Volver
Villon's Wife
Table of Contents
Villon's Wife
太宰治
Reading Settings
Tamaño de fuente
18px
Tema
Claro
Oscuro
Sepia
Protección ocular
Interlineado
Modo de lectura
Traducción Pagera AI
Original Public Domain
Chapter 2 of 3

二

とにかく、しかし、そんな大笑いをして、すまされる事件ではございませんでしたので、私も考え、その夜お二人に向って、それでは私が何とかしてこの後始末をする事に致しますから、警察沙汰にするのは、もう一日お待ちになって下さいまし、明日そちらさまへ、私のほうからお伺い致します、と申し上げまして、その中野のお店の場所をくわしく聞き、無理にお二人にご承諾をねがいまして、その夜はそのままでひとまず引きとっていただき、それから、寒い六畳間のまんなかに、ひとり坐って物案じいたしましたが、べつだん何のいい工夫も思い浮びませんでしたので、立って羽織を脱いで、坊やの寝ている蒲団にもぐり、坊やの頭を撫でながら、いつまでも、いつまで経っても、夜が明けなければいい、と思いました。

私の父は以前、浅草公園の瓢箪池のほとりに、おでんの屋台を出していました。母は早くなくなり、父と私と二人きりで長屋住居をしていて、屋台のほうも父と二人でやっていましたのですが、いまのあの人がときどき屋台に立ち寄って、私はそのうちに父をあざむいて、あの人と、よそで逢うようになりまして、坊やがおなかに出来ましたので、いろいろごたごたの末、どうやらあの人の女房というような形になったものの、もちろん籍も何もはいっておりませんし、坊やは、てて無し児という事になっていますし、あの人は家を出ると三晩も四晩も、いいえ、ひとつきも帰らぬ事もございまして、どこで何をしている事やら、帰る時は、いつも泥酔していて、真蒼な顔で、はあっはあっと、くるしそうな呼吸をして、私の顔を黙って見て、ぽろぽろ涙を流す事もあり、またいきなり、私の寝ている蒲団にもぐり込んで来て、私のからだを固く抱きしめて、

「ああ、いかん。こわいんだ。こわいんだよ、僕は。こわい! たすけてくれ!」

などと言いまして、がたがた震えている事もあり、眠ってからも、うわごとを言うやら、呻くやら、そうして翌る朝は、魂の抜けた人みたいにぼんやりして、そのうちにふっといなくなり、それっきりまた三晩も四晩も帰らず、古くからの夫の知合いの出版のほうのお方が二、三人、そのひとたちが私と坊やの身を案じて下さって、時たまお金を持って来てくれますので、どうやら私たちも飢え死にせずにきょうまで暮してまいりましたのです。

とろとろと、眠りかけて、ふと眼をあけると、雨戸のすきまから、朝の光線がさし込んでいるのに気附いて、起きて身支度をして坊やを脊負い、外に出ました。もうとても黙って家の中におられない気持でした。

どこへ行こうというあてもなく、駅のほうに歩いて行って、駅の前の露店で飴を買い、坊やにしゃぶらせて、それから、ふと思いついて吉祥寺までの切符を買って電車に乗り、吊皮にぶらさがって何気なく電車の天井にぶらさがっているポスターを見ますと、夫の名が出ていました。それは雑誌の広告で、夫はその雑誌に「フランソワ・ヴィヨン」という題の長い論文を発表している様子でした。私はそのフランソワ・ヴィヨンという題と夫の名前を見つめているうちに、なぜだかわかりませぬけれども、とてもつらい涙がわいて出て、ポスターが霞んで見えなくなりました。

吉祥寺で降りて、本当にもう何年振りかで井の頭公園に歩いて行って見ました。池のはたの杉の木が、すっかり伐り払われて、何かこれから工事でもはじめられる土地みたいに、へんにむき出しの寒々した感じで、昔とすっかり変っていました。

坊やを背中からおろして、池のはたのこわれかかったベンチに二人ならんで腰をかけ、家から持って来たおいもを坊やに食べさせました。

「坊や。綺麗なお池でしょ? 昔はね、このお池に鯉トトや金トトが、たくさんたくさんいたのだけれども、いまはなんにも、いないわねえ。つまんないねえ」

坊やは、何と思ったのか、おいもを口の中に一ぱい頬張ったまま、けけ、と妙に笑いました。わが子ながら、ほとんど阿呆の感じでした。

その池のはたのベンチにいつまでいたって、何のらちのあく事では無し、私はまた坊やを背負って、ぶらぶら吉祥寺の駅のほうへ引返し、にぎやかな露店街を見て廻って、それから、駅で中野行きの切符を買い、何の思慮も計画も無く、謂わばおそろしい魔の淵にするすると吸い寄せられるように、電車に乗って中野で降りて、きのう教えられたとおりの道筋を歩いて行って、あの人たちの小料理屋の前にたどりつきました。

表の戸は、あきませんでしたので、裏へまわって勝手口からはいりました。ご亭主さんはいなくて、おかみさんひとり、お店の掃除をしていました。おかみさんと顔が合ったとたんに私は、自分でも思いがけなかった嘘をすらすらと言いました。

「あの、おばさん、お金は私が綺麗におかえし出来そうですの。今晩か、でなければ、あした、とにかく、はっきり見込みがついたのですから、もうご心配なさらないで」

「おや、まあ、それはどうも」

と言って、おかみさんは、ちょっとうれしそうな顔をしましたが、それでも何か腑に落ちないような不安な影がその顔のどこやらに残っていました。

「おばさん、本当よ。かくじつに、ここへ持って来てくれるひとがあるのよ。それまで私は、人質になって、ここにずっといる事になっていますの。それなら、安心でしょう? お金が来るまで、私はお店のお手伝いでもさせていただくわ」

私は坊やを背中からおろし、奥の六畳間にひとりで遊ばせて置いて、くるくると立ち働いて見せました。坊やは、もともとひとり遊びには馴れておりますので、少しも邪魔になりません。また頭が悪いせいか、人見知りをしないたちなので、おかみさんにも笑いかけたりして、私がおかみさんのかわりに、おかみさんの家の配給物をとりに行ってあげている留守にも、おかみさんからアメリカの罐詰の殻を、おもちゃ代りにもらって、それを叩いたりころがしたりしておとなしく六畳間の隅で遊んでいたようでした。

お昼頃、ご亭主がおさかなや野菜の仕入れをして帰って来ました。私は、ご亭主の顔を見るなり、また早口に、おかみさんに言ったのと同様の嘘を申しました。

ご亭主は、きょとんとした顔になって、

「へえ? しかし、奥さん、お金ってものは、自分の手に、握ってみないうちは、あてにならないものですよ」

と案外、しずかな、教えさとすような口調で言いました。

「いいえ、それがね、本当にたしかなのよ。だから、私を信用して、おもて沙汰にするのは、きょう一日待って下さいな。それまで私は、このお店でお手伝いしていますから」

「お金が、かえって来れば、そりゃもう何も」とご亭主は、ひとりごとのように言い、「何せことしも、あと五、六日なのですからね」

「ええ、だから、それだから、あの私は、おや? お客さんですわよ。いらっしゃいまし」と私は、店へはいって来た三人連れの職人ふうのお客に向って笑いかけ、それから小声で、「おばさん、すみません。エプロンを貸して下さいな」

「や、美人を雇いやがった。こいつあ、凄い」

と客のひとりが言いました。

「誘惑しないで下さいよ」とご亭主は、まんざら冗談でもないような口調で言い、「お金のかかっているからだですから」

「百万ドルの名馬か?」

ともうひとりの客は、げびた洒落を言いました。

「名馬も、雌は半値だそうです」

と私は、お酒のお燗をつけながら、負けずに、げびた受けこたえを致しますと、

「けんそんするなよ。これから日本は、馬でも犬でも、男女同権だってさ」と一ばん若いお客が、呶鳴るように言いまして、「ねえさん、おれは惚れた。一目惚れだ。が、しかし、お前は、子持ちだな?」

「いいえ」と奥から、おかみさんは、坊やを抱いて出て来て、「これは、こんど私どもが親戚からもらって来た子ですの。これでもう、やっと私どもにも、あとつぎが出来たというわけですわ」

「金も出来たし」

と客のひとりが、からかいますと、ご亭主はまじめに、

「いろも出来、借金も出来」と呟き、それから、ふいと語調をかえて、「何にしますか? よせ鍋でも作りましょうか?」

と客にたずねます。私には、その時、或る事が一つ、わかりました。やはりそうか、と自分でひとり首肯き、うわべは何気なく、お客にお銚子を運びました。

その日は、クリスマスの、前夜祭とかいうのに当っていたようで、そのせいか、お客が絶えること無く、次々と参りまして、私は朝からほとんど何一つ戴いておらなかったのでございますが、胸に思いがいっぱい籠っているためか、おかみさんから何かおあがりと勧められても、いいえ沢山と申しまして、そうしてただもう、くるくると羽衣一まいを纏って舞っているように身軽く立ち働き、自惚れかも知れませぬけれども、その日のお店は異様に活気づいていたようで、私の名前をたずねたり、また握手などを求めたりするお客さんが二人、三人どころではございませんでした。

けれども、こうしてどうなるのでしょう。私には何も一つも見当が附いていないのでした。ただ笑って、お客のみだらな冗談にこちらも調子を合せて、更にもっと下品な冗談を言いかえし、客から客へ滑り歩いてお酌して廻って、そうしてそのうちに、自分のこのからだがアイスクリームのように溶けて流れてしまえばいい、などと考えるだけでございました。

奇蹟はやはり、この世の中にも、ときたま、あらわれるものらしゅうございます。

九時すこし過ぎくらいの頃でございましたでしょうか。クリスマスのお祭りの、紙の三角帽をかぶり、ルパンのように顔の上半分を覆いかくしている黒の仮面をつけた男と、それから三十四、五の痩せ型の綺麗な奥さんと二人連れの客が見えまして、男のひとは、私どもには後向きに、土間の隅の椅子に腰を下しましたが、私はその人がお店にはいってくると直ぐに、誰だか解りました。どろぼうの夫です。

向うでは、私のことに何も気附かぬようでしたので、私も知らぬ振りして他のお客とふざけ合い、そうして、その奥さんが夫と向い合って腰かけて、

「ねえさん、ちょっと」

と呼びましたので、

「へえ」

と返辞して、お二人のテーブルのほうに参りまして、

「いらっしゃいまし。お酒でございますか?」

と申しました時に、ちらと夫は仮面の底から私を見て、さすがに驚いた様子でしたが、私はその肩を軽く撫でて、

「クリスマスおめでとうって言うの? なんていうの? もう一升くらいは飲めそうね」

と申しました。

奥さんはそれには取り合わず、改まった顔つきをして、

「あの、ねえさん、すみませんがね、ここのご主人にないないお話し申したい事がございますのですけど、ちょっとここへご主人を」

と言いました。

私は奥で揚物をしているご亭主のところへ行き、

「大谷が帰ってまいりました。会ってやって下さいまし。でも、連れの女のかたに、私のことは黙っていて下さいね。大谷が恥かしい思いをするといけませんから」

「いよいよ、来ましたね」

ご亭主は、私の、あの嘘を半ばは危みながらも、それでもかなり信用していてくれたもののようで、夫が帰って来たことも、それも私の何か差しがねに依っての事と単純に合点している様子でした。

「私のことは、黙っててね」

と重ねて申しますと、

「そのほうがよろしいのでしたら、そうします」

と気さくに承知して、土間に出て行きました。

ご亭主は土間のお客を一わたりざっと見廻し、それから真っ直ぐに夫のいるテーブルに歩み寄って、その綺麗な奥さんと何か二言、三言話を交して、それから三人そろって店から出て行きました。

もういいのだ。万事が解決してしまったのだと、なぜだかそう信ぜられて、流石にうれしく、紺絣の着物を着たまだはたち前くらいの若いお客さんの手首を、だしぬけに強く掴んで、

「飲みましょうよ、ね、飲みましょう。クリスマスですもの」

Chapter 2 of 3
|