Chapter 1 of 3

日本人の趣味は淡泊である、清楚である、または軽快である、濃艶な、重くるしい、はでやかな、または宏大なものは好まない、だから、――というような話が今でもまだ或る程度まで真実らしく、いわれもし聞かれもしている。日本人の趣味が淡泊とか軽快とかいう言葉でいいあらわし得るものであることが、よし過去において、間違のない事実であったにせよ、「だから」という接続詞をそのあとにくっつけて、現在、または未来もそうでなくてはならぬといおうとするのは、まるで無意味である。個人にとっても、民族にとっても、趣味はその人、その民族の内的生命の発露である。その人、その民族が真に生きている人であり民族であるならば、刻々に新しい生命を自ら造ってゆく。その生命の表現せられた趣味もまた日々に新しくなってゆかねばならぬ。勿論、一方には遺伝とか、または自然界なり社会的事情なりの環境とかいう制約があって、急激に突飛な変動をさせないようにする傾もあるが、一方には絶えず新しい生命を造り出そうとする強い内部の力が活溌に動いて、そういう制約を折伏してゆく。それができないものは個人としても民族としても死んだものである。日本人は生きている。生きている日本人の国民性も民族的趣味も決して固定したものではない。だから、過去の趣味は歴史的事実として真実であっても、将来の規範とせらるべきものではない。日本人が淡泊で、清楚で、軽快な趣味をこれから後も持続しなければならぬという理由はどこにもない。今さららしくいうまでもないことであるが、世間にはまだ、凝固した国民性というものがあり、またなくてはならぬように思っている人もあるから一言して置くのである。

のみならず過去の日本人の趣味が淡泊とか軽快とかいう方面にのみ向いていたということ、そのことが第一怪しいのである。遠い昔の平安朝を見たまえ。『源氏』や『枕』や、今は殆ど遺っていないが当時の宮廷や貴族の調度に用いられた屏風絵に現われている濃艶華麗な服装を。肉感的逸楽の気が沁み渡っていた浄土教の宗教画として今も伝わっている弥陀来迎の図などのコッテリした色彩を。胡粉も落ち、臙脂も褪め、緑青の色もあせた今から見れば、かの高野山の二十五菩薩の大幅も、いかにも落ちついた、和かい色調のように見えるが、画かれた当時は艶麗双びなきものであったであろう。しかし頽廃的空気の裡に力のない生活を営んでいた平安朝の大宮人の趣味は濃艶ではあるが活気もなく底力もなく、徒らに塗抹せられた強烈の色彩から感覚的刺戟を受けるのを喜んでいたに過ぎなかったというのか。それならば目を転じて関東武士を見たまえ。うちものの響き、矢叫びの声の間に目さむるばかり鮮かな馬上の行装を。鎌倉には金碧燦爛たる永福寺の七堂伽藍があったではないか。東夷の基衡が建てた中尊寺の光堂は今も遺っている。殺伐な武人が調子の強い、はでやかな色彩を好んだのは当然である。足利武士にもてはやされた田楽や猿楽は鋭い鼓笛の音と華やかな衣装とで成り上り者の粗大な官能を刺戟したものであった(当時の猿楽は今の能のような落ちついた、また型にはまったものではなかった)。桃山式の豪放な装飾芸術はいうまでもなかろう。わる固まりに固まった徳川初期の日光建築は、せせこましく、気のつまるようなうちにも、コッテリした華やかさだけは失われずにある。光琳にあらわれた元禄時代。あるいは友禅の京都、懐月堂の江戸。いわゆる浮世絵の世界はいわずもがなである。淡泊とか清楚とかいう面影は、少くとも、これらのものには見られない。

日本人の芸術上の趣味が淡泊とか軽快とかいう方面に偏しているように思われたのには種々の理由がある。芸術が公衆的翫賞に供せられずして私人的であるために小規模のものとなり、従って調子の低い、また小器用なものが尚ばれたこともその一であろう。四畳半式芸術とも名づくべきものが何れの方面にもある。それから、徳川時代の固定した社会において、すべて刺戟性の少いものが上品として考えられたこともその一であろう。その他、割合に安らかな生活を送って来た国民であるがため、全体に力強いところのないためもあろう。しかしながら、戦国時代、その後に現われた豊臣時代、または或る意味においては元禄時代の如く、気力の横逸し、生命の緊張した時代には随分力の強い、規模の大きい芸術が生まれている。過去ですら、そうであった。おとなしい、いわゆる上品な、さっぱりした趣味のみを将来に期待するのは大なる誤りである。

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