Chapter 1 of 4

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問題を知識――認識――の範囲に限ろうと思う。尤も始めから知識の世界と知識でない世界とを区別しておいて、その上で知識の世界の外へ一歩も出ないように注意しようというのではない。そのためには恐らく吾々は完成した体系を予め持っていなければならないであろう。云うまでもなく吾々はそのような結論から出発することは出来ない。凡ての出来上っている諸問題をば同じ資格を有つ隣人として公平に待遇しようとするならば、却って何かの問題に立ち入る手懸りを失って了うであろう。こういう危険を避けるために問題を知識の世界に限ることが今の場合私にとって必要なのである。

知識という概念がまず疑問であるだろう。けれどもそれを何程か決定することこそ私の目的なのであるから、次の私の言葉を承認出来る程度の常識概念として、この概念が人々に通用するならばそれで事は足りる。そこで私はこの概念に就いて次のように云いたい――知識には二つの徴表がある、第一は吾々が知識によって通達するものと考えられる実在、第二はかかる実在が通達されると思われる通路。そしてこの第二の通路が又特に知識の名を以て呼ばれるということ。ここに人々は古典の内から二つの言葉を選んでこの二つを云い現わすことに思い付くであろう。それは「存在としての存在」と「真理としての存在」との区別である。尤もこの場合真理という言葉が二重に用いられる代りに存在という言葉が二度使われている。けれども二つの区別を与えるのに之は何の差閊えもない。一方に於て存在としてあるもの、他方に於て真理としてあるもの、実在とそれへの通路。人々は兎も角もこの関連を許さないわけには行かないであろう。

今、実在に就いて先ず一般的に語ることが私の目的ではない。そして恒に、そのような種類のことは必ずしも必要ではない。近世の形而上学は実体に於て乃至実体に就いて――このような形而上学にとって実在は即ち実体であった――少くとも二つのものを区別した。mens と corpus 乃至 cogitatio と extensio。私は今実在に就いて更に物体乃至延長の世界にまで範囲を限ろうと思う。処が他方に於て、このように制限された実在を云い表わす概念は、今日吾々が常識的に――そして勿論知識の範囲に於て――用いている自然という概念でなければならないであろう。哲学者達は自然という言葉を夫々独特の意味に用いたではあろう、併し私の云うのは術語ではなくして通俗語である。実在とは今の場合このような意味での自然である。そこで自然をどう取り扱おうとするか。

私は今自然の意味を限定した、そして或る自然概念を獲得した。この限定に於てこの獲得において、すでにこの概念*は行くべき方向を与えられている、この概念は、あらゆる概念が実はそうなければならないように、その成立の動機を**担って始めて成り立っている。吾々は単に或る概念を構成して見るだけではなく、却ってその概念を構成することによって、更に之によって次のものを惹き出そうとする目的を持っていたのである外はない。そして概念のこの目的がとりも直さず始めに帰って――何となればテロスはアルケーであるから――この概念の動機をなしているのである。今の自然概念も亦ある一定の(まだ確定されてはいないが)動機によって動機づけられたある一定の方向を持っていなければ、吾々にとって無用であろう。それ故この方向を辿ることによって明らかとなって来るものは実はこの概念の真面目に外ならない筈である。之によって自然概念はそれが如何にして要求され又如何にして構成されたかが明らかにされ、かくしてそれ自身の性格が露に出される。自然の性格は何か。併し性格とは何か。

* 概念が根本的に二つに区別されることを後に明らかにしよう。今はその内の一つを使っている。** 動機と茲で云うのは、心理的原因でもなく論理的基礎でもない。それは正に概念的動機と云う外はない――茲に人々は少くとも概念が無条件に論理的と呼ばれてはならないことを想像しなければならない。――最後を見よ。

樹は一つの性格を有っている、吾々はこの性格を知ることによってそれを、物体としてでなく、生物としてでなく、植物としてでなく、正に樹としてそしてこの樹として知ることが出来る。吾々は人を記憶するのに必ずその顔を記憶する、而も多分横顔ではなくして正面を記憶するであろう。それは正面がその人を最も著しく代表するからである。かかる正面が吾々にその人の性格を現わす。無論その人は正面から成り立っているのではない――という意味は、彼の正面が彼の存在の論理的予想(コーエンの場合のように)であるわけはない、又彼の正面が彼の存在という意識の統一を齎す主観的制約(ヴィンデルバントの場合のように)である筈もない、又彼の正面が彼の存在を成り立たせる客観的な形式(ラスクの場合のように)であるのでもない。凡そこのように対立的な主観概念を借りて始めて動機づけられる処の認識論的範疇という概念、によって吾々に性格を云い表わすことは出来ない。性格とは吾々がそれを追求することによって、即ちそれを明らかにすることによって、同時にそれのぞくするものが明らかとなるような理解の焦点を意味する。併し性格の代りに例えば本質という言葉を用いるならば恐らくそれは吾々から独立にあるであろう。このような本質は吾々の彼岸に考えられる。少くとも吾々にそれが明らかとなる過程をそれが含むことは保証されていない。それ故かかる本質は性格の正反対でなければならぬ(後を見よ)。性格とは一つの概念に就いてその成立の動機とその発達の方向とを含んだ一つの過程として吾々に与えられた一定の課題でなければならない。自然の性格は何であるか。

それが空間であると私は思う。私は自然の面目を空間として性格づける私の動機を説明することによって、とりも直さず同時に空間の性格を明らかに出来るであろう。人々が実際に生活している時、彼等はコンヴェンションに従って――学問的考察に従ってでなく――最も信頼するに足る当体として自然を見出す。それが先験的自我によって構成された世界であるにしてもないにしても、又それが絶対的な何物かの発展の段階であるにしてもないにしても、それに拘わることなく人々は自然を実在として信頼する。現実にかくあった、又現実にかくあると信じる。もし仮にこの信頼が彼等を欺くならば、彼等の信頼が欺いたのであって現実が欺いたのではない。それ故彼等は依然として現実を信頼している。人々にとって自然という概念は現実に対する彼等の信頼の外の何ものでもないであろう。これが自然という常識概念成立の動機であり従ってこれがこの概念の性格の第一歩である。物質という概念は往々にしてそして又正当にもかかる自然の性格として云わば自然主義的に理解されているであろう。精神の原因と考えられるという言葉も、精神物理的立場に立つ一つの形而上学を意味する前に、先ず凡ての日常生活の信頼がそれに帰着し行く処の地盤としての物質を、それは云い表わすべきである。常識概念にとっては物質は精神の原因であるよりも寧ろ第一に眼に見手に触れることの出来る当体でなければならない。自然の性格はこのような意味での物質としてその第一歩を現わす。自然は物質的である。処が物質は substantia であることは出来ないであろう。何となれば、形而上学によればスブスタンチアは das Daseiende でなくてはならなかった、そして又それはその Daseinsweise であってはならない。形而上学によればまず実在者がありこの原因から恐らく実在という在り方が結果するのであって、決して、まず実在という在り方が動機して実在者という概念が成立するのではない。かかる原因として――動機づけられたる過程としてではなく――の実在者、それがスブスタンチアであるであろう。吾々の物質概念は、然るに、一つの性格を、動機づけられた過程を、意味した筈であった。故にこの物質は実体ではない。であるから物質は正に一つの在り方、物質としてあること、でなければならないのである。自然概念を物質概念にまで発展せしめた動機は「在り方としての性格」―― Dacharakter ――の方向を追求したことであった。溯って云えば自然が元来かかる在り方以外の何物でもなかった。人々の信頼を集めた実在・現実は実は、かかる在り方、実在性・現実性であったのである。それ故、今や明らかであるように、自然の性格は・即ち物質は・そして即ち物質の性格は――何となれば性格は過程であるから――一つの Dacharakter なのである。自然の性格を求めて物質概念に至らしめたこの動機、Dacharakter を追求しようとするこの方向、この過程が直ちに次に物質の性格を決定することを要求する。そして物質が物質として在る在り方を性格づけるもの、それが空間に外ならない。空間は自然の(又物質の)性格であり即ち自然の(又物質の)Dacharakter としての性格を云い表わすものであり、即ち又それ自身一つの Dacharakter である。空間は何にもまして空間という「存在の性格」でなくてはならない。そして之が又空間の性格である。かのアリストテレスの「存在としての存在」は恰も「存在の性格」を云い表わす言葉でなくして何であるか。

空間に就いてのどのような理論も、或る意味に於て、空間の性格を明らかにするものでないものはない。もしそうでなければそれは始めから少くとも空間の理論ではないであろうから。併しその理論が自分自身空間の性格を求めているということそのことをば自らの理論的内容とする場合と、そうでない場合とで、実に根本からの相違がある筈である。云うまでもなく後の場合に較べて前の場合の方が理論として周到であることを人々は当然始めから認めるであろう。私の今まで述べて来た仕方も亦少くともこの前者の場合であることを欲していたものである。けれども私はこの仕方の優越性をより具体的に示すために、之と反対な仕方――後の場合――の困難を指摘して見ることにしよう。多岐に渡るのを避けるために歴史的内容に富む形而上学的乃至神学的――多くの空間理論をかく名づけることが出来るであろう――な見方を省く*。又心理学的研究をも除外しなければならない**。思うに両者の問題は吾々の今の問題と多少食い違った所を有つであろう。

* 茲では例えば実体と空間との関係とか、空間の演繹とか、が問題となる。** 茲で最も重大な関心を持たされるものは空間の形態説であろう。其の他の問題は恐らく之程哲学の関心を惹かないと思う。

さて後に残る考え方――それは何れも自然乃至実在の概念から出発するのであるが――を私は二つに分けることが出来るであろうと思う。第一は空間を自然に於ける本質と見る取り扱い方、第二は之を自然の制約と見る夫。第一は自然に於て事実的に存在し又は生起するものを介して永久的の形相なる本質を発見するに努める仕方であって、この仕方に従えば恰も空間がそのような形相即ち本質として見出されると云うのである。かく云えば恐らく多くの人々は次のように云って反対するであろう。自然の本質は必ずしも空間とは考えられない、物質・時間・運動・力・作用などの或るものこそ自然の本質ではないか、と。併しかく云う人も空間を自然の一種の本質と考えるのを拒む特別な理由を発見することが出来るのではないであろう。のみならず、最初の物質に就いて云うならば、已に述べておいた通り、もし吾々の理解に従うならば、物質こそすでに空間概念に含まれた一つの特徴であるに外ならなかった。自然科学者が物質をその研究の対象である処の自然の本質として理解しているとしても、この物質概念が直ちに哲学上の概念――吾々は之を問題にしている――であるかどうかは問題であるし、又彼等の本質とするものも恐らく吾々が本質と呼ぶ処のものではないに違いない。吾々は云うならばあらゆる自然的立場を括弧に入れ、従って自然科学的立場をも括弧に入れ、その上で吾々が本質と呼ぶ処のものを求めることを今は志しているのである。次の時間にしても、時間一般は決して自然の本質であるのではない。歴史と意識に現われる時間概念は到底自然の本質とは呼ばれない。夫であるためには、時間は或る特殊の時間として、即ち自然に於ける時間として限定されなければならぬ。処で時間一般を之にまで限定するものは正に時間一般ではなくしてそれ以外のものである外はない。そして一つ数学的次元として、云い換えれば、計量出来る一つの量に関係するものとして、事実吾々は物理的時間を理解している。これが自然の時間である。そしてこの自然の本質が何であるかこそ今の問題なのであるから、時間を自然の本質とすることは解答ではなくして問題の変形であるに過ぎない。運動概念にしても(アリストテレスの非常に広く自由な運動概念を考えよ)、力の概念にしても、又作用概念にしても、ある特殊の夫として即ち自然に於ける夫として、まず限定されるのでなければ、自然の本質と呼ぶ動機すら見失われるであろう。それであるからして、自然の本質としては特に空間が挙げられねばならない。というのは一切の本質らしいものは之に帰して了うと共に、吾々は空間が他の本質に帰せられることを想像出来ないからである。かくて吾々は自然の本質が空間であることを承認しよう。――けれどもそれであるからと云って、逆に空間は自然の本質である、という言葉を無条件に承認することは出来ない。と云うのは、空間を特色づけるのに自然の本質という言葉を最も優れた或いは充分な述語として択ぶということは、今の命題からは帰結しないのである。即ち空間の理論はこの命題によって要約することは出来ないであろう。それは何故か。私は之を述べるために今の命題を少し分析しよう。自然の本質と云っても二つの意味が区別されねばならぬ。第一は本質という言葉を常識的に用いて自然が自然として存在し又は理解される理由乃至原因を代表するものを指すであろう。自然科学者がもし物質を又電磁気を自然の本質と呼ぶならば、或いは又自然哲学者が神をそれと見たならば、それは今の意味に於てである。けれども之は吾々の今云う本質ではない。吾々の云うのは第二の他の意味での本質である。即ち――向に示した通り――自然に於て事実的に存在し又は生起するものを介して発見される永久的な形相が自然の本質と呼ばれる約束であった。空間とは、自然と呼ばれるべきものに於て発見される永久不変なる関係である、と云うのが向の最初の命題なのである。さて併し、そうとすればこの命題は何が元来自然と呼ばれるべきであるかということ、即ち自然を自然と呼ばせる処の丁度そのものは何かということ、をすでに決定されたものとして許していることになる。云い換えれば自然という概念はすでに知られたものとして――常識的にばかりではなく又実に学問的にも――与えられていて、その上で空間という本質が引き出されるのである。それ故この仕方に従えば、自然なる概念の成立の動機が理解出来ない――自然概念は与えられているから。従って又空間という概念の成立の動機も理解出来ない――空間概念は自然概念の成立動機を外にして動機づけられることは不可能であった(前を見よ)。であるからして本質という言葉を用いることによっては空間という概念を理解することは出来ない。ただ之によって研究の効果の挙るのは空間と呼ばれる形相的構造*――空間概念ではない――に就いてに過ぎないであろう。処がかかる形相的構造を吾々が何故に空間として概念するかということこそ吾々の第一義の課題なのである。吾々の第一義の問題は、樹が何であるかではなくして、常に、この樹を吾々が樹として理解することは何を意味するか、である。故に自然の本質は空間であるという命題はそれ自身少しも誤りではない。けれども逆に、空間は自然の本質であるという時、もし之によって空間なる概念を理解しようと欲するのであるならば、即ち之を以て空間理論のテーゼとしようとするならば、それは云い足りないと共に云い過ぎであるであろう。今の場合の主客の交換は形式論理に関わるよりも更に根柢的な方法に関わる問題である。本質と概念との区別が横たわるのである。動機を有つ過程があるかないかの区別があるのである。性格があるかないかの区別である。空間が本質であるということも空間に就いての一つの云い表わしである以上、ある意味に於て空間の性格を明らかにするものではあるが、併し、本質は自己の性格を云い表わす処のものであるということ自身を内容としている処の概念ではないと云わねばならぬ。

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