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五大堂
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五大堂
田沢稲舟
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Traducción Pagera AI
Original Public Domain
Chapter 3 of 4

3

(九)

こゝは下谷の池の端、名もなまめかしき後朝といふ待合の奥二階、此あついのにしめ切つて、人目を忍ぶ男女の客、いはずとしれし恋の曲者、女は男の絽の羽織をぬがせて袖だゝみにしながら、何がうれしいかにツこり笑ふ。男も只訳もなしににつこりしながら「しかし今日はよく出られましたね」愛らしきこゑにて「そりやアあなた一生懸命ですもの」煙草をのみながら「随分むずかしかツたでせう」「ハイやツとの事でまゐりましたの」「さうでせうね、しかし私も母にうたぐられてよわりましたよ」「マアどうも何とかお怒り遊して」「イヽヱ別に怒りもしませんでしたが……ナニもうこゝまでくれば大丈夫です」「そんならよう御座いますが、しかしどなたかあとをつけて入ツしやらないでせうか」「なに御心配にはおよびません、たとひつけたにしろ、此商売ですもの、うつかり二人のゐる事をあかす気づかひはありませんよ」「さうでせうかね」「さうですとも……それはともかく、あなたほんとにお家はいゝんですか、それが一番心配ですね、何しろおツ母様にはひどく私もいはれてますからね」かなしげにしほれて「どうして母はあんなに情ないでせうね……だがあなた御心配遊すな、今日のところは大丈夫ですからと、いひつゝふところからふくさ包をとりいだして「ほらお金もね、二百円程持てまゐりましたの」二百円ときいてそゞろうれしく、「さうですか、そりやいゝ都合でした……しかし妙ですね、考へると此春お庭で始めてお手紙を下さツた時よりの事をおもふと、実に夢のやうですね、あなたとこんなにならふとは」といひつゝ爪紅艶なる其手をとツて引よせれば、女ははづかしさうによりそひながら、膝にもたれて、下より男の顔をそツと見あげ、小さなこゑにて「あなた、あの時はなぜあんなにつれなくなさツたの……」其背中をなでながら「イヤ決してつれなくしたい心は少しもなかツたんですが、あの時分は春山の若殿が(糸子の結髪)おかくれになツて間もない折ではあり、又考へれば行末とてもとげがたい恋だと思ひましたから、あとで物思ひをするよりは、と思つてそれで私はあなたにもまさるくるしい恋を忍んでゐたのですよ」「うそ仰り遊せ、春山なんてまアいやな……あなたは屹度私みたやうな野暮なものより露のやうな意気な女がお好だからでしたらう」「何の向はともかく私においてはあなたのお父様のお召使をかう言ては何ですが、あんなはしたない下品な女はきらひですよ」うれしさうに「でもどうだか」「まだそんな事を、うそならどうします」「かうします」「おやいたい、ひどい指の力ですね、こんな細い白魚のやうな手々には合ひませんね」「いやですよひやかして……」「フ……怒たの……それはともかくあなたほんとにいらツしやるおつもり」「アラ何でうそを……ぜひつれてツててうだいよ、どうせかうして家を出てきた上は、たとひどんなかんなんをしても、あなたのお側に居る事ができるなら、それでいゝと思ツてる位ですものを、まして今度は見た事もない所へつれてツて下さるのですもの、私はどんなにうれしいかしれませんよ」「ほんと、ぢや今夜のうちに大宮まで行きませう」おどろいて「これからですか」「ハアなに時間は大丈夫です……ね、さうすれば、むかうに行ツてからがゆツくりしていゝでせう、そして上野から汽車にのるにも、昼より人目がなくツて、どんなにいゝかしれませんよ」「あなたと御一所なら私はどうでもよう御座いますが、しかしあなたのおツ母様へはどう遊すの」「なに母には向に行ツてから手紙をよこした方がいゝです……あなたと夫婦にしてくれるならかへる、でなければかへらないとね、いゝでせう」「ほんと、まアうれしい事」「ほんとですとも」とにツこり笑ツて、女の絹のやうな頬に、自分の櫻色の頬をくツつけて「決してお世辞でも何でもない、ほんとうの事をいふんですがね、私はこれまで真に女を思た事はありませんが、あなたにはどうしてこんなに迷ツたか、実に自分ながら不思議ですよ」女はいとゞうれしげに「たとひうそでも其お言葉は忘れません」「うそかまことか今に屹度しれますよ……お兄様も今頃は熱海へおつきでせうが、うらやましいのね」「これからやツぱり御一所にいきますもの、兄をうらやむには及びませんわ、それともあなたはまだ尾彦の花越とかを思ツていらツしやるの」「何の馬鹿な……そんなくだらない事はもういひツこなしさ、早く仕度をなさいよ」。

(十)

はれて妹背となる日をば、むなしくこゝに松島の観月楼上、三階の端いと近く立いでゝ、糸子は四方をながめながら「ほんとにどうもいゝ景色ですね、これにまさるところは日本にはありますまいね」寝ころんで居た今宮もおきてきて、糸子の肩に手をかけて「いゝのなんのツて丸で絵のやうですね」「あの向にみえるのは何といふ島ですか」「あれですか、あれは雄島です」「あの島は」「大黒島」「其側のは」「布袋島」「オホヽ……七福神の名みたやうですね……オヤ今日は大変船がみえますね」「あれは皆漁夫の船ですよ」「マア大変面白さうですね」「なに家業となつたら別に面白くもないでせうよ、我々小説家なんぞの道楽商売でさへ、随分つらい事が多いんですもの」「オヤあなたもつらい事があるの」「ありますとも」「どんな事」「どんな事ツて、さうとりとめた事でもないんですが、はたから見たやうに気楽なものではありませんよ」「そりやアやツぱりさうでせうね」何かしばし考へて「それはともかく、しかし今日の母の手紙の様子では、余程ひどくおうちの方からおかけ合があツたものと見えますね」「さうですね」と心配な顔色、今宮は溜息をつきながら「それで母も妹と二人きりで、非常にこまるから、どうか帰ツてくれろツて、怒る所か頼むやうな手紙ですもの、私の母は無論ゆるしてくれませうが、只おぼつかないのはあなたの御両親ですね」糸子はしほれながら「私は両親がゆるしてくれないなら、それで、よう御座いますから人には何と言はれたつてかまひません、只あなたのお側にさへ居られるなら、どうでもいゝと思ひますよ、ですからおかへり遊すのがお否なら、いツその事あなたのおツ母様と、花子様とをこゝにおむかへなさツたらいゝぢやありませんか」「それは何訳もないんですが、しかし私の家業は都でなくツてはできない事ですもの」「なる程さうでしたツけね」「それにくる時、日光や、飯坂なんぞであんまり遊んだもんですから、もうお金もそんなにありませんし、実にこまるんです」「そうですか、どうしませうね」折から此家の女中きたりて、茶代の効能むなしからず、東京にては借家住居の今宮を、衣服の綺羅と顔立の上品になるに胡麻化されて、下へもおかぬ花族あつかひ、障子の外に手をついて「御前、只今新聞がまゐりましたから……それから何ぞ御用は御座いませんか」今宮は物うげに「アアマア何もないよ」「さ様で御座いますか……今日はいゝ塩梅に風が御座いませんでよろしう御座います、ちと瑞巖寺へでもいらツしやいませんか」「先にも見たから……しかし中々立派だね」「さ様で御座いますツてね、私どもはまだ一度も見た事御座いませんもの……」「オヤ姉さんこゝぢやないの」「ヘヱ王子なんで御座いますが、こんな所へまゐツて居りますので」「さうかへそりやマアさぞ故郷が恋しいだろうね、晩にひまになツたら遊びにおいで」「ヘヱありがたう御座います」と会釈して出でゆく。今宮又もねころびて、煙草盆を枕にしながら、今しも女がもてきたりし東京新聞をよみそめしが、稍ありて顔色かへてむくりとばかりおき上り、何かしきりに考へゐる糸子にむかひ「糸子さん、もう駄目ですこ……これを御らんなさい」いはれて新聞手にとり上げ「どんな事が御座いますの」「これ、こゝを御らんなさい」さゝれしところに目を下せば、あはれ悲しやみだしもつらき文学者の大堕落、はツとばかりにおどろきながら、胸とゞろかせてよみ終り、おもはず新聞とりおとしぬ。

×         ×         ×

才にまかせて世をも人をもあざむきつゝおもしろおかしく今日まではどうやらかうやら送りきしが、お露をつまとせし頃より、名誉はすでに地におちて、書肆には体よく遠ざけられ、朋友よりは絶交され、親族よりは義絶されて、社会の信用失ひし上、日々借金取にあたらるゝ苦しさ、糸子の恋慕を幸に、こゝに姿をかくせしも、うか/\するうちふところも大方さびしくなりしのみか、流石薄情残酷なる心にも、世にたぐひなき糸子の姿と、其赤心にほだされて、始は当座の花心、口さきのみでたらせしが、いつのまにやら今は心からいとしくなり、我と我身を疑ふまで、千代も八千代も末かけて、はなれともなき恋しさに、何とかなして表むき夫婦にならるゝすべもやと、いろ/\思ひをくだきしが、我がこしかたをかへりみれば、糸子の両親こゝろよく、承諾すべき訳もなし、さりとていつまで此ところに、月日をおくりてゐられもせず、早や此上は全く路用のつきぬうち、ともかくみやこにかへり上、何とか工風をせんものと、稍決心せし折も折、またもや糸子との浮名を新紙にうたはれて、今はかへるにもかへられず、いかに面皮が厚しとて、ふたゝび人に顔見らるゝに忍びねば、いかゞはせんと思ひしが、思へば思ふ程世の中が否になり、善悪邪正無差別の、こんなつまらぬ娑婆世界、いつまでゐるもおなじ事、いツそ浮世をよそに見て、静けきさとにねぶりなば、いかに心も安からんと、我にもあらずぬけいでて、足にまかせて歩みしが、松吹く風の肌さむきに、ふと心づきてあたりを見れば、岩根を洗ふさゞなみの音は女の泣く如く、松の雫か夜露か雨か、おのが涙か長からぬ、袖もしめりて物がなしく、沖のいざり火影かすかに、月もおぼろにくもれるは、我身のはてをとふにやと、思へばいとゞはかなさに、かへらぬ事を思ひで、おかしゝ罪をくゆる折、いづこともなくとめきの香り、こはいぶかしと思ふまもなく、我にすがりしものあるにぞ、たぞやとばかり驚けば、おもひもよらぬ糸子なり。よもしるまじと思ひしに、どうしてあとを慕ひしかと、しばし無言にながむるを、糸子は涙のこゑ細く「あなた……あなたはマア何といふ情ない方でせう、私をねかして夜夜中こんな所にいらツしやるとは……マアあなたこゝはどこだとお思ひなさいますの」いはれて今宮心づき、そもやいづこと見まはせば、今まで目には入らざりしが、いともふりたる社のさま、月にすかしてながむれば、文字もかすかに五大堂、なる程おもへばあの気味わるき、琴柱の橋を渡りし覚はあるやうなり。さりとては序あしゝと、心のうちにおもひながら「どこでもない五大堂です、あんまり月がおもしろかつたものですから、つひぬけ出してきたんです。決してあなたをおきざりにしたなんて訳ぢやないから、まうそんなにお泣なさるな、ね、もう泣かないでさ」いへばます/\むせび入りて「うそ……うそ仰り遊せ、あなたはこ……こんなにおかきおきまで残しなさツていらしつたのですもの、もうお心はしれておりますよ……なる程あんなにかゝれては、しかも事実であツて見ればさう思召すも御尤です、だから私もおとめ申はいたしません……そ……其かはり私もどうか御一所に死なせて下さいましツ」泣いて我手にすがられて、今宮殆ど当惑せしが、屹度思ひついて「イヤ其お心は忘れません、しかし糸子さん、あなた私のかきおき御すらんなさツたの」「拝見いたしましたとも」「そんならよオく聞きわけて、私一人死なせて下さい」糸子は涙の声ふるはせ「あなた今更そんな事を仰るのは、私をおいとひ遊すからでせう、考へても御覧遊せ、あんなにひどくかかれては、たとひどうでも私も生きて両親に顔向はできません……だからあなたがたつて一所に死ぬのは否だと仰るなら、私は一人で死にますから」と言ひつゝつと身をおこして、崖の方にはせいだすを、あはてて今宮引とめて、これまでなりと決心し「そんなら御一所に死ませう」「ほんとうですか」「ほんとですとも」「オヽうれしい」とよろこぶあはれさ、思へば夢にもおとりたる、痴情のはかなさを、うき世の人はそしるとも、迷ひにまよひし今宮は、いかにうれしとおもひしならん。おりからさツと潮風に、雲はらはれて月影も、ふたゝびくまなくてらすにぞ、手に手をとツて稍暫時、顔と顔とを見合せて、これが此世の名残かと、言葉はなくてもろともに、涙にくるゝ四の袖、吹浦島の岸による、浪も二人の身のはてを、かなしむごとき風情なり。

Chapter 3 of 4
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