely, archunsitlike, broady oval and a Mookse he would a walking go (My hood ! cries Antony Romeo). So one grand summer evening after a great morning and his good supper of gammon and spittish, having flabelled his eyes, pilleoled his nostrils, vacticanated his ears ...」
「止めてくれ! 小さい子供の時にそのようなことをして罰せられた。」と私は叫んだ。
「これは科学だろうか芸術だろうか?」と彼は尋ねた。
「どちらでもないよ、もちろん。しかし私には彼らが何故このようにするか判らない。彼らが少し頭がおかしいとしたら事をお終いにするのは非常に楽だろう。さらに私が述べた人たちは希望すれば正気に戻る能力があるので頭がおかしい可能性は排除される。」と私は言った。
「貴方は純粋詩の考えを忘れている。意味が無いほど良い。ペイターやムアの音楽に似た詩だよ。」と彼は言った。
「詩と音楽の関係とは大層な学問的な無駄話に入っている。詩人は一種の音楽家に過ぎないとヴァレリーは言っている。ルイスはこれを「批評的神秘主義」と呼んでいる。彼らは「心の中からの迎え」、「心臓への不滅の重圧」、「その表現する言葉より先に行く」などなどと、ブレモンによるといろいろのことを言っている。ときに批評家は彼が書いている詩人よるもずっと神秘的なことがある。」
ついでながら言うと偉大な科学者のうちには批評家になって詩にたいする自分自身の美的反応を説明しようとして文学評論家と同じように神秘的になるのは奇妙なことである。しばしばその人の権威はあまりにも大きく――多くの場合は正しくそうであるが――彼を批判することは学者のあいだで God を god と書くのと同じとみなされる。私はホワイトヘッドのことを言っているのであるが、彼に同意しないことによってネアンデルタール人が巨象を豆鉄砲で襲っている気がしている。彼が原子内におけるクラーク・マクスウェル方程式の適用を論じているときに私は到底かなわない。しかしホワイトヘッドがシェリーのモンブランについての詩にカント流、バークリー流、プラトン流の理想主義を適用したりワーズワースの自然崇拝を「科学批判」から引き出そうとしたりすると彼は自分の足を理性のブレーキから離して情緒をもって自由に動き回る能力を持たないことを示しているだけである。
さて雲やモンブランについて書いているときにシェリーは『事物の不可解な無限の変化』について考えてはいなかったし『科学の抽象的な物質主義の受け入れ』を意識的に拒否してはいなかった。」シェリーは自然を見て呼び起こされる考察および情緒のすばらしく大きなイメージを表現しているのであり、哲学的分析によってはシェリーの完全な効果を読者に与えることはできない。思想と感情が変化するときの完全な美、および音楽的な美――音だけでなくイメージの調和における音楽的なもの――は自然が詩人自身に引き起こし詩人から伝達するのと同じ反応を読者に呼び起こすに違いない。これはシェリーが「芸術的な仕事を要素にまで分析するのはスミレを坩堝に投げ入れるのと同じである」と答えた古い問題である。もちろん詩は音楽に近づいてはいるが音楽と違って考察とイメージにおいて具体化の力を持っている。最高の詩は伝達であり明瞭なものである。純粋なリリシズム(叙情性)によってマラルメの象徴主義に健全に進んで行ったかも知れない。そして彼の同時代の人たちは知性がますます明瞭で無くなりますますイメージと暗示に頼るようになる。さらに進むと自制を失ってエリオット氏のある節のように「ジャグ、ジャグ、ジャグ」や「バム、ブー、ビミ、バムの木」のように全くサキソフォンのようなたわごとになってしまう。ボードレールが「ロマン派芸術」で「ある対象は絵画的であり、あるものは音楽的であり、あるものは文学的である」と言い、「今日それぞれの芸術が近接する芸術へ侵入しようとするのは退廃の宿命によるのだろうか?」と言っているのはこのようなことが念頭にあったらしい。」文学作品が、たとえ短く頭文字で書かれていても、健全で感受性がある人々に全く理解できないようになっているのは自制を失ったことである。
疑いなく大きな力を持った人たちが捕まえられたサルが陰部をもてあそぶように自分たちの心をもてあそぶのは何故か自問しなければならない。彼らが永続的な知的見習いに一種の「ペンテコステ派」をつくることが出来なかったとしたら全く痛ましいことである。ウィンダム・ルイスがこれを「白痴児」カルト――低脳な人たちによって暗くされた子供――と呼んだときにある定義に近づいている。前に言ったようにスキナーはスタインの例を「自動執筆」の意識的な実験と考えている。
次のようにも考えることができるだろう:
(1)新知性派の数多くの大衆を面白半分または利益のために意識的にからかっている。
(2)彼らはよく知られている露出症――すなわち受け入れられるにせよ反対されるにせよセンセーショナルな注目を受けるのを願望すること――に罹っている。これは軽い精神錯乱であって巫女を説明することができる。それほど目立つ例ではないが、新聞に投稿したり、タバコ広告に名前を貸したり、ニューロポップを1ビン飲まないと「発作に苦しむ」と書かせたりするのは、この衝動である。
(3)彼らは心理学実験をまじめに行っており、この場合に彼らは麻薬を呑んでいるときのように慎み深く内密にしなければならない。
(4)肉体的に病気の人が手術のことや慢性大腸炎について話しをしたいように、自分たちの(精神的な)病気を暴露したい衝動を避けることができない。
もしも彼らがふつうの人だったらこの行為はただ共感を惹くだけであろう。これらは恐ろしい機械なので絶縁体が送電線を焼き切らないことを希望する。しかしこれを見ると、医学知識を持った人にとってこれらの人々は脊髄を脳の代わりにしたり、または少なくとも前頭葉から基底核に降りてきているように思われる。
「随分と長く話した。しかし結局のところ美の定義になってしまった。そうではないか?」と友達は言った。
「さあ、説明して欲しい。」と私は答えた。
「ここに最新の定義がある。美とはある経験の際における種々の要素の相互順応である。このように本来の意味において美は実際の場所において典型的な具体例を見いだす性質である。または逆に言うと美はこのような出来事がいろいろに関係する性質である。」
「素晴らしい! 貴方は陽気だよ、決して変人ではない。」と私は答えた。
「さて、続けよう。美のこの定義を理解するにはこの本において世界を解釈している形而上学体系に属する三つの原則を心に留めなければならない。この三つの原則とは次の相互関係に関するものである。(a)ある把握の客観的内容とその把握の主観的な形とのあいだ、(b)同じ場合における種々の把握の主観的な形のあいだ、(c)ある把握のさいの主観的な形とその把握の場合における主観的な目的に含まれる自発性のあいだ。」
「ストップ、これはスタインによるのか?」と私は言った。
「いや、ホワイトヘッドによるものだ。」と彼は答えた。
「さあ、これはこれは。発疹チフスの伝記に進んでもまったく安全であると決心できた!」と私は言った。
実際、我が友が帰った後で考え込んでこれまでのことをしばらく思うときにはいつでも発疹チフス、梅毒などの正直さに感謝した。皆さんはこれらの病気にどこで罹るかをいつでも知っている。そしてもしもこれらの病気にかかわるときに「いい加減に」するとこれらの病気は皆さんを馬鹿にして皆さんは病床に横たわることになる。これらの病気から遠ざかるかまたは用心深い能力をもって近づきなさい。現代の批評家たちが偉人の死体を不器用に解剖して精神的な腫れ物やカルブンケルにかかったらどうなるか考えてごらんなさい。それともジョイス氏が腸の機能に専心したら。それともエリオット氏が情熱的にシャドーボキシングをしたら。それともあまりにも現代的な作家の猥褻さや性的神経症が脳に巧みに入り込んで運動失調や麻痺を起こしたら。実際、私の知っているすべてからすると多分このようなことが起きているのであろう。そうして精神の梅毒にはサルバルサンが無い。
発疹チフスはこれに比べるとずっと有害ではない。