四
「千光寺さんに使ひをやつたのかい。――誰もまだ行かないつて? ――何あんて間抜けだのう。庄どん、お前一つ行つて来とくれ。提灯を忘れるなよ。もう皆さんがお集りですからお迎へに上りました、つて云ふんだよ。うん、うん、さうよ。いつしよにお伴をしておいで」
鍵屋の隠居神原直造は老来なほ矍鑠と云つた様子だつた。
彼はもう三時間も前から紋附羽織に袴といふ恰好で、八畳と十畳とを合せた広さの上り店の間に控へてゐた。彼の坐つてゐる場所は大きな欅の塗り柱の前で、そこには以前古風な帳場格子がどつしりと据ゑられ、当主の文太郎に家督を譲るまでの何十年間をこゝに坐り通し、帳つけをし、入つて来る人達の挨拶を受けたものだつた。文太郎の代になつて酒造をやめてしまつた後も、しばらくは帳場格子も元のまゝ据ゑられてゐたが、いつの間にかそれもどこかへ片づけられ、以前はこれでも狭すぎる位だつたこの二間ぶち抜きの店の間は年来畳の広さを見せたきり何の役にも立たない風だつた。それは正しく一種の死だつた。
が、今夜は入口の大戸が開け放たれ、土間には打水がされ、眩いほどの電気で照し出され、絶えず出入りする人の気配と、土間づたひの台所の方から流れて来る何かの匂ひや湯気で温もつた空気のために、この広い店の間は何年か振りに息をふき返したやうであつた。店の間の突きあたりには美しい紅味を帯びた褐色の塗りのかゝつた造りつけの戸棚が四間の長さにわたつてどつしりと立つてゐた。それはこの何もない単調な部屋に一層重厚な装飾的効果を見せてゐたが、その上には更に鍵屋の定紋である下り藤のついた四角な箱がずらりと天井近くを横に並んでゐた。それは恐らく提灯を蔵つてあるのだらうが、木箱の上に厚い和紙張りを施され、その白地に黒々と染め抜かれた大きな紋はこれ又ふしぎに冴え冴えとした色調を以て浮び上つてゐた。ふだんは日中でもほの暗く、したがつて一様にうすい埃を被つて沈んでゐるこれらの物が、今やいつせいに生き返つたやうに見えた。
そして、これと全く同じ活気が、あの燃え残りの蝋燭の発する佗びしい、だが、ゆらめくやうな活気が今夜の法事で主人役をつとめてゐる神原直造にもあつた。
彼は年に似合はず厚く生えた白髪まじりの頭を短か目に刈り上げ、多少猫背になりながら袴の両脇から手を差しこみ、心持肱を張つて坐つてゐた。それは何々翁肖像といふ掛軸を思はせるやうな古風な律義さと端正さを現はしてゐた。
「さやうで御座りますか。お忙しいところを御苦労さまで」
銹のある低い声で入つて来る客に叮重に挨拶しながら、その度に手を袴の下から出して奥の間へ誘つた。この「さやうで御座ります」といふのが直造の口癖だつた。しかも、その言葉を口にするごとに、彼の痩身なだが骨太な身体は慇懃に前こゞみになつた。それはこの身動きと言葉とがぴつたりとくつつき、いやそれ以上に全く同一物と化したやうな趣があつた。
徳川末期に生れ、慶応、明治、大正と社会的な大変動の中を生きて来ながら、直造の生涯は世の多くの庶民と同じにその根底は単純きはまるものだつた。なるほど、今は白い曇りのできかゝつた直造の眼は多くのことを見て来た。長州の藩兵が疾風のやうに天領を席捲し東に通過した時には、土蔵に封印をし、大戸を下して一家中が山の上に逃げた。つゞく御一新はもとより、憲法発布も、日清日露の戦役も、更に今欧洲では大戦も始つてゐた。日本は青島を攻略した。だが、すべてこれらの出来事に対しても、直造達は別に広汎な知識も予見も持ち合せてゐなかつた。たゞ、彼等は見た、そして大きな流れにしたがつて生きた。それだけだつた。それは人為のごとくして実は巨きな自然だつた。或る時は曇り、或る時は晴れ、やがて突風が――そして稲は実り、刈られ、――あらゆる天変地異が、あの逆まく濁流が橋を流し堤を崩し、人家をその中に浮き沈みさせ、又木は薙ぎ倒され、作物は根こそぎにされ、――だが、それはやがて過ぎて行く。過ぎ去ると共にすべてはけだるい一様な調子の中にのみこまれ、遠のき、今日はじまる事もやがては又同じく過ぎ去るであらうと確信させるに至る、あの永い月日といふものの不可思議、その中に野や山と同じに自然に確つかりと地面に立つて現れる物がある。それは「家」だつた。あの黒光りのする欅の柱、去年も一昨年も同じ所に造られた燕の巣。所々が剥げ落ち、雨で黒い汚点ができ、又上塗りをされた白壁。あのかすかな弛みを見せながらなほ未だに堂々とした線を中空に張りわたしてゐる苔のついた屋根。――この家が直造の安心を支へて来たのである。
家督を継いだ文太郎が間もなく酒造業をやめた時に、直造は少からず不満だつた。文太郎は種々の理由から説得した。が、最大の理由は法学士だつた文太郎が帳付よりも地方政治に興味を持つてゐたことにあるらしい。果して、文太郎の濫費のために一時は不動産の大半が銀行担保に入つたことがある。直造は不機嫌だつた。しかし、欧洲大戦が始つて以来の好景気が鍵屋の財政を持ち直しはじめてゐた。
今その文太郎が県会の視察旅行に出てゐたので、法事の主人役は直造に廻つたのである。だが、文太郎はかういふ町内づき合をあまり好んでゐなかつたから、たとへ在宅だつたにしても、直造は主人役を買つて出たであらう。
「さあ、どうぞ。ずつとお通り下さい」
あまり立てつゞけに挨拶したので、疲びれ、いくらか器械的にだが形だけは実直に頭を下げた直造は、稍かすんだ眼で今迎へたばかりの客を見た。
それは直造が案内状を出す間際になつて心づき、入念に考へたあげくに呼ぶことにした高間房一だつた。
読経はまだ始まらなかつた。
三間つゞきの奥座敷では蝋燭だの燈芯の明りで照し出された仏壇を前に、来客達が思ひ思ひの所にかたまつて坐つてゐた。
「さうですよ、あんた。銅の値が上つたさうですね、昨日も九州の方から礦山師が赤山を見に来たんです。あの山ぢあね、随分家屋敷をなくした者があるんですがね」
恐らくその一かたまりでは赤山廃坑の話がさつきから賑かだつたのだらう。さう勢ひこむやうな調子で喋つてゐたのは富田といふ仲買だつた。
「あの山に田地を注ぎこんで裸になつたのは三人、わしも知つとる」
傍にゐた赭ら顔の老人が低い声で云つた。
「三人どころぢやない、五人も十人もある」
富田はすぐ又自分の方に話をひきとつた。
「それあ、もう、掘つても掘つても屑みたいなものしか出ないつて云ふんだがね。まあ、天領の時分に良いところはそつくり掘り上げてしまつたんだらうね。その山をまだ見所があるつて云ふんだから、あてになるやうなならんやうな話だあね」
「君は昨日その九州から来た連中を赤山へ案内して行つたちふぢやないか」
横合から冷かすやうに口を入れたのは雑貨店の庄谷だつた。痩せた上に黒く日焼けがし、固く乾いたやうな顔には小さいが白味の多い眼がいつも人を小莫迦にするやうに閃いてゐた。彼はさつきもその眼で入つて来たばかりの房一を見、房一が挨拶すると「あン」といふやうな声を出しただけで、すぐに話に聞き入つてゐたのだつた。
「いやネ、誰か赤山のことに精しい者はゐないかつてんで、わたしの所へ来たのですね。まあ、案内するにはしたが、あの連中と来たら地の底でも見えるやうなことを云ふんで呆れたところですよ」
「何だらう、山師を煽てて又一儲けしようてんだらう」
わきから又誰かが冷かした。
「とんでもない、わたしの持山ぢやあるまいし、こつちは間で口を利いても礦山のことは素人だし、向ふは専門家でさあね。そんな煽てにのるやうな連中ぢやないよ」
富田の仲買は表向きの商売ではなかつた。彼には小造りではあつたが格子戸の入つたしもたや風な家もあるし、山林や田地も人並みには持つてゐた。だが、それも地主として納るほどではない。用があつてもなくても、何となく用ありげな顔で方々に現れては話しこむ。そして、他愛のない噂話や雑談の中から自分の儲け口を見つけるのに妙を得てゐた。彼はあらゆることに、例へばどの田は段あたり何斗米がとれるかも知つてゐたし、河原町近在の山もどこからどこまでが何某の所有であるかも、時にはあらかたの立木の数ものみこんでゐたし、或る家では地所を拡げるために境界の石をこつそり一尺ほど外に置き換へたのだといふ類にいたるまで通暁してゐた。おまけに口達者だつた。したがつて多少煩さがられながらも、用のある時にはたしかに重宝な人物にちがひなかつた。恐らく彼自身もそのことはわきまへてゐたのだらう。何となく小莫迦にされながらも、今日ではどこの家へも自由に出入りできる特権のやうなものを自然と獲ち得てゐた。同時にそれは一種鹿爪らしい表情となつて現れてゐた。
「何かの、いつたいあの山を掘つても引合ふのかな」
「さあね、そいつは今のところ何とも判らんでせうな。何しろこの前に手をつけたのは十年前だつたでせうかね、その時の礦石のかけらも残つちやゐませんよ」
「坑には入つてみたんかね。あすこはもう何年も入つた人がないちふことだが」
「入りましたよ。それがねえ、穴の中は苔が生えたやうな、水たまりもあつてね、やつとこさ奥まで行つてみたんだが、まはりの土はぼろぼろ落ちるし、何のことはない洞穴でさあね、――それでも連中はあつちこつち突ついてみてたがね、含有量はまあもつと試掘してみなけりや判らんさうですよ」
その「含有量」といふ言葉は富田が昨日聞き覚えたばかりのものだつた。
「や、皆さんどうも遅くなりまして――」
この時さう云ひながら座に入つて来た者があつた。それは今泉だつた。
坐りなり、あたりを見まはした。眉の強い、眼の切れ目な、短いつまみ立てたやうな鼻髭を生やした今泉の稍冷い顔つきは、それだけで云ふなら確かに整つた立派な顔だつた。苦味走つて男らしかつた。たゞ何か大切なものが欠けてゐた。彼は身近かに、皆から稍はなれて手持無沙汰にぽつねんと坐つてゐる房一を見つけた。
「や、これは。高間さんですか。お久しぶりで」――「お忙しいですか」
「いや別に忙しいこともありませんですよ」
房一はその黒い顔に微笑をうかべながら今泉を見た。
「はあ、はあ」
急いであたりさはりのない返事をすると、今泉はもう隣りの人の方を向いて挨拶をした。
向ふの方には別の一かたまりがあつて、その中には堂本もゐた。彼はさつきからそこに坐つたまゝ一言も口をきかないで、誰かが挨拶する度に慌てたやうにお辞儀を返してゐた。その隣りには大石練吉が近眼鏡の下で眼をぱちぱちさせながら、今夜もその色白な頬に上気したやうな紅味を浮かべて坐つてゐた。彼は坐つたまゝ絶えず首を伸して部屋中を眺めまはしてゐた。入つて来る人を彼は誰よりも先きに見つけた。そして、簡単にひよいと頭を下げてうなづいて見せてゐた。
房一が入つて来るのを見たとき、練吉の顔には意外だといふ表情が浮かんだ。彼は房一の眼を迎へようとして一層高く頭を持上げたが、房一は気づかなかつたので、やがて、練吉はわざわざ座を立つて近づいて来た。
「や、先日はどうも――」
練吉は房一の腕にさはつて、囁くやうに云つた。近眼鏡の下から切れの長い練吉の眼が一種こつそりした親密な表情をのぞかせてゐた。突嗟に房一はその囁くやうな調子や眼つきから、練吉が何のことを云つてゐるのかを了解した。
「いや、どうも」
房一は微笑した。――つい半月ほど前、房一には初めてだつたが、郡の医師会が隣町であつたので、練吉と二人づれで出席した。その晩の宴会で、練吉は酒癖の悪い所を見せた。或る医者と練吉との間には、房一には判らない感情的ないきさつがあるらしく、飲んでゐるうちに練吉は突然口論をはじめ、つかみ合ひになりかゝつた。房一は練吉の留役だつた。そして、まだしきりに興奮して、「やい」とか「山梨の野郎、出て来い」と思ひ出したやうに怒鳴る練吉の腕をしつかりと抱きこんで旅館まで連れかへり、水をほしがつたり又その上にのみたがつたりする練吉を押へつけるやうにして寝かしたのだつた。
練吉が元の座へ帰つてゆくと、房一はぽつんと一人とり残された。来客達の大半とはすでに顔見知りだつたにかゝはらず、今夜の席では房一は唯一の新顔だつた。
「大石の御老人は見えんやうだな」
と、房一の近くで云ふ声が聞えた。今泉らしかつた。つづいて同じ声が
「相沢さんも見えないな」
「誰? 相沢の知吉さんかね」
さう云つたのは庄谷だつた。房一がその方をふり向いた時、庄谷の白味がちな小さな眼が意味ありげに更に細くなつたところだつた。そのまゝにやりとして、
「あの人は来まいて」
「どうして? 血はつゞいてゐなくてもこゝの家とは親類ぢやありませんか」
「それが、その、来ないわけがあるのさ」
「へえ、どういふわけでせう」
一瞬、まはりの者は皆黙つてゐた。わけを知らないのは今泉だけらしかつた。その意識のために、今泉はひどく大切な物をとり落したときの呆然とした眼で庄谷を眺めてゐた。もともとどこか空虚な感じのする彼の顔は、眼がとび出して底まで空つぽになつたやうに見えた。
「あれは本当ですかね、相沢さんが訴訟を起したと云ふのは?」
声をひそめて、富田が訊いた。
「本当も本当でないもありやしませんよ。財産譲渡無効、その返還を請求したのだよ」
「相手は誰です? こゝの御隠居ですかい」
「いや、それあ貰つたのが分家だから、相手はやつぱり分家の喜作さんさね」
「だつて、喜作さんはこの土地にはゐないでせう」
「居なくたつて訴訟はいくらでもできらあね」
その時、彼等は近くに坐つてゐる房一に気づいた。話に出てゐる鍵屋の分家とは、まさに房一の借りてゐる家のことだつたし、その所有者は神原喜作にちがひなかつたから。
「ねえ、高間さん。まあ、こつちへお寄んなさい」
富田は房一に声をかけて彼のために席を明けながら、つづけて
「あなたは御存知ないんですかね」
「どういふことです、わたしにはさつぱり――」
房一はさつきから自然と聞いてはゐたが、事は初耳だつた。
「ですが、一体財産譲渡つて云ふのはいつのことなんです、大分前ぢやないですか」
富田は庄谷の方に向きなほつた。
「さあね、もうかれこれ二十年にもなるだらうかね」
「えらい昔話が又ぶり返したんだな」
「あれは何でせう、知吉さんといふ人は悪く云ふと娘をひつかけて相沢の家に入りこんだやうなもんでせう」
「さうだな、相沢の先代はひどく知吉さんを毛嫌ひしてゐたさうだな。だが娘がくつついてゐるから仕方がないといふわけでね。――だから、甥にあたる喜作さんを養子にして、それに老後をかゝるつもりだつたのだらう。その時、喜作さんの方に財産を分けたんだよ。ところが、娘が男の子を産んだ。今の市造といつたかな。嫌ひな知吉の子でも、孫にはちがひない、孫は可愛いゝといふわけでね、喜作さんにはそのまゝ財産をつけて神原の方へ籍をもどしたんだな。――それを今かへせといふわけよ」
「どうして又今まで黙つてゐたのかね」
「相沢の先代が生きてゐる間は知吉さんも手が出なかつたのさ。目の上の瘤がなくなつたから、いよいよ本性を出したといふところだらう」
「それあ、しかし、何だな、知吉さんも今まで不服だつたのをこらへてゐたんだな、何分かの理窟はあるわけだね」
「ふむ、毛嫌ひされて、孫ができてからやつとこさ婿養子になつたんだからね。――しかし、今ぢや正当な相続人だから、喜作さんに分けた分も自分の物だといふ理窟なんだね」
「何でも大分前からこゝの御隠居にかけ合つてゐたさうぢやありませんか」
「理窟があるやうな無いやうな話でね。こゝの隠居は相手にならなかつたから、たうとう訴訟といふ所まで来たんだらうが、何しろ相沢の先代とこゝの隠居とは兄弟だしね、――どんな理窟があるにしてもあまり賞めた事ぢやないね」
「知吉さんはこれまで散々踏みつけられて来たんだから、自分が戸主になつてみるとこれまでの腹いせといふ気もあるんでせうな」
「まあ、それあ――」
その時、千光寺の住職がひよろ長い姿を現はした。彼はたつた今さつき剃つたばかりのやうな青いつるつるな頭をしてゐた。今夜の主役だといふ意識がさうさせたのだらう、もつともらしい儀式ぶつた表情のまゝ、彼は集つた人達には目もくれずにまつすぐに仏壇の前に進んだ。だが、そのひきしめたつもりの口もとにはあの真白い偉大な反つ歯がのぞいてゐた。
読経がはじまつた。皆話をやめてその方を向いて坐り直した。
それは何かしら長い退屈な時間だつた。香煙はまつすぐに立ちのぼり、二尺ばかりの高さでゆらゆらし、蝋燭の灯はそれに答へるやうにまたゝいた。さつきまで思ひ思ひの世間話に身を入れてゐた連中は一瞬厳粛になり、それから放心し、今一律に無表情のまゝぢつとしてゐた。その中で、大石練吉は今も頭をまつすぐに持ち上げて仏壇の方を眺めてゐたが、間もなく千光寺の住職の剃り上げた後頭部に人並外れて骨が突出し、その下にぺこんとした凹みのできてゐるのを発見し、しきりとそれを見つめてゐた。
あの坊主は前からあんな頭をしてゐたのかしらん。――さう云へば、子供の時分いつしよに遊んでゐるとき見たやうに思つた。――練吉はそんなことを考へてゐた。
今泉はうつむき気味に、すぐ前に坐つてゐる庄谷の背中を見つめてゐた。するとその肩に一本の糸屑がくつついてゐるのに気づいた。彼はそつと手を伸してつまみ上げた。庄谷はうしろをふり向いた。その白味の多い小さい目で無意味ににやりとした。そして又元の眠つたやうな無表情にかへつた。
房一は庄谷の後で時々目を開けてゐたが、間もなくすつかりつむつてしまつた。ゆるく尻をひつぱる読経の声、時々ふいに高くなり、途切れ、又ゆるやかにつゞくその倦るい音は、それにつれて聞いてゐる者に次々ととりとめもない考へを追ひかけさせ、立ちどまらせ、又流れさせた。
――「やあ、おいでなさい。わたし相沢です」
はじめて往診に行つたときの相沢の濁み声が耳に蘇つて来た。それから、あの粗末な黒い上着と、カーキ色の目立つ乗馬ズボンと、又あの鼠を思はせるやうな黒味の拡がつた、ちつとも目瞬きをしないふしぎな眼玉とが、房一のつむつた瞼の中に現れて来た。
房一はあれから相沢の息子を診に五六度行つた。殆どその度ごとに会つてゐるので、相沢知吉といふ人物については一通りのことは知つてゐるつもりだつた。同時に相沢の経歴についても聞知してゐた。
知吉は二十年前に養蚕の教師としてこの町にやつて来た。相沢家の一人娘だつたあいはその講習生の中にゐた。二人の間に恋愛が生じた。相沢の先代章助は神原家から養子に入つた人で、神原の隠居直造の弟にあたる。昔気質の一克な性分ではあるし、むろん一人娘と知吉との間を許す気はなかつた。ところが、ふしぎなことが起つた。あまり美しくもなく、その単純な性質と温和しさが何よりの取柄だつた娘のあいは、知吉にどんな魅力を感じたものか父親の意見には挺でも動かない大胆さを示したのである。その頃知吉は四五里先の村へ養蚕を教へに行つてゐたが、あいはそこへ奔つた。つれ戻され、又出るといふごたごたを繰り返したあげくに、たうとう相沢章助も不本意ながら黙認せざるを得ないことになつた。けれども知吉を嫌つて家へ入れなかつた。さういふ章助の態度に反撥を感じた知吉は、今に見ろと思つたにちがひない、東京へ出て法律を勉強した。あいはむろん同行した。五年かゝつたが弁護士試験には及第しなかつた。するうち、あいとの間に市造が生れたので、間に口をきく人があつて河原町に帰つて来た。帰郷してみると、章助は甥にあたる神原喜作を養子として迎へてゐたし、知吉は相沢家へ入れられずに依然として冷淡な待遇をうけた。もつとも、章助は孫の市造には目がなかつたので、それにひかされて止むを得ず知吉を入籍した。喜作は神原家にもどつて分家を継いだ。財産の譲渡はその時行はれたのである。だが知吉は入籍しても別に一戸を持ち、小学校の教師をしてゐた。やうやく章助の気が折れて、知吉は相沢家に迎へられたものの、章助との間がうまく行く筈はなかつた。先年章助が死歿するまで、知吉としては腹につもる不満をぢつと押へてゐたわけである。さういふ成行は、悪く解釈すれば、どんな扱ひをうけても相沢家の一人娘のあいを手中に握つて今日の日を待つてゐたと云ふことにもなりがちであつた。要するに、今日にいたるまで知吉の味方はあいの他には一人もなかつたといふことになる。さういふ知吉は、先代がそこの出である神原家に対しても分家の喜作に対しても快く思ふ筈はなかつた。弁護士にはなれなかつたにしても、知吉には法律の知識があつた。鍵屋の側から云へば苦手だつたかもしれない。どんな風にして知吉が鍵屋へ交渉をはじめたか知る由もないが、隠居の直造はそれ以来知吉を三百代言のやうに忌み嫌つてゐた。相沢と鍵屋とは絶縁同様だつた。
――房一がさういふことを耳にしたのはごく最近である。しかし、いづれにしても房一には直接関係のないことだつた。
「御焼香を。――どうぞ、お近いところから御順に」
銹のある鍵屋の隠居の声が響いた。しかし誰もすぐに立たうとはしなかつた。身内の者が済んだ後でも順位は自らきまつてゐるのだつた。房一のうしろの方で誰か低い声で何か云つてゐた。見ると、そこには遅れてやつて来た老医師の大石正文がまはりの者からすゝめられてゆつくり立上るところだつた。猫背の痩せて尖つた肩つきは坐つた人達の間を分けて行く時、弱々しげではあつたが、舞台で出場を心得てゐる老優に見られるやうな落ちつきと確信があつた。次には堂本が立つた。それから大石練吉が眼鏡の下でふしぎな生真面目さを現しながら立上つた。