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俳句はかく解しかく味う
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俳句はかく解しかく味う
高浜虚子
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Chapter 9 of 14

9

蔓草や蔓の先なる秋の風    太祇

『太祇句集』中に在る唯一句の秋風の句である。太祇のみならず天明の秋風の句は一体に振っておる方ではないようである。さて句意は、蔓草を見るとその蔓の先に秋風は吹いておるというのである。蔓草の蔓の先を見ると風のために動いておるのを見て、なるほど秋風がその蔓の先に在る、といったような句である。芭蕉の「日はつれなくも」の句などに比べると、秋風というものについての感激の度がよほど違っているので、余り秋風というような題について多くの興味を見出さなかったか、それともむずかしくて相手にしなかったのかも知れぬ。秋風というような題は、むずかしいものである。明治に至っては、

秋風の贐も無き別かな    愚哉

人に別れる時、何かその人に贐をやりたいと思うけれども、遂に遣ることが出来なかった。その志を致さぬということが一層この別れを本意なくする。それが秋風粛殺の候であるから、一層その心持を強うする、というのである。詰り「秋風の」というのは「秋風の吹く時に」という位の軽い意味である。

落書の酒肆の障子や秋の風    抱琴

酒を売る店の障子に酔った客の落書がしてある、それは酔中のいたずらであるけれども、それがかえって秋風の中に淋しさを見せておるというのである。酔って障子に落書する人も、心に何らかの不平とか憂とかがあってすることである。その人はいつまでも酔っておりはしない。今障子に落書は残っていても、その人はもう夙くに醒めているのである。唯その憂いとか不平とかを落書として障子の上に残して置いたまでである。秋風の中にそれを見るにつけて、淋しい心が動くような心持がするのである。次に冬木立に移る。

砂よけや蜑のかたへの冬木立    凡兆

海岸に行くと、その海岸の砂を畑や人家に吹きつけるのを防ぐために、藁やその他で、砂よけというものを拵えておる。この句の場合は人家に吹きつける砂を防ぐための砂よけで、漁師の家がある、その傍に冬木がある、その冬木立のところに砂よけがしてあるというのである。冬木立そのものも砂よけの働きを幾分かはしておるのであろうけれども、更にその冬木立を利用して其処に藁とか柴とかいうもので砂よけが拵えてあるのであろう。

乾びたる三井の仁王や冬木立    其角

三井寺の山門に仁王がある、その仁王は年月を経て、色彩なども剥げておるのであるが、それが殊に冬になって、その山門前に突立っておる木が、皆落葉して冬木立になっておる時に見ると、殊に乾びた感じが強いというのである。木々が若葉しておる頃に見ると同じ仁王でも、やはりその若葉に打映えて何処か生々しいところがあるように感ずるのであるが、その木が皆冬木立になっていると、仁王も同時に枯れ朽ちたような心持がするのである。三井の山門が木立の間に在る光景も自然に想像されるのである。

冬枯の木の間尋ねん売屋敷    去来

この辺に売り屋敷があるという事を聞いて見に来たのであるが、ちょっと見当らない。大方この冬枯れておる木立がある、その間の辺にでもあるのであろう。その木の間を尋ねて見ようというのである。家も住む人がなくなって売屋敷となっておるその落莫の感じのするところのものを、天然も冬枯れておる木立の中に尋ね入るのである。冬枯の木といわずとも冬木と言うてもすむのであるが、それが元禄時代の事であるから、まだ冬木立という成語がそう大きな力を持たず、自然こういう句も出来たのであろう。だんだん後世になって来ると冬木立というちゃんとした題があるのに、それを「冬枯の木の間」というようなことはかえって言えないものである。後世から見るとおかしく思うことでも、時代という事を頭に置いて考えると、おかしいと言えぬ場合が随分あるのである。この句の如きはそれほどおかしいというのではないけれども、ついでに一言して置くのである。天明に移ると、

二村に質屋一軒冬木立    蕪村

何村々々という余り立派でない村が二つある、その間には冬木立もある、そうしてその二村を通じて質屋は唯一軒ほかないというのである。寒村の趣で、冬木立と相俟っていかにもありそうな景色と受取れる。

この村の人は猿なり冬木立    蕪村

これはもっと極端な寒村で、冬木立のある中にぼつぼつと人家があるが、この村の人は人間ではなくてまるで猿みたようだというのである。

斧入れて香に驚くや冬木立    蕪村

冬木立の中に木を樵りに這入って行って、或一つの樹に斧を打込むと、思いも設けぬいい香が鼻を打った。それはもう朽ちた木で何ともわからなかったが、白檀とか伽羅とかいう霊木ででもあったのだろうか、不思議の名香に驚いたのである。

みよし野やもろこしかけて冬木立    蕪村

これは吉野山は、だんだんそれを分け入って行くと、唐土に通じているという話のあるところから思いついた句であろう。謡曲の『国栖』にも次ぎのような文句がある。「総じてこの山は都卒の内院にもたとへ、又は五台山清涼山とて唐土までも、遠く続ける芳野山、かくれ家多きところなり。」即ち吉野山へ逃げ込めば唐土までも通ずる道があって、自由に何処へでも隠れることが出来るというのである。即ちその三吉野も春は桜の花で名あるところであるが、冬になると満山一面の枯木となって、その枯木は唐土までも続いているのである。

冬籠心の奥のよしの山    蕪村

これは冬木立の句ではないけれどもちょっとついでに解釈して見よう。この句もやはり前句などと同じ聯想から来たもので、冬籠りをしてじっと想をいろいろの方面に走せているとさまざまの事を思う。それは殆んど際限もないことである。たとえて見ると、心の奥に吉野山があるようなもので、その吉野山は唐土までも続いているという事であるが、あたかも我心も唐土は愚か天竺までも和蘭までも続いておるというのである。あるいはこの句は冬籠りをしていて、かつて見た春の吉野の光景などを思い出しているという風に解釈が出来ぬこともないが、それでは「奥の」という字も十分に利かない。奥のよし野と続いた処は「奥吉野」という言葉もあるところからではあろうけれども、やはり奥深くどこまで続いているかわからぬ吉野という心持がなくてはならぬのである。已に「もろこしかけて冬木立」の句がある以上、この句も第一解の如く解することが至当であろう。冬籠りというのは、冬の寒さに外にも出ず、家の中に閉じ籠っているのをいうのである。また冬木立に戻って、

盗人に鐘つく寺や冬木立    太祇

木立の中に在る寺で、その木立も冬枯れて一層淋しさが増している。ところがその寺へ盗人がやって来たので、その急を村人に知らすために鐘楼の鐘をゴーンゴーンと撞き鳴らすというのである。隣りにすぐ人家でもあれば声を上げて「泥坊々々」と叫ぶ位でも聞えぬことはないのであるが、冬木立に遮られているために急に知らすため鐘を撞くのである。時ならぬ鐘の乱打に村人は何か事あることを知って直ちに走せつけるのであろう。

夜見ゆる寺の焚火や冬木立    太祇

これも前句同様冬木立の中の寺を咏じたもので、夜その寺で焚火をしているのが、冬木立を透して見えるというのである。昼間は冬木立の中に寺があるという事を承知していながらも、その寺の甍もはっきり見えない位であるが、夜になってあたりの暗い中に焚火をしているのであるから、その焚火が冬木立をすかして、よく見える趣を言ったのである。木立は皆灰色に冬枯れている中に焚火の赤いのが際立って赤く見える心持がする。

曙やあかねの中の冬木立    几董

この句は前の太祇の句と反対に、夜明方の冬木立を言ったもので、朝暾が赤い色をして天地を染めている中に、一叢の冬木立が立っているというのである。なおこの句には強い必要はないけれども「旅行快天」という前置きがある。旅をしていて朝早く宿を立出た時分、晴れ渡った野路の曙の景色を言ったものであろう。次に明治に移ると、

門前のすぐに坂なり冬木立    子規

或家の門を出ると、すぐ其処がもう坂になっていて、その辺に冬木立があるというのである。その冬木立はその家の向い側に在るか、坂の上に在るか、はた他に在るのか、それらは判きりしていないが、要するにそのあたりは冬木立もあるような人家の建てこんでいないところであることさえ判ればよいのである。山がかった辺鄙を言ったものか、また市中の或場所を言ったものか、どちらとも取れぬことはない。またいずれと解しても句の趣の上には変化はないのである。この句の主眼は家を出ると門前がすぐ坂になっているという点に在るのである。冬木立は点景物にすぎないのである。

鳥の巣のあらはに掛る枯木かな    寒楼

冬木の梢の方を見ると他と違って少し黒ずんで密生したようなものがある。何であろうかと見ると、それは鳥の巣であったのである。常磐木の梢に在るのだとそれほど目立たないのであるが、落葉してしまっている枯木であるから、それが特に目立って見えるのである。

本堂に足場かけたり冬木立    静子

太祇の句同様冬木立の中の寺を見つけたのである。殊にその寺は普請をするために本堂に足場をかけておるというのである。普通の人家でも足場をかけているのは目に立つものであるが、それが寺であるから一層目立って見える、殊に冬木立の中に在るという事が一層その感を強めるのである。以上元禄、天明、明治と並べ立てて見ると多少変化がないでもないが、しかしそれは小異動であって、本書の冒頭に言った通り、俳句は要するに芭蕉の文学であるという事にたいした異論の挿みようがないであろうと思う。天明、明治は芭蕉時代の祖述と言っても間違いはないのである。大正に至ってどう変化するかは未定の問題である。今少し芭蕉の句を験べて見よう。

古池や蛙とび込む水の音    芭蕉

芭蕉の句といえば先ず古池の句というほどに有名なものになっているが、この句は果してそれほどいい句であるかどうかという事については已に大分議論のあったことである。実際この句の如きはそうたいしたいい句とも考えられないのである。古池が庭に在ってそれに蛙の飛び込む音が淋しく聞えるというだけの句である。牽強附会の説を加えてこの句を神聖不可侵のものとするのは論外として、これ以上に複雑な解釈のしようはないのである。唯この句は芭蕉が、いわゆる芭蕉の俳句を創めるようになった一紀元を画するものとして有名だという説は受取り得べき説である。即ちそれまでの芭蕉は談林調と言って、つとめて滑稽洒落を言っていた時代の句になずんでいたが、この句を作った時代から初めて今日のような実情実景をそのままに描く芭蕉流の俳句を作るようになった、そもそもその頓悟の句がこの句であるというのである。或日芭蕉が深川の草庵にいると庭の古池に水音が聞える。それは外の音でもない蛙の飛び込む水音である。四辺が静かであるので、その水音は独り際立って耳に響く。芭蕉はそれを句にしようとして「蛙飛び込む水の音」と言い、上五字はありのままに「古池や」と置いた。それが頗る自分の意に適して、かく何の巧もなくそのままを咏ずることが、今後俳句の歩むべき正しい道であると悟った。同時にまた滑稽でも洒落でもなく、かかる閑寂の趣こそ俳句の生命であるべきを悟った。閑寂趣味とそのままの叙写という事が、この句によって初めて体現されたという事が何よりも芭蕉の満足することであって、自分もこの句を以って初めて悟りを開いたように考えたのであろう。柳緑花紅が仏者の悟りであるように敢てものを遠きに求めるわけでもなく、実情実景そのままを朴直に叙するところに俳句の新生命はあるのであると大悟して、それ以来、今日に至るまでいわゆる芭蕉文学たる俳句は展開されて来たものとすれば、この古池の句に歴史的の価値を認むべきは否定することの出来ないことである。

物いへば唇寒し秋の風    芭蕉

この句も有名なる句の一つである。沈黙を守るに若かず、無用の言を吐くと駟も舌に及ばずで、忽ち不測の害をかもすことになる、注意すべきは言葉であるという道徳の箴言に類した句である。こういう句を作ることが俳句の正道であるという事はいえない。俳句はやはり古池の句の如く実情実景をそのままに叙するという事を正道とすべきである。この句のように道徳的の寓意を含んだ句の如きは、たまにあってもいいけれどもむしろ脇道に外れたものである。

Chapter 9 of 14
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