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比較神話学
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高木敏雄
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Chapter 8 of 20

第三節 天地開闢神話

天地開闢神話は、その本来の性質に於て、决して天然神話と称し得可きに非ず。茲に天然神話の条下に、天地開闢神話を説くは、四囲の自然が、民族の神話に、幾何の影響を与えしやの問題に関して、其例証として、此種の神話を取り来りたるのみ。此種の神話に就て、此問題を論ぜんと欲するのみ。天地開闢神話其ものを以て、其本来の性質に於て、天然神話なりと云うには非ず。此種の神話が、民族の四囲の自然と如何なる関係を有するや、幾何の天然的分子を含有するやを、研究せんと欲するのみ。

日本神話は、天地開闢説として、僅少の事項を伝うるに過ぎず、其今日に伝わるものの中にも、純粋の国民的産物として観察するに、躊躇す可きもの、多少之なきに非ざるも、地理的影響は、明かに之を認むるを得可く、海洋的分子の著しく存在することも、後に論ずる所の如し。ヘシオドスの『神統記』に見ゆる、天地開闢説を外にして、希臘国民は尚其伝承中に、数個の開闢説を有す。其中の或ものは、希臘哲学の祖ターレスの宇宙論と等しく、十分に海洋的分子の存在を示す。「アイヌ」の天地開闢神話に曰く、始めは水陸混沌として、唯広大なる海の如く、土は漂蕩として、無涯の水面に浮びたり。鶺鴒降り来りて、水上に両翼を伸し其上を打ちしに、暫くの後、乾きたる土は陸となり、水は海となり、かくて世界は水上に浮び出でたりと。「ポリネシヤ」の天地開闢説に曰く、世界の初には、天と海とありて地なし。天神タンゴラ即ち、一片の土塊を、天より下せしに、凝て地となり、漸次拡張せりと。或は曰く、天神タンゴラ、天より糸を垂れて、海底の地を鈎りしに、糸半ばにして切断し、「ポリネシヤ」の群島成れりと。前者は、天の瓊矛の滴りによりて、淤能基呂島の成れるを語る神話に似たり。其他海洋を有する国民の天地開闢説に、亀の現わるるもの、印度に之あり、赤色人種の中にも之あり。

此の如く海洋的国民の天地開闢神話が、海洋的分子を示すに反して、大陸国民の天地開闢神話は、少しも此分子を示すこと無し。凡ての民族の神話に就て、其の四囲の自然の影響を尋ね、之を比較し、研究するは、甚だ興味ある事なれども、そは到底紙面の許す所に非らざるを以て、茲には唯、その代表者として、二個の神話を東洋に求め、之に就て少しく述ぶるところある可し。日本神話の天地開闢説は、一方の代表者たる可く、支那神話のそれは、他の一方の代表者たる可し。而して支那神話の開闢説は、之を盤古神話と称するも、其中に更に二個の形式を区別するを要す。其一を屍躰化生神話と称し、其二を天地分離神話と称す。

其一 支那神話の天地開闢説(上)

世人の通常、支那の天地開闢説と称する、哲学的説明は、之を論ぜず。此種の説明に比して、其発生の時代、遥かに古く、其性質一層自然に且つ簡朴に、思弁的考察の跡を示すこと少きものを、盤古神話とす。今之に関して、三つの源泉を示さん。その第一は『五運歴年記』に出で、その第二は『述異記』その第三は『三五暦記』に出づ。

元気濛鴻、萠芽茲始、遂分二天地一、肇立二乾坤一、啓レ陰感レ陽、分二布元気一、乃孕二中和一、是為レ人也、首生二盤古一、垂レ死化レ身、気成二風雲一、声為二雷霆一、左眼為レ日、右眼為レ月、四肢五体為二四極五獄一、血液為二江河一、筋脈為二地里一、肌肉為二田土一、髪髭為二星辰一、皮毛為二草木一、歯骨為二金石一、精髄為二珠玉一、汗流為二雨沢一、身之諸虫、因二風所一レ感、化為二黎※一、

盤古氏、天地万物之祖也、然則生物始二於盤古一、昔盤古氏之死也、頭為二四岳一、目為二日月一、脂、膏為二江海一、毛髪為二草木一、秦漢、間俗説、盤古氏頭為二東岳一、腹為二中岳一、左臀為二南岳一、右臀為二北岳一、足為二西岳一、先儒説、泣為二江河一、気為レ風、声為レ雷、目睫為レ電、古説、喜為レ晴、怒為レ陰、呉楚間説、盤古氏夫妻、陰陽之始也、今南海有二盤古氏墓一、亘二三百里一俗云、後人追二葬盤古一之魂也、

天地混沌如二鶏子一、盤古生一レ其中一、万八千歳、天地開闢、陽清為レ天、陰濁為レ地、盤古在二其中一、一日九変、神二於天一、聖於地一、天日高一丈、地日厚一丈、盤古日長一丈、丈如レ此万八千歳、天数極高、地数極深、盤古極長、後乃有二三皇一、数起二於一一、立二成於三一、成二於五一盛二於八一、処二於九一、故天去レ地九万里、

三つの源泉の中、はじめの二個は、大躰に於て、全く一致し、其形式に於て、全く同一にして、之を「屍躰化生」の説話、或は尚精密に、「巨人屍躰化生説話」と名づく可し。世界大拡布説話の一にして、大陸的国民の天地開闢神話に、其例多し。「スカンヂナヴィア」の或地方に於ては、太古の巨人の骨、朽ちて山岳となり、其肉は土となりて、植物を生育すと云い、『梨倶吠』の最新しき部分に属する、有名なる「プルシヤ、スークタ」の中にも、同様の神話あり。巨人の身躰は、世界の起原にして、其頭は天となり、其臍は空気となり、其足は地となり、其心は月となり、其眼は日となり、其口よりインドラ、アグニの両神生じ、其呼吸は空気となり、最後に其肢躰より、国民の四個の階級生じたり。即ち僧侶は其口に、武士は其腕に、商買は其腹に、農民は其脚に生じたりと。

支那の盤古神話に就ては、其起原を何処に求む可きや。此神話と印度の神話との著しき類似は、印度起原説の可能を想像せしむるに足る。太古以来支那民族と因羅崇拝民族との間に、交通接触の関係存ぜしは、殆んど疑なき事実にして、種々の譬喩談、動物説話等にして、印度より支那に伝来せしもの、决して少からざるは、最近の研究によりて明なり。加之説話の根原地としての印度は、世界説話の拡布上、頗る重要なる位置を占め、世界大拡布説話にして、印度起原説を採用す可きもの少からず。盤古神話もまた、世界大拡布神話の一としてその印度起原説は、一個の仮定説として、固より俄かに、之を排斥す可きに非ず。然れども、その世界大拡布の神話たる点に於て、また自然発生説の根拠を求め得可し。何となれば、同一の動機は、同様の説話を生じ得べければなり。現に、北欧日耳曼民族の神話に於て、同様の開闢説あり。

或は、之を天地創造説と称す可く、第九世紀より第十世紀に至る、「スカルト」詩人の神話中に、之を求むるを得可し。曰くブル神の子等、大地を起して、人間の住所として美き「中園」を作る。巨人イミルの肉は大地となり、其血は泡立つ海となり其骨は山となり、其髪は樹木となる。其頭顔を以て、蒼穹を作り、其脳髄を以て、恐しき暴風の雲を作り、その睫毛を以て、人間の為めに「中園」を作ると。此説もまた、盤古説話と同じく、容易に理解し得可し。既に巨人の身躰、大地たり、従って、其血は水たる可く、其骨は石たる可く、其髪は草木たる可く、中空の頭顔を以て、蒼穹なりとすれば、従って蒼穹を満たす雲は、脳髄たる可く睫毛は恐らく、周囲の垣墻の意なる可く天地と巨人の身躰との比較は决して異類の異象には非ず。唯この説話が海の分子を含むは、盤古説話と稍や同じからず。

この北欧神話は、其起原を何処に求む可きや。欧羅巴の中世に於て、大宇宙と小宇宙即ち「マクロコスモス」と「ミクロコスモス」との関係は、屡ば哲学的考察の対象となり、アダムの身躰に関する説明を生じたり。曰く、アダムの身躰は、八個の部分より造らる。其肉は土より成り、其骨は石より成り、其血は海より、毛髪は草木より、其思想は雲より成ると。此説明とかの北欧説話とを比較するに、一方は巨人の身躰より、天地を作ると云い、一方は天地の物素より、人間の身躰を作ると云い、其傾に於て、全く反対なり。今日の研究は、アダム説話を以て、イミル説話の本原なりと説く。北欧神話が、基督教より受けし影響の大なるは、最近の研究によりて、次第に明白となるに至れり。然れども、時を異にし、処を異にする、両個の民族の間に、同様の思想の発生するは、古今其例に乏しからず。此両個の説話の無関係的別生説も、决して排斥す可きに非ざるなり。

今仮りにイミル説話の根源を以て、アダム説話なりとすれば、此説話と梨倶吠の説話との関係は如何。此点に関しても、印度起原説と無関係説との、二個の仮定説を立つるを得可きも、唯前者の方、後者に比して、稍当れるに近きを想像し得可きのみ、其果して何れの説が正しきやは、到底之を断言するを得ず。屍躰化生説話は、其性質に於て、世界的なり。世界大拡布説話の一として、此説話の単一起原説の確立せざる間は、盤古神話の印度起原説は、暫く一個の仮定説として、之を保存せざる可からす。

日本神話は、其中に多くの屍躰化生説話、或は之と類似する化生説話を含む。その原形は恐らく盤古説話なる可く、此等の説話を以て、支那説話の模倣なりと論ずるは、盖し誤らざるに近し。但し海洋的国民としての日本民族の神話は、大陸的国民の天地開闢説をば、其ままに採用すること能わざりしが故に、之を採用するに際して、大に其規模を狭少にし、単に諸神の化生、物素の起原、食品の成生等に関して、この形式を用いしに過ぎず。其例を挙ぐれば、

一、保食神殺戮の神話 此神殺されて、頭に蚕生じ、目に稲穂生じ、耳に粟生じ鼻に小豆生じ、陰に麦生じ、尻に大豆生ず。或は頭化して牛馬となり、顱上に粟を生じ、眉上に璽を生じ、眼中に稗を生じ、腹中に稲を生じ、陰に麦と大豆小豆とを生じたりとも説く。二、伊弉冊神死して、其屍躰に八個の雷神化生ず。三、火神三段に斬られて、諸神化生す。四、須佐能男命の鬚化して、諸種の有用樹木を生ず。五、伊弉諾神の左眼を洗いし時に、日神化生し、右眼を洗いし時に、月神化生し、其気息よりして、風神化生す。六、伊弉冊神病み臥せし時、其屎に土神化生し、其尿に水神化生す。 日本神話は、多くの点に於て、支那思想の影響を示す。其屍躰化生神話に於ても、盤古神話の影響は疑う可からず。但し、風神を神の気息より、生ぜしとするは、吠神話にも、その例あり、太古民族の思想として、甚だ理解し易く、必しも盤古神話との比較を要せず。日月と両眼との比較に就ても、略同様のことを云い得可し。希臘神話に、太陽をば、ツォイスの目と、云うとあり。『梨倶吠』第一巻七十二の十に、天の両眼云々の句あり、『サタパサ、ブラーマーナー』第七巻一の二の七には、天空は創造主フラガーハチ神の頭にして、日月は此神の両眼なりとあり。又「ポリネシヤ」群島土人の間にては、日月を天の両眼とも双児とも云い、東「ポリネシヤ」に於ては、最高神ヴテアの両眼は、同時に之を見得ること甚だ罕に、其一は上界に輝きて、人間界にては之を太陽と呼び、其一は下界に輝きて、之を太陰と称すと云い、或は此神の右眼は日にして、其左眼は月なりとも云う。此神話は、南太平洋土人間に、自然に発生せしものなりや、或は他より伝わりし者なりや、容易に之を判断し難しと雖も、伝来説の証明せられざる間は、暫く自然発生説をば、一個の仮定説として、採用す可きなり。

其二 支那神話の天地開闢説(下)

『三五暦記』に見ゆる盤古説話は、所謂天地分離の神話にして、屍躰化生説話とは、全く別個の形式に属す。「天地混沌如鶏子、盤古生其中」の二句、既に化生説話に比較して、多少進歩したる、少く共、幼稚なる哲学的考察のはじまりたる、時代の産物たるを示す。天地の形状をば、両分したる卵殻の二片に比し、卵の啓発によりて、天地の開闢を説明せしは、决して太古純朴の思想とは見る可からず。希臘の秘密教は、太古の混沌より卵生し、両分して天地となると説き、哲学者中にてエムベドクレースの如き、エピクールの加き、また宇宙を卵に比す。然れどもまた、或点より観察するときは、天地と卵との比較は、極めて自然純朴の思想たるの観なきに非ず。波斯国民、「フェニシヤ」国民の間にも亦た、同様の思想を発見し得可く、印度にプラーマ神の宇宙卵あり、「フィン」人も亦た、卵殻を大空とし、その黄白を以て海陸とす。南太洋なる「パシアン」島の宇宙観に、椰樹の実を説くも亦た、鶏子説話と其趣に於て異ることなし。

然れども、支那の宇宙論と、印度神話の宇宙論との間には、著しき類似あり。列子、荘子、筍子、淮南子等、所謂諸子の説を外にして、『霊憲』、『渾儀』、『天論』、『穹天論』等の宇宙論中、天の高さを論じ、地の厚さを説き、天柱と云い、地維と云うもの、凡て吠詩篇に於て、其対偶を求むるを得可し。之によりて、かの鶏子説話の印度起原を説く者あり。詩篇に曰く、化生のはじめは、水にして、水上に黄金の宇宙卵浮ぶ。この卵より、欲の神即ち万有創造の神生る。又曰く、無化して有となり、有化して卵となり、此卵両分して天地となる。『渾天儀』に曰く天形弾丸の如く、地天中に在り、天、地外を包む、鶏卵の黄を続るが如し。かの印度起原説の当否は、之を明かに判断し難しと雖も、支那の哲学的天地開闢説が、支那固有の陰陽説と、印度思想との、混合調和せしものなることは、略之を明言し得可し。

盤古神話の第二形式たる、前に挙げたる天地分離の説話より、哲学的分子を除去するときは、純粋の神話的説明を得可し。天地開闢のはじめ、盤古其中に生れて、生長すること、一日に一丈、此の如きこと万八千歳、其結果として、天地の距離九万里となると。此神話は、果して何事を意味するや。『日本書紀』日神生出の条に曰く、

故二神喜日、吾息雖レ多、未レ有二若レ此霊異之児一、不レ宜二久留二此国一、自当下早送二于天一而授以中天上之事上、是時天地相去来未レ遠、故以二天柱一挙二於天上一也、

天柱に就ては、其説区々にして、一定せずと雖も、「是時天地相去来遠」の一句は、天地の分離の、次第に生じたりとの思想を、示すものなり。開闢のはじめに於ては、天地は相密着せしが、其後漸次分離して、遂に今日の距離に至れりとの思想を、示すものなり。此思想もまた、殆んど世界民族普遍のものと称するを得可く、独り「アーリヤ」民族の間に存するのみならず。諸方の未開民族の間に於ても、少からず之を発見することを得可し。マックス、ミュラーが一八八二年の頃、「ケムブリッヂ」に於てなせし講演の中にも、天地分離の「アーリヤ」説話と、未開民族の類似の説話とを、互に比較せし一節あり。ケリーの『原始信仰』もまた、南洋の「ニュージーランド」土人間に存ずる興味ある一個の天地分離説話を掲ぐ。此説話を称して「タネマフタ」説話と云う可く、「タネマフタ」は、始めの樹、即ち樹木の祖先なり。天地開闢のはじめ、天地尚甚だしく接近して、天と地との間に生れし子等の、居る可きところ無し。「タネマフタ」此間に生じ、漸次天に向って生長し、大なる困難を凌ぎて、遂に天と地とを割きて分離せしめたりと。ケリーは此説話をば、「世界樹」の説話と名づけ、北欧日耳曼神話の「イグドラシル」樹等と比較して、樹木信仰の形跡を求めんと試みたり。其説容易に信ず可からざるも、此説話が天地分離説話として、研究す可きものなることは明かなり。

盤古説話は、盤古の生長して、天地を割きしことを明言せず、盤古の樹木たること、勿論その説なし、然れども、盤古の生れし時は、天地混沌として開闢のはじめなりし事、天地の区別未だ判然たらざりしこと、盤古の生物のはじめなる事、此等の点に於ては、盤古説話は南洋説話と同じ。盤古生れし後、天は日に一丈ずつ其高さを加え、地は同じく一丈ずつ其厚さを増し、盤古日に一丈ずつ生長して、一万八千歳を経て、天地の距離は九万里となれり。従って、盤古の身長も、九万里なる可く、之を解して、盤古の生長によりて、天地の距離の増大を来したりとし、此説話を以て、天地分離の説話なりと解するも、恐らく不当に非ざる可し。天地間に於て、日々生長して、原始民族の想像に、偉大の刺戟を与うるものは、云うまでも無く樹木なり、大樹木の説話は、支那説話に其例多し。盤古説話を以て、直ちに樹木説話なりと説明するは、或は其当を得ざる可きも、其裏面に、「タネマフタ」説話と同様なる、樹木説話の存在を想像するは恐らく不当の解釈に非ず。

其三 日本神話の天地開闢説

人文科学の対象たる、一国民の精神的産物は、四囲の天然を離れては、了解す可からず。国民の神話が、国民の精神的産物たる点に於ては、まだ四囲の天然の影響を蒙むること多し。海洋的国民としての、日本国民の古史神話は、海洋的分子を有すること頗る多し。既に『古事記』の開巻第一の条に諾冊二神、此漂える国を修理せよとの、天神に詔に従い、天の浮橋に立ちて天神の賜いし矛を下して、海水を書き鳴して引上げしに、矛の末より滴る塩積りて淤能碁呂島となりしとの記事あり。蛭子を入れて流し棄てし葦船、塩椎神の造りし無間勝間の小船、事代主ノ神並びに火遠理ノ命の釣魚、海神宮殿、一尋和邇、赤海鰤魚、海津見ノ大神の彦火火出見ノ命に与えし塩乾珠と塩満珠、天ノ日矛の持ち帰りし浪振比礼と浪切比礼、臣津野ノ命の国作りの神話、猿田彦ノ神の神話に見ゆる比良夫貝及び海鼠、櫛八玉ノ神の鵜に化して、海底の埴を咋い出でたる、素盞嗚尊の浮宝を作りし、何れか海洋的分子に非ずとせん。而して、其最も著しきものを、三神分治の神話、伊弉諾尊の御滌の神話、大祓の祝詞及び天地開闢の神話とす。此四つは、古史神話中にて、最も重要なる部分にして、独りその海洋分子を含有するのみならず、其根本に於て、全く海洋的性質を有するを見る。此点より見るときは、日本古史神話を称して、海洋的神話と云うも、不可なきに似たり。但し、茲に海洋的というは大陸的の反対なり。

三神分治の神話は、世界を分って、或は天と地とし、或は天地と根ノ国とし、或は高天原と夜之食国と滄海原とす。而して根ノ国と青海原と、或点に於て、互に其性質を融通する以て見れば、太古の世界観に於て、海洋が如何ばかり重要の位置を有せしや、之を想像するに難からず。男神御滌の神話は、古史神話の宗教的神話にして、宗教的並びに国家的に、最も重大なる大祓の神事の起原を説明し、併せて罪悪汚穢の意義を明かにし、攘祓に関する当時の観念を示す。此神話も亦た、海洋を離れては、理解し難し。太古の観念に従えば、水は汚穢を清浄にするの力を有す。流水は、此力を有すること、尚大なり。而も其効能の最も著しきを、潮水とす。黄泉国の汚穢は、檍原の潮流に、身躰を洗滌して、はじめて悉く、之を去るを得たり。大祓は国中の罪悪罪過を、悉く攘除して、遺る罪はあらじと、祓い清むる、重大なる儀式なり。然れども、若し海洋の葦原ノ中国を囲続するなく、潮流の之を環流するなくんば、此神事は其意義を失うに至らざるを得ず。何となれば、国中の凡ての罪悪を、其根元たる根ノ国へと運び去り、流し去るは、此潮流の作用に、外ならざればなり。此作用の神格化たる諸神の力によりて、国内再び清浄なるを得るなり。

日本神話の天地開闢説に関する、数個の源泉は、支那思想の影響を示す事著し。『神代本紀』のはじめの三十有余の文字は、全く漢文にして、支那の天地開闢に関する、一種の哲学的説明の模倣なり。『日本書紀』の文も亦た、之と同じく、「天地未だ割れず、猶鶏卵子の如し」と云うは、支那印度等の、大陸的国民の神話に見ゆる、宇宙論の模倣にして、其以下は淮南子の説く所と、文章に於て全く一致す。此等は、支那思想の影響を受けたる、国民の宇宙観を、述べたるものに非ずして寧ろ作者が、其著作を修飾せんが為めに、敢てしたる、漢文の模倣なるが故に、日本国民の天地開闢説としては、殆んど何等の価値ある者に非ず。

然れども、作者はかの漢文を以て、必しも国民固有の天地開闢説を撞着するものに非ずと、信ぜしが如く、両者を調和せんと試みたるの形跡あり。或はまた、前者によりて、後者の足らざる所を補わんと欲せしに似たり。『神代本紀』は、かの三十有余の文字を、はじめに置きて、さて之に関して、説をなして曰く、所謂州壊の浮び漂い、開け別れたるとは是なり。譬えば游魚の水上に浮べるが如しと。所謂以下の数句は、盖し国民固有の開闢説を、指すものにして、上の説によりて、此説を補足し、説明せんと欲したるなり。游魚の水上に浮べるが如しとの譬喩は、思うに、作者の筆より出でし、詩的修飾の文字に過ぎざる可し。然れども、海洋的の事物を借りて、譬喩的説明を下せしは、海洋的国民の神話的記事として、観察し難きに非ず。『古事記』の「海月なす漂える」と其意義に於て、異ることなし。唯、開闢別割の四字に至りては、全然支那流の筆法にして、恐らく国民固有の思想には非ず。

日本神話の天地開闢説は、一種の啓発説なり。或は一種の進化論にして、剖判論には非ず。或数個の源泉が、軽上重下の方法によりて、天地の次第に分離せしが如く、説くは、恐らく、支那思想の影響にして、国民固有の思想には非ざる可く、広成が「開闢の初め」と記し、或は「天地剖判の初め」と記すも亦た、何れも支那文字の借用にして、其意義に於ては、国民固有の解釈に、従う可きものとす。独り『古事記』は、此の如き、語弊ある文字を用いずして「天地初発之時」の六字を以て、その巻を開く。即ち一種の啓発進化にして、剖判には非ず。之を真正の国民的天地開闢説とす可きなり。支那哲学の宇宙論は、天地の剖判を説く。同様の説明は、希臘神話に之あり、南洋神話に之あり。盤古説話も、其一形式に於て、その形跡を示す。然れども、日本神話に之なし。日本神話の天地開闢説は、一種の啓発説にして、其性質に於て、婆羅門神話の哲学的宇宙論に類せずして、寧ろ、布哇其他の南洋神話の啓発説に似たり。鶏卵云々の一条は、其文字に於て、婆羅門神話的啓発説に似るも、実は、之によりて、所謂漂えるの状態を、形容せんと欲するもの、その牙を含むと云える者は、国民神話の海洋的分子の一なりとす。南洋神話と日本神話との、此点に関する類似は、日本国民と南洋民族との、人種的関係に就て、或は日本民族の起原に就て何事を教うる者なりやは、今茲に述ぶるを得ず。唯、両者の類似の、非常に著しきは、大に注意して、研究す可き価値あることを云うて止まん。

然れども、尚疑う可き一節あり。日神の生れて条に、或源泉は附記して曰く、此時天地相去ること、未だ遠からず。故に天柱を以て、天上に送り奉ると。此説明は、明かに天地剖判説を予想するに似たり。太古の神話は、天上と地上との交通接触を説き、神界と人界との交通を信ずるが故に、両界の関係極めて密接なり。世の進むと共に、人界の汚穢次第に堆加して、神明の擁護また、昔の如くなる能わず。天上の神界と、地上の人界との関係も、従って密接の度を減ず。古史神話が、神人の分離、世と共に、次第に甚だしきを加うるを説くは、何れの国民の場合に於ても、之を見るを得可く、かの「未レ遠」の一句も、此意義に於て、之を解釈するを至当とす。但し、啓発説は、必しも全然剖判説を容れざるには非ず。国民固有の啓発説と、調和し得可き、一種の素朴なる剖判説に至りては、素より神話時代の国民の思想と、衝突せざる可く、此意義に於ての剖判説は、或は、日神奉送の神話の裏面に、存在せしやも、知る可からず。或は又此一節は、単に作者の筆意にして、支那思想の影響なるやも、知る可からず。何れの解釈を、可能ならしむるも、天地開闢説としての剖判説は、国民固有の、思想には非るなり。

然らば、古史神話本来の天地開闢説は如何。『古事記』に曰く、天地初発之時、高天原に成りませる神の名は、天之御中主ノ神、次に高御産巣日ノ神、次に神産巣日ノ神。此三柱の神は、皆独り神成りまして、御身を隠し給いきと。其化生に関しては、何等の説明なし。凡てのものの初めに、此三神、自ら天の中央に化生せしなり。天之御中主ノ神は其名称の示すが如く、天の中央にありて、天を主宰するもの、他の二個の産巣日神は、生成力の神格化なり。生命の本源啓発の原理、万物生成の力なり。「独り神」と云うは、他の諸神の男女両性に別るるに反して、此三神に此区別なきを云い、身を隠すとは、盖しその形体相貌を有せざるを云う。人形主義は、凡ての神話の根本にして、何れの国民の神話に於ても、神は、其形躰に於て、其相貌に於て、其言語動作に於て、凡て人間或は動物の如くなるを常とす。茲に於てか、始めて神話あり。宗教思想の進歩と共に、神は、次第に、其人間的性質を脱却して、無形の霊性となり、遂に時間空間の凡ての約束を超越したる、全知全能偏在の存在となるに至る。故に此一段の神話は、之を純粋の神話として見ることを得ず。古史神話の他の部分に比して、多少進歩せる、宗教的思想を交えて、一種の哲学的宇宙論の形式を有するは、陋朴なる原始の神話時代を、既に後に遺して、宗教思想漸く発達し、哲学的思弁の、既に始まりたる時代の、精神的産物なる可く、後に記録の編纂に際して、編纂者が、之を其はじめに、記載したるものと見る可く、純粋の神話としては、之を観察し難し。

而も其宗教思想は、未だ十分の発達を遂げ得ざりしなり。故に古史神話は、独化隠身の神を説くも、世界創造を説かず。天地初発と云うも、天地創造と云わず。生成力の本源たる宇宙神の、自ら化生せしを説くも、無より有の生ぜしを説かず。其思想は既に、多少の哲学的考察の跡を示すも、単に抽象的に生成の力と云わずして、神の化生と云う点に於て、尚其神話たるの形式を失わず。此段に関しては、次の段に於けると等しく、諸説一ならず。『旧事紀』は先ず、一個の独化神天譲日天狭霧国禅月国狭霧尊の化生せしを説き、次に倶生神二代生神五代を挙げて、之を神世七代と云い、而して、天御中主ノ尊を一代倶生天神の第一とし、二個の産巣日ノ神を以て、生天神七代の中に数えたり。その独化神は、盖しかの天御中主ノ神と、同一視す可きものなり。二個の産巣日神を生天神の終に数えしに至りては、殆んど解す可からず、広成が記の説に従いしに如かず。生成力の神格化を以て、万物の啓発を説くは、古史神話の天地開闢説の根本思想にして、記の説は、此意義に於て、其当を得たるものなり。而して、此思想は、その以下の部分に於て、尚一層明かに、認識せらるるを見る可し。

『古事記』は次に記して曰く、次に国稚く浮脂の如くにして、海月なす漂える時に、葦牙の如く、萌え騰れる物に因て、成りませる神の名は、宇麻志葦牙彦遅ノ神、次に天之常立ノ神。次に成坐せる神の名は、国之常立ノ神、次に豊雲野ノ神と。而して、各の条に、其独化隠身の神なるよしを、附記すること、前の如し。此段は真正の天地開闢説にして、混沌として脂の浮ぶが如く、漂々として海月の游ぐが如しと云うは、万物の未だ、其形式的変化を、啓発せざる以前の状態を、形容するものなり。而も漸くにして、啓発の原理の其中に活動するに及びて、天地次第に、其形を具うるに至る。はじめより天地ありて、密着せしものの剖判するに非ず。無形より形式の啓発するを云うなり。而して、此啓発の最初の原理を神格化して、葦牙彦遅ノ神と云い、其の活動の状をば、有象の文字を以て描写して、葦牙の如く萠え騰れる物に因て云々と云う。此点に関して、紀の一書の云う所、亦た略同じ。天地の初めて判るる時、物あり、葦牙の如く空中に生ず。此に因て化る神の名は、天ノ常立ノ尊、次に可美葦牙彦舅ノ尊。又物あり、浮膏の如く、空中に生ず。此の因て化る神の名は、国ノ常立ノ尊云々。天地の判るると云えるは、語弊あり。天地の判るるに非ずして、混沌の判れて、天地となるなり。空中と云うも亦た、混沌の中の義に解す可し。而して其判るるは、軽上重下の機械的作用に非ずして、啓発原理の作用なり。之を日本古史神話の天地開闢説と云う。

古史神話が、其はじめに於て、天地初発之時、独化三神の自ら化生せしを説き、此に至りて、此神力の活動によりて、起れる、混沌の剖判によりて、天地の形の定まりしを説くは、其記事の順序に於て、甚だ合理的なり。而して此神話に於ても亦た、海洋的分子の存在を、認め得可し。「脂の浮べるが如し」との譬喩は、必しも海洋的なりとは、云う能わざるも「海月なす漂える」の一句は、海洋的国民の神話にあらざれば、决して見る能わざる譬喩的文字なり。「葦牙」に至りては、詩的修飾の妙、殆んど凡ての賞讃を値すと云う可し。此れ又、海洋的国民の神話に在らざれば見る能わざるなり。可美葦牙彦舅ノ神の名称は其意義甚だ明なり。「可美」は美称なり、「彦舅」は男性の尊称なり。即ち此神は、葦牙の神格化なり。天ノ常立ノ神、国ノ常立ノ神はまた天ノ底立ノ神、国ノ底立ノ神とも云う。天地の神格化なり。豊雲野ノ神はまた、豊国野ノ神と云い豊齧野ノ神と云い、豊斟野ノ神とも云う。其名義に至りては、稍や解し難しと雖も、恐らく、国常立神の属性の一個の神格化、或は地の形の定まりしを、形容せしものならむ。或解釈に従えば、葦牙彦舅と、其性質を融通する者の如し。

記は更に続けて曰く、次に成り坐せる神の名は、宇比地邇ノ神、次に妹須比智邇ノ神、次に角杙。神次に妹活杙ノ神、次に意富斗能地ノ神、次に妹大斗乃弁ノ神、次に母陀琉ノ神、次に妹阿夜訶志古泥ノ神、次に伊邪那美ノ神。上の件国常立ノ神より以下、伊邪那美神まで、併せて神七代と称すと。『旧事記』の生天神の系図として記す所も亦た、此の如し、唯はじめの二代、記の伝うる所と、其順序を倒にするのみ。最後の一代即ち諾冊二神が、男女神なることは、前に述べたり。其以前の四代は、之を如何に解釈す可きや。此点に関しては、記伝の説と史伝の説と、略一致する者の如し。試みに、後者の説に従て、之を云わば次の如し。

宇比地邇ノ神と須比智邇ノ神とは、又土根ノ神、沙土根ノ神とも云う。宇比地は初泥の義、須比智は砂泥の義にして、共に国土の未だ十分に、その凝固の状を為さずして、半流動の状態を呈し、泥土の象をなし、加うるに砂泥の混淆するを示す。天地剖判当時の国土の状態を、神格化したる者にして、之を男女に別ちしは、古史神話普通の現象の一例として、之を観察す可く、要するに、一個の神格をば、男女の両面より命名せしもの、一個の生成力を、能被の両面より神格化したるなり。此点に於ても、海洋的分子の存在は、之を看取するに難からず。角杙、活杙の「角」は、「ツヌ」と訓す可く、凡て物の僅かに生じて、未だ発展せざる状態を指す。「杙」は「クム」、「クミ」「コリ」等と通いて、物の初めて芽し生ずるの義、「活」は勿論、生成活動の義なり。依て思うに、角杙、活杙とは、かの国土形成第一段の泥土的状態の、漸く凝固せんとする萌芽を示すに至りたる第二の状態を示す者ならん。之を国土形成の第二段とす。意富斗能地、大斗乃弁もまた、二神一体なりと見る可く、「大」は美称なり、「斗」は処なり。国土の漸く凝固して地面を形成するに至りたるを、云う者にして、之を国土自然形成の第三段とす。淤母陀琉ノ神、また面足ノ尊と称す。「面足」とは、足らざる所なく具るの義にして「阿夜訶志古泥」とは、之を嘆美し、畏敬するの義なり。

史伝は此の如く名義の説明を下して、さて後に総括して曰く、宇比地邇ノ神より訶志古泥ノ神まで、八柱の神名は、国土の初めと神の初めとの形状を、次第に負わせしにて宇比地邇、須比智邇とは、国と成る可き牙を含める状より大斗能地、大斗乃弁とは、国土の始の状より、角代、活代とは、国土の成る状と、神の成り始めたる状とを兼ねて負わせ、淤母陀琉、詞志古泥とは、神の身の成り整える状を称す。此の断案とかの神名の解釈と、果して正しき否やは、疑問なるも仮に、かの解釈を以て、暫く許す可き者とすれば、此一段の神話は、稍や了解するを得可し。即ち天地開発に連る国土の自然形成の神話にして、泥土状の半流動体的状態より、次第に凝集固結して、完全具足するに至りしまでの間を、前後四段に分ちて、各の状態を神格化して、其生成力を男女性の両面より、各々一個の神格とし、此の如くにして生天神四代の系図は、作せらるるに至りしなり。

然れども、こは一個の仮定説に過ぎず。この仮定説は、果して成立つを得るや。

国土自然形成の神話として、此一段を解釈するに当りて、甚しき困難を感ずるは、最後の生天神の説明なり。『旧事記』は六代生天神の条に青橿城根ノ尊妹吾夜橿城根ノ尊と記し、前者の亦の名を沫蕩ノ尊並びに面足ノ尊とし、後者の亦の名を惶根ノ尊と記す。而して角杙、活杙の一代をば、土根沙土根一代の前に置く点に於いて亦た記の伝うる所と異なり。角杙活杙の解釈は、聊か困難なるも仮に史伝の説に従うときは、「代」の義は「クミ」或は「クム」なり。豊雲野ノ神の亦の名を、豊組或は豊齧と称す。若し、「豊」は美称にして、「角」と「活」とは、男女の杙ノ神の名称の附加言にして、共に杙の義と相通ずる者とすれば、角杙、活杙二神は、其意義に於て、豊組野ノ神或は豊齧野ノ神と異ることなし。而して豊雲野ノ神は、或解釈による時は、葦牙彦舅神と其性質を融通するが如く、亦た其一面に於ては、国常立ノ神の属性の一個の神格化にして同時に、国土の生成力の一個の神格化なるが如し。従って角杙、活杙二神も亦た、此解釈に従えば、国土の生成力の一個の神格化にして、此生成力を男女性の両面より区別したる者と、論ぜざるを得ず。

此に於て、かの仮定説は、到底成立するを得ず。其説甚だ巧妙なるも、独り『古事記』の記事の順序を根拠として、立論したる者にして、他の伝承に対して、応用す可からざるは勿論、其説明の方法に於ても亦た、少なからざる不自然の跡あり。記伝は角杙ノ神を以て、角凝魂ノ命と同神なりとし、活杙ノ神を以て、神祗官八神の一なる生産霊ノ神と、同神にして、又活魂ノ神とも同神なりと説く。角杙の義は、角凝の義と同じく、生産霊と活魂と、其義亦た同じ。此神と活杙神と伺神なるや否やは、俄に判定し難きも、両者共に、生成力の神格化たるに於ては、即ち一なり。宇比地邇、須比智邇の泥土、砂土たること、云うを要せず。之れ天地開発後の国土の性質の一面即ち其泥土的状態を、神格化したるもの、亦た一個の生成力の神格化と見るも妨げず。沫蕩神に至りては、其名称の示すが如く、海水の泡沫の神格化にして亦た一個の生成力の神格化と見る可く、大斗能地、大斗乃弁の名義にして、若し国地なりとせば、之も亦た、国土の性質の、一個の神格化にして、同時に一個の生成力の神格化なりと解釈し難きに非ず。

此も亦た一個の仮定説に過ぎざるも、かの仮定説に比して信ず可きの度甚だ大なり。即ち諾冊二神以前の、生天神数代は、凡て国土の神即ち地神国常立ノ神の属性の一面の神格化したるものと解釈す可く、例えば『大祓祝詞』に見ゆる瀬織津姫以下の諸神が、凡て水の清浄作用の神格化なるが如し。而して天地啓発につづく、此国土発達の神話が、海洋的国民の神話の特色として、如何に其中に海洋的分子の存在を認識せしめ得るやは、以上の説明の後、更に之を詳説するの必要なかる可し。

Chapter 8 of 20
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