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技術の哲学
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技術の哲学
戸坂潤
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Chapter 7 of 7

技術と知能      ――現代学生の技術家的役割――

現代では「学生問題」(?)というものが社会理論の一つの特殊な結節点になっている。単に思想を思想として取り扱おうとする所謂「思想問題」――之は政治的には主として学生思想問題なのだ――なるものがあり得ないと全く同様に、単に学生を学生として取り上げるような学生問題は、文部省や大学の学生課にとってでもない限りあり得ないが、それにも拘らず連関した一連の社会問題の結節線上の特殊な一点として、この問題を問題にする必要がある。

この問題を特殊なものとしている第一の条件は、併し学生という社会的地位・社会身分・乃至(或る意味で)階級と、そのイデオロギーの種類とが、特別に知能(インテリゲンツ)と結び付いているということにあるのは明らかなので、この問題を分析するために、予め知能が他のイデオロギー形態と異る点を抽象的に、形式的にではあるが、整理しておく必要がある。

一頃教育家達――而も相当高度の教育年度を受け持つ教育家達さえ――によって試みられた例のメンタルテスト(インテリゲンツ検査)は、それ自身が教育制度の矛盾を回避しようとする社会的必要に逼られて取り上げられた一手段であったが、一方に於ては社会的諸制約から独立した純粋な検査方法を事実発見することが出来なかったと共に、ひいて他方に於て、知能そのものが決して想像されたように純粋心理学的な素質などに尽きるものではないことを教唆した。実際、知能は単なる素質ではなくて開拓されるべき素質であり、その意味に於て教養と云ってもいいのである。

だが教養とは、ブルジョア教育哲学者達がよく指摘している通り、つまる処性格の教養に帰着する。だから知能は、ブルジョア教育行政家達のフラーゼ――知育と徳育・人格と学識・等々の機械的な対立と混淆――とは関係なく、人間主体の性格(そういうものは無論極めて抽象的にしか考えられないが)に向ってのみ、初めてその結び付きを見出すことが出来る。知能は性格の有つ能力そのものであって、単なる知識能力などではない。その限り、之を生物学的に云い表わせば知能は本能と同じ特色を有っていると云わねばならぬ。と云うのは、知能が本能化しない限り知能ではないのである。本能化さない知能は猿知恵にしか過ぎない。読者にはこの点を予め覚えておいて欲しい。

尤も普通考えられる処によれば、知能と本能とは別であり又対立さえしている。本能は感性的であるが之に反して知能は知的ではないかと云うかも知れない。併し原理的に云って了えば、感性から出発しない知性はなく、従って感性へ負債を支払い得ない知性は知性ではない筈だ。感性からのこの負債の支払いに於てこそ知性の有能さがあるのである。だから、知能は一つの能力だと云ったが、知能がもつ有能さは知能が自分を本能化し得るという処に、初めて横たわるわけである。実際、性格を教養することは、何も他人と変った性質を捻出することではないので、取りも直さず性格を有能化することが目的なのだが、そうやって性格を有能化すことは、外でもない、性格能力である知能を本能化すことなのである。

知能のこの有能性を本能に関係してとや角云うのは併し、生物学的抽象によるアナロジーを使ってのことであるが、今はこのアナロジーはどうでも良いので、知能のこの云わば感性的な有能さという事が要点なのである。本能になぞらえられた知能の感性的有能性は、より社会的な範疇としては、広く技術的性能と呼んでいいだろう。蜘蛛が糸を繰るのは本能であるが、製糸工場に於ける女工の性能は技術的なのである。知能はだから結局広義に於ける技術的な本質のものだということになる。

尤も、技術という概念を本格的に把握するにはまず第一に之を技術学(工芸学)的見地から見て行かねばならず、そしてこの技術学は単に人間主体が有っている技術乃至手練を問題にするのではなくて、この技能が結合している物質的で客観的な体系――機械組織・工場組織・等々及び之等の媒介としての生産関係にまで及ぶ――を問題にするのでなければならない。だが今は元来人間主体の能力としての知能を特色づけるのがさし当りの目標だったから、ここで問題になるのはそうした技術学的な意味に於ける技術ではなくて、人間主体の側に於て之に対応する処の、主体的能力としての技術なのである。この場合の技術はであるから、単に客観社会に於ける生産組織にまで組み込まれた具体的な技術能力を意味するばかりではなく、それから抽象された物質変更能力一般(例えば技術家の所有する技術)を意味する。と同時にそればかりではなく、観念の変更能力一般(例えば作家の手法)までが、ここで必然的に技術という言葉の内に含まれている理由を見出すことが出来る。制作や思考の手法というような観念的な技能が同じく技術の名を以て呼ばれる正当な理由は、ここにしかないだろう。で、こういう抽象され拡大された哲学的範疇としての広義の技術が、知能を特色づけるものだと云うのである。実際こういう意味では、知能は一つの技術的能力に他ならない。――知能はかくて、自分を技術化さない限り、知能としての作用を発揮出来ない。之が予め云っておきたい点だ。――知能が一般の他のイデオロギーの形態と異るのはこの点に於てである。

さて、知能の抽象的で形式的な規定づけはこうだとして、現在、こういう知能がその特殊な主体的条件となって出来ている社会層がかのインテリゲンチャ層であることは云うまでもない。そしてインテリゲンチャ層の特殊層の一つが即ち現代の学生乃至学生層である。知能は学生乃至学生層に於て、どういう風に特殊化され限定されていたか、又されつつあるか。

現代社会が学生と呼んでいるものは、一方に於て、例えば生徒から区別された意味での学生というような官制上の身分資格を指すのでもなければ、他方に於て、例えば陸海軍の学生というような官制上の副次的な属性を意味するのでもなくて、ブルジョア社会に於ける一つの社会身分を指している。だからこそ学生という名は時によって職業の名としてさえ通用するのである。職業は何か生活資料の直接な獲得――収入の如き――と不離な関係があるように考えられるかも知らないが、矛盾した資本主義社会に於ては、収入なる概念が甚だ困難な概念となるわけで、例えば余りに少ない収入は収入であっても何等生活資料の直接獲得にはならず、即ち結局収入の実際上の意味を失って了うのであるから、職業や収入と不離な関係に置くと、職業という概念が極めて狭いものにならざるを得ない。それでは失業統計なども恐らく膨大な量に及ばざるを得ないわけで、それは無論ブルジョアジーが決して欲しない結果である。そこでブルジョアジーは職業を、収入と実質上は無関係な一定社会身分という意味に解釈し、どうやってもこの解釈に這入らないものだけを失業と見做す(無職というのはだから実際必ずしも職のないことを想起させるとは限らないだろう)。失業の大部分は実際之によって観念的に解消して行くだろう。――処で、学生は収入どころではなく逆に学資を支出しているのだが、それが一つの一定社会身分だという意味で、職業欄に学生と書き込むことも不自然でない、というような意識をも生むのである。

「学生」はだからブルジョア社会の秩序に於て占められる一定部署を意味している。階級社会に於ける学生層は、一定の階級的意義を有っているということがその特色だ。――学生層の構成内容から云っても亦、このことは確められる。一般学生の各個が、概括的に云って小市民層又はブルジョア階級の子弟であり、高年度の学生になればなる程、「良家」の子弟が多いと推測していいだろう。農民や労働者からは例外としてか又は特殊の条件に偶伴された以外には(例えば有力者の知遇や公私の給費)、決して学生は送り出されない。明治初年以来台頭しつつあったブルジョアジーが盛んにブルジョア社会幹部の養成を必要と感じた時代には、旧下級士族や町人や農民から「苦学生」其の他相当遊学者を出したのではあるが、資本主義の発展に従って、資本制幹部と幹部の定員とが急速に固定し始めた現代に於ては、「学問」や「卒業」を以てする投資は、幻影を外にして成算あるものでなくなって来た。今日の大学生の可なりの多数は、生活収入の問題とは関係なしに全く一つの社会身分を保留し又は享楽するだけのために、大学に籍を置いているに過ぎないように見える。そしてこういう名目上の失業をさえ猶予延期出来るものは、無論相当裕福な家庭の息子達でしかあるまい。

だが今云った最後の現象などは、云うまでもなくブルジョア教育制度の期待していた処ではなく、ブルジョアジー自身にとっては全く思いも及ばなかったアブノルマルな弊害に外ならないだろう。ブルジョア教育制度は初め、学問の蘊奥や国家に枢要な知識や人材や良妻賢母等々のありと凡ゆる理想の下に、もっと「健全」な計画を立てた筈であった。というのは初め学生にとっては、将来ブルジョア社会に於て占めるべく想定された社会的地位が実質的に約束されてあった筈なのである。官吏・政治家・実業家・言論家(イデオローグ)・専門家技術家・等々のブルジョア社会幹部の地位が、一種の支配者としての地位が、実際に可能なものとして約束されていたのである。――実際にはわずかに下級幹部としてしか任用されなかったり、又は下級幹部候補者のために下級幹部就任の機会をさえ拒まれたりせざるを得なくなった今日と雖も、この約束は空手形として繰り返し繰り返し与えられている。

だから現代学生は、単に彼等の現在の身分が事実上ブルジョア乃至プチブルジョア(結局ブルジョアジー)にぞくしているばかりではなく、更に少なくとも名義上将来に於ても益々この所属を強調することになる筈の、ブルジョア社会の幹部候補生なのである。世間ではよく学生を「修養」時代と云っているが夫は正しくこのことだろう。恐らく卒業すれば修養は不必要になって大いに発展しても良いという意味でもあろうか。

名目上だけでなく実質的に云って、充分に将来を約束出来た時代のブルジョア社会幹部候補者であった過去の或る時代の学生は、併しながらまだ積極的な独自の社会的意義を有ったものとは云うことが出来ない。ブルジョアジーのまだ比較的ルーズな幹部網の内へインテリゲンツの技術的所有者(インテリゲント)が容易に吸収されて行くことが出来た限り、ブルジョアジー階級内部に於けるインテリゲンチャ分子というものは考え得られたにしても、この分子がブルジョア階級の外部にまではみ出て、比較的な独立性を獲得し、かくしてインテリゲンチャという一つの社会身分にまで転化して、階級的な重要性を有つ迄には、そこではまだなっていない。所謂インテリゲンチャ――それは個々のインテリゲント分子ではなくインテリゲンチャ層として階級的意義を持った社会身分を指しているのだ――は、まだ充分な意味では成り立っていないのだから、従ってその一部分と想定していい学生なるものも亦、一つの社会身分としての充分な社会的独自性積極性を持つまでにはなっていない。かつての資本主義創業時代のこうした学生――「書生」――は、所謂インテリゲンチャの一部分などではなくて、ブルジョア階級の可能的なインテリゲンチャ分子、即ちブルジョア社会幹部網のためのインテリゲンチャ分子の候補者、に過ぎなかった。――で書生はその知能を有っているということを社会条件としては、何等独特の意識を有ったものではなくて、身にブルジョア社会幹部の知能を縮小し模造することに専心する処の、擬国会的存在にしか過ぎなかった。こうした結局無邪気な学生の意識が当時の「書生気質」だったのである。

当時のブルジョアジー自身の歴史的情勢が殆んど進歩的であったことから、ブルジョアジー自身の意識が進歩的であり自由であった。即ちブルジョアジー自身の意識が知能的であったのであり、ブルジョアジー自身の知能が知能的であり得たのである。それ故その幹部候補生としての学生・書生の知能は却って、云わばそれだけの候補者的な技能でしかなかったのであり、又それで充分だったので、そこでは学生自身にだけ独特な知能の進歩性・自由性は必要ではなかった。この場合の知能は何も別に批判的な――この最も知能的な――機能を営む必要を現実的には感じなくて済んだのである。一般にまだ現実化さない処の、可能態に過ぎない処の、一種の候補者としての学生の社会的地位から来る自由は、この段階の学生の意識に於ては批判の自由として現われる代りに、却って批判的関心からの自由として、即ち無頓着・無分別・等々として、要するに非知能的な形態を取って、現われたに過ぎないのである。

それで、出来上って了ったブルジョア社会幹部の知能分子に於てはとに角として、それの卵子に過ぎなかった当時の学生に於ては、知能は別に何も学生の社会的な重大意義を条件づけるものではなかった、と云わねばならぬ。

(だがこう云っても、学生の社会的地位から生まれる例の自由乃至自由の意識の内に、批判の自由への可能性が、固定化し束縛された先輩幹部に対する批判への無形の萌芽が、あり得ないということにならぬ。現実の必要さえ起きれば学生のかの自由は批判の自由として機能し始めるに充分好都合な準備が出来ていたと見るべきなのである。――後にそれを見よう。)

ブルジョア社会幹部網が次第に充実して来、知能分子をそこに吸収する余地が次第に少なくなって来るに従って、――之が資本主義の発展の必然的な一結果であることは断わるまでもないが――、そして而も他方では之に対応して(学生を中心として考えるなら)、学校教育や社会教育が量的に発達して来たため知能分子の生産量が急速に増大して来るに従って、主として学生上りからなる知能分子がブルジョア階級の外側に大量的に集結せざるを得なくなって来た。即ち学生は前に云ったように単に名目上だけのブルジョア社会幹部候補者でしかなくなり、結局実質に於てはブルジョア候補者としての資格を剥奪され或いは免除されることとなって来るのである。――かくて学生乃至学生上りからなるインテリゲンチャが、改めて一つの社会層、社会身分、となって社会階級の機構の間に現われ始める。所謂プチブル・インテリゲンチャなるものの基体がここに出来上って来るのである。――永遠の候補者は、永遠に候補者であることは出来ない筈だ。ブルジョア社会幹部候補者乃至候補者上りは、やがて、何かの候補者であることを実質的に放擲して、改めてそれ自身の体制に這入って行く。之が中間層としてのインテリゲンチャなのである。学生はかかる中間層の一部分として編成されることによって初めて、現代の吾々が口にするような意味での「学生」即ち現代学生層、を形づくることが出来たのである。

いつも云われる通り、中間層としての(プチブル・)インテリゲンチャが、時間上並びに論理上の終局の瞬間に於ては、総体としては実は決して中間層ではなくて、ブルジョアジーの味方であるに相違ないが、このインテリゲンチャの一部に編入された現代学生層も亦、終局的に云ってブルジョアジーのものである。実際上ブルジョア乃至プチブルジョアの子弟から夫がなっているばかりではなく、名目上から云っても、ブルジョア社会幹部の候補者として、社会秩序の上で一定の地位を占めているのが学生乃至学生層であった。このことはすでに述べた。――だが今、恰もこの点に就いて、学生層は一般インテリゲンチャ層の他の部分(例えばサラリーマン・小官吏其の他)と異った条件を有っていることを注意しなければならない。現代学生層は事実上ブルジョア社会幹部の候補者でなくなっているが、それにも拘らず、ブルジョア社会幹部によって現実に割りあてられた「職業」を持っている処のインテリゲンチャ層の他の部分に較べるならば、学生はここでも亦、そうしたサラリーマン・小官吏等々自身の候補者を意味しているだろう。実際現代学生は大衆的に云えば結局サラリーマン候補者、或いは寧ろ名目上又は実質上の失業者候補生に外ならない。こうした一種の候補生としての学生の位置の自由は、学生各個の生活を保証しているブルジョア又は相当高級なプチブルジョアにぞくする父兄によって、保証されているのである。――学生に特有なこの自由は併し、それだけでは大した意味を得ないのであるが、学生が更に、或る程度の集団的生活を営むことによって、云わば学生社会を造っているということから、この自由に或る決定的な意義が生じて来る。なぜならこの学生社会の一員となることによって、ブルジョアの子弟もブルジョア階級を一時的にしろ抜け出してプチブル・インテリゲンチャの層に出入りするのだからである(これ等の子弟は卒業すれば本来の階級に還されて了う)。で、こうした自由は、無論一般のインテリゲンチャには見出すことが出来ない学生に特有な自由だ。

学生層のこの社会的自由は処で、彼等学生に特有な意識の自由を産み出す。この自由は無条件には単に一般的で形式的な意識の自由に過ぎないだろう。だが従前の学生の知能が、当時進歩的であったブルジョア幹部の知能への候補者として、予め訓練されていた云わば惰性のまだ強力である処へ、今、ブルジョアジーの知能という従前の目標が実質的には成立たなくなったことが意識されて来るから、今の自由は単に一般的・形式的自由としてではなく積極化して、進歩的な自由として、批判の自由として具体化される結果を有たざるを得ないのである。知能は一つの技術であったから、不用に帰すれば一般に消耗して行くものではあるが、目的を失った大きな惰性を有たされる時は、勢い反射的に・反省的に・自分自身に向わざるを得なくなり、そしてそうした作用が他に向っては批判能力として現われるのである。現代学生層はかくて、一定の客観的な必要に逼られた結果、ブルジョア社会幹部、ブルジョア社会人の候補者から、之等と之等を含むブルジョア社会に対する批判者にまで、必然的に転化する。そしてこの転化の可能性はすでに実質上のブルジョア社会幹部候補者としての曾ての学生の社会条件の内に、なくはなかったのである(前を見よ)。

現代学生層の知能上のこの批判能力は学生層が置かれる一般社会の客観的情勢の推移に織り込まれながらではあるが、比較的に自動的にさえ、自己再生産して行き、次第に併し急速に体系化され尖鋭化される。と云うのは、単なる集団にすぎなかった学生社会は、之によってブルジョア学校内部に於ける学生組織に転化し、そして又例えば学生運動の形態などを通して、学生各個はそのブルジョア的乃至プチブルジョア的な家庭から独立に、その結果を持ちよりながら学生組織に再び立ち帰って来るのである。現代学生層はだから、その成素が一応ブルジョア又はプチブルジョアの子弟であったにせよ、又集団としては中間的インテリゲンチャに一応ぞくしたにも拘らず、丁度婦人の場合と同じように批判された身分として一つの社会身分にまで結成し、又そう結成することによって益々無産者と同様な性格を持った身分へまで育って行く。現代学生層はそのブルジョア的諸条件にも拘らず、或る限度に及ぶまで急速に批判的にならざるを得ないのである。現代学生層の批判知能の体系化は、この情勢に対応するものに外ならない。

一般のインテリゲンチャに対して学生層が有っているこうした特異な点が、現代学生層をインテリゲンチャ層に於ける最も積極的な活動的な層にしているのであるが、同時に又この点が、従前の例の幹部候補生としての学生などに於ては決して見られなかった処の、学生の知能の積極的な社会的意義を成り立たせているものに他ならない。実際、現代ブルジョア先輩幹部連は、現代学生が全く学生らしくなくなったことを嘆いている。それは当然で、学生はここまで来て、ブルジョア社会幹部の候補者から、一種の無産者的な層にまで、或いは更に、それ自身一部分の無産者候補者にまで、転化したからなのである。

現代学生層は、云わばインテリゲンチャを代表して、その知能・インテリゲンツを積極・技術的に社会的に活動せしめる。知能が積極的な社会的意義を有って来るのは、さし当り現代学生層に於てであり、或いは少なくともそうであった、と云うことが出来る。――学生運動・労働運動・啓蒙運動・文化運動・等々が彼等の活動形態であったが、例えばサラリーマンはこれ等の活動性に於て著しく劣っていたように見えるのが事実である。

さて以上のように規定された現代学生層は、「学生」の技能技術上の歴史の云わば第二期最高潮期と云っていい(この時期の徴候としては例えば福本主義などを挙げることが出来るだろう)。だがこの同じ現代学生層が実は同時に、学生の知能技術上の第三期への、衰亡期への、入口になっている。この点が実は現在最も大事な点だったのである。次にそれを検討しよう。

現代学生層の無産者化と共に見られた処の、学生知能技術の批判能力の著しい高揚は、すでに云ったように、学生が自分の知能を役立てようとする目標――ブルジョア社会幹部としての技術――を失ったことを条件としているのであったが、他方に於て知能技術の使い道がなくなったということは、終局に於ては技術の訓練を荒廃させることを伴うのであったから、かつての技術訓練の惰性はやがて相当速かに減衰せざるを得ない。知能技術はいつか宙に浮いて了うのである。従って、現代学生層は対社会的な積極的な役割――労働運動の一時的指導・文化運動・啓蒙運動等々――を果して行きながら、元来中間層としてのインテリゲンチャの社会的歴史的役割を制限している一般的な制限のおかげで、当然いつか或る限度に到着する。するとそこから先は、従前のままの条件の下では、学生層の知能技術は活動力を失い始め、発展を止めなければならなくなる。少なくとも学生層に於てそういう過大部分が発生するようになって来る。そうなった時代が学生知能技術上の第三期に外ならない。学生の知能は全般から云って低能化し、非本能化・非技術化し、マンネリズム化し非性格化す。かくて学生はそれに特有な知能技術を喪失する。インテリゲンチャの代表者が、自分の唯一の性格である所の知能を喪失するのである。例えば一見進歩的に見えた学生層大衆が理論的乃至文化的な技術を失った単なる似而非実践家として見出されたような或る時代が、それなのである。「青白き」インテリがインテリによって得意になって嘆かれた時代が之であった。実はこの嘆きの得意さの内にこそ、初めてインテリの無能さが横たわっていたのであったのに。之は全く学生――このインテリゲンチャ代表者――の知能技術の低能化に照応する一現象に外ならない。

学生層の知能技術のこの一般的な変質は、云うまでもなく学生層乃至インテリゲンチャの社会的意義の歴史的推移から来ている。そしてこの後のものは又ブルジョア社会全般の構成の歴史的推移の結果に外ならない。と云うのは、ブルジョア社会の階級対立が著しくなった結果に外ならない。で云わば人類の新鮮な若い知能は、所謂インテリゲンチャ乃至学生層から、やがて次第に、他の社会層の上に移行して行くのは自然である。現代の本当の大衆は、その大衆性によって、本能的・技術的・直接さを持っているのだが、知能もここまで持ち込まれて初めて本当に本能化し技術化することが出来よう。即ち知能はここで初めて本当に知能的となるだろう。そういう事実は、すでに文芸の世界に於ては次第に実証されて行っている。学生層の知能技術が或る限度に至るまで低能化すということも亦、だから一般的にいって至極自然なことではないか。

学生層知能技術の低級化の一つの主体的条件として、学生層乃至インテリゲンチャは、文武官・小商人・其の他の小市民層及び後れた層の農民等々と結び付いて、今日見られるようにいちじるしいファッショ化の先鋒となることを敢えてすることが出来る(一連の学生運動・其の他)。今後、多少とも知能的で技術的な左翼学生の閉め出し其の他の教育行政の結果と平行して、又遊戯的――モダーン・不良・等々――学生の圧倒的増加の結果と平行して、学生層一般の知能技術の低下は急速度に進展して行くだろうから、恐らく学生層のファッショ化は抜くべからざる大勢となるだろう。スポーツ学生の典型はアメリカのカレッジボーイにあったとすれば、ファッショ学生の模範はすでにドイツにあるのである(Burschenschaft)。――学生層の知能技術が社会的に進歩的な役割を有つことは、それがどれほど歴史的結果から云って有効であり、そして多くの国に於て如何に共通な現象であったにしても、要するに一つの過渡期の現象にしか過ぎない。学生層が一つの社会身分として、階級的な意義を積極的に持つことが出来るのは、結局一時の現象に過ぎないと云うのである。

「学生問題」、又はわが国に於て特有な仕方で用いられている言葉に従えば「思想問題」は、ただこうした一時的現象が現われている時期に就いてだけ意味を有っている。知能技術が新興の階級へ或る程度以上に移行し、そしてやがて技術一般(心理的又生産的)も亦そこへ渡り始め、かくて一般に社会身分乃至(或る意味で)階級としてのインテリゲンチャの役割が消滅し始め、それに従って学生層の階級的役割が重大さを失い始める時、その時が恰も学生層知能技術の第三期・衰亡期・低能期であるが、その時から所謂思想問題と呼ばれる形の学生の問題などは、その重大さを失い始めるだろう。なぜなら一方ファッショ学生はその知能によって何等独特の社会的意義を実際的に有つものではないからである。

さて現在の現代学生一般はすでにこの段階にまで這入って来たと見ることが出来ようが、ではそこでは学生の知能技術はもはや社会的に何物をも意味しないのか。無論決してそうではない。現代学生層とそれの近い範囲の将来に於ける惰性形態としての学生層を一貫して、依然として進歩性を失わない処の、恐らく多数ではないが併し確実な、或る部分を、見落すべきではない。

●図書カード

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