セルロイドの玩具
ヴィクトリヤ停車場のまえは文字どおりに人の顔の海洋だった。
それがみんな、ちょうど三角浪のように一せいに同じ方向をむいて伸び上っている。
午後三時二十七分、カレイ・ドウヴァ間の汽船に聯絡する汽車が、巴里で結婚したアドルフ・マンジュウを乗せていま到着しようとしている。今朝の新聞にそう出ていた。だからこの人だかりである。
いっぱんに男よりもものずきなせいか、この自発的出迎人には女が多い。それともかれアドルフは全女性の「甘い心臓」とでもいうのだろうか。とにかく、あらゆる類型と年齢の女人がこの広場を埋めつくして、ロンドン交通の一部に大きな支障を来すほど、巡査が解散を命じようが軍隊が出動しようが、いっかな動きそうもない。おそらくは消防夫が喞筒で硫酸を撒いても、すでにアドルフ・マンジュウを瞥見するためには死を賭して来ている彼女らは、びくともしないで立ちつくすことであろう。
が、これほど群集の過半を占めている女も、こうしてよくみると、タイプと階級はじつに決定的に極限されていて、いかにもアドルフ・マンジュウを崇拝おく能わざるらしい、そして、一眼でいいからその巴里の花嫁なる人を「見てやり」たいと言いたげな、そこらの店の売子、タイピスト、女事務員、女給、老嬢、女房たちである。これらの低い、それだけまた妙に真剣な人たちのうえに、ひとつの変に競争的な空気が漂って、青い空の下、黒い建物に挟まれて数えきれない女の顔が凝然といならび、製本中の本の頁のようにいやにきちんと揃っているのだ。ちょっと不思議な圧迫を感ずる。
思うにアドルフ・マンジュウの映像は、この人々の胸において、それぞれひとつの絶対な存在であるに相違ない。この近代商業芸術の創造したせるろいど英雄に対するファンなるもののこころもちは、ひどく個人的――恋がひどく個人的であるように――で、そうして恐ろしいまでにひたむき――ふたたび恋がそうであるように――なものに考えられる。すくなくとも、女たちの眼が、みんな一ようにこう意気込んでいるように見えるのだ。
つまり、アドルフ・マンジュウを見るということは、この女群の一人ひとりにとって、聖なる概念の現象化――早くいえば、そのままに奇蹟を意味するのだろう。
奇蹟を待つ人々はしいんとしている。
ただ、まえへ割って出ようとする女を、ほかの女が肘で争っているくらいのものだ。それも、いぎりす人のことである。すべてが可笑しいほど、厳粛な沈黙と、静寂のうちに――。
私たちも朝飯の食卓で新聞の記事を見て、折から事あれかしと待ちかまえていたところだったので、こうしてぶらりとアドルフ・マンジュウを見物に出てきたのだ。べつに見てどうしようという意志もないから、このとおりおとなしくうしろのほうに引っこんでいる。
三々伍々あるいている人たちが参加して、群集はふえる一ぽうだ。なかには、何だか知らずに立ちどまっている人も多いらしい。あちこちでおたがいに訊きあっている。きっと、皇太子殿下がいま亜弗利加旅行へ出発するところだ、ことのいや、皇太子殿下がいま亜弗利加旅行からおかえりになるところだとのこと、いろいろ取り沙汰がたいへんだとみえて、何かさかんに言いふらしている物識顔と、それに応じてしきりにうなずいている頭とがそこここに揺れている。
時計はとうに三時二十七分を過ぎて、カレイ・ドウヴァの汽船に聯絡する汽車から吐きだされた乗客のむれが、ぞろぞろ停車場を出て来た。アドルフ・マンジュウの出迎人は瞬間石のように緊張しながら、一列につづく自動車のために細いみちを開ける。そこを群集に驚いた乗客たちが、思いおもいにタキシを走らせて通りすぎてゆく。それがすっかり通り過ぎてしまっても、奇蹟はまだ出現しない。一同は散ろうともせずに待っている。いぎりす人らしく自治的に、そして可笑しいほど厳粛な沈黙と静寂のうちに。
私たちは飽きてしまった。で、いささかばかばかしくなって歩き出そうとしたときだった。
ざわざわと停車場の出口にあたって少数の人がうごいたように思った。と、誰もかれもが一そう首を伸ばして、同時にアドルフ、アドルフというじつにものしずかな――英吉利人らしい自制的な――声がつたわってきて、女は手ぶくろを振っている。
灰いろの大型な幌無自動車が人のなかの通路をすべってゆく。車のまえは一本の隙間が長くひらけ、車のうしろには女の信者たち――女給、女事務員、町娘等のムウビイ・ゴウアス――がぎっしりつづいて。
ただそれだけの野次である。
ほかの人々は、自動車のうえを見るよりも、そのまわりの群集をみている。それも、いかにもイギリス人らしく可笑しいほど厳粛な沈黙と静寂のうちに。
はじめからアドルフ・マンジュウを目的にしていたのは、集まった人々の十分の一だったのだ。他は、ただ群集のために一時歩行を中止していたのである。しずかに、そして自制的に、いかにも英吉利人らしく無言のまま。
アドルフ・マンジュウのあの浅黒い光った顔と、中年女の好きそうなひげと、有閑好色紳士めいた鼻のわきの小皺とが、イギリス人らしいあっけない群集のなかを、映画用微笑とともにゆるくドライヴして行った。そばに、巴里の新夫人――新夫人めかしてうつむいた――の肩に、ストウン・マアテンの毛皮が自動車の震動でこまかくふるえていた。
アドルフは灰色に縞の眼立つ背広、夫人は黒のテイラメイド・コスチュウムだった。
信じられないかも知れないが、いくら「アドルフ・マンジュウ」だって、「法律による自分の妻」とともにこうして自動車を駆ることも、たまにはあるのである。
空は高く青く、建物は低く黒く、満足したらしい群集は自治的に解散し出す。最後に、イギリス人らしい可笑しいほど厳粛な沈黙と静寂のうちに。
待っていたようにバスが唸り出し、苺売りが人を呼び、町かどの巡査は人間性を理解しつくしたもののごとく長閑にほほえみ、ふたたびいつものヴィクトリヤ停車場まえの妙に鄙びたすなっぷだ。
『思ったより年をとってるのね、アドルフ・マンジュウって。』
救われたように彼女が言っていた。まず、これはこれでおしまい――そういった、きょうの見物順序のひとつをすました旅行者のよろこびで。