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技術の哲学
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技術の哲学
戸坂潤
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Chapter 2 of 7

技術の問題

わが国の現在の言論界では、必ずしも技術の問題が最も重大な問題の一つになっているとは限らないように見える。その原因を見出すことは困難でないだろう。併し技術の問題が今日、様々な対立関係を通じてであるが、最も重大な国際問題の一つになっているという事実は注目を必要とする。ではなぜ今日――吾々にとって――技術は問題とならねばならぬか。又どういう諸形態の問題としてそれが問題にされ得るか。

封建制下の社会の文化にとっては言葉が或る意味で代表的な役目を有っていた(ギリシア的ロゴス・スコラ的文義的思弁・又我が国に於ける夫々の時代の仏典漢籍国学等々の解釈文化・等)。資本制社会に於ては之に反して、技術が文化の重大な――尤も唯一ではないが――特徴をなしている。之は以前から云われたことである。

処が、この四年程以来、全世界を通じて極度に発達した資本主義が、決定的な不況という相貌を通じて、ありと凡ゆる形の危機――経済的危機・政治的危機・文化危機・其の他――を凡ゆる人々の眼の前にありありと展げて見せている。資本主義は今や、古いヨーロッパは云うまでもなく、先進後進の極東諸国家に於て、又更に自由の楽土(?)アメリカに於てさえ、物質的及び精神的な(人々はそう呼ぶのである)危機に当面している。金融ブルジョアジーとその代弁者達は、この危機の本質をば経済的危機として解決することが到底出来ないことを遂に悟ったので(アメリカさえ永遠の繁栄を断念しなければならなかった)、特にこれを文化危機という形態に於て捉えることを企て、これをそういう風にイデオロギー化すことによって何とか解消の道を見出そうと試みる。彼等は欧州文明の没落(シュペングラー)・物質文明の幻滅(日本ファシスト)・等々というようなフラーゼを発見することによって、これ等欧州文明とか物質文明とかに対する何かの反対物を空想し(例えば東洋風の形而上学・精神文明・王道文明・王道精神・等々)、かくてこの危機を乗り越える手段を発見したものであるかのように空想するのである。――併し、欧州文明や物質文明という資本主義文化のこの片言まじりの特色づけも亦、必ず技術という概念に結びつけられている点に注目しなければならない。資本主義文化が元来技術と結び付いているものだと前に云ったが、それは同時に、技術が資本制なる経済組織・生産関係と根本的に結び付いていなければならぬということだったのである。処が彼等によればそれが、単に欧州文明に、単に物質文明に、即ち単に文化問題だけに結び付けられて理解されている。これが彼等のやり口の特色なのである。即ち技術はこの際、イデオロギッシュに(観念的に)しか取り上げられていない。

かくて金融ブルジョアジーのイデオロギーは、資本制自身の経済的危機(それが実は物質的及び精神的危機の凡てを結果するのだ)をば、技術がもち又醸すと考えられる観念的危機に引き直し、そうしておいて技術の代りに何か勝手なものを持って来ることによって、技術を追放しようと欲する。なる程抑々技術がケシ飛んで了うのだから、技術の危機、困難などは立ち消えになるわけであり、それが彼等によれば取りも直さず資本主義の危機の立ち消えを意味することになるというのである。技術という観念は何と有効な解熱剤ではないか。

だがもし之で事が済むならば、技術というものは高々、現在の危機を観念的に消去する文学的手段として重宝がられるまでであって、別に技術それ自身が問題にならねばならぬという理由は恐らくないだろう。併し、金融ブルジョア・イデオローグの文明批評の手品とは関係なく、技術という観念と及びそれの困難とが立ち消えになっても、技術そのものとそれの現実的な困難とは決して立ち消えになりはしない。そこで、今度は産業ブルジョアジーの直接の手足である処のブルジョア技術家達が、改めて技術と従って資本主義の危機との問題を取上げる。初め金融ブルジョアジーは終局に於て根柢的な金融恐慌を信じることが出来なかったと全く同様に、この産業ブルジョアジーの下士・技術家達は、一応資本主義下に於ける技術の困難・危機を信じることが出来ない。却って彼等は資本主義の危機を解消する唯一の手段こそは技術であり、この手段を活用することこそが技術家の歴史的使命でさえあると空想する*。――だが技術家の空想の内部に於ける技術の発展とその効果とは、云うまでもなく、資本主義社会に於ける現実の技術の発展とその効果とからは別である。技術家の善良な意志と決意とにも拘らず、資本主義下に於ける技術は決して正常な発展を遂げることが出来ないばかりでなく、技術の一応の曲りなりの発達さえが資本主義の危機・矛盾の止揚の方向へ導く結果を有つのではなくて、あたかも却って逆に、愈々その危機・矛盾そのものへしか導かない、それが今日与えられた明らかな事実なのである(後を見よ)。実はこの点にこそ、技術が今日のブルジョア社会にとって問題にならねばならぬ終局の理由があったのである。

* Dr. E. Dbi によれば精神的危機を脱するに必要なものこそ技術であり、技術家―技師こそ文化の指導者でなければならぬ(Wissenschaft. Technik. Kultur ―― Der Weg aus der geistigen Krise, 1932)。例のテクノクラットが立つ技術観と技術家観も亦この類いに帰着する。

資本主義の破壊的危機と対蹠関係に立つものがソヴェート同盟に於ける社会主義建設であることは、改めて云う迄もない。技術の問題はここでは、資本主義社会の危機と結び付く代りに、それが本性上結び付くべきであった社会の建設と結び付く*。この単純ではあるが併し極めて重大な関係が、今日の唯一のプロレタリアの国にとって、技術が問題にならねばならない理由をなしている(後を見よ)。――だから資本主義社会にとっては、技術は直接には資本主義的危機との関係から云って、間接には社会主義建設との関係から云って、二重に問題とされねばならぬ理由があるわけである。

* 資本主義の文化が単に技術(Technik)を一特徴とするに対して、社会主義文化は工芸(Polytechnik)――云わば総合技術――を一特徴としているということが出来よう(Bucharin, Die Sozialistische Rekonstruktion und der Kampf um die Technik を参照)。――因みに、Technologie を工芸乃至工芸学と訳す代りに「技術学」又は「工学」と呼ぶことにする。

以上述べたのは、技術が今日吾々の問題にならねばならない基本的な理由なのであるが、之は又おのずから、この際に於て技術の問題が取り上げられる一定の形態を決めるものともなる。技術はここでは(第一に)、取りも直さず技術そのものとして、――技術に付随した技術家とか自然科学乃至唯物論等々のイデオロギーとから区別されて、取り上げられる。無論之が技術問題の基本的な形態でなければならない。だが実際上から云って、基本的な問題だけが切実な問題だと思ってはならない。技術はその基本的な第一規定として純技術的及び物質社会的意義を有つばかりではなく、それが直接に自然科学や唯物論に必然的なつながりを持たねばならぬ限り、第二に又イデオロギー的意義をも持っている。だからイデオロギーの問題を多少とも具体的に解くためから云っても、技術の問題が極めて必然的な価値を有つことを見逃してはならぬ。実際、今日のわが国に於てのように、イデオロギーが思い切った原始的・封建的・時代錯誤をも敢えて辞せない情勢に当面している時、イデオロギーなるものと技術(このブルジョア文化の一特徴)との関係に向って注意を払うのを怠ることは、由々しい怠慢でなければなるまい。――で、技術はイデオロギーの問題から云っても亦、問題にされねばならぬ理由を得て来る。之が(第二に)、イデオロギーの問題としての技術問題の形態を決定する。

技術は第三に、技術家と離れてはあり得ないが、技術家の問題は又インテリゲンチャ――資本主義社会に於ける及び社会主義社会に於ける――の問題と離れることが出来ない。この切実な併し最も引っかかりの多い中間層の諸問題は、色々な種類と段階の「技術家」の問題に至って頂点に達するのであり、そしてそこにインテリゲンチャ問題が技術の問題に必然的に触れて行かねばならぬ理由があるのである。かくて技術の問題は(第三に)、技術家問題(乃至はインテリゲンチャ問題)として、その問題形態が決って来る。

で技術を、第一に技術そのものとして、第二にイデオロギー問題として、第三に技術家問題として、取り上げて行かねばならぬ。

技術そのものに就いて――

日常吾々は技術という概念を可なり無造作に使っている、時によってこの言葉は所謂技術だけではなく一般に技能や手法をさえ意味している。この概念を一応整理することが問題を展開するのに必要だと思う。

形式主義的ブルジョア論理は、こうした場合いつでも何かの形の定義が必要であり又有効だと信じているようである。その数から云っても決して古来少なくはない処の哲学的技術論者――技術を哲学的に省察したり技術の概念を哲学体系の骨子にしようとしたりする哲学者・理論家達――も亦、そういう心組みから技術を定義しようと企てる。例えば「技術とは人間の意欲に対して物体的形態を与える処の凡てのものである*」とか、「技術とは全生活のタクティークである**」とか、又「技術とは創造の科学である***」とか云うのがそうした「定義」なのである。

* Max Eyth, Lebendige Krfte.** O. Spengler, Der Mensch und Technik.*** Reuleaux 及び F. Dessauer ―― Dessauer, Philosophie d. Technik を見よ。

こうした形式的定義は、それから何物も引き出すことが出来ないという点から云って、何の役にも立たない云わば全く装飾的なものに過ぎないが、併しこの際、こうした定義と雖も本当は多少具体的な分析の結果として与えられたものであることを見逃すべきではない。この定義の形式性・抽象性はだから、必ずしも形式的な定義の形態そのものの内にあるのではなくて、そういう定義を結果せしめる処の分析の仕方の形式性・抽象性の内になければならぬのである。と云うのは、これ等の理論家達は技術という概念を専ら主観――観念・精神・イデー・其の他の――に重点を持つものとして、分析しているからである。「技術とは実現さるべきイデーの集団である」、「技術とは創造の科学である*」(だが創造の科学は技術ではなくて寧ろ技術学ではないのか)、「技術的なるものの意味はただ精神からしてのみ明らかになる**」、又は「技術は物質世界に結合しているとは云え、無限な純粋精神生活から借りるものがなくてはならぬ***」等々。更に古典的な場合などによれば、主観の行為が知識に基く、ということが技術の意味となっているのである。

* Dessauer 前掲書。** Spengler 前掲書。*** Eyth 前掲書。

技術が一方に於て或る主観的な意味を持たねばならぬということは、後に見るように、誰も忘れることの出来ない点である。夫は云うまでもないのだが、併しここにしか問題の重点を置かないということ、之によっては尽され得ない或る客観的な意味こそがより現実的な重大意義を持つのだということを注意しないこと、技術のそうした観念的な把握の仕方、夫が技術の定義をば形式的で抽象的で無効なものとして了っているのである。実際、そうした方法による分析や、それから来る諸定義は、現実に必然的な問題としての技術の問題――それの理由と形態とを吾々は初めに述べた――を、殆んど何等解明し得ないだろう。技術が単に観念的なものでないからこそ、技術が他の一切のものに対して独特な権利を主張出来る所以があったのだから、折角の技術を、再び観念的に片づけて了うということは、元来無意味な筈なのだ。

現実の技術は、いつも例外なく、一定の生産関係の内に、一定の社会組織の内に、一定の客観的な存在様式を有っている。之が技術の物質的な契機である。技術の観念的な・主観的な・可能的な・契機は、この物質的・客観的・現実的な契機にまで媒介されるべきものとして、又はこれにまで既に媒介されたものとして、初めて自分自身の具体性を得ることが出来る。この媒介の手続き――之には併し一定の組織的な方法が要るのだ――が必要だという条件を無視して、単に無条件に主観的モメントから出発して技術を規定しようとするから、それがどんなに具体的な客観的事情を顧慮するように見えても、ブルジョア文明批評家の技術論は、いつも実質的に云って抽象的な空気焔・観念的言論(イデオロジー)に過ぎなくなるのである。技術をして本当にその観念的な意味を具体化させ得るのは、却って、その物質的(客観的・社会的)な存在様式を通過させた上でのことでなければならない。

さてこのことを記憶しておいた上で、技術の主観的契機の方から見て行こう。と云うのは、技術の主観的・個人主体的・な存在様式を先ず見よう。――この場合技術は一般に技能又は能力を意味する。普通世間のイデオローグ式頭脳は、技術が単なる手先きの技能能力をしか指さないものであるかのように思っているかも知れないが、実は手こそ原始的人類の物質的・精神的発達に於て決定的な役割に与っていた処のものである。だから技術が仮りに手先きの技能能力につきるとしても、それだけで同時に技術は単なる手先きの事柄ではないことになる。まして発達した人類社会に於ける技能能力は手先きのそれにつきるものではないのだから、技術は同時に知能(インテリゲンツ)にぞくするものでなければならないということが判る。技術は例えば技師や演奏家に於て見られるような本能化された高級の知能(最上の意味の習慣とは之である)迄も包括しなければならない筈である(労作教育は同時に知能の発育を結果するのが事実である)。で技術とは、その主観的存在様式から云えば、一つの勝義に於ける知能なのである*(技術家のインテリゲンチャ問題はこの点から続いて分析されるべきである)。

* 逆に知能が一つの技能であるという点も考えて見なければならぬ。と云うのは、知能なるものは単なる素質というようなものではないので、習得され使用される処の具体化された能力を意味しなければならぬからである。「技術と知能」の項参照。

技術の主観的存在様式が知能にぞくすると云っても、夫は何も技術を特に何か観念的なものと見たということにはならぬ。如何に主観的な存在様式に就いてであると云っても、問題が技術なのだから、明らかに客観的な存在物に外ならない処の機械・道具等々に対して交渉を持つ点で、技術は、本格的に云って、元来物質的技術であることは断わるまでもない。今はこの物質的技術の主観的存在様式としての技術が、知能だと云ったのである。

だが、この本格的な物質的技術に対して、一応――無論矢張り主観的存在様式の下に於けるものとしての――観念的技術と云ってもいいものを区別しなければならないのは事実である。と云うのは、丁度臨床医が診断や手術をすると同じに、又数学者が様々な組織的な諸方法によって複雑な計算をすると同様に、文学者は工夫された一定の描写方法と構成方法とを用いて制作し、理論家は一定に鍛錬された範疇機構を用いて分析するのであるが、こうした観念処理の手法や方法も亦、不断の反覆・熟練・改善・等々に基いて初めて得られるような、頭脳の感官的な運動機構に依っているという点で、即ち云わばそうした観念的な道具又は機械を媒介としてしか行なわれないという点で、技術という性質を有つのである*。だから之等のものが実際、本来は何等物質的な技術でなく、即ち何等本来の技術ではないにも拘らず、なお技術と呼ばれているという事実には、充分の理由があるのである。――技術が一つの知能であり、又逆に知能が一つの技能であり、その限り技術性を有っている、という点から見れば、この理由には充分な根拠がある訳だ。

* 制作や分析の法としての公式や、又範疇は、多少アナロジカルに云えば一種の――全く観念的な――道具又は機械である。論理学は古来用具又は機関と名づけられたし、又ジェヴォンズの如きは論理学的計算機をさえ設計した(Jevons, Pure Logic and Other Minor Works を見よ)。

技術を一般的に語るに際しては、こうした観念的技術に対する配慮を無視してはならない。だが、物質的技術の方が本格的な本来の技術であり、観念的技術に就いて統一的に語るためにもまずこの物質的技術から問題を始める外に道はない。両者は同じく技術と呼ばれるだけに、決して全く別な事物ではないのであり、従って二つを全く別に切り離して了って取り扱うことには色々の危険があるのであるが、問題の中心と解決への端初は、云うまでもなく物質的技術にある筈である。

さて、主観的存在様式としての物質的技術の本質をどこに求めるべきであるか。例えばデッサウアーの如きは之を発明に求める。「技術の核心は発明である。発明の内に原則的に云って凡てのものが含まれており、凡てのものが尽きてさえいるのである。」だから彼によれば技術的なるものは、第一に目的論的なものであり、第二にそれにも拘らず自然法則と矛盾しないものであることを必要とし、第三に何かに加工するという規定を要素として有っており、或いは(第四に)新しい性質を生み夫が独自の作用を営むという規定を要素としている(第三は仕事を創造する処の技術に相当し、エネルギー貯蔵の働きをなし、之に対して第四は新性質創造の働きをなす技術に相当するという)。――でこういう主観的存在様式としての技術乃至技術的なるものは、その対象的対応物として、技術的世界を有っていると彼は考える。この世界は形而下の尋常な世界ではないので、「力を以て貫かれた超宇宙」、「第四王国*」だと云うのである。

* Dessauer 前掲書 S. 6―7, 36, 91ff. 第四王国とはカントの三批判書の対象界の外の謂である。

主観に於ける或る任意の規定に対応させて或る一定の対象界を想定し、之を何か本当の客観界であるかのように考えるのは、観念論者のスコラ癖である。今もこの例に漏れないわけで、技術乃至技術的なるものという技術の主観的存在様式に対応して、「技術的世界」、が客観的な技術の世界の代りに登場せしめられる。なる程之は全く観念論的にしか想定されない処の現実には限定捕捉し得ない「超」宇宙であらざるを得まい。だが今は、この結果が、物質的技術(無論その主観に於ける存在様式が今の問題だが)の本質を、発明というようなそれ自身も亦主観の働きにぞくする処の規定へしか結び付けなかったことから出て来たものだという点を注意すべきである。――主観的存在様式としての物質的技術にとって本質的な規定は、単に発明とか或いは又創造とかいう言葉で云い表わされた観念的範疇にあるのではなくて、もっと素直に又可視的に、道具又は機械という物質的で客観的な存在物との結合点に、見出されなければなるまい。道具や機械は物体だからそれ自身は当然主観的モメントとしての物質的技術でないが、この物質的技術が之と結び付くという点に(だがこの点に結び付け方は単なる発明という概念などへ結び付ける場合のようにイージーゴーイングには行かない)、この技術の主観的モメントの本質があると云うのである。

技術(それを如何に物質的技術に限定しても)の主観的存在様式を原理として出発しては、決して本当の「技術の世界」は掴めない。掴めるものは高々一種の観念界としての技術的なるものの対象界――観念的規定の単なる対応領域――でしかない。一体今の場合に限らず、主観的モメントから客観的モメントへ出て行けないのは当然なことなのである。

吾々は技術の主観的・個人主体的・存在様式――それは結局知能としての技術に帰着する筈だった――に就いて、観念的技術(手法其の他)から物質的技術にまで問題の核心を追跡して来たが、この最後のものの本質は、さし当り道具乃至機械との結合点にあり、正にこの点によって物質的技術が本来の技術として、他の意味での技術と技術以外のものとから区別されるのだったから、今や問題の核心は技術の主観的契機から逸脱してその客観的契機――そこではまず手始めに道具や機械が問題なのだ――の内に求められねばならぬこととなる。問題はもはや単に個人主体的な知能の問題や何かではなくて、技術学(工芸学)乃至工学――尤もこのものの意義が抑々問題だが――の問題なのである。

技術学の第一の対象が道具乃至機械であることは云うまでもない。機械が自然科学の処方箋による通りのメカニズムによって運動するということも無論である。その意味に於て技術学乃至工学は自然科学の応用だと云われていることには意味があるだろう。だが応用という意味には色々あるので、もし応用なるものが原理の単なる云わば随時の適用だというならば、工学乃至技術学は原理の上から云えば全く自然科学以外の原理に立つものではないということになる。即ち機械は(従って道具も亦)全く自然科学的範疇にぞくするものとなるだろう。併し工学乃至技術学が自然科学の応用だという言葉には、実は意識的にか無意識的にか、恐らくもう少し立ち入った意味があるだろう。夫が自然科学の原理にだけ立つものではなくて、同時に他の原理に改めて従属しているが故に、応用だと云われるのである。そうして見れば機械というものは決して単なる自然科学的範疇ではない。実際それは同時に社会科学的範疇――経済的・社会的・更に又政治的・人間史的でさえある――にぞくさねばならない*。この機械が直接に連関しているだろう技術なるものは、処で他方、単なる自然でなければこそ技術――アート――だったのである。

* 機械が決して単なる自然科学的範疇ではあり得ないことをマルクスは最も鮮かに指摘している。「数学者や機械論者は、道具は単純な機械で、機械は合成された複雑な道具だと説明している(イギリスの経済学者達もよくこれを真似ている)。彼等は両者の間に何等本質的な区別を見ず、剰え、槓杆・鉋・螺旋・楔等の単純な機械力を機械と呼んでいるのである。なる程どんな機械でも、そうした単純な機械力が仮装したり結合したりして、出来上っているには違いない。併し経済学の見地からはこの説明は何の役にも立たない。この説明は歴史的要素を欠いているからである」(『資本論』カウツキー大衆版第一巻三一六頁)。――マルクス自身は発達した機械を本質的に三つの部分に分析する、発動機・配力機・並びに道具機乃至作業機。そして十八世紀の産業革命の出発点となったものがこの最後の機械部分であったことを述べている。このようなものが機械の歴史的な説明であり、機械の本質が社会科学的範疇によって捉えられねばならぬ証拠である。

道具と機械との本質的な区別連関も亦歴史的・社会科学的にしか与えられない。作業機なるこの機械部分は大体に於て手工業者又はマニュファクチュア労働者の使用した道具が新しい体系の下に再現したものである。「本来の道具が人間から機構へまで移行すると、単なる道具の代りに機械が現われる」(同上三一八頁)。

ブルジョア・イデオローグの機械の「定義」は甚だ形式的であり抽象的である。「機械とは抵抗物体の結合であって、この各物体がその機械的自然力を介して一定の運動を作用するように仕組まれたものを云う」(Reuleaux, Mechanik, Bd. )。「機械とは形態ある物質が自然法則に従って、予定された運動をすることによって、物質に一定の形態、性質又は運動を有たせうるように、配列された処の統一物である」(Dessauer 前掲書一七六―七頁)、等々。

技術学の第一の対象であった機械自身が、決して単なる自然科学的範疇のものではなく社会科学的範疇にぞくする。客観的存在様式に於ける技術――それこそ本来の技術である――は技術学の対象であるが、その技術学が自然科学の応用(?)であるに拘らず、否それであるが故に、経済学的・社会学的・政治学的・本質のものなのでなければならぬ。で技術(客観的)の本質は社会的なものでなければなるまい*。ではどう社会的であるか。

* 「技術学は自然に対する人間の能動的関係を、即ち人間生活の直接の生産過程を、従って又人間の社会的生活諸関係とそれから来る精神上の諸観念との直接な生産過程を、明らかにするものである」(『資本論』三一七頁)。――即ちこうした社会的なもの(客観的技術)及び観念的なもの(主観的技術)までが、技術学の対象――技術――だと云うのである。 機械は無論単なる一種の物体に過ぎないからそれ自身は何も技術ではない。機械に対する技術の連関を明らかにするためには、機械の社会的性質なるものをもう少しハッキリさせて見る必要がある。と云うのは、機械は(道具を含めてもいい)就中大工業に於ては、最も代表的な労働手段なのであり、従って又最も重大な生産手段の一つに数えられる。この労働手段乃至生産手段を通して行なわれる労働過程乃至生産過程――ここでは外になお人的・主観的・要因を忘れてはならぬが――の内に、社会に於ける客観的な物質的技術が横たわっているのである。

だがここで労働手段と云ったものの内には――生産手段に就いてはなお更のこと――ただに機械(乃至道具)が含まれるばかりではなく、之と組織的に結合している工場・設備・交通組織等々が、少なくとも同時に含まれていなければならぬ。工場に据えられてない機械は、社会科学的に云えば見本か陳列品ではあっても充全な意味で労働手段ではなく、社会科学的範疇としての機械の概念には充分にあて嵌まらない。それから又外部的な交通組織から孤立した工場設備は現実的には存在し得ない、等々。だから機械は一つの有力な労働手段であることによって、それに必然的に結合している他の諸手段と組織的な統一をなしているのであり、この組織の一部分として初めて、充分に社会的な――資本主義的又は社会主義的大工業にぞくする――性質を受け取ることが出来る。――そこで、機械というこの労働手段を通して行なわれる労働過程と先に呼んだ処のものは、同じく機械だけを通しての労働過程であることに止まらず、必然的に他の諸手段をも貫いている限りの労働過程にまで組織統一されてなくてはならぬ(このことは更に生産手段と生産過程とに就いて迄も拡大され得る)。

技術はだから、今云った限りのこうした組織的な統一的な労働過程(乃至生産過程)の内に横たわっているということになる。技術は、客観的存在様式の下に於ける物質的技術は、かくてその客観的な組織性・統一性――即ち客観性――を持つことが出来るのである。この組織的で統一的な物的客観性は、主観的存在様式としての技術などに於ては見出すことが出来ない。技術は物的技術組織――例えば大工業に於ける技術的過程其の他――として、社会に於ける物質的客観的存在であると云わねばならぬ。

こういう意味に於て、技術は大工業に於ける一つの著しい労働手段(乃至生産手段)たる機械其の他を通しての労働過程の内に横たわることから、夫は発達した資本主義以降の社会に於ける生産力を構成する一つの著しい要素でなければならぬ。マルクスによれば、資本主義生産関係に於ける生産力の構成要素で最も重大な意義を有つものは少くとも二つあるように見えるが、一つは労働力であり、他の一つが技術である。技術が特に発達した資本主義社会に於ける生産関係に於て、如何に根本的な役割を果しているかは、想見するに難くない*。技術はかくて、全く経済的・社会的・(夫は更に政治的ともなる――技術の問題の第二・第三・形態で之を見るべきだ)な範疇であると云うことが出来る。

* 併しこのことは技術が常に終局的な生産力であるという主張へは導かない。例えばプロレタリア階級なる労働の組織・この労働力は、最も有力な生産力であって、ここではプロレタリア(労働者)の技術的能力ばかりではなく、同時にその政治的役割が問題とならねばならぬ。ブハーリンがこの点から批判されたのは人の知る通りである。――技術は元来労働から切り離せる筈のものではない、即ちプロレタリアの労働力から引き離されてはならないのである(だがこの問題は、「イデオロギーの問題としての技術」の問題、又は「技術家」の問題へ移行するので、「技術そのもの」の問題を取り扱っている今の段階ではこのモメントは捨象しよう)。

技術の社会的意味に就いてはルービンシュタイン「技術の発展に関するマルクス」(『マルクス主義の旗の下に』日本版第二十二号)を見よ。なお小高良雄氏「唯物史観に於ける生産力の概念について」(『唯物論研究』第二号)参照。

技術(及び技術学)が社会科学的範疇にぞくすると云うと、技術が他の社会科学的範疇、例えば生産関係とか階級関係とかと異る折角の技術的なものが見失われはしないかを憂える向きもあるかも知れない。なる程ダイナモの運動や内燃機関に関する理論は、何も社会的な事物に関する知識ではないが、併し他方それならば又何も特に技術的なものだと云う必要はないので、単に自然科学的――物理学的・化学的――な知識に過ぎないと云ってもいいわけである、技術が単に自然科学的知識の肉体による表現である以上に――自然科学の実験も亦技術的なのであるが――特に本格的に技術の資格を得るという事情は、この知識が経済的に応用されるという条件の下で初めて発生するのである*。技術の内部組織が経済的な必然性によって初めて体系づけられているということが、従来技術を単なる自然科学から区別するための特徴である。哲学者はこの点を指して技術の目的論という観念的な形式的な特色づけを与えているのである。丁度真理が社会的に通用・妥当することによって初めて現実の真理の資格を得ると同じに、社会の一定の経済関係――生産関係――に嵌めこまれることによって初めて、技術は技術の意味を得て来る。仮に人々が純粋科学――そういうものは実はないのであるが――と呼んでいるものが真理に近づくことが夫の進歩だとすれば、それと同様に、社会に於ける生産力の云わば極大に近づくことが技術の進歩であると云っても好い。凡そ事物の歴史的進歩の過程にこそ事物の生きた本質があるのであり、一切の科学の本質も亦それの歴史的発展の過程に於て初めて見出されるものであるが、技術はこうした所謂科学より遙か直接的に、その歴史的発展の内に自らの本質の表現を有っているということをその特色としている。技術の本質――夫こそ技術学の根本的な対象でなければならず、又吾々の元来の関心の中心をなすものだ――は、その歴史的発展によって、社会の生産関係を通してのその進歩又は退歩によって、極めて直接に制約されているのである。だから現実の技術の本質を知るためには、現実に与えられた社会の生産関係によって夫が如何に制約されているかを見ねばならず、又夫を見れば好いわけである。

* 例えば或るアメリカのエンジニヤーによれば、「エンジニヤリングとは人間の目的のために科学を経済的に応用するやり方である」(G. Dunn,“Science”No. 1837)。

そこで手近かから云って、現代の資本主義社会に於て、技術はどういう制約を受けているか。これは今日至る処に於て見られる事実であり、又聞かされる説明であるが、結論を云えば現代資本制生産関係は技術に対して全く否定的な決定をしか与え得ない。それは技術という現在では最も重大な生産力の一つが、如何に現在の生産関係と矛盾しているかを、最も雄弁に物語っているものに外ならない。

元来技術自身が資本主義の発達に決定的な役割を果して来たのであったが、この発達の結果は、現段階に於ける世界経済を、古今未曾有の不況につき落して了った。その結果として、技術だけに就いて云うのであるが、操業短縮・工場閉鎖・等々の手段によって、すでに形成されてあった技術の基体――機械・工場設備・其の他――は無益に荒廃にゆだねられねばならず、社会が一旦すでに獲得していた技術の適用実施の限度は拡張されるどころではなく却ってマイナスの方向に向って拡張されて行きつつある。技術の量的質的発達はかくて、単に抑止されるばかりでなく量的に引きもどされ従って又やがては質的に引きもどされることにならざるを得ない。のみならず会社・工場に付属している各種の研究所の活動は一般的に云って活動をそれだけ鈍らされざるを得ないのであり、それが国家の財政に基く研究機関であるならば、一般的失業による歳入減・所謂匡救費支出・警察費の拡張・軍備費の超越的膨脹・等々の結果から、それだけ「経費節減」を受けねばならぬ*。研究所や工場に於ける技術家が出来るだけ整理されるのは当然であろう。かくて技術は、単に不況という一現象――之は現代資本主義のほんの表面的な一現象に過ぎない――だけから云っても、その幸運な発達を阻止されつつあるのが事実である。

* 一九三二年秋、相談に着手し始めた処の「日本学術振興会」の創立の如きは、何もこの点の反証にはならぬ。なぜなら之は結局一方に於て思想善導を動機とし、他方に於て軍事科学の研究を動機とするものであって吾々の分析の今の場合にはぞくさないから――後を見よ。 不況の一原因ともなり一結果ともなるものは資本の独占であるが、この独占資本制は技術の発達に対して極めて特徴ある制約を与える。と云うのは独占(モノポリー)一名専売であるが、これに基く専売特許なるものは元来「発明の奨励」のために、即ち技術の発達のために、設けられた制度だったのである*。処が独占資本制の下に於ける特許権が殆んど凡て、発明者個人の手にではなく独占資本の手中に独占されて来るということに問題があるのであって、特許権を独占した独占資本は自分の都合の如何によって、この権利を行使しようとしまいと勝手なのである。実際は、人類の技術の水準を記録している処の多数のパテントが、生産のために用いることを許されずに持ち腐れになっているのである。それでなくても資本による特許権の独占は排他的なのだから、外では特許料を払わない限りわざわざより未発達な・より原始的な・より非技術的な・技術を用いてしか、同じ生産を行なうことが出来ない。そればかりではなく、産業合理化に役立ち過ぎる発明に対しては「社会政策」的に、故意に特許権を与えないという事実も決して少なくない。技術の適用は現実の技術水準を遙かに後れてしか現実され得ない**。――これは単に技術の発達の阻止であるばかりではなく、正に現に発達している技術を未発達の水準にまで抑圧することであり、要するに技術発達の原始化・逆転でなければならない。

* モノポリーは十六世紀にイングランドに於て初めて行なわれたと記憶するが、フランシス・ベーコンが恰もこの時期の哲学者であり政治家であったことは無意味ではない。ベーコンは外でもない発明術(それが彼の「新しい論理」である)の提唱者で、技術の理想国 Nova Atlantis の幸福な空想家だった。** 例えばドイツの「I・G・化学トラスト」は数千のパテントを有ち乍ら之を用いることを許さない。西ヨーロッパの多数の研究所では人造絹糸の製造方法を研究しているそうであるが、この方法の秘密が発表されたり発売されたりするのは、既に役に立たなくなったものに限る、其の他其の他(M. Rubinstein, Science, Technology and Economics under Capitalism and in the Soviet Union, 1932 による)(多くの研究所の研究員の発明に就いては当該研究所又は会社が特許権を所有する約束にしてある)。――わが国の某肥料会社は空中窒素固定法であるハーバー法特許権(之はドイツから賠償にとって来たのを安く払い受けたものである)を、「世間の非難に鑑みて」放擲することを政府に申し出た(一九三二年九月)が、他に仔細がない限り之は「非常時」的な異例に数えられるべきである。

以上は現代資本主義生産関係が如何に技術の発達を否定する結果にならざるを得ないかという点の要領だったが、今度は逆に、技術の発達が如何に現代資本主義生産関係を破壊するかという点に注意しよう。資本制生産関係に於ては技術の発達――それは機械の発達と平行するのだ――が如何にして「生産過剰」を生み、それが如何に逆説的に、資本制生産関係によって労働大衆の失業と相対的貧窮化を結果するかは、古くイギリスの産業革命の頃まで溯って跡づけることが出来る。労働大衆の失業(その貧窮化とは結局失業のことに過ぎない)は併し、それ自身で労働力の絶対的な(相対的ではない)殺減であり、即ちそれだけ生産力要素の殺減であるばかりではなく、やがて生産関係それ自身の変革を(暴動・動乱・又戦争等々を通じて)招くということは、過去にも現在にもあて嵌まる定石である。生産関係が技術の発達を否定する――阻止・抑圧・逆転する――ことが、それに対する反作用として、技術の発達が生産関係を否定する結果になるのは不思議ではない。

併しもう一つ注意すべきは、或る特定種類だけの技術の発達が他の技術部分を破壊するという場合である。軍需工業の発達は軍需的技術の偏重的発達を促すが、その結果は生産力として機能し得る有益な技術の発達をそれだけ否定することになるばかりではなく(この点だけならば前に述べた範疇に這入る)、それが元来社会的破壊作用――戦争――のための技術であることから、第一には社会建設的な有益な技術の物的基体――機械・工場・都市・農場・等々――を破壊し、従って第二にはこの有用技術の発達部分を物質的に破壊し、更に第三に又この有用技術の人間的基体たる肉体そのものを大量的に破壊することによって、この技術の発達部分を肉体的並びに精神的に破壊するのである。これはその限り生産関係の部分的破壊を意味している。――処で、こうした結果を引き起こす処の原因であった戦争又は戦争準備――現代資本主義制下に於ける戦争は資本主義戦争・帝国主義戦争であるが――は、外でもない技術の発達自身を一つの重大な原因としているのであった。

かくて現在の資本制下に於て客観的に存在している技術は、凡ゆる本質的な点に於て(なぜなら技術の本質は技術の歴史的発達に於て直接に現われる筈だったから)、現在の資本主義的生産関係・即ち特に独占資本制生産関係と、矛盾に陥っているのであり、而もこの矛盾は一波毎に日々深まって行きつつあるのである。――そこでブルジョアジー又は彼等の代弁者たるブルジョア・イデオローグ――欧米に於ける文明批評家・技術家・科学者・哲学者・其の他――は、この客観的情勢を反映して色々の型の技術否定論を提唱せざるを得なくなる。「技術の過剰」を歎くもの、機械の使用を制限せよと論じるもの、工業の無茶なテンポを止めよと要求するもの、現代の危機は技術・科学の破産によるのだと云うもの、等々*。資本主義と資本主義下の技術とが矛盾する限り、資本主義を死守するためには無論技術は否定されねばならない。だが現実的な技術の観念的な否定は何等夫の現実的な否定にはならぬ。技術の進歩は現実的には到底否定され得べくもないのだから、技術と現代資本主義との矛盾はこれ等技術否定イデオローグの観念によっては無論解消され得べくもない。

* G・ベルンハルト教授の意見、アメリカ経済学会大会に於ける要求、アカデミー・フランセーズのボレルの見解、欧米の其の他新聞雑誌の論文。――ルービンシュタイン前掲書を見よ(この点は、「イデオロギーと技術」の項で仔細に取り上げられる)。

技術の本質・発達の問題に就いても、他の諸国家と全く異った対蹠的な材料を提供しているものはソヴェート同盟である。そこではプロレタリアの社会主義革命は政治的変革の時期を過ぎて今や、技術的革命の段階に這入って来た、それは人々の知る通りである。ソヴェート同盟の新しい生産関係が如何に技術の発達を益々需めつつあるか、又逆に技術がこの生産関係を如何に急速に完成しつつあるか(五ヵ年計画・第二次五ヵ年計画・其の他)、それを今更喋々する必要はあるまい*。

* ソヴェート同盟に於ける技術の発達に関する一般的解明及び夫と資本主義国に於ける技術との比較は甚だ多い。ルービンシュタイン前掲書、同じく「サヴェート同盟に於ける技術的再建の基礎としての電化」(『新興自然科学論叢』――“Science at the Crossroads”の邦訳――の内)、ブハーリン前掲書、岡邦雄氏「科学と技術との計画的結合」(『唯物論研究』創刊号・第二号)等々。断片的なものでは J. Stalin, On Technology, 1932 など。 要するに資本主義社会に於ては、技術の歴史的発達は、従って又取りも直さず技術の本質は、資本制の矛盾と共に歪められる。之に反して社会主義社会に於ける技術は、必然的に発達せざるを得ず又自由に発達することが出来、従って取りも直さず技術の本質が自らを充分に展開することが出来る。之が現代の世界に於ける技術の事実的情勢である。――処でアメリカに於ける技術もソヴェートに於ける技術も、苟もそれが同じく技術である以上同じものでなければならぬと考えられるかも知れない。なる程技術の主観的モメント・主観的存在様式・だけを抽象して見れば一応そう云えなくはないだろう。実際アメリカの機械と技師とはそのままソヴェートで役立つ。ディーゼル・エンジンは大西洋で動くと全く同じに北氷洋でも動く筈だし、トラクターはテキサス州に於けると全く同じにトルキスタンでも動く筈である。だが之を動かす技術が、客観的存在様式としては、――主観的様式としての技能はどうであろうと、――一定の与えられた生産関係によって媒介されずにはいない限り、それだけ今の動かし方も実は異って来るのである(ソヴェートに於けるトラクターはアメリカに於てよりもより経済的に動かされるのを注意せよ)。――で、資本主義下に於ける客観的存在様式としての技術と、社会主義下に於ける夫とは、異った二つの技術であると云わねばならぬ。前に社会的だと云っておいた「技術」なるものはだから、当然なことながら、階級性を有つものだったのである。

さて、技術に関する他の一切の問題――吾々は後に技術とイデオロギーとの関係・技術家インテリゲンチャ・などの問題を取り扱わねばならぬ筈であったが――も亦、技術そのもののこの階級性を視角に持たねばならぬ。

Chapter 2 of 7
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