二 下山真弓
海松色の海水帽できりりと髪を装ひ、日射しの眩しさを避けるやうに眼眸をおとして、右手に黒い水着を弄びながら、真弓は女学校の前の松並木を海の方へと歩いて行つた。やうやく近まつて来た午後の潮騒にまぢつて、まだ若い蝉の鳴声が、両側にならんだ別荘の庭からまばらに響いてゐた。浜はいま人の出盛りらしく、此砂道には真弓のうしろに、道の長さに平行してくつきりと彫まれてゐる彼女自身の影のほかに、人影もなかつた。これは、都会の華麗さも遠く及ぶ所ではない真夏の海辺の壮大な交響楽のさ中に全身をうち任せる前の、不気味なまでに明るい静寂のひと時であつた。
真弓は此短い期待の幾分かの孤独を愛した。彼女にとつてはいはば祭典にもひとしい真夏の海辺である。何となれば、そこには、生れたままの姿態になつて自分の伸々と生長した健康な四肢を亨楽することの出来る、白沙のうへの明るい時があるのだ。また、のはげしい羽摶きとともに、彼女の澄みかがやく双つの瞳が天の藍に深く吸ひこまれてゆく、美しい忘我の時があるのである。そんな彼女が愛してゐる海辺に出るまへの此数分間の外光にみちた孤独の時は、彼女のために意味のふかい贈物であつた。
しかし並木道が海岸通と交叉する四辻に来たとき、真弓は微かにその瞳を曇らせて、何ものかを忌み憚るやうな様子で、四辺に眼をくばつた。
その男の姿をはじめて此四辻に見出したのは丁度一週間まへであつた。その男は真夏であるのに垢ぢみた紺がすりの袷を着、帽子もかぶらず、無精に伸ばした赫ちやけた頭髪を砂丘を越えて来る潮風になぶらせてゐた。若しも手にバラバラになつた仮綴の洋書を持つてゐなかつたなら、彼は容易く浮浪人と見られたにちがひない。その男がつき立つたまま凝然と、窩んだ眼で真弓をみつめてゐたのである。――第一日は何の気なしに、唯穢らしい人だぐらゐに思つて通り過ぎた。然しその男の姿は、次の日も同じ場所に見出された。そして此一週間のあひだにその姿の見えなかつたのは二日位だつたと彼女は記憶してゐる。その男はべつに彼女の跡をつけて来るのではない。砂浜に出てその澄んだ瞳がはじめて碧碧と海の色をやどすと同時に、そんな陰影は真弓の記憶から跡形もなく消えて行つてしまふのが常であつたが、それでも時たまふと心に浮ぶまま視線を四辺に配つてみることもあつたけれど、其男の影は砂丘にも渚にも決して再び見出されないのであつた。とはいへ、此男の存在は彼女にとつて厭はしいものだつた。出会の度を重ねれば重ねるほど、厭悪は益々強くなつて行くのであつた。それに、彼女の方でこそ一週間前にはじめて現はれたと思つてゐるけれど、それ以前にも既に其の男は彼女の目に触れることなしに幾度、その暗い瞳を彼女のどんな姿態の上に凝らしてゐたかも知れないのである。此並木道で、また長谷の通で、停車場で。……こんな事を思ふと彼女は堪らなかつた。彼女は、其の男の影が鎌倉から消えてしまつて呉れればいい、と願つた。……
十歳になる迄の記憶は彼女の回想の圏外にあつた。山の麓の赫土の洞の前で、兄や姉と土いぢりをして遊んだことや其の他の記憶は勿論消え失せてはゐなかつたけれども、真弓はそれを回想することを好まなかつた。自分の生活の第一頁は、下山一家がいまの雪の下の家に移つて来た日、つまり彼女の十歳の夏の一日から始まるものと彼女は信じてゐた。その日から今日までの彼女の生活の日めくりは、どの夏を覗いてみても愉しい微笑でいつぱいだつた。短い髪の毛を二つに編んで肩から胸に垂らした此小さなお嬢さんは海が好きだつた。朝から夕方まで海岸で遊ぶことが好きだつた。死んだ彼女の父親がよく、そんなに海ばかり見てゐると眼の色が西洋人のやうに碧くなる、と心配したほどに、真弓は大そう海を好んだ。
女学校の二年生の冬、彼女は兄が贈つて呉れた希臘神話を読んだが、そのなかでアフロデイテが海の泡から生れたといふ話が大そう彼女の気に入つてしまつた。真弓はそのときから後一層海を好むやうになつた。白い砂のうへに坐つて、深い瞳をぢつと海の藍色に凝らしてゐるとき彼女は、その渚の真白な泡の中からもしや美の女神が立ち上りはしないかしらなどと想像してみることがあつた。そんな時にはきつと、その本の挿絵にあつたボッチチェルリの画が、彼女の心像に描かれるのであつた。
たしかにその翌年の夏のこと、その二三ヶ月にあざやかな生長を見せた肢体を海水着につつんで、彼女は砂浜に腹ばひながら、相変らず海の泡の話を思ひつづけてゐたが、ふと、自分を水と砂から生れた娘と呼んでみた。そして此空想がひどく彼女をよろこばせた。
その日からといふもの、此空想は日ましに強まり、次第に完全な形態をとつて彼女の裡にあらはれる様になつた。少し誇張した言ひ方が許されるならば、此空想は長い日の旅を経て、信仰にまで進んだと言ふことも出来る。ともあれ此「水と砂から生れた娘」といふ空想は、一方に肉体的の生長とともに高まつて来た少女風の矜持と合体して、真弓の裡に或る気品に富んだ、とはいへ少しは我ままに失した所もないではない人生観を育てるに役立つたのであつた。水と砂から生れた娘として、真弓は陸の土と埃とを蔑んだ。自尊心のつよい少女として、真弓はあらゆる近代的生活様式に依つて彫まれ彩られた仮面の青年たちを冷視した。彼女は自分の純白な生活史を、敏感な自尊の刀で切りひらいてゆく、そんな少女であつた。
かう言つた気質の彼女であつたから、暗い陰影をうしろに引きずつてゐるらしいその見知らぬ男の不安な存在は、彼女を厭悪させるに充分であつた。空には雲もない夏の朝の微風に、ホテルの寝台の上のやすらかな睡眠からめざめて、さてボオイが運んで来ておいて呉れたミルクの壺を手に取り上げたとき、純白な乳の表面に醜く浮いてゐる死んだ蠅を見出したとしたなら、此黒い一点はどのやうな感想を人に齎らすであらうか。……
真弓の瞳のかすかな曇は、しかし瞬間にして澄んだ。彼女はその男の姿を今日は其処に見出さなかつたのである。彼女は自分の徒らな杞憂を振り払ふやうに、明るい微笑を眼にかげらせたかと思ふと、そのまま視線を真つすぐに保つて、由井ヶ浜に出る砂丘を登りかけた。がそのとき、傍の赤松の太い幹に倚りかかつて、ぢつとこちらを凝視めてゐる一人の若い西洋人が真弓の眼に入つた。
彼は先刻から其処に佇んでゐたにちがひないのであるが、四辻から五六間の距離はあつたし、すつかり真白な服装をしてゐるため、黒い姿をばかり求めてゐた真弓の眼にとまらなかつたのにちがひない。此瀟洒な西洋人は、今自分のまへを通りすぎて行く、日本の女にしてはめずらしいまでに肢体の調つた少女の上に、はじめは寧ろ驚異に近い眼を注いでゐたが、やがて瞳は好奇と欲望の光を帯びて来て、その眼眸は薄い夏衣の下に、真弓の美しく発達した腰や脚の形を趁ふらしかつた。
真弓は彼の視線が自分のあとを少し執拗に趁つてゐることを感じてはゐたけれど、そんなことに眉も動かす彼女ではなかつた。彼女は寧ろ、黒い影のかはりに偶然見出された此真白な幻像に、瞬間的な対照の可笑味を感じたに過ぎなかつた。……砂丘を登り切つたとき、果てしのない海風が吹いて来る豊かな幸福を呼吸して、真弓の胸は張り切るばかりにふくらむのであつた。今こそ自分を生み自分を育てて呉れた水と砂に抱かれる時であつた。午後二時の太陽が海面に沫きを散らす金色の燦めきに、晴れやかな沈黙の笑を投げ乍ら、真弓は砂丘を下りて行つた。
彼女はいつも自分の着物を脱ぐ場所にきめてゐる、海浜ホテルのテラスの下にある更衣所の方へと歩いた。真夏の壮麗な白日のうちに揺れてゐる海の響が、彼女の精神を裸体にし、彼女の気息を大胆にしてゆくのを感じながら、真弓の瞳はむさぼる様に海の藍を吸ひこむのであつた。海と空とに瞳も魂もとられてしまつてゐた彼女は、傍に人魚が背を乾してゐるやうなだらし無い姿態をして腹ばひになつてゐる、一群の海水着の娘たちに気づかずに行き過ぎようとした。華やかな笑声が足許から涌きおこつた。
「真弓さん、真弓さん。……」
「大そうお見かぎりね。ここへいらつしやいよ。」
「駄目、そんなこと言つちや。ほら、あの夢中になつて何か探してらつしやる眼がわからないの。」
「さう、さう。だからこそ、われわれ親愛なるインディヤン・クラブの仲間にも気がおつきにならなかつたわけね。まあ素敵。まあ素敵。」
「でも、誰方、誰方。」
「およしなさいよ。そんな事いふの。真弓さん、いつか又遠泳をやらないこと。」
「真弓さん、真弓さん。……」
しかし真弓は、振返つて親しげな微笑で此おきやんな人魚たちに点頭いてみせると、そのまま行き過ぎた。うしろの方でどつと涌き起つた新しい一団の笑声を聞き流して、彼女は更衣所にはいつて行つた。
三分ののち、海水服に着かへた下山真弓は燬けた白砂のうへに細い靴の爪尖をそろへ、その上に彼女の全身をまつ直ぐに伸ばしきつた姿勢で立つた。ぴつたりと、肢体の線によく合つた黒い海水着は、細つそりした彼女の五尺三寸の体躯を幾分か小形に見せてはゐたが、それが却つてその四肢の均整を美しく発揮させるのであつた。おそらく身長の限度にまで充分に発達した少女らしい肢体は、まだ脂肪質の生成にいささかも禍ひされてゐないため、つつましやかな脹らみを有つてゐる胸のあたりの線も、此年頃の大抵の日本の女に見られるやうな醜い欠点とはならなかつた。寧ろそれは、少し緊りすぎたとも思はれないではない彼女の肢体全体の線に、優しさとやはらか味とを与へるのであつた。真弓の肢体は、すでに成熟の前の或る完成期に達してゐたのである。で、彼女の肢体はまだ決して、彼女の大好きなボッチチェルリのアフロデイテではなかつたけれど、それは行く行くはその豊麗な完成にまで約束されてゐる、ごく稀な型に属してゐたのである。
左手を腰に置き、右手を額にかざして彼女は、霊泉ヶ崎の真下から材木座までの波打際の曲線に沿ふて愉しげな眼眸をゆつくりと移しはじめた。その時、正面のやや遥かな波のあひだから、
「おおイ。」
と太い男の声がきこえた。真弓は呼声のした波の方へと手をかざしたが、その男の首の下に胸があらはれ、それに胴体がつき、やがて渚に、真黒に日に燬けた厳丈な体躯が立つた。真弓はそれが従兄の五郎であることがわかつたとき、少し首をかしげる様にし乍ら、右手をたかく挙げて親しみの合図をした。
五郎は大跨にずんずん近づいて来たが、やがて従妹の傍に毛だらけの足を投げ出して坐ると、響のいい声で、
「真アちやん、坐らないか。ぼんやり立つてたつて始まらない。――それに、今日はとても水がきたないぜ。はいらない方がましだ。何しろ真黒な人だかりだからなあ。まるでペンギン鳥の引越みたいな騒だ。」
と、寧ろ上機嫌にいつもの毒舌をやりだした。真弓は従兄と並んで坐ると、自分の膝のあたりに砂を掛けながら、長谷寄りの磯を中心にして醜くうごめいてゐる群衆の方へと眼眸を投げてゐた。五郎はまだ何か毒舌の種を探してゐたらしかつたが、やがて従妹の肩先に無遠慮な視線を注ぎながら、
「何だ、真アちやんはちつとも燬けてないんだね。毎日、海へはいるつていふから、感心だと思つてゐたら、何だいその色は。真白ぢやないか。」
「いやよ。そんなにぢろぢろ見るものぢやなくつてよ。」
「だつて、可笑しいからさ。」
「なぜ。何も可笑しいことなんか無いよ。いくら燬けたつてちつとも黒くならないんだもの、仕方がないわ。――それに、女が五郎さんみたいに黒光りがしたら、みつともないよ。」
五郎は闊々と胸を張つて哄笑した。
真弓が心置きなく話をすることの出来る男性は此従兄の五郎を措いて他に無かつた。五郎にだけは心が許せた。五郎にだけは遠慮なしに我ままが言へた。不二家のお菓子が食べたい、と真弓が言へば、その時の彼の気分と真弓の頼みかたとに依つて、仮令雨がひどくても気もちよく横浜まで(その時分まだ長谷の通には不二家の支店はなかつた。)行つて呉れる五郎だつた。それも殆ど総ての男性に共通な追従めいた態度は微塵もなかつた。途中で気が変ると、あづかつた金をみんな飲んでしまつて、菓子も買はずに帰つて来る様なことを平気でやつた。然し真面目な時はごく真面目に、真弓の空想半分の「相談」の相手におとなしくなつて呉れた。五郎は京都の大学にもう五年はゐる。それが彼のあまりよくない身持の結果であることは川瀬の家でも承知してゐる。真弓も知つてゐる。実際、彼は真弓の前でも何でも構はずに女の話を平気な顔でやつた。時には随分露骨なことを言ふこともあつたが、それが従兄の口から出たことだと平気で聞ける真弓だつた。此男は何でもすつかり知り抜いてゐる、さういふ気持が、従兄といふ心易さと一緒になつて、決して尊敬ではなかつたが、親しい信頼の心を彼女のうちに培つた。……
「五郎さんは、法科なんだつてね。」
「うン。」
「何だか似合はないわね。――やめてしまひなさいよ。」
「で、どうするんだい。」
「農科をやるといいわ。きつと似合つてよ。どうしてもお百姓をやる体質だわ。五郎さんのは。……」
「……」
「第一そんな体質をして遊ぶなんて間違つてるわ。そういふ人は、もつと色が白くつて、気障で、……」
真弓は自分の無邪気な解釈をもつと続けようとしてゐたが、忽ち材料に困つてしまつた。彼女は従兄の横顔に行き場に迷つた眼眸をやつた。五郎はニヤニヤ笑つてゐた。真弓は黙つてしまつた。和やかな沈黙が来た。
「宏さんて人、どう思つて。」
暫くしてから真弓が訊いた。
「どう思ふつて。……さあね。」
「すごい人だと思つて。」
「さあね。――真アちやんは。」
「私、――どうも思やしないけど。」
真弓はぢつと眼を白い砂に伏せた。
「何だい。ぢや、いいぢやないか。」
五郎はからかふ様な口調で言つたが、それつきり何も言はなかつた。で、無意味な此会話は意味のないままで終らなければならなかつた。右手寄りの沖合に、いつの間にか白い断雲の一塊が浮び出てゐた。
「どれ、帰るとしやうか。――いい天気だなあ。」
五郎は立ち上つて水着の砂をはらつた。
「そおオ、ぢや私も水につかつて来よう。」
「光代さんによろしく。」
「英ちやんにお遊びにいらつしやいつてね。」
二人は別れた。真弓はしばらくぢつとしてゐたが、やがて元気よく立ち上ると、その小さな恰好のいい靴のあとを、波打際の滑らかな砂の鏡にのこして、直直に波の中にはいつて行つた。