Chapter 1 of 5
一
私は知つてゐる人に逢はないやうに沼の向う側を通つて行つた。なつかしい沼、蘆荻の深く生ひ茂つてゐる中に水あほひの濃く紫に咲いてゐる沼、不思議な美しい羽色をした水鳥の棲んでゐる沼、私の恋を育てゝそして滅して行つた沼――さびしい田舎の停車場を下りて、百姓家について幾曲も曲つた路を通つて、それからずつと此方へと歩いて来て、その銀色した沼の一部を眼にした時には、私は一種の顫えを心に感じて、ぢつとそこに立尽した。
今は冬だ。そこには水あほひの濃い紫がありやう筈はない。またそのなつかしい水鶏の声を耳にしよう筈はない。また私達の恋を世間からかくして呉れた蘆荻や水草の緑がありやう筈はない。あたりはさびしくなつてゐる。曾てそこにさうした恋が燃えたなどとは夢にも思へないほどあたりは冬に包まれて了つてゐる……。しかし私はそれを見に来たのではないか。その跡を、さういふ風にさびしくなつてゐる沼を見に来たのではないか。
幸に私は誰にも逢はずに、逢へば必ずなつかしさうに向うから寄つて来て、その時はぢかには話さぬにしても、あとでいろいろと噂の種にはせずには置かないであらう村の人達にも逢はずに、丘の松の林の中の路をずつとYの城跡の方まで出て行くことが出来た。静かな初冬の日影がそこにあつた。私は纔かに残つてゐる封建時代の石垣のところに来て、誰にも見られぬやうにそこに草を籍いて坐した。