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決闘
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アントン・チェーホフ
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Chapter 10 of 21

十

ピクニックの日から三日ほどすると、マリヤ・コンスタンチーノヴナが不意にナヂェージダを訪ねて来た。そして挨拶もせず帽子もとらずに、いきなり彼女の両手をとって自分の胸に押しつけると、ひどく興奮のていで、

「あなた、あたくしもう動転してしまってどきどき言っておりますのよ。昨日主人のニコヂームが、あの私たちの大好きな親切な軍医さんから、旦那様がお亡くなり遊ばしたとか伺って参りましたの。まあ、あなた、このお話本当でございますの?」

「ええ、本当ですわ。あの人は亡くなりましたの」とナヂェージダは答えた。

「本当にまあ、なんということでございましょうね。けどねえ、あなた、悪いことにはきっとまた善いこともあるものですわ。旦那様はきっと、そりゃ御立派な聖人のような方でいらしたに違いありませんわ。そういう方は、この世よりも天国の方で御用がおありなのですわ。」

マリヤ・コンスタンチーノヴナの顔は、まるで皮膚の下で小さな針が無数に跳ね出しでもしたように、その線という線、点という点が顫えはじめた。そこで甘ったるい例の巴旦杏笑いをやり、夢中になって息をはずませながら、

「じゃこれで、あなたも自由のからだにおなり遊ばしたのですわ。もうこれからはなんの気がねもなしに大手を振ってお歩けになれますわ。これからは神様も世間の人も、あなたとイン・アンドレーイチのことを祝福しますわ。本当に素敵ですこと。あたくしもう嬉しくって、なんと申し上げていいやらわかりませんのよ。あたくしねえ奥様、仲人を勤めさせて頂きますわ。……あたくしも主人のニコヂームもお二人がそりゃ大好きでしたのよ。それに免じて、お二人の正式な清らかな御縁組みを祝福させて下さいましな。式はいつお挙げになるおつもり?」

「さあ私。まるで考えておりませんの」と手を引きながらナヂェージダが言った。

「まあそんなことがあるものですか。お考えになったわ。きっとお考えになったにきまっていますわ。」

「本当に考えておりませんの」とナヂェージダは笑い出した、「式なんかなぜ挙げなくちゃなりませんの? そんな必要ございませんわ。今までどおりやって参りますわ。」

「まあまあ、なんていうことをおっしゃいますの?」とマリヤ・コンスタンチーノヴナはぞっとしたように、「本当にまあ、何をおっしゃいますの?」

「式を挙げたって、別によくなりは致しませんわ。かえって悪くなるくらいなもので、二人とも自由でなくなりますもの。」

「奥様、本当にあなたはまあ!」とマリヤ・コンスタンチーノヴナは後退りをして、両手を打ち合わせて叫んだ、「どうかしてらっしゃるのですわ。ね、しっかりなさって、気をお鎮め遊ばせな。」

「でも、どう気を鎮めろとおっしゃいますの。私まだ一度だって生活ということを致したことがございませんのよ。それを気を鎮めろだなんて。」

ナヂェージダには、自分が本当にまだ生活というものをした覚えのないことが思い出された。寄宿女学校を出ると愛してもいない男に嫁ぎ、やがて、ラエーフスキイと一緒になり、それからというものは明けても暮れてもこの退屈な沙漠のような岸辺で、何ものかを待ち佗びながら暮らして来た。これが生活といえようか。

『やっぱり結婚するのが本当らしいわ』と彼女はふと思ったが、キリーリンやアチミアーノフのことを思い出すと、顔を赤らめて言った。

「いいえ、駄目ですわ。たとえイン・アンドレーイチが膝をついて頼んだとしても、やっぱり私、断りますわ。」

マリヤ・コンスタンチーノヴナは悲しげな真面目な顔をしてじっと一点を見つめたまま、一分ほど黙々と長椅子に掛けていたが、立ちあがると冷めたい声で、

「さようなら、奥様。とんだお騒がせを致しましたわ。これはまことに申し辛いことですけど、御懇意を願いますのも今日限りと思召して下さいまし。あたくしイン・アンドレーイチは御尊敬申し上げておりますので、本当に残念でございますけど、もう宅へはお二人ともいらしては頂けませんわ。」

真面目くさってこう言ってしまうと、かえって自分で自分の真面目くさった調子に圧倒されてしまった。彼女の顔はまた顫えはじめ、柔しい巴旦杏表情になって、度を失っておどおどしているナヂェージダの方へ両手を差し伸べ、哀願するような声で、

「ねえ、せめて一分だけでも、あなたのお母様か、でなければ姉さんにならせて下さいましな。あたくしお母さんのように、何もかも申してしまいますわ。」

ナヂェージダは胸の底に、まるで母親が生き返って来て自分の前に立ったような温かさと嬉しさと、自分への憐憫とを感じた。いきなりマリヤ・コンスタンチーノヴナにすがりつくと、顔を相手の肩に埋めた。二人とも泣き出した。二人は長椅子に腰を下ろして、そのまま暫く咽び泣いていた。お互いの顔も見ずに、一言も口を利く力もなしに。

「あたくし、もう本当にお母様になったつもりで」とマリヤ・コンスタンチーノヴナが口を切った、「歯に衣を着せずに、本当のことをずけずけ申してしまいますわ。」

「どうぞ、どうぞおっしゃって。」

「あたくしを信じて下さいましね。この土地の女のなかで、あなたとお附き合いをしたのはこのあたくしだけということは、思い出して下さいますわね。じつを申すと、お初にお目に掛かった日から、これは困った方だと思いましたけど、皆さんのようにあなたを白眼で見ることがあたくしには出来ませんでしたの。あの大好きなイン・アンドレーイチがまるでわが息子のように思われて、お気の毒でなりませんでしたの。まだ世の中を御存じない繊弱な若い方が、お母様とも別れて他国に来てらっしゃる――それを思ってあたくし随分苦しみましたの。……主人はあの方とお附き合いしてはならんと申しましたのですけれど、あたくし無理に頼み込んでとうとう説き伏せましたのよ。で、イン・アンドレーイチを宅にお迎えすることになりましたが、そりゃ無論あなたも御一緒にでしたわ。さもないとあの方気を悪くなさいますものね。あたくしには息子も娘もございましょう。……子供の柔らかな無垢な心、それは御存じでいらっしゃいますわね。……万一あの小さいのの一人でも汚れに染みでもしたらと、あたくしあなた方お二人をお迎えはしたものの、子供のことでびくびくしてばかりおりましたのよ。あなたもお母さんにおなりになれば、このあたくしの苦労がおわかりですわ。あたくしがあなたを、お気を悪くなさらないでね、淑女扱いに致すと言って、みなさん呆れておしまいになって、当てこすりをおっしゃるのですのよ。蔭口だの邪推だのは無論のことですわ。……あたくし心の底ではあなたを責めておりました。ですけど、あなたが不仕合わせでみじめで向う見ずな方なので、あたくしお気の毒で、一人でくよくよしておりましたの。」

「でもなぜ、なぜですの」とナヂェージダは総身を顫わせながら訊いた、「私がなんの悪いことを致しまして?」

「あなたは怖ろしい罪の女ですわ。祭壇の前で御主人に立てた誓いをあなたはお破りになったのですもの。もしあなたに出会いさえしなければ、身分の釣り合った良い家庭のお嬢さんを正式にお貰いになって、今ごろは世間並みのしゃんとした暮らしをしていらっしゃる筈の立派な青年を、あなたは誘惑なすったんですもの。あなたはあの方の青春を台無しになすったのよ。いいえ、何もおっしゃらないで、何もおっしゃらないで! あたくしども女の犯した罪は男のせいだなんて、あたくし信じませんわ。いつも女が悪いのですわ。男と申すものは家庭の中のことにかけては考え無しのもので、情ではなく頭で生きているものですから、そう何もかもわかるものじゃございません。けれど女には何もかもわかるのですわ。家庭の中のことはみんな女次第ですわ。すっかり女に任されていますから、従ってまた女に要求されることも多いのですわ。ねえ、だからもしこの方面のことで女が男よりも馬鹿か無能でしたら、どうして神様が女に育児の大任をお任せになりましょう。それからまた、あなたは恥というものをすっかり忘れて、悪の小径にお踏み込みになったのよ。これが他の女だったら人眼を避けて家に閉じ籠もって、人眼にかかるのは、お寺で、喪服を着て蒼ざめた顔をしてさめざめと泣いている時だけでしょう。そうなれば皆さんも心から同情して、『主よ、この罪の天使はふたたび御許に還ろうとしております……』と言うに違いありませんわ。ところがあなたは慎しみということをすっかり忘れて、大っぴらにしたい放題はなさるし、まるで罪が御自慢みたいな顔をして、ふざけたり笑ったりしてらっしゃる。そういうあなたを見ていると、あたくし恐くなって身顫いが出ましたのよ。あなたが宅にいらしてらっしゃる時なんぞ、今にも天から雷様が落ちて来て私どもの家を潰してしまいはしまいかと、びくびくしておりましたのよ。いいえ、なんにもおっしゃらないで、おっしゃらないで」と、ナヂェージダの何か言いたそうにするのを見てマリヤ・コンスタンチーノヴナは叫んで、「どうぞ信じて下さいましね。あたくし嘘は申しませんわ。あなたの心のお眼をまやかそうなんて考えてもおりませんわ。ですから聴いてらして頂戴。……神様は大罪人には印しをお附けになるそうですが、あなたにもやっぱり印しが附いておりましたのよ。お覚えがなくって? あなたのお召物は、いつもいつもぞっとするようなのばかりでしたわ。」

自分の衣裳の好みについては日ごろ自信の強いナヂェージダは、この言葉を聞くと泣くのをやめて、さも怪訝そうに相手を見た。

「ええ、ぞっと致しますとも」とマリヤ・コンスタンチーノヴナはつづけた、「あなたのお召物の粋で派手な好みを見れば、誰にだってあなたのお身持ちが知れますわ。あなたを見ては皆さんくすくす笑ったり肩をすくめたりなさるのですもの、あたくし本当に辛うございましてよ。……こんなことを申し上げては何ですけど、あなたには清楚さというものがおありなさらないのね。いつか海水小屋でお目にかかった時だって、あたくし思わずひやりと致しましたのよ。上衣はまだしもですけど、スリップやシュミーズはまあどうでしょう!……本当にあたくし顔が赤くなりますわ。イン・アンドレーイチだってお可哀そうに、ネクタイ一つちゃんと結んで上げる方がないのね。あの方のワイシャツや靴を拝見すると、家に誰もかまってあげ手のないことがよくわかりましてよ。それに、ねえあなた、あの方しょっちゅうお腹を空かしてらっしゃるわ。本当に家に誰もサモルやコーヒーの世話をする方がなけりゃ、月給の半分を茶亭で飲んでおしまいになるようになるのも無理はありませんわ。それにお宅の中の御様子はまあどうでしょう、ぞっと致しますわ。この町じゅうどちら様に伺っても蠅のいた例しはございませんのに、お宅じゃもう大変、皿も小皿も真黒ですわ。それから窓やテーブルの上を御覧なさいまし、あの埃、蠅の死骸、コップの陳列。……あんなにコップを並べて何になさるおつもり? お宅では今まで食卓をお片づけにならないのね。それから、お宅の寝室と申したら、一足はいったら最後顔から火が出ますわ。下着は投げ散らかし、壁にはつねづね御使用遊ばすいろんなゴム細工が吊下っている、何だかの容器は出しっ放し。……ねえ、夫の眼には何にも触れさせてはならないのでございますよ。妻たるものは夫の前では天使のように清らかでなくちゃなりませんのよ。あたくしは毎朝、夜が白みだすと起き出して、それから冷たい水で顔を洗って、主人のニコヂームに寝ぼけ顔を見せないように致しますの。」

「そんなことみんな小っぽけなことばかりですわ」とナヂェージダは大声に咽び泣きながら、「私が仕合わせでありさえすればねえ。でも私こんなに不幸なんですもの。」

「そうよ、そうよ、あなたは本当に不仕合わせな方よ」とマリヤ・コンスタンチーノヴナは泣き出しそうになるのをやっとこらえながら溜息をついた、「それに、行末にはもっと怖ろしい苦患が待っておりますのよ。一人ぼっちの老年、病気、それから怖ろしい裁きの庭でなさる返事。……ああ怖い、怖いことだわ。今なら運命の方から救いの手を差し伸べていてくれるのに、あなたは無分別にもそれを押し返そうとしてらっしゃるんですわ。ね、結婚なさいまし、一日も早く結婚なさいまし。」

「ええ、本当にね、それが本当ですわ」とナヂェージダは言った、「けど、それが出来ないの。」

「どうしてですの?」

「出来ないの。ああ、そのわけをあなたが御存じでしたらねえ。」

ナヂェージダは思い切ってキリーリンのことを話してしまおうかと思った。それからまた昨夜美青年のアチミアーノフと波止場で行き逢って、例の三百ルーブリの借金から脱れる気狂いじみた滑稽な考えが浮かんでとてもおかしかったこと、それから自分はもう取り返しのつかない淪落の女だ売女だと思いながら夜更けの道を帰って来たことも、話してしまおうかと思った。自分でもなぜあんな事になったのかわからなかった。で今こそマリヤ・コンスタンチーノヴナの前で、きっとあの借金は返しますと誓いたかったが、こみ上げて来る歔欷と羞恥とで口が利けなかった。

「私、ここを発ちますわ」と彼女は言った、「イン・アンドレーイチには残って貰って、私は発ちますわ。」

「どこへいらっしゃるの?」

「ロシヤへ行きますわ。」

「でもどうしてお暮らしになるおつもり? だって何にもおありにならないじゃないの。」

「翻訳をしますわ。さもなきゃ……さもなけりゃ小さな図書館でもやりますわ。……」

「そんな夢のようなことを、あなた。小さな図書館だってお金が要りましてよ。でもあたくしもうお暇しますわ。どうぞね気を落ち着けて、よく考えて見て頂戴。明日になったら晴れ晴れしたお顔で宅へいらして下さいましね。素敵ですわよ、きっと。じゃさようなら、天使さん。さ、接吻させて頂戴。」

マリヤ・コンスタンチーノヴナはナヂェージダの額に接吻して、彼女に十字を切ってやると静かに部屋を出て行った。いつの間にか暗くなっていて、オリガが台所で燈をつけた。ナヂェージダはまだ泣きながら寝室へ行って、ベッドに横になった。はげしい熱が出て来た。横になったまま彼女は着物を脱いで、脱いだ着物を足の方へ揉みくしゃにすると、毛布をかぶって丸くなった。水が欲しかったが、持って来てくれる人はなかった。

「返しますとも」と彼女は独り言をいった。夢現の境で、自分が誰か病気の女の傍に坐っていると、だんだんその病人が自分になって来るのが見えた。「返しますとも。私がお金のためにあんな真似をしたなんて、とんでもないことだわ。……私ここを発って、ペテルブルグからあの人にお金を送るわ。はじめは百……それからまた百……それから残りの百……。」

夜が更けるとラエーフスキイが帰って来た。

「はじめは百よ……」とナヂェージダは彼に言った、「それからまた百……。」

「キニーネでも嚥んだらいい」と彼は言って、心の中で考えた。――『明日は水曜で船が出るが、おれは発てない。すると土曜までここにいなけりゃならんな。』

ナヂェージダはベッドに膝で立つと、

「私いま何も言わなかって?」と、微笑を浮かべ、蝋燭が眩しいので眼を細めながら訊いた。

「いいや、何も。明日の朝になったらお医者さんを呼ばなきゃなるまい。もうお寝み。」

彼は枕を抱えて扉の方へ行った。ナヂェージダを後に残してここを発ってしまおうと決心が極まってからというもの、彼女のことが可哀そうにもなりすまない気持もするのだった。彼女の前に出ると、殺してしまおうと決めた病気の馬か老いぼれた馬の前に出たように、なんとなく気が咎めた。扉のところで立ちどまって、彼女の方を振り返った。

「ピクニックの時は思わずカッとして、乱暴な口をきいてすまなかった。御免ね。」

そう言って彼は書斎へはいり横になったが、なかなか寝つかれなかった。

翌る日の朝、ちょうど祭日なので礼装をして肩章をつけ勲章をぶら下げたサモイレンコが、ナヂェージダの脈を見、舌を見て、寝室を出て来ると、閾の外にラエーフスキイが待っていて心配そうに訊いた。

「どうだったね。どんなだったね。」

その顔には、恐怖と、極度の不安と、希望の色が見えていた。

「安心し給え。大したことはない」とサモイレンコは答えた、「ただの熱だ。」

「そのことじゃないよ」とラエーフスキイは苛立たしげに眉を寄せて、「金は出来たかい?」

「あああれか、本当にすまんが」とサモイレンコは、扉の方を振り返ってどぎまぎしながら囁いた、「本当にすまんが、誰の所にも遊び金がないんでな。あすこで五ルーブリ、ここで十ルーブリという具合に集めて見たが、みんなで百十ルーブリにしかならん。今日もっと他の所を掛合って見る。もうちょっと我慢してくれ。」

「だがぎりぎり結着のところ土曜までだぜ」とラエーフスキイはじりじりしながら身を顫わせて囁いた、「後生だから土曜までに頼むよ。土曜にもし発てなかったら、僕はもう一文だって……一文だって要らん。第一医者のところに金がないなんて、僕にはさっぱりわからんな。」

「うむ、それがどうもね、仕方がないんだ」とサモイレンコは語調を強めて早口に囁いたが、咽喉でひゅうっと変な声がした、「みんなに借りられちまったんだ。七千からの貸しになっている。そして僕も借金だらけなんだ。これが僕の罪かい?」

「じゃ土曜日には大丈夫だね? そうだね?」

「とにかくやって見るよ。」

「頼むよ、君。金曜の午前中には僕の手にはいるようにね。」

サモイレンコは椅子に掛けると、キニーネ溶液、臭剥、大黄浸、ゲンチャナチンキ、蒸溜水を合剤にして、苦味を消すため橙皮舎利別を加える云々と処方をして、帰って行った。

Chapter 10 of 21
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