Chapter 1 of 17

1 すべては、 そういうぐあいにはじまった 馬鹿げているけれど、 ほんとうなんだ

〈バス・ストップ〉

ホリーズ

高圧線の鉄塔が立つ山のむこうは、もう鎌倉市なのだが、県道の両側は横浜市の南端になる。

入寮の日、滝口慶一は、県道から入る校舎への坂道の途中で、畑をはさんだむこうにある、竹が生いしげった小高い丘の下から、煙が立ちのぼっているのを見た。

車を運転していた父親は、あれは炭焼きだな、と呆れたようにいった。

たしかに、海側を走る十六号線と、山側を走る一号線という二本の国道にはさまれた、あるいは、内陸を走る国鉄と、海沿いを走る私鉄にはさまれたこの一帯は、あまり人の住まないところで、低い山が折り重なり、そのあいだに複雑な谷間がひろがっている。

この地形をそのまま生かしたキャンパスの周囲には、人家は見えなかった。ゆるやかな山なみのあいだに、段丘につくられた畑が、わずかに顔をのぞかせているだけだ。

この新設の全寮制中学高等学校に入るのは、じぶんで決めたことなので、慶一は新しい生活をおそれてはいなかったが、ひとつだけ気がかりなことがあった。

四月二十九日にはじまる連休まで、まったく寮を出られない。今年になってはじまった、テレビのゴーゴー・フラバルーや、ハニーにおまかせを見られなくなることをのぞけば、寮から出られないこと自体は、それほど問題ではない。

いや、もちろん、ワイルド・ウェストだって、ナポレオン・ソロだって、それ行けスマートだって、今月からはじまるバットマンだって、気にならないわけではないが、テレビのことは考えても意味がないから、考えないことにした。

問題は、四月十五日に、ビートルズの新しいLPが発売されることだ。いまのところ、慶一の音楽的関心はこの一点に集中していた。

今年、ビートルズが日本にくる、というウワサもあるが、そちらのほうはあまり信じていなかった。ビーチボーイズやハーマンズ・ハーミッツはきても、ビートルズが日本なんかにくるわけがない。

レコード屋にいけるのは、四月二十八日の午後だろう。十三日も遅れるなんて、あんまりだ。昼食後に帰宅だから、一時に出て、車で家まで四〇分。レコード屋との往復に一〇分。どんなに早くても、『ラバー・ソウル』の一曲目を聴けるのは、四月二十八日午後一時五〇分だ。

小学校最後の一年、一九六五年から六六年の二月までは、慶一は勉強にいそがしかったはずだが、そんなことより、ノーキー・エドワーズとドン・ウィルスンが奏でるグリサンドや、姉さんがビートルズ・マニアだという同級生の女の子が貸してくれた、〈オール・マイ・ラヴィング〉の強力にドライヴする三連のリズム・ギター、そして、女の子たちもまじえて、小学校の同級生と横浜まで見にいった、ビートルズの二本の映画(つい半月ばかりまえに、西口の相鉄映画でやった「ビートルズ・フェスティバル」というのを、見にいったばかりだ)が記憶にのこっている。

クレイジー・キャッツは、『大冒険』をのぞけば低調で、東宝映画もシャボン玉ホリデーも、急速に慶一の関心の外へはじき出されていった。それどころか、一年まえには、ファンクラブに入るほど好きだったヴェンチャーズでさえ、もうあまり関心がなくなってきている。

プラモデルだって、自動的に潜水/浮上をくりかえす、サブマリン707のずんぐりしたモデルが最後だから、もう一年くらいなにも買っていない。小遣いはすべてレコードに吸いこまれてしまうのだから、しかたない。

しかし、寮ではロックンロールは聴けないだろう。

父親は、寮事務室で入寮の手続きをすませ、慶一に、

「じゃあ、お父さんはこれで帰る。入学式には、お母さんといっしょにくる。みなさんに迷惑をかけないようにな。しっかりやるんだぞ」

と声をかけ、部屋までいかずに、そのまま帰った。

大きなバッグと、買ってもらったばかりで、ほとんどなにも弾けないギターをもって、慶一はひとりで階段をあがった。

寮の部屋は八人単位で、慶一の入った二〇四号室は、ひとりをのぞいては、とくにつき合いにくそうな人間はいなかったし、塾で知りあった友だちがふたり、各自にわたされた部屋割表をたよりに、すぐに顔を見せにきたので、荷物をほどいて一時間後には緊張がとけた。

ただ、日が暮れかかり、六時一〇分まえに二階食堂に制服着用で集合、というアナウンスをきいたときには、さすがにさびしさを覚え、どうしてこんなところにきたのだろうと考えた。

食堂のドアのわきに、小さな黒板があり、薄葉紙の紅白の花で飾られていた。

最初の行には、四月三日という日付があり、「月」と「日」はペンキでかかれ、数字は白墨で書きこまれていた。そのあとには、これまた紅白の白墨で、こんな文字が記されていた。

入寮おめでとう! 厨房一同入寮晩餐会メニュー

チキンコンソメ  アスパラガスのサラダ

マッシュポテト  ヒラメのソテ

コールドミート  パン

デザートはバニラアイスクリーム

慶一は、「厨房」という字を、とりあえず「とうぼう」と読み、コックかなんかの意味だろうと考えた。それより大問題は、メニューの中身だ。

ヒラメは嫌いではないが、ヒラメのソテーとはどういうものか、わからなかった。

その入寮祝賀の晩餐――それは開寮、開校の祝いでもあった――は、慶一の目には、ノリのきいたカラーに、慣れないネクタイを締めていることもあって、かなり堅苦しいものに感じられたが、この学校に対していだいていたイメージには合っていた。

あとから考えれば、逆に不思議に思えるのだが、さすがにワインはついていなかった。子ども用のシャンペンと称する、ただの甘い炭酸水をグラスに注いで、寮長の音頭で乾杯をした。

ここに集まった、一二四人の、たった一学年の生徒が、この新しい学校の全生徒だった。

「これって、いいジャムじゃん」

といいながら、慶一は、フランスパンのスライスと厚みがおなじになるほど、たっぷりとイチゴジャムをのせた。それは、ジャムパンに入っているような安いジャムではない。着色料の真っ赤な色ではなく、ちゃんと黒ずんだ赤だし、なにより、イチゴが原形をとどめているのが、その証拠だ。

朝の食堂は、採光のせいか、夜とはだいぶ雰囲気がちがう。

このあたりは南区と戸塚区の境界で、キャンパスの大部分は戸塚区側だが、食堂の途中から南区にはいり、慶一のテーブルはその南区側にある。へんな話だ。

「その、“じゃん” て、いったい、なんなんだよ」

と、ジャムのビンをとりながら秋本がいった。

「ジャムはジャムじゃん」

「ジャムじゃなくて、“じゃん” ていうのは、どういう意味かって、きいてんだよ」

慶一はわけがわからず、なにかいいがかりをつけて、ケンカを売っているのかな、と考えた。こいつは、はじめから態度がでかい。

「おまえ、なにいってんだよ」

となりの大森が、パンをふたつにちぎりながらいう。

「なんで、話の最後にじゃんをつけるんだよ」

大森と慶一は顔を見あわせた。

「じゃんはじゃんじゃん」

といってから、慶一は、なんだこれは、と自分のことばの意味と文法を再検討し、なにかべつのいい方はないものかと、必死で頭を回転させた。

「だからさ、じゃんていうのは、つまり、カッコいいじゃんとか、やるじゃんとかって……」

慶一はあきらめて、パンをほおばった。

「札幌じゃ、じゃんていわないのかよ」

と、大森がタマゴの頭をスプーンで叩いた。秋本のうちは札幌だそうだ。

「それって、半熟?」

慶一と半熟タマゴは、不倶戴天の仲だ。

「あたりまえだろ。だからこれにのってんじゃん」

と、大森が台をスプーンで叩いた。

「じゃ、おれのあげるよ」

やはり、なにもかもがうまくいくわけはない。タマゴぐらいなくても、生きていける。

「おれんとこじゃ、いわないよ。だから、きいてんだろうに」

「あっ、そういうときに、きいてんじゃんよ、て使うんだ」

「ああ、そうだ。なんとかじゃない、ていう意味だ」

「なら、じゃない、ていえばいいだろ」

「いいんだよ。このへんじゃ、みんな、じゃんていうんだってば」

「方言か」

「方言てことはねえだろ。田舎じゃあるまいし」

天辺の殻をどけながら、大森が不愉快そうにいった。

「田舎だろ、ここは」

と、秋本が裏山を見かえる。

「そうじゃなくて、横浜とか、鎌倉とか逗子とか、このへん一帯では、そういうんだよ」

「藤沢も、茅ヶ崎も、平塚も、小田原もいうよ」

箱根の山のむこうは知らない。いずれにしても、山のむこうは化物のすみかだ。すくなくとも、浅草生まれの慶一の祖母は、つねづねそう主張している。

「田舎だろ。これでも、横浜市なんだろ」

「わかった、わかった。田舎だ、ここは。頭おかしくなりそうだ」

寮の生活は、ある意味で、きわめて複雑だ。

制服ひとつとっても、金糸のエンブレムがついた紺のブレザー、レジメンタル・タイ、グレイのスラックス、というフォーマルなもの、そして、ふだん学校や寮で着る、衿なし上着にオープンシャツの校服、という二種類があり、いろいろ行事のある入寮入学前後は指示が複雑で、新入生を悩ませた。

だれかが知っているはずだ、という考えはケガのもとだ。じっさい、入寮二日目の夕食では、前夜の晩餐会であすからは夕食も校服着用のこと、といわれていたにもかかわらず、八人全員がネクタイをしめてあらわれた部屋が、ふたつもあった。

ひと部屋のほうは、あわてて着替えにもどり、コック長がベルを鳴らす正六時にまにあわなかった。もうひと部屋は、めんどうくさいといって、そのまま着席した。

寮長は、食事は全員きちんとするまで遅らせる、と宣言し、そのまま着席した部屋は着替えにもどされた。

そろったところで、そのふた部屋の全員が起立させられ、寮長に面罵された。きみらのようなトンマは、この寮では生き残れないだろう、と。

その夜のメインディッシュはグラタンだった。慶一は、グラタンは好きだが、冷えかかったグラタンは好きじゃないな、と考えた。

「でもよ、いくらなんでも、きのうとちがいすぎるんじゃない。月曜だから平日メニューかよ」

秋本が口をとがらせた。

「いいじゃねえか。こんなもんだろ」

うるさそうに大森がこたえる。スプーンから、盛りすぎたグラタンが崩れて落ちた。

たしかに、「平日メニュー」だった。飲み物も日本茶だ。グラスでお茶が飲みたいわけではないが、プラスティックのコップはないだろう、と慶一は、その白地に銀の幾何学模様が入った、厚手で、口のひろいコップをながめた。おそろしく据わりがよさそうな、いかにも実用的な趣きに、慶一はいらだった。

もう、お客様あつかいは終わりだ。

ひと部屋八人に対し、シャワーがひとつ、トイレがひとつ、という数字をどう考えるだろうか。

寮生にとって、これは明白な数字だった。

シャワーはいい。入浴時間は夕方五時から六時の夕食まえまで、そして、六時半から七時まであるし、シャワーだけでなく、本棟一階には大浴場と小浴場があり、いちどに四十人くらい入っても大丈夫なので、この面で不自由はない。

なにしろ、まだ、一二四人しかいない。過密が問題になるのは、遠い未来の話。

問題はトイレだ。

朝食後から登校までの三〇分は、いつも戦争になる。

まだ、ようすのわからない入寮最初の朝、食堂からぞろぞろと、八人そろって部屋に帰ったところ、いちばんさきにドアをくぐった大森が、

「イチバーン」といって、洗面所に入った。

二番目にドアをくぐった慶一のうしろから、秋本が、

「あ、ちきしょう、おれ、二番」

といったとき、はじめて、慶一はなにをいっているのかが理解できた。

この秩序は最初の朝に確立され、くずれることはなかった。くずしようがないのだ。二学期の編成替えで慶一が入った一〇二号もおなじで、要するに、これは寮中どこでも通用する、グローバルなルールだった。

四月五日の朝食後、塾の友人とホールで立ち話をしていたために、慶一はトイレの順番が最後になってしまった。二日もつづけて、おなじ間違いを犯すようでは、「この寮では生き残れない」かもしれない。

本棟には、中央階段とはべつに、非常階段があり、その階段室のわきにはトイレがあった。それに思いあたったことは、慶一がこの寮に適応しつつある、最初の徴候といえた。

しかし、防火扉をあけて、二階の非常口へいくと、階段を昇りかけていた奴が立ちどまり、

「おまえもトイレならいっておくけど、そこはもうふさがってるぞ」といった。

慶一は、じゃ、三階だ、と考えたが、じぶんよりふたつ三つ年上に見える、一五五センチぐらいはありそうなそいつが、すでに階段を昇りかけているのは、三階にいくためなのに気がつき、あきらめて、きびすを返した。

四階にもトイレはあるが、なんだか、ばかばかしくなってきた。これは、それほど独創的なアイディアではなかったらしい。

「おい、おまえ、急いでるのか」

と、慶一の背中に声が浴びせられた。

態度のでかい奴だな、「おい、おまえ」はないだろう、とは思ったが、無視する理由もないので、慶一は立ちどまってふりかえった。

「急いでるんなら、いっしょにこいよ」

そいつは軽くアゴをしゃくった。

慶一は、なんだかよくわからなかったが、あとにつづいて階段を昇った。

見知らぬ新入生は、三階をとおりすぎて、四階へいこうとするので、慶一は、

「どこへいくの」と問いただした。

「四階だ。どこへいくと思ってんだよ」

そういわれると、そうだ。四階の上には屋上しかないし、非常階段は屋上まではつながっていない。

でも、四階には空き部屋と娯楽室があるだけだ。娯楽室は夕方まで閉まっているはずだし、空き部屋には立ち入るなと、晩餐会後におこなわれた、寮生活のオリエンテイションで注意を受けた。

「おれ、浅井ってんだ。三〇四号室」

さきをいく奴が、ふりむかずにいった。

「ぼくは滝口」

部屋番号をいおうとすると、浅井が押しとどめた。

「二〇四だろ、知ってるよ」

と、はじめて笑みをもらした。

それは、この図々しそうな奴にはまったく似つかわしくない、人なつっこくて、どこか羞みをふくんだ、やさしい笑顔だった。

四階の非常口のトイレにいくのだとばかり思っていた慶一は、浅井が中央ホールにはむかわず、逆にヴェランダへむかったので、思わず、

「どこへいくんだよ」

ときいてから、しまった、と思った。

「ヴェランダだよ。見りゃあ、わかるだろ」

非常口ホールからヴェランダへ出ると、この寮を建てるためにけずられた裏山の、半分だけになった頂上が見え、むきだしの急斜面で、関東ローム層の成立ちを観察できる。

浅井は右に曲がり、四〇一号のヴェランダにいく。

この寮は円筒形で……いや、それは不正確だ。

こういえば、わかってもらえるかもしれない。

ナットというのは、その外周が六角形で、内周は円になっているが、ここに外周が十六角形のナットがあると仮定しよう。このナットの外径は二〇ミリ、内径は五ミリほどとする。

まず、五円玉を一枚おく。これは直径二二ミリだ。その五円玉と中心を一致させて、ナットを上にのせる。このナットの上にまた五円玉を重ねる。これが四層になるまでくりかえして、最後に五円玉をもうひとつ、ふたのようにかぶせ、さらに平たい頭痛薬を一粒その上にのせると、できあがりだ。寮の本棟はだいたい、こんな形状といえる。

五円玉の、ナットの外にはみだした部分がヴェランダ、内径のほうにはみだした部分が、中央階段の周囲をめぐっている廊下になる。天辺の五円玉は屋上で、その上にのせた平たい錠剤は、屋上への出口だ。

ふたりはいま、その円周と、十六角形の一辺とのあいだにいる。

浅井は、四〇一号のアルミサッシュの窓枠に両手をかけて、上下に揺すりはじめた。慶一の頭のなかで警戒警報が鳴る。

「なにしてんだよー」

返事がくるまえに、カギがはずれ、窓が開いた。あまりの呆気なさにおどろいたのは、慶一だけではなく、浅井もおなじのようだった。

「見りゃ、わかるだろうが」

浅井は開いた窓から手を入れ、ヴェランダと室内をつなぐドアのノブをむこう側からつかみ、ドアをあけた。

「さあ、入れよ」と、慶一に笑いかける。

「まずいよ。見つかったら、たいへんだよ」

「大丈夫だって。だれもこんなとこまで、わざわざ見まわりになんかこないさ。いいから、入れってば」

さっきの十六角形のナットを、もういちど思いだしてほしい。これをピザパイのように八等分する。それがひと部屋だ。だから、ドア側がすぼまっていて、窓へむかって扇形に開いている。

十六角形を八等分したのだから、窓の真ん中に角ができる。この角は、そう、たぶん、一六〇度より小さいぐらいの角度だ。かなり直線に近い。この角には円筒形の柱があり、じつは、あまり角のようには見えない。

浅井は口笛を吹きながら、キュビストのピザパイの外周から、中央の回廊と部屋をつなぐドアの方向に、ひとりでずんずんと入っていく。

慶一は、ヴェランダにひとりでいることのほうがこわくなり、あわてて浅井につづいた。

浅井はきれいな口笛を吹く。

「その曲、知ってる」

という慶一のことばに、浅井は意外そうな表情を見せて、ふりかえった。

「ゾンビーズの〈テル・ハー・ノー〉でしょ」

「おまえ、ロックンロール聴くのか」

浅井は、洗面所の灯をつけながらいった。

「うん」

「そうか、じゃあ、友だちだ。――おれは高志っていうんだ。おまえ、慶一っていうんだろ、知ってるよ。そう呼ぶからな、いいな」

「うん」

まさか、いやだ、とはいえない。

「おまえ、ここ使え。ペーパーはちゃんと入っているから」

「きみは?」

「きょうは、四〇二あたりを使ってみる」

といって、ヴェランダにむかいかけてから、あわててきびすを返し、洗面所に入りかけた慶一を押し退けて、なかへ入っていく。

慶一は、なにがなんだか、わけがわからない。浅井はガラガラと大きな音をたてて、ロールペーパーを巻きとっている。

「なにやってんだよ」

「見りゃ、わかるだろが。紙をもってくんだよ。四〇二には、ないだろうからな」

いわれてみれば、当然だ。

紙をマフのように両手に巻いて出てきた浅井は、

「帰りに、忘れずに鍵を閉めていけよ。それから、ステレオはいじるな、舎監に聴こえるとまずいからな」

と注意をあたえ、ドアにむかいながら、また慶一に顔をむけ、

「おまえ、見ればわかることを、いちいち質問してると、バカだと思われるぞ」といった。

トイレにいるとき、「早く出ろ」と扉を蹴られるのは、だれでもあまり楽しくない。だから、扉を蹴られることもなければ、ノックもされないというのは、ここでは、かなりのぜいたくなのだということを、この朝、慶一は理解した。

あの浅井っていうのは、態度がでかいけど、感謝するべきだろう。

四月七日から学校がはじまった。

午前中には階段教室で入学式がおこなわれ、そのあと、家族と会う時間がもうけられていた。

天気さえよければ、母親がつくってきてくれた弁当を外で食べられたはずだが、あいにくの雨で、慶一はしかたなく階段教室を使うことにした。これを最後に、四月二十八日午後からの外泊まで、いっさい面会は許されない。

一年四組の教室で、窓際の席をあたえられた慶一は、あの魔法のようにカギをあけた浅井高志がおなじクラスだし、となりに坐ったのが松山柾生だったので、教室でも楽しくやれるだろう、と期待した。

柾生は、面接の日に、慶一に強い印象をのこしていた。おなじ控え室の反対側で、母親と姉さんと思われるふたりの手で、薄茶色のスーツと、燕脂をきかせたレジメンタル・タイをととのえてもらっている柾生を見て、慶一はおどろいた。ネクタイを締めた受験生はけっこういるが、スーツ、それも長ズボンのスーツなど、その控え室では柾生のほかにはいなかった。

ひとりっ子の慶一には、姉さんというのは、ほんとうはああいう存在なのか、という驚きもあった。慶一の小学校の同級生は、ほとんどが商人の子どもで、彼らの姉さんというのは、弟たちのすがたを見ると、あっちへいけ、と追い払うことになっていた。

二日目はオリエンテイションだけで、十一時には解放された。その二時間半のあいだ、慶一は「布教」を試みていた。

「ねえ、きみはさあ――」

面接の日の印象がのこっているので、いきなり「おまえ」はまずいだろうと思い、「きみ」を使ってみたが、われながら調子がでない。慶一は心のなかで、小さな石ころを蹴飛ばした。

「きみは、音楽は聴かないの」

慶一には確信があった。柾生のすがたからして、歌謡曲ファンではない。ロックンロールを聴くか、それともなにも聴かないか、そのどちらかだろうという予感があった。

「聴くよ。フォークソングとか」

これは予想外の答だったが、すくなくとも歌謡曲ではない。

「フォークソング? 〈漕げよ、マイケル〉とか?」

どうしてラックに収まっているのかわからないが、とにかく、このハイウェイメンの大ヒット曲は、慶一の家の数少ないコレクションの一枚だった。

「それもキラいじゃないけど、ブラザース・フォアとか、キングストン・トリオとか」

「ラジオで聴いたことある。〈トム・ドゥーリー〉」

「あれ、いい曲。首吊りの話」

柾生は、ブラザーズ・フォアの〈七つの水仙〉と、PPMの〈パフ〉も好きな曲にあげた。

とにかく、歌謡曲ファンではないらしいので、慶一は安心した。まったくの異教徒ではない。

慶一自身は、もっぱらロックンロール、というか、ビートルズ一辺倒で、まず〈オール・マイ・ラヴィング〉を支配する、「三連サイド」のビート感覚を賞賛し、〈ティケット・トゥ・ライド〉の素晴らしさや、映画『ア・ハード・デイズ・ナイト』(この映画の邦題『ビートルズがやって来る ヤア!ヤア!ヤア!』を、慶一は憎悪していた。もちろん、『ヘルプ!』を『四人はアイドル』と呼ぶことも拒否した。こういうことが、慶一にとって、日本人であることの最大の不幸だった)の面白さを、教師の目をかいくぐって、柾生に伝えた。

柾生は、いかにも興味ありげに、慶一の長広舌をきいてくれた。慶一には宣教師の才能があったし、いずれにしても、柾生は改宗のチャンスを待っていたのかもしれない。

いちどだけ、柾生は、三連てなに? と口をはさんだ。教師の目があって、じっさいに机を叩いて教えられないので、慶一はいらだった。

ひとつの音符を三つに等分して、その三拍ごとに、頭の一拍目にアクセントをつける、などという説明は思いつかなかったし、どちらにしても、意味は伝わらなかっただろう。

慶一の小学校の同級生で、ロックンロールを聴くのはふたりしかいなかった。そのひとりが、ピアノのレッスンを受けていて、これは三連符というのだと教えてくれたから、知っているだけのことだ。

オリエンテイションの最後は、クラブ活動の説明だった。これは「任意ではなく義務」(と書いてある)で、なにかひとつ運動部と、文化部を選択しなければならない。タイプ印刷のパンフレットには、各クラブの一覧、担当教師名、活動の内容が書かれている。

「きみ、運動部はなに?」

慶一は、小声で松山柾生にたずねた。

「テニス部」

「野球部にしない?」

柾生は、黙って首をふった。

「文化部は?」

「美術部」

「ブラスバンドにしない?」

ムダだろうとは思ったが、慶一は、いちおう、きいてみた。

こんどは、さらに強い否定の調子で首がふられた。

「ねえ、テニスできるの?」

柾生は申し込み用紙を見て、首をふった。

「野球は?」

「そりゃあ、できるよ」

なにいってんだ、こいつ、というように、柾生は慶一を見る。

「野球部にしない?」

柾生は、もう、なんなんだよ、という顔で天井を見あげ、しばらく考えこんだのち、消しゴムをとって、訂正をはじめた。

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