一
あゝ焼けたな――ある日の朝、Bは新聞を見ながら思はずかう独語した。本町と言へば、たしかにあの宿屋のあたりだが、その記事では、もつと此方の税務所や郡役所が焼けて、もう少しでその前にある大きな門と前庭とを持つた旧式な二階建の建物に火が移らうとしたのを、やつとのことで消し留めたといふことが書いてあつた。では、好い塩梅にあの宿屋は焼けずにすんだかも知れないな同時にあの港の人達がその火事のために大騒ぎをしてゐるさまがはつきりと眼の前に映つて見えた。あの古い小さい埠頭。あの一杯にぎつしりと集つて碇泊してゐる船。あの徙崖で三方を取巻かれたやうな海。あの板葺やら瓦葺やらの家屋ですつかり詰つてゐるやうな狭い町の通り。それも夜の十二時過ぎだと言ふから、その大きな火焔は折から吹荒んでゐた北風に煽られて、そこらに碇泊してゐた船もそこらにゐられないほど全く火の子をかぶつて了つたに相違なかつた。
Bはさびしい気がした。無論あの料理屋は焼けたに相違なかつた。あの通りから厨の傍やら帳場の傍やらを通つて奥深く入つて行くと、そこに入口があつて、その向うに幅の広い階段がある、それを登つて八畳の間に入ると、海が一目に見わたされるその料理屋。あゝもう何も彼もおしまひだ。その恋は跡方もなくなつてしまつてゐても、そこにさへ行けばその跡だけは残つてゐると思つてゐたのに、その室だけは残つてゐると思つてゐたのに、今はそれさへなくなつた。その跡すら焼けてなくなつた!
それにしてもかの女も矢張何処かでこれを見てゐるだらうか。この港の賑かなところがおほかた焼けたといふ記事を見てゐるだらうか。見てゐれば、かの女とていろいろなことを思ひ出さずには置くまい。Bと同じやうなことは思はないにしても、あの料理屋の上さんを思ひ出すだらう。あの本町の宿屋の主婦と娘とを思ひ出すだらう。あのハイカラな上品な娘を。しかしかの女は恐らくはその記事に目を留めぬであらう。「そんな遠い昔のことを今更思ひ出してゐるやうなかの女ではあるまい」かう口に出して言つたBは黯然とした。