老僧の眼力
けさ足跡を見て吉蔵にくちどめしていらい、博士は老婆の正体について頭をなやましぬいていたのです。そこへもってきて、いまのお百姓のことばをきけば、その神出鬼没のはやわざには、まったくおどろかずにはいられません。
もはやこれでは、この老婆はけっして、人間ではありません。たしかに、妖怪変化のたぐいです。
その妖怪変化のたぐいが、おとといもきてまたゆうべも、真夜中に足音をしのばせて、すきあらばこの家をおそおうとして、庭をウロつきまわっているのですから、さすが快活な博士も、なんともかともいいようのないおそろしさをおぼえずにはいられませんでした。
「おそろしいわね」
「とても、こわいわ……わたし……」
お百姓もかえったあとは、もうじぶんたちの部屋へひっこむどころではなく、看護婦も女中も、夫人といっしょに茶の間にひしかたまって、青い顔をしてふるえているかたわらで、博士はひとり黙念として腕をくみながら、考えこんでいました。
だいいちかりに、あの老婆が妖怪変化であるとしても、いまの世のなかに、そんな妖怪などというものが、ありうることでしょうか? よしあったにしても、その妖怪変化がなぜこうまでもしつこく博士の家を、ねらっているのでしょうか? 考えれば考えるほど、まったくわからなくなってくるのです。
そこでその晩は、家中一同、せまい茶の間へあつまって、ほとんどだきあわんばかりのざこねということにして、ただ博士と車夫の吉蔵だけが、枕許へお酒をとりよせて、夜をあかすことにしました。それでも一同は、風にガタンと雨戸がなったり、きしんだりするごとに、すわこそ老婆がしのびこんだか? と、安き心地もありません。
飲んだお酒にもサッパリ酔わず、一刻も早く東の空がしらんでくれればいいと、そればっかりがたのみだったのです。
さすがの老婆も、このただならぬ気配を察したものか、その晩はべつだんあらわれたようすもありませんでした。が、女たちがこんなふうに震えあがってしまったのでは、これからさきこのひろい屋敷で、夜をすごすことができませんし、また博士のからだもたまりません。
そこで翌日はとうとう、つめかけてくる患者をことわって、吉浦にすむ夫人のお兄さまにたのんで、このわけを話して、屈強な男たちを二、三人かりてこようと、でかけることにしました。
「きょうは義兄さん、内証であなたにすこし、おたのみがあってきたんですがね」
と、博士はさっそく話をきりだしました。
ふしぎな老婆のきたことから、あの猛犬の五郎丸の奇怪な死、そしてそのあくる晩博士の手の甲につけられた爪傷が、五郎丸の爪傷とまったくおなじであったこと、さらに東戸松村からきたお百姓のことまで、のこるくまなく話されたのです。
お兄さまは、はじめのうちこそ笑い顔をしていましたが、あまりのふしぎさに、これをそのまま信じてよいのかどうかに、こまりきった表情をされました。
「きみのようなりっぱな学者にわからない話を、ぼくには、どうも……こまったね」
と、ためいきをもらされるほかはないのです。
「まさかいまごろ、妖怪変化がでるとも思われないし、……しかしきみのたのみは、しょうちしたよ。あんなところにすんでたら、さぞ淋しかろうと、内々ぼくも気にかかっていたんだよ」
「わたしも、こんな話をもちこんだら、さぞ義兄さんに笑われると思ってたんですが、そうかといってほかに相談する人もないし、また話したところでなかなかわかってもらえませんからね。ですが、もうこのままにはしておけないのです。第一、あのからだの弱い頼子が心配ですからね」
お兄さまは、ふかいものおもいにしずみながら、ポツリポツリと話している義弟の博士の顔をながめていられましたが、なにか、ふと思いだされたように、
「ああ待ってくれ、靖彦君……いまひょっと思いだしたことがある。あ、そうだった。そうだった。あの了福寺の和尚だった……」
と、膝をたたかれました。
「靖彦君……きみの話の腰をおるようですまんが、どうだい? ここから半道ばかり奥に、了福寺という寺があるんだが、いまからぼくといっしょにそこまで、いってくれないかね?」
「なぜ、そんなところへいくんです?」
「きみたちがまだ東京にいる時分のことだが、そこの和尚がいちど、なにかのついでに、ぼくに、あの屋敷をね――いまきみたちのすんでいる家さ――あの家をおしがらずに、ひとおもいにこわしてしまえ! と忠告してくれたことがあるんだよ。
いまそれを思いだしたんだ。そのときは、坊主め何をくだらんことをいう! と思って、気にもとめずにききながしていたんだ。いまきみの話をきいているうちに、家をこわせといった和尚の話に何か関係があるように思われてきたんだよ。なぜあの家をこわせといったのか? そのわけを、きみとこれから和尚のところへいって、きいてみたいんだよ」
正直なところ、博士はあまり気がすすみませんでした。むかしの化けもの話ではあるまいし、そんな年をとった田舎寺の坊主のいったことばなどを気にして、きいてみたところで、なんの役にたつわけでもないし! と思っていられたのです。しかし、お兄さまがせっかく親切にいってくださるのを、無下にことわるわけにもいかず、とうとうつれだっていくことになりました。
その了福寺は、この吉浦の町はずれから田圃をこえて、山道へわけいった早岐よりの、高い石段をのぼっていった、老樹にかこまれて、なんともいえぬしずけさをたたえた、山寺でした。案内をこうと、
「おうおう、吉浦の健一さんか、遠いところをようこそ見えられたな、さァさァ、こちらへおあがり……」
七十をすぎた老僧は、きさくに玄関へ立ちあらわれましたが、お兄さまのうしろにしたがった博士にチラッと目をそそぐと、おや! といったように、まっしろな眉毛の下のひとみが、さすように博士の面へとまりました。
「健一さん、このお若いかたは、おつれかいな?」
「ハ、まだおひきあわせもしませんでしたが、義弟でして……妹のつれあいなのです……」
「いかんな…これはいかんな……」
と和尚さんは、お兄さまのことばも耳に入らぬようにつぶやきながら、いぶかしそうにじっと、博士の面へ目をとめていられるのです。
「健一さん、くるそうそうろくなことをいわん坊主だと思われるかしらんが、このお若いかたにはおそろしいものがついとるな。命をねらわれとる……」
とたんにお兄さまも博士も、ハッと顔色をかえてしまいました。
「と、おっしゃいますと?」
「このお若いかたのうしろに、ゆだんのならぬものがついとるんじゃよ……あんた、このごろうちから、なにか恐ろしい目におうてなさるじゃろが?」
「ハ、じつはそのことについて、きょう義兄のところへ相談にまいって、こちらへうかがおうということになりまして……」
「そうじゃろ、そうじゃろ、あんたには恐ろしいものがついとる。いかん、いかん! 早くしまつしてしまわにゃいかん! さあさ、はやく靴をぬいで……おあがり! できることはご相談にのってしんぜよう」
青苔のにおいがただよう、しずかなふるびた書院へ通されてから、博士は一部始終をこの和尚さんに話されました。
「そうであろ……おおかたそんなことであろうと、わしも察していましたのじゃ」
と、和尚さんはふかくうなずかれました。
「ときにあんたは、その老婆がなにものか、見当がついておいでかな?」
「ハ、それがいっこうにわかりませんので……」
「健一さん、これはあんたの、大失策じゃよ。わしがあの家は悪因縁のまつわっとる家じゃから、こわしてしまいなされと三年まえにすすめたときに、なぜそのとおりになされなかったのじゃ? わしもできるだけのことはしてしんぜるが、そのかわりわしのいうことだけは、守らにゃいけませんぞ。さもないと、その老婆にかかって、命をおとさにゃならぬ」
「その、老婆というのは、いったい何者でしょうな?」
お兄さまがたまらなくなって、せきこまれました。
「わしの見るところでは、人間ではないな」
「人間でないとおっしゃると……?」
「わしは怨霊じゃろと見ている。怨霊も怨霊、よほど劫をへた獣の怨霊じゃな」
「怨霊?……へえ! 怨霊とはおどろきましたね。で……では、この災難を、どうしたら救っていただけるでしょうか?」
「ま、お待ち……それはわしもいまから頭をひねるんじゃが。そんな怨霊が、なんのためにあんたたちに祟りをしとるのか? いま住んでなさる家の由来から、話をしてあげんことには、あんたたちにものみこめなさらんじゃろ。ま、ききなさい、こういうわけなのじゃ。が、そのまえに……健一さん、こんどはあんたもわしの話を、ばかにしてはききなさらんじゃろな?」
と、老和尚は、つよく念を押してから、世にもふしぎな身の毛もよだつようなおそろしい話をはじめられたのです。