一
久しく無住であつたH村の長昌院には、今度新しい住職が出来た。それは何でも二代前の老僧の一番末の弟子で、幼い時は此の寺で育つた人だといふことであつた。「ほ、あのお小僧さんが? それはめづらしいな。」などと村の人達は噂した。
先代の住職が女狂ひをして、成規を踏まずに寺の杉林を伐つて売つたりして、そのため寺にもゐられなくなつてから、もう少くとも十二三年の歳月は経過した。始めは一里ほど隔つた法類のT寺がそれを監督したが、そこの和尚も二三年して死んで了つたので、あとは村の世話人が留守居などを置いて間に合せて来た。寺は唯荒るゝに任せた。
長昌院と言へば、この界隈でもきこえた古い寺である。徳川時代にもいくらか御朱印のついてゐる格式の好い方であつたし、田地も十分についてゐたし、境内も広い広いものであつたし、先々代の老僧などは、駕籠に乗つて伴廻りを三人も四人も伴れなければ決して戸外には出ないほどであつた。それに古い由緒が更にこの寺を価値づけた。寺の奥にある大きな五輪塔形の墓、苔の深く蒸した墓、それは歴史上にも聞えたこの土地の昔の城主なにがしの遺骸を埋めたところで、戦国時代にあつては、この城主は、この近隣数郡の地を攻略して、後にはその勢威がをさ/\一国を震慴させたといふことであつた。今でもその住んでゐた城の址はその村の西の一隅に草藪になつて残つてゐるが、半ば開墾されて麦畠、豆畑、桑畑になつてゐるが、それでも館の址だけは開墾すると祟があると言つて、誰も鋤も入れずにそのまゝにして置いた。取巻いた壕の跡には、深く篠笹が繁つて、時には雨後の水が黒く光つて湛へられてゐるのが覗かれた。春はそこから出て野に行く道に、蓮華草や菫の一面に咲いたところがあつて、村の小娘達はそれを採つては束にして終日長く遊んでゐるのを誰も見懸けた。
梅雨の降頻る頃には、打渡した水の満ちた田に、菅笠がいくつとなく並んで、せつせと苗を植ゑて行つてゐる百姓達の姿も見えた。かれ等は用水の漲つて流れる縁を通つて、この昔の館の址の草藪に埋められてある傍を掠めて、そしていつも揃つて野良の方へと出掛けて行つた。
少くとも、このH村では、半ば野に、半ば丘に凭つてゐるこのH村では、その城主の館の址と、五百年も前からあつたといふ寺と、その寺に残つてゐる苔蒸した墓と、この三つが、長い「時」の力の中に僅かに滅びずに残つているもので、それ以外には何物も昔の跡を語るものはなかつた。寺の大檀越で、旧家で、昔は寺の為めに非常に喜捨をしたといふSTといふ家でも、その分家の分家が僅かに小さく残つてゐるばかりで、古い苔蒸した無数の墓の外にはその昔の何事をも語らなかつた。唯、雲雀が高く囀つて空に上つた。
今から数年前であつた。ある夏の日の晴れた午後の日影を受けて、此処等にはつひぞ見たことのない新しいパナマ帽を冠つた、絽の紋付の羽織にちやんと袴を着けたハイカラの若い綺麗な紳士が、銀の環の光つたステッキをつきながら、村長につれられて夥しく荒廃したその無住の寺の山門へと入つて来た。
こんな会話を二人はした。
「えらく荒れてますな!」
「どうも……好い住職がないもんですから……それに、もとの住職が寺の借金を沢山残して行つたもんですから……」
「もう、長くゐないのですか、住職は?」
「八九年になります。」
村長は丁寧な言葉で深く尊敬するやうにして話した。
紳士は庇の落ち、軒の傾き、壁の崩れてゐる本堂の中に下駄のまゝ上つて行つたり、留守居の男の淋しさうに住んでゐる古い庫裡の方へ行つて見たりした。奥の苔の蒸した五輪形の墓の前に行つた時には、紳士は長い間跪いて手を合せた。
この紳士は今朝突然この村にやつて来た。そして村長の宅を訪ねた。かれは其処から一里に近い田舎町の旅舎に昨夜わざ/\やつて来て宿を取つてゐたのであるが、その出した名刺を見た村長は、俄かに言葉を丁寧にして、紳士の綺麗な顔を恐る/\見た。名刺には田舎の村長を驚かすに足る官名が書いてあつた。
紳士は寺のことを聞き、墓を聞き、またその昔の館の址を聞いた。今だに壕の跡が依然として残つてゐるといふことを村長から聞いた時には、紳士の顔にはある深い感動の表情が上つた。やがて紳士はその墓と館の址とを残して永久に立去つた昔の城主の遠孫であることを村長に話した。村長は愈々辞を低うした。
「何も他には残つてはゐませんかな。」
「何も……旧家といふのも大抵潰れて了つたものですから……」
「ふむ……」
かう言つたが、「さうすると、その先祖は小田原に亡されて、それから、野州に行つて、そこで今の主人を持つたんですな。何でも、野州で今の藩侯の家来になつたのは、こゝに墓のある人の孫に当つてゐるさうですから……」
「さやうで御座いますか。こゝから、お跡が野州に?」
かう村長は別に感動するやうな風もなしに言つた。
紳士は最初に村の西の隅にある館の址に行つた。濠、草や笹に埋められた壕、それもかれには非常になつかしさうに見えた。かれはわざ/\草藪をわけて、その小高いところまで入つて行つた。しかし其処には何もなかつた。
「城ツて言つても、その時分は、館なのだから――」
こんなことを独言のやうに言つた。で、そこを出て、かれは用水縁の路にその都人士らしい姿を見せつゝ寺の方へとやつて来た。途中では、丁度ひろい庭で麦を打つてゐる百姓達が連枷を留めてじろ/\かれの方を見た。
寺にも一時間ほどゐた。留守居の男が赤く濁つた茶などを勧めた。
かれは又訊いた。
「寺に、先代の弟子と言ふものもなかつたのですか?」
「大勢あつたのですけれども……。それも先々代のですが……。先住にはありませんけれども……。何うも皆な還俗したり何かして了ひましてな……。しかし、いづれは住職を置かないでは困るんですから、そのうち好いのがあつたらと思つてはをりますのです。無住でおきましたから、もう先住の拵へた借金もあら方ぬけました……」
「兎に角、由緒のある寺をかうして置くのは惜しい。」
「さやうですとも……」
で、その紳士は多くの布施を置いてそして帰つて行つた。
あとはまた長い月日が経つた。