九
庸三の今度の訪問は、滞在期間も前の時に比べてはるかに長かったし、双方親しみも加わったわけだが、その反面に双方が倦怠を感じたのも事実で、終いには何か居辛いような気持もしたほど、周囲の雰囲気に暗い雲が低迷していることも看逃せないのであった。帰りの遅くなったのは、最近になってやっとはっきり自覚するようになった葉子の痔瘻が急激に悪化して、ひりひり神経を刺して来る疼痛とともに、四十度以上もの熱に襲われたからで、彼はそれを見棄てて帰ることもできかね、つい憂鬱な日を一日々々と徒らに送っていた。
最初着いた時分には、よく浜へも出てみたし、小舟で川の流れを下ったり、汽車で一二時間の美しい海岸へ、多勢でピクニックに行ったりしたものであった。いろいろの人が持ち込んで来る色紙や絹地に、いやいやながら字を書いて暮らす日もあった。その人たちのなかには、廻船問屋時代の番頭さんとか、葉子の家の田地を耕しているような親爺さんもあった。だだっ広い茶の間を駈けて歩いているのは葉子の別れた良人によく肖ている、瑠美子の幼い妹や弟たちで、それに葉子の末の妹なども加わって、童謡の舞踊が初まることもあった。葉子はさも幸福そうに手拍子を取って謳っていた。子供の手を引いて盛り場の方へ夜店を見にいくこともあれば、二人だけで暗い場末の街を歩いてみることや、通り筋の喫茶店でお茶を呑むこともしばしばであった。葉子の家では以前町の大通り筋に塩物や金物の店を出していたこともあって、美貌の父は入婿であったが、商才にも長けた実直な勤勉家で、田地や何かも殖やした方であったが、鉄道が敷けて廻船の方が挙がったりになってからも、病躯をかかえて各地へ商取引をやっていた。瑠美子が産まれてから間もなくその父は死んだが、葉子を特別に愛したことは、その日常を語る彼女の口吻でも解るのであった。学窓に蔓っていた学生同志の同性愛問題で、そのころ教育界を騒がしたほどの女学校だけに、そしてそれがまた生徒と教師との恋愛問題をも惹き起こしただけに、多分処女ではなかったらしい彼女の派手な結婚の支度や、三日にわたった饗宴に金を惜しまなかった張り込み方を考えても、父の愛がどんなに彼女を思い昂らせたか想像できるのであった。
葉子の話では結婚の翌日、彼女は二階の一室で宿酔のさめない松川に濃い煎茶を勧めていた。体も魂も彼女はすっかり彼のものになりきった気持であった。彼女は畳に片手をついて吸子のお茶を茶碗に注いだ。彼の寝所へ入ったのは、すでに一時過ぎであった。その時まで彼は座敷で方々から廻って来る盃を受けていたので、窓が白むまで知らずに爛睡していた。
朝のお化粧をして、葉子が松川と差向いでいるところへ、にわかに段梯子に跫音がして、最初この結婚を取り持った葉子の従兄筋に当たる男が半身を現わした。
「いやどうもすっかり世話女房気取りだね。こいつは当てられました。」
県の議員なんかをやってる素封家の子息である従兄はそう言って、顔を赤くしている新夫婦に目を丸くした。葉子もこの従兄とのかつての恋愛模様と、新夫婦を母とともども小樽まで送って行った時の、三人の三角なりな気持の絡み合いは、何か美しい綾の多い葉子の話しぶりによると、それは相当蠱惑的なローマンスで、モオパサンの小説にも似たものであった。途中のある旅館における雨の侘しい晩に、従兄への葉子の素振りの媚めかしさが、いきなり松川の嫉妬を抑えがたいものに煽りたてた。ちょっと話があると言って、にわかに葉子は薄暗い別室に拉れこまれた。
「おれはお前の良人だぞ!」
彼はそう言って葉子が顫えあがるほど激情的に愛撫した。
着いてからも、従兄はしばらくその町に滞在していた。そして毎夜のように酒と女に浸っていたものだった。
ある日離れで葉子と庸三とが文学の話などに耽っていると、そこへ母親が土間の方から次ぎの間の入口へ顔を出して、今瑠美子たちの継母と二人の書生とが、この古雪の町へ自動車で乗りこんで来たというから、多分子供たちを取り戻しに逆襲しに来たに違いない。と、あわただしく報告するのであった。
「そう!」
葉子はその時少し熱があって、面窶れがしていたが、子供のこととなると、仔猫を取られまいとする親猫のように、急いで下駄を突っかけて、母屋の方へ駈け出して行った。
庸三は何事が起こるかと、耳を聳ててじっとしていたが、例の油紙に火のついたように、能弁に喋り立てる葉子の声が風に送られて、言葉の聯絡もわからないながらに、次第に耳に入って来た。継母というのが、もと葉子が信用していた召使いであっただけに、頭から莫迦にしてかかっているものらしく、何か松川の後妻としての相手と交渉するというよりも、奥さんが女中を叱っていると同じ態度であったが、憎悪とか反感とか言った刺や毒が微塵もないので、喧嘩にもならずに、継母は仕方なしに俯き、書生たちは書生たちで、相かわらずやっとる! ぐらいの気持で、笑いながら聞き流しているのであった。そうなると、恋愛小説の会話もどきの、あれほど流暢な都会弁も、すっかり田舎訛り剥き出しになって、お品の悪い言葉も薄い唇を衝いて、それからそれへと果てしもなく連続するのであった。ふと物の摺れる音がして、柘榴の枝葉の繁っている地境の板塀のうえに、隣家の人の顔が一つ見え二つ見えして来た。そこからは庸三の坐っている部屋のなかも丸見えであった。庸三はきまりがわるくなったので、にわかに茶の間へ出て行って見た。葉子は姐御のようなふうをして、炉側に片膝を立てて坐っていたが、
「お前なんぞ松川さんが愛していると思ったら、飛んだ間違いだぞ。おれ今だって取ろうと思えばいつでも取ってみせる。」
という言葉が彼の耳についた。
するうち嵐が凪いで、書生はその辺を飛びまわっている男の子の機嫌を取るし、色の浅黒い、目の少しぎょろりとした継母は匆々にお辞儀をして出て行って、葉子は子供のふざけているのに顔を崩しながら、書生たちにもお愛相よくふるまっていた。やがて書生たちも、烏賊の刺身や丸ごと盆に盛った蟹などを肴にビールを二三杯も呑んで、引き揚げていった。
その晩、庸三が煩く虫の集まって来る電燈の下で、東京の新聞に送る短かいものを書いていると、その時から葉子は発熱して、茶の間の仏壇のある方から出入りのできる、店の横にある往来向きの部屋で床に就いてしまった。触ると額も手も火のように熱かった。顔も赤くほてって、目も充血していた。
「苦しい?」
「とても。熱が二度もあるのよ。それにお尻のところがひりひり刃物で突つくように痛んで、息が切れそうよ。」
「やっぱり痔瘻だ。」
庸三にも痔瘻を手術した経験があるので、その痛みには十分同情できた。彼女はひいひい火焔のような息をはずませていたが、痛みが堪えがたくなると、いきなり跳ねあがるように起き直った。それでいけなくなると、蚊帳から出て、縁側に立ったり跪坐んだりした。
もちろんそれはその晩が初めての苦しみでもなかった。もう幾日も前から、肛門の痛みは気にしていたし、熱も少しは出ていたのであったが、見たところにわかに痔瘻とも判断できぬほど、やや地腫れのした、ぷつりとした小さな腫物であった。
「痔かも知れないね。」
彼は言っていた。その後も時々気にはしていたが、少しくらいの発熱があっても、二人の精神的な悩みの方が、深く内面的に喰いこんでいたので、愛情も何かどろどろ滓のようなものが停滞していて、葉子の心にも受けきれないほど、彼の苛み方も深刻であった。どうかすると彼女は妹に呼ばれて離れを出て、土間をわたって母屋の方へ出て行くこともあって、しばらく帰って来ないのであったが、帰って来たときの素振りには別に変わったところもなかった。
「私を信用できないなんて、先生もよくよく不幸な人ね。」
葉子は言うのだったが、それかと言って、場所が場所だけに、争闘はいつも内攻的で、高い声を出して口論するということもなかった。
やがてその痔が急激に腫れあがって、膿をもって来たのであった。
庸三は傍に寝そべっているのにも気がさして、蚊帳を出ようとすると、彼女は夢現のように熱に浮かされながら、
「もうちょっと居て……。」
と引き止めるのであった。
朝になると、彼女も少し落ち着いていて、狭い露路庭から通って来る涼風に、手や足やを嬲らせながら、うつらうつらと眠っているのだったが、それもちょっとの間の疲れ休めで、彼女がある懇意な婦人科のK氏に診てもらいに行ったのは、まだ俥でそろそろ行ける時分で、痛みも今ほど跳びあがるほどではなかったし、熱も大したことはなかった。それがてっきり痔瘻だとわかったのは、その診察の結果であったが、今のうち冷し薬で腫れを散らそうというのが、差し当たっての手当であったが、腫物はかえって爛れひろがる一方であった。そこで、今日になって葉子は別に、これも日頃懇意にしている文学好きの内科の学士で、いつか庸三をつれて病院の棟続きのその邸宅へ遊びに行ったこともある院長にも来てもらうことにした。
その先生が病院の回診をすましてから、俥でやって来た。その時葉子の寝床は、不断母親の居間になっている、茶の間の奥の方にある中庭に臨んだ明るい六畳に移され、庸三も傍に附き添っていた。彼は診察の結果を聞いてから、ここを引き揚げたものかと独りで思い患っていたが、痛がる下の腫物を指で押したり何かしていた院長は、
「もう膿んでいる。これは痛いでしょう。」
と微笑しながら、
「あんた手術うけたことありましたかね。」
「北海道でお乳を切ったんですのよ。また手術ですの、先生。」
「これは肛門周囲炎というやつですよ。こうなっては切るよりほかないでしょうね。」
「外科の病院へ行って切ったもんでしょうかね。」
「それに越したことはないが、なに、まだそう大きくもなさそうだから、Kさんにも診てもらったというなら、二人でやって上げてもいいですね。」
「局所麻酔か何かですの?」
「さあね。五分か十分貴女が我慢できれば、それにも及ばないでしょう。じりじり疼痛を我慢していることから思えば、何でもありませんよ。」
そんな問答がしばらく続いて、結局一と思いに切ってもらうことに決定した。
「痔は切るに限るよ。僕は切ってよかったと今でも思うよ。切って駄目なものなら、切らなきゃなお駄目なんだ。じりじり追い詰められるばかりだからね。」
何事なく言っているうちに、庸三は十二三年前に、胃腸もひどく悪くて、手術後の窶れはてた体を三週間もベッドに仰臥していた時のことを、ふと思い出した。十三の長男と十一の長女とが、時々見舞いに来てくれたものだが、衰弱が劇しいので、半ば絶望している人もあった。神に祈ったりしていたその長女は、それから一年もたたないうちに死んでしまった。心配そうな含羞んだようなその娘の幼い面影が、今でもそのまま魂のどこかに烙きついていた。もしも彼女が生きていたとしたら、母の死の直後に起こった父親のこんな事件を、何と批判したであろうか。生きた子供よりも死んだ子供の魂に触れる感じの方が痛かった。それに比べれば、二十五年の結婚生活において、妻の愛は割合酬いられていると言ってよかった。
翌日になって、三時ごろに二人打ち連れて医師がやって来た。彼らはさも気易そうな態度で、折鞄に詰めて来た消毒器やメスやピンセットを縁側に敷いた防水布の上にちかちか並べた。夏もすでに末枯れかけたころで、ここは取分け陽の光にいつも翳があった。その光のなかで荒療治が行なわれた。
庸三はドクトルの指図で、葉子の脇腹を膝でしかと押えつける一方、両手に力をこめて、腿を締めつけるようにしていたが、メスが腫物を刳りはじめると、葉子は鋭い悲鳴をあげて飛びあがろうとした。
「痛た、痛た、痛た。」
瞬間脂汗が額や鼻ににじみ出た。メスをもった婦人科のドクトルは驚いて、ちょっと手をひいた。――今度は内科の院長が、薔薇色の肉のなかへメスを入れた。葉子は息も絶えそうに呻吟いていたが、面を背向けていた庸三が身をひいた時には、すでに創口が消毒されていた。やがて沃度ホルムの臭いがして、ガアゼが当てられた。
医師が器械を片着けて帰るころには、葉子の顔にも薄笑いの影さえ差していた。そしてその時から熱がにわかに下がった。
庸三は母や兄の親切なサアビスで、一日はタキシイを駆って、町から程合いの山手の景勝を探って、とある蓮池の畔りにある料亭で、川魚料理を食べたり、そこからまた程遠くもない山地へ分け入って、微雨のなかを湖に舟を浮かべたり、中世紀の古色を帯びた洋画のように、幽邃の趣きをたたえた山裾の水の畔を歩いたりして、日の暮れ方に帰って来たことなどもあって、また二日三日と日がたった。
そんな時、庸三は今まで誰か葉子の傍にいたものがあったような影も心に差すのであったが、葉子はそれとは反対に、蚊帳の外に立膝している庸三に感激的な言葉をささやくのであった。
「これが普通の恋愛だったら、誰も何とも言やしないんだわ。年のちがった二人が逢ったという偶然が奇蹟でなくて何でしょう。」
しかし庸三はまたその言葉が隠している、真の意味も考えないわけに行かなかった。三年か五年か、せいぜい十年も我慢すれば、やがて庸三もこの舞台から退場するであろう。そして一切が清算されるであろう。それまでに巧くジャーナリズムの潮を乗り切った彼女を、別の楽しい結婚生活が待っているであろうと。
庸三は今彼の書斎で、せっせと紙の上にペンを走らせていた。
書いているうちに、何か感傷が込みあげて、字体も見えないくらいに、熱い涙がにじんで来た。彼は指頭や手の甲で涙を拭きながら、ペンを運んでいた。彼は次ぎの部屋で、すやすや明け方の快い睡りを眠っている幼い子供たちのことで、胸が一杯であった。宵に受け取った葉子の電報が、机の端にあった。
アシタ七ジツク
というのであった。
病床にいる彼女と握手して帰ってから、もう二週間もの日が過ぎたが、その間に苦しみぬいた彼の心も、だんだん正常に復ろうとしていた。ここですっかり自身を立て直そうと思うようになっていた。その方へ心が傾くと、にわかに荷が軽くなったような感じで、道が目の前に開けて来るのであった。
板戸も開け放したまま、筒袖の浴衣一枚で仕事をしていたのだったが、雀の囀りが耳につく時分に書きおわったまま、消えやらぬ感激がまだ胸を引き締めていた。
電報を手にした時、彼は待っていたものが、到頭やって来たという感じもしたが、あわててもいた。
「……一年や二年、先生のお近くで勉強できるほどの用意もできましたので……」
そう言った彼女の手紙を受け取ったのも、すでに三日四日も前のことであったが、立て続けに二つもの作品を仕上げなければならなかったので、あれほど頻繁に手紙を彼女に書いていた庸三も、それに対する返辞も出さずにいた。真実のところ彼はこの事件に疲れ果てていた。享楽よりも苦悩の多い――そしてまたその苦悩が享楽でもあって、つまり享楽は苦悩だということにもなるわけだし、苦悩がなければ倦怠するかもしれないのであったが、それにしても彼はここいらで、どうか青い空に息づきたいという思いに渇いていた。
この事件の幕間として、彼は時々水辺の小夜子の家へも、侘しさを紛らせに行った。その時分にはいつも中の間とか茶の間とかにいた、姉も田舎へ帰ってしまって、彼も座敷ばかりへ通されていなかった。時間になると小夜子は風呂へ入って、それから鏡の前に坐るのであった。顔をこってり塗って、眉に軽く墨を刷き、アイ・シェドウなどはあまり使わなかったが、紅棒で唇を柘榴の花のように染めた。目も眉もぱらっとして、覗き鼻の鼻梁が、附け根から少し不自然に高くなっているのも、そう気になるほどではなく、ややもすると惑星のように輝く目に何か不安定な感じを与えもして、奈良で産まれたせいでもあるか、のんびりした面差しであった。美貌の矜りというものもまだ失われないで、花々しいことがいくらも前途に待っているように思えた。彼女は何かやってみたくて仕方がなかった。小説を書くということも一つの願望で、庸三は手函に一杯ある書き散らしの原稿を見せられたこともあった。
「私は何でもやってできないことはないつもりだけれど、小説だけはどうもむずかしいらしいですね。」
「男を手玉に取るような工合には行かない。」
「あら、そんなことしませんよ。」
化粧がすむと着物を着かえて、まるで女優の楽屋入りみたいな姿で、自身で見しりの客の座敷へ現われるのであった。座敷を一つ二つサアビスして廻ると、きまって酔っていた。呷ったウイスキイの酔いで、目がとろんこになり、足も少しふらつき気味で、呂律も乱れがちに、でれんとした姿で庸三の傍に寄って来ることもあった。
「相当なもんだな。」
庸三は無関心ではいられない気持で、
「随分呑むんだね。そう呑んでいいの。」
「大丈夫よ、あれっぽっちのウイスキイ。私酔うと大変よ。」
「お神さん!」
廊下で呼ぶ声がする。
「今あの人たちみんな帰りますから。」
しかし、そんな晩、彼女がどこで寝たかも彼には解りようもなかったし、何か商売の邪魔でもしているような気もして、彼はタキシイを言ってもらうのだったが、時には電気行燈を枕元において、ギイギイという夜更けの水の上の櫓の音を耳にしながら話しこむことも珍らしくなかった。
ある日も庸三は小夜子と一緒に、彼女の門を出た。
「先生、今日お閑でしたら、神田まで附き合ってくれません? 私あすこで占てもらいたいことがありますの。」
「いいとも、事によったら僕も。――君は何を占てもらうんだい。」
「差し当たり何てこともないんですけれど、私、妙ね。随分長いあいだの関係で、昔は一緒に世帯をもったこともありましたの。今は別に何てこともないんです。だけど、相手が逃げるとこっちが追っ駈け、こっちが逃げると、先方が追っ駈けて来るといったあんばいで、切れたかと思うと時たってまた繋がったりして……変なものですね。」
小夜子はいつになくしんみりしていた。
「どんな人?」
「それが近頃ずっとよくないんですの。」
庸三は小夜子の好くような男はどんな男かと、それを探りたかったが、彼女はただそう言っただけで、その相手の概念だも与えなかった。しかしそれから大分たってから庸三がある晩茶の間の大振りな紫檀の火鉢の側にいると、その日はひどく客が立てこんで、勝手元も忙しく、間断なく料理屋へ電話をかけたりして、小夜子も不断着のまま、酒の燗をしたり物を運んだりしていたが、ふと玄関の方の襖を開けて袍姿で楊子を啣えながら入って来る男があった。
「ああ、これだな。」
瞬間、庸三の六感が働いたが、それを見ると、いきなり小夜子はにやにやしながら、その男を連れ出してしまった。
それからまた三年も四年も経って、彼は小夜子の二階の彼女の部屋で、その男ともしばしば花を引いたし、庸三の家へも遊びに来るようになったが、そのころには彼もかなりうらぶれた姿になって、見ちがえるほど更けていた。そしてその時分になって、庸三はいろいろのことを知ることができた。ホン・クルベーの家から、彼女を引っ張り出したのも、かつては煮え湯を呑まされた彼の復讐だったことも解った。
今、小夜子は彼との新生活に入るつもりで、場合によっては結婚もして本国へもつれて行くつもりでいるクルベーを振り切って出て来たのであったが、誘い出されてみると、まるで当てがはずれてしまった。現在の彼と一脈の新生活を初めるには、小夜子の生活は少し派手すぎていたし、趣味がバタくさかった。そこで小夜子は思いどおりに、こんな水商売を初めたわけであった。
まだ態形も調わない金座通りへ出てから、小夜子は円タクを拾って、神田駅のガアド下までと決めた。
しかし一人ずつ二階へ呼びあげて占るので、小夜子が占てもらう間、庸三は下でしばらく待っていた。そのうちに小夜子がおりて来た。占わない前と表情に変りはなかった。やがて庸三も占てもらうことにした。
「合性は至極よろしい。しかしこの人は落ち着きませんね。よほど厳しく監督しないと、とかく問題が起こりやすい。」
占者は言うのであった。葉子のことであった。
そこを出ると、二人とも占いの結果については話す興味もなくて、少し通りをぶらついた果てに、二人で庸三の書斎へ帰ってみた。小夜子は紫檀の卓の前に坐って、雑誌など見ていたが、
「先生に私、何か書いていただきたいんですけれど。」
「書くけれど、僕のじゃ君んとこの部屋にうつらない。そのうち何かもって行って上げるよ。あれじゃ少し酷いからね。追々取り換えるんだね。」
それから彼女の家の建築の話に移って、譲り受けた時の値段や、ある部分は改築のある部分は新築の費用などの話も出た。
庸三は燻しのかかった古い部屋を今更のように見廻した。
「この家もどうかしなきゃ。」
「そうですね、もしお建てになるようでしたら、あの大工にやらしてごらんなさいましよ。あれは広小路の鳥八十お出入りの棟梁ですの。」
大ブルジョアのその鳥料理屋が彼女の彼と、何かの縁辺になることも、その後だんだんに解って来た。
その時であった、凝ったその鳥料理屋の建築や庭を見いかたがた末の娘もつれて、晩飯を食べに行ったのは。美事な孟棕の植込みを遠景にして、庭中に漫々とたたえた水のなかの岩組みに水晶簾の滝がかかっていて、ちょうどそれが薄暮であったので、青々した寒竹の茂みから燈籠の灯に透けて見えるのも涼しげであった。無数の真鯉緋鯉が、ひたひた水の浸して来る手摺の下を苦もなげに游泳していた。桜豆腐、鳥山葵、それに茶碗のようなものが、食卓のうえに並べられた。黒の縮緬の羽織を着て来た清楚な小夜子の姿は、何か薄寒そうでもあったが、彼女はほんのちっとばかし箸をつけただけであった。
咲子は人も場所も、何か勝手がちがったようで、嬉しそうでもなかったが、始終にこにこしていた。
「いつかクルベーさんと、何かのはずみで、急に日光へ行くことになって、上野駅へ来たのはよかったけれど、紙入れを忘れて来てしまったんですのよ。時間はないし、仕方がないから私がこの家へ来て事情を話すと、黙って三百円立て替えてくれたことがありましたっけ。」
そんな話も出たりして、帰りに三人で夜店の出ている広小路をあるいた。小夜子は子供の手を引いていたが、そうして歩くにも、何か人目を憚るらしいふうにも見えるのであった。
ふと葉子の話が出た。
「僕もつくづくいやになった。止そうと思う。」
「止しておしまいなさい。」
「あと君が引き請ける?」
頼りなさそうな声で、
「引き請けます。」
今、庸三は別にそれを当てにしているわけではなかったけれど、葉子と別れるには、そうした遊び相手のできた今が時機だという気もしていたので、葉子を迎えに行くのを怠けようとして、そのまま蚊帳のなかへ入って、疲れた体を横たえた。彼はじっと眼を瞑ってみた。
葉子とよく一緒に歩いた、深い松林のなだらかなスロオプが目に浮かんで来た。そこは町の人の春秋のピクニックにふさわしい、静かで明るい松山であった。暑さを遮ぎる大きな松の樹が疎らに聳え立っていた。幼い時の楽しい思い出話に倦まない葉子にとって、そこがどんなにか懐かしい場所であった。上の方の崖ぎわの雑木に茱萸が成っていて、萩や薄が生い茂っていた。潮の音も遠くはなかった。松の枝葉を洩れる蒼穹も、都に見られない清さを湛えていた。庸三も田舎育ちだけに、大きい景勝よりも、こうしたひそやかな自然に親しみを感じた。二人は草履穿きで、野生児のようにそこらを駈けまわった。
葉子の家の裏の川の向うへ渡ると、そこにも雪国の田園らしい、何か荒い気分のする場所があって、木立は深く、道は草に埋もれて、その間に農家とも町家ともつかないような家建ちが見られた。葉子はそうした家の貧しい一軒の土間へ入って行って、「御免なさい」と、奥を覗きこんだ。そこには蝋燭の灯の炎の靡く方嚮によって人の運命を占うという老婆が、じめじめした薄暗い部屋に坐りこんでいて、さっそく葉子の身の上を占いにかかった。彼女はほう気立った髪をかぶって、神前に祈りをあげると、神に憑かれているような目をして灯の揺らぎ方を見詰めていた。
「東の方の人をたよりなさい。その人が力を貸してくれる。」
訛の言葉でそんな意味の暗示を与えた。ここから東といえば、それが当然素封家の詩人秋本でなければならなかった。
今、葉子が威勢よく上京して来るというのも、陰にそうしたペトロンを控えているためだとは、彼も気づかないではなかったが、その時の気持はやっぱり暗かった。
庸三は葉子の従兄筋に当たる、町の青年文学者島野黄昏に送られながら、一緒に帰りの汽車に乗ったのであったが、何か行く手の知れない暗路へ迷いこんだような感じだった。
その悩みもやや癒された今、彼はなお迎えに出ようか抛っておこうかと惑っていた。しかし病床に仰臥しながら、捲紙に奔放な筆を揮って手術の予後を報告して来た幾つかの彼女の手紙の意気ごみ方を考えると、寝てもいられないような気にもなるのであった。
着物を着かえて、ステッキを掴んで門を出ると、横町の角を曲がった。すると物の十間も歩かないうちに、にこにこ笑いながらこっちへやって来る彼女の姿に出逢った。古風な小紋の絽縮緬の単衣を来た、彼女のちんまりした形が、目に懐かしく沁みこんだ。
葉子は果して慈父に取り縋るような、しおしおした目をして、しばらく庸三を見詰めていた。
「先生、若いわ。」
まだ十分恢復もしていないとみえて、蚕のような蒼白い顔にぼうッと病的な血色が差して、目も潤んでいた。庸三は素気ないふうもしかねていたが、葉子は四辻の広場の方を振り返って、
「私、女の子供たちだけ二人連れて来ましたの。それに女中も一人お母さんが附けてくれましたわ。さっそく家を探さなきゃなりませんわ。」
そう言って自動車の方へ引き返して行くと、その時車から出て来た幼い人たちと、トランクを提げた女中とが、そこに立ち停まっている葉子の傍へ寄って来た。
「さあ、おじさんにお辞儀なさい。」
子供たちはぴょこんとお辞儀して、にこにこしていたが、この子供たちを纏めて来て、新らしい生活を初めようとする母親の苦労も容易ではなかった。それも物事をさほど億劫に考えない、夢の多い葉子の描き出した一つの芸術的生活構図にすぎなかった。
庸三が三十年も住み古しの狭い横町と並行した次ぎの横町に、すぐ家が見つかって、庸三の裏の家に片着けてあった彼女の荷物――二人で一緒に池の畔で買って来たあの箪笥と鏡台、それに扉のガラスに桃色の裂を縮らした本箱や行李、萌黄の唐草模様の大風呂敷に包まれた蒲団といったようなものを、庸三の頼みつけの車屋を傭って運びこむと、葉子も子供たちを引き連れて、隣の下宿を引き揚げて行った。
大家族主義の田舎の家に育った葉子のことなので、そこに初めて子供たちと一つの新らしい自分の世界をもつことは、何といっても楽しいことに違いなかった。田舎の家もすでに母の心のままというわけにも行かない。相続者の兄家族は辺鄙にあるその家を離れて、町の要部の静かな住宅地域に開業していたが、どんなにこの妹を愛しているにしても、とかく、世間の噂に上りがちな彼女の行動を悦ぶはずもなかった。商売の資本くらい与えて、田舎にじっとしていてもらうか、どこか堅いところへ再縁でもして、落ち着いて欲しかったが、田舎に燻ぶっていられる葉子でないことも解っていた。葉子がこの兄や母に心配をかけたこともたびたびで、今度出て来る時も、何かの費用を自身に支払ったくらいであった。病床にいる彼女が、よく懐ろの財布から金を出していたことも、時には庸三の目に触れたのであった。滞在の長びいた庸三は、どうにかしなければならないくらいのことも感づかないわけではなかったが、一度少しばかりの料亭の勘定を支払った時でさえ、兄を術ながらせたほどだったので、どうしていいか解らなかった。
葉子たちの落ち着いたのは、狭い平屋であったが、南に坪庭もあって、明るい感じの造作であった。花物を置くによろしい肱掛窓もあって、白いカーテンにいつも風が戦いでいた。それに葉子は部屋を楽しくする術を知っていて、文学少女らしい好みで、籐椅子を縁側においてみたり、清楚なシェドウのスタンドを机にすえたりして、色チョオク画のように、そこいらを変化させるのに器用であった。
しかし彼女は顔色もまだ蒼白く、長く坐っているのにも堪えられなかった。創口がまだ完全に癒えていないので、薬やピンセットやガアゼが必要であった。
「先生、すみませんが、鏡じゃとてもやりにくいのよ、ガアゼ取り替えて下さらない。」
「ああいいとも。」
庸三はそう言って、縁側の明るいところで、座蒲団を当てがって、仰向きになっている彼女の創口を覗いて見た。薄紫色に大体は癒着しているように見えながら、探りを入れたら、深く入りそうに思える穴もあって、そこから淋巴液のようなものが入染んでいた。庸三は言わるるままに、アルコオルで消毒したピンセットでそっと拭いて、ガアゼを当てるとともに、落ちないように、細長く切ったピックで止めた。
ピンセットの先きが微かにでも触ると、「おお痛い!」と叫ぶのだった。
「どうもありがとう。」
葉子は起きかえるのだったが、来る日も来る日も同じことが繰り返されるだけで、はかばかしく行かなかった。
庸三は時とすると、奥の部屋で子供たちとも一緒に、窮屈な一つ蚊帳のなかに枕を並べるのだったが、世帯が彼女の世帯で、その上子供や女中もいるので、気持に落着きもなかったし、葉子も時には闖入者に対するような目を向けるので、和やかというわけには行かなかった。彼は少し腹立ち気味で、ふいと出て来るのであったが、古い自分の書斎も心持を落ち着かせてはくれなかった。ある時などは引き返して行って、蚊帳のなかにいる彼女の白い頬を引っぱたいて来ることすらあった。葉子はぽっかり彼を見詰めたきり呆れた顔をしていた。
それに葉子はいつも家にいるわけではなく、庸三が行ってみると、女中が一人留守居をしていることもあれば、戸が閉まっていることもあった。
庸三が自動車で買いものをして歩く彼女を、膝のうえに載せて、よく銀座や神田あたりへ出たのも、そのころであった。柱時計を買うとか、指環を作りかえるとか、または化粧品を買うとか。それに外で食事をする習慣もついて来て、一流の料亭へタキシイをつけることもしばしばあった。というのも、二人の女中まかせの庸三の台所は、ひどく不取締りで、過剰な野菜がうんと立ち流しの下に腐っていたり、結構つかえる器物がそこらへ棄てられたり、下品な皿小鉢が、むやみに買いこまれたりして、遠海ものの煮肴はいつも砂糖漬けのように悪甘く、漬けものも溝のように臭かった。それに紛失物もたびたびのことで、渡す小使の用途も不明がちであったが、女中の極度に払底なそのころとしては、目を瞑っているよりほかに手はなかった。
しかし料亭の払いは、いつも庸三がするとは決まっていなかった。むしろ大抵の場合、葉子が帯の間から蟇口を出して、
「私に払わせて。」
と気前をよくしていた。彼女は無限の宝庫をでも持っているもののように見えた。
やがて涼風が吹いて来た。葉子は二度目に移って行った隣りの下宿屋の二階家から、今度はぐっと近よって、庸三のすぐ向う前の二階家に移っていた。そのころになると、彼女も庸三の口添えで、ある婦人文学雑誌に連載ものを書きはじめていたが、一時癒るとみえた創は癒らないで、今まで忘れていた痛みさえ加わって来た。何といっても内科と婦人科のドクトルのメスには、手ぬるいところがあった。思い切った手術のやり直しが必要であった。庸三は彼女を紹介する外科のある大家のこともひそかに考えていたが、田舎での不用意な荒療治が、すっかり葉子を懲りさせていた。
「それよりも私温泉へ行こうと思うの。湯河原どう?」
葉子はある日言い出した。
「そうだね。」
「お金はあるの。先生に迷惑かけませんわ、二人分四百円もあったら、二週間くらい居られない?」
庸三もいくらか用意して、東京駅から汽車に乗ったのは、翌日の午後であった。葉子は最近用いることになったゴム輪の当てものなどもスウト・ケイスのなかへ入れて、二人でデパアトで捜し出した変り織りの袷に、黒い羽織を着ていたが、庸三もあまり着たことのない、亡き妻の心やりで無断で作っておいてくれた晴着を身に着けて、目の多い二等車のなかに納まっていた。