Chapter 1 of 5

第一章 認識について

認識という言葉は今日では、殆んど完全に日常語となっている。元来日本の哲学用語は、大部分欧米語からの直訳であり、そうでなければ支那語又は支那語訳のサンスクリットからの借用である。後者は歴史的に時間が経っているだけに日本語として、相当熟してはいるが、併しそれが日常語となっているものは、甚だしく滑稽な用途に制限されて了っているとも見られる。例えば往生とか成仏とかである。そしてそれが本格的な意味で使われる時は、何等かの宗派的な礼式としてしか通用しないので、全く通常性を欠いているのだ。だからそういう言葉を日常生活に用いようとなると、実質に於て一種の外国語にしか過ぎない場合の方が多い。日本古来のからぶりばかりではない、おくにぶりの言葉までも、今日日常語として使えばセクト的な印象しか与えない。お歌所的和歌の歌詞が吾々の生活の言葉と全く無関係であるような類である。

幸いに認識という言葉は、殆んど完全に日常語となっている。日本の正義について、日本人及び外国人はもっと認識を持たねばならぬ、などと云われている。或る演説会で、ファッショ学生らしいのが「認識せよ!」と叫ぶのを聞いたこともある。単に認識せよでは、どう考えても滑稽であるが、認識という言葉が日常的に使われた揚句、いつの間にか或る特別な内容の認識のことを意味するようになり、かくて却って、世間にはそのままでは通用しないような宗派的用語とさえなっていることを、吾々は注意しなければならぬ。これは日常的に通用しないことの結果ではなくて、悪く日常的に通用しすぎた結果だ。

だがこの言葉を宗派的に空疎な約束の下で使っているのは、決して社会の俗物ばかりではない。哲学者も亦、この言葉を必要以上の狭い約束の下に、ただの用語上の便宜として、用いていないとは云われない。カントは知識と認識とを区別した。新カント派の哲学者は之に倣って、ベカント(認知された)とエルカント(認識された)とを区別する。なる程この二つは同じことではない。知っていることと、識っていることとが違うように、二つは違う。だがベカントなものはエルカントなものになるのでなければ、本当ではない。と云うのはベカントにならねばならなかったその当初の目的が徹底しない。するとこの二つをただ区別しただけでは困る。二つを一貫して説明出来なくては困る。つまり二つを統一して把握する言葉がなくては困る。ではなぜ、この二つを統一して把握する言葉を「認識」と呼ばずに、ワザワザその片一方だけを認識と呼ぶのだろうか。

ドイツ語やその他の外国語の場合は、今の場合直接の関心にはならぬ。認識という日本漢語について云えば、認識をそういう風に狭く、学術上の術語のように用いることは、決して哲学的な知恵とは考えられない。哲学という学術に於ては、そういう超世間的で超常識的な用語を以てしては、決して科学的になれないのである。哲学上の用語は、云わば時代の良識に基かなくてはならぬ。哲学に於ては、実際生活に基くニュアンスを全く取り除いて、形式的な定義だけで押して行くような、ああした一種の数学論に見られるような形式主義や公理主義は、それ自身虚偽にぞくする。哲学上の用語は、時代の用語を、最もよく洗練し、深め、且つ機動性を持たせるものではなくてはならぬ。こういう意味に於て、私は、凡ゆる常識的用語を、「広範な意味に於て」理解することが、哲学の任務の一つだと考える。いや、之こそ抑々認識論なるものの実地の第一歩でもあるのだと云いたい。常識語は現象の表面を匍匐するか、偶然な内容を固執する。ジャーナリズムと云えば、悪くすると雑文を書いて金をかせぐ主義だと常識は思っている。勿論少し考えて見ると、ジャーナリズムは何かそういう人間態度としての主義のことではなくて、一つの社会現象のことだ。ジャーナリズムは又一種の常識によると、商品としての言論のことだと考えられているが、之は資本主義的な現象の内を匍匐するからであって、決してそれの歴史的認識ではない、と云ったような具合にである。

認識という言葉も亦、吾々は、当然哲学的に用いなければならぬ。と云うのは、哲学宗派の専門家気取りの術語としてではなく、生きた民衆の言葉として用いるのであるが、併し之を或る一種の良識と洞察との下に、洗練深化することによって、もっと自由な広範なものにまで高めて使わねばならぬと云うのである。民衆の便宜的な常識が、事実上の習慣として、そんな使い方をしていなくても、構わないのである。そういう使い方を示すことによって、民衆が模糊として持っている観念感情がハッキリして来て、なる程そうだと思い当るようであればいいのだ。ヘーゲルが刻苦して選定した一つ一つのカテゴリーは、皆こういう性質を持っていた。カントが元来又そうだった。それを宗派的なサンスクリットにしたものは、末流者の徒である。尤もE・フッセルルの現象学的術語は、その学術上の便宜性に於て価値のある一例であるが、そのままでは哲学の準備のための用語を出ないのであって、哲学自身の用語としては常識への翻訳を必要とする。私は彼の「第一哲学」という観念をこういう風に準備哲学のことと見做している。そうでなければスコラ的な学術僧院用語に堕する他ない。

さて認識は普通、哲学学術的常識では、科学的認識のことを指すようになっている。単なる知覚、単なる経験さえも、まだ認識ではない。科学的体系を意味する時初めて、認識の名に値いする、という考え方は珍しくない。尤もここにはすでに可なり厄介な問題がひそんでいる。認識というからには真実を真実と認識し、虚偽を虚偽として認識する、という真理価値の肯定が想定されている。そうでないものは認識でない、ということも併せ考えられているわけだ。併しそれならば、独りこの「認識」に限らず、知覚であろうと経験であろうと、真実を受け取り真実を体験するか否か、というケジメを含んでいなければならなかった筈である。だから認識というものを他のものから狭く区別しているのは、やはり、夫が科学的体系に立つ知識であるかどうかであるに相違ない。

だが科学的体系をなすものでなければ認識でないというのは、その哲学史的な伝統関係は別として(カントは或る特別な理由からそういう区別をやったのだが)、とに角大して意味のある制限ではない。なぜ知覚や経験や、又一定の構想さえが、認識であってはならないか。認識ということがつまり「知る」ということである、と云って、なぜいけないのだろうか。見る、考える、判る、其の他其の他の知るということを、日本の国の名前のように、又軍隊や官庁の用語のように、二字の漢字に直せば、即ち認識ではないのか。

だからH・コーエンのように、「純粋認識」という特別な観念にでも立たない限り、認識を特に科学的体系、従って又科学的方法、へ必然的に結びついたものと決める必要はどこにもないのである。後に見るように、なる程、体系ということも方法ということも、又科学的ということも、認識の必然的な内容なのだが、併し之は何も、認識なるものが、科学の体系や科学の方法によって限定されねばならぬということにはならぬ。それ故、H・リッケルトのように、主観と対象との関係を一般に認識と見ようとする形式的な観点の方が、まだしも無害なのであって、何によらず認識主観と認識対象があれば、つまり認識は存するわけなのだ。

私が特にコーエンとリッケルトとを持ち出したのは、今日ブルジョア観念論に於て「認識論」というものの意義を高からしめたものが、他ならぬこの人達の新カント派であるからだ。彼等の手によって、特にリッケルト等の手によって、認識論というものは「形而上学」と区別された哲学の新しい領域とされた。ばかりではない、今後の哲学の唯一の領域はこの認識論だということにさえされたからである。勿論新カントは決して今日の代表的な哲学学派であるとは云えない。一つの小さな現象に過ぎぬと云ってもいいかも知れない。だが、この論理主義が現代人の哲学意識の内の、相当健全な一面を、偶然にも云い表わしているという点を、見逃してはならぬ。吾々も亦、他の意味と系統とから云って、今後の哲学の要点は、認識論の他にはないと考える。哲学は或る意味に於ける論理学だと考える。その考え方と、表面上、言葉の上で、偶然にも一致するのだが、これをただの偶然としてばかり見送ることは出来ない。と云うのは、近代精神が科学的認識の発達と認識が科学へ発達することとにあるという認識に於て、とに角誤っていないからなのだ。わが国に於てこの種のブルジョア観念論の「認識論」が、自然科学や社会科学・歴史科学・に於ける科学論として、相当に研究室内外で実際上の成績を挙げることが出来たのも、亦決して偶然な一時現象に止まるものではあるまい。

このブルジョア観念論による認識論の、認識についての分析が、どういう欠陥を有っているかは、今一つ一つ見るまでもないことで、つまりブルジョア観念論の一般的な欠陥を認識という根本問題に於て特殊化しているに過ぎないと云ってもいいが、今ここで必要な一つの点だけを指摘するなら他でもない、認識という観念が、極めて常識的に狭く制限されているということだ。この点コーエンに就ては既に触れた。彼は認識(純粋認識)をば意志(純粋意志)感情(純粋感情)から区別する。認識はつまり理論的なものに限られるわけだ。なる程之は一応当り前のことのようだ。だがこういう意味に於ける「認識」であっても、意志を含まない認識などはどこにもない。或いは意志の形を取らぬ認識というものは一つもない。一つの経済学上の論文を取って見てもよい。資本主義の永遠を宣言するものと没落を結論するものとの対立は、学術上の理論の対立であるにも拘らず、主義主張の対立と現に世間では見ている。それだけではない、自然科学上の論文も、一つの結論を導き出す意志なしには、論文にならないのである。意志は「認識」の結論なのだ。意識された結論なのだ。「真理への意志」という考え方も現に行なわれている。

又感情が「認識」の無意識な結論であることは、万人が経験する処だ。そして所謂「認識」が感情を媒介とするということも、清算し切ることの出来ない事実である。「認識」が感情を伴うとか、感情が「認識」を伴うとか云うだけではなく、感情が論理を有つことによって一定の「認識」を造り上げるのである(私はこの点を「感情の論理」として取り扱ったことがある)。

要するに所謂「認識」を意志や感情から区別して放置することは、認識を理論や何かに限定することだが、これは知情意というような心理学上の便宜主義の区別と、同時に能力心理学の伝説を借用することなのであって、勿論批判に耐え得るものではないのだが、意外にこの点になると、この「批判的」な認識論は無批判なのである。リッケルト等のバーデン学派の認識論も、根本に於て変りはない。

尤もバーデン学派の形式的な「認識」の観念には、或る一つの特徴、或いは寧ろ一つの動揺があるのである。ヴィンデルバントは「真理への意志」という観点を導いて来ている。意志は決してニーチェと共に権力へばかり向かうものではなくて、真理へも向かうものだというわけだ。で真理はそういう意志の対象である。肯定せんと欲する対象である。価値なのだ。価値というからには価値感情の客体であらざるを得ない。すれば真理は意志感情の目標になるわけだが、処が之が「認識」の対象だという。つまり「認識」は情意と、この場合相蔽われていることが主張されているのだ。だが、にも拘らず、リッケルト達は価値の体系というようなものを考える。真理価値と道徳的価値と美的価値、それに宗教的価値、などの区別に特別な興味を示している。特にヴィンデルバントの場合は有名だろう(彼の宗教的価値である「聖なるもの」は多くの共鳴者を有っている。ハルナックの「ダス・ヌミノーゼ」の如き。又平泉澄氏の如きは之を利用して日本を中世化し、よって以て宗教化し聖化しようと企てている)。こうなるとやはり、認識はそれが如何に情意的な性質を有っているにしても、結局芸術や道徳的判断行為とは全く別な、理論的なものに制限されるわけだ。

認識が理論的なものに限る、又科学的なものに限る、ということは、甚だ当り前のようでもある。もしこういう認識を以て、つまり理論的か科学的かである認識を以て、情意的なもの芸術的・道徳的・等々・のものを蔽うならば、それは貧弱な形の合理主義であり、ひからびた主知主義であり、野暮ったい科学主義であると云われる。その通りである。もし認識がそういう理論的・科学的(つまり科学にのみ関係する処の)なものにだけ限られた用語でなければならぬとすれば、だ。処が逆に私は、認識なるものそのものを、理論や科学ばかりでなく、芸術的創作と享受にも、道徳的意識と行動にも、通用させようと云うのである。科学的認識ばかりでなく、芸術的認識、道徳的認識、という言葉は、非常に尤もに通用すると共に、新鮮で的確な意味内容を持っていないだろうか。

芸術的認識という言葉、つまり芸術も亦一般に、認識(広範な意義に於ける認識)である、ということを云い表わす言葉は、今日常識の一部となっているとも見られる。例えば文芸が認識と呼ばれている事実は、なぜ間違っているだろうか。詩人は優れた認識の所有者であるに相違なかろう。道徳的行為が認識だというのは牽強付会だと云うかも知れぬ。だが認識は実行と離れて理解されないということも、今日では知る人は知っている。認識を単に観念だと思うのは、プラグマティストさえも承知しない処だ。例えば倉田百三氏(之は肉体の病的省察を通して政治的反動家となった人物であるが)の旧著『愛と認識との出発』は、この場合の参考として、或る程度の意義を認めていいもののようだ。ただこの倫理は云わば肉体的倫理であって、まだ何等の社会的認識ではなかった。社会的認識のない処に、本当に道徳などはあり得ない。もし仮に世間に道徳という言葉で云い表わし得る実質があったとしてもだ。芸術も亦、元来そうあるべきものだ。――社会的認識について、それが単純な意味で科学だけのものであるとか、簡単に理論的なものに制限すべきだとするのは、全くのナンセンスであろう。認識は現にこのようにして広範な用途と共に、実在している観念なのだ。

で、広範な意味に於ける認識は、決して理論的認識に限らず、又科学的認識に限らない。まして科学的理論体系の認識には限らない、ということの意味が、略々明らかになったかと思う。

だが私がそう云う意味は、この認識なるものが理論という形を有った、科学の、又科学的理論体系の、認識には限らぬ、ということであって、認識が何等かの意味で、非理論的であっていいとか、非科学的であっていいとか云うのではない。又それが非体系的であっていいということにもならぬ。科学の認識という意味に於ける科学的認識でないものと雖も、依然として科学的認識でなければならぬ、ということを忘れてはならないのだ。一切の認識はこの意味では「科学的」でなければならないのである。文学は勿論決して科学ではない、にも拘らず文学的認識は科学的でなければならぬ。

科学的精神ということが最近盛んに議論されている。之はうっかりすると、科学の精神という風に理解され易い、つまり科学研究の際に於ける精神とか、科学者の専門的な精神とかいうものと理解され易い。勿論之は科学研究の精神でもあり、科学者の精神でもなければならぬ。だがそれだけならば科学の精神ではあっても、まだ科学的精神ではない。今日云われているものは単に科学だけの精神のことではなくて、文学・芸術・道徳・其の他を一貫して、広く文化の精神としての科学的精神のことなのだ。認識が独り科学の認識に止まらぬにも拘らず、而も科学的でなければならぬというのは、それが科学的精神によって貫かれていなければならぬということだ、と云っていいだろう。

科学的精神については後に触れよう。科学以外のものが、なお且つ如何にして科学的であり得るか、例えば文芸が科学的であるとか、道徳が科学的でなくてはならぬとかは、どうやって考えられるか、については、夫々の場所に於て関説したいと思う。だが少なくとも、近代科学(自然科学のみならず社会科学と各種の精神科学と呼ばれるものをも含めて)が近代文化全般に対して有っている決定的影響を、歴史的に一覧して見れば、ことの是非は極めて明らかだ。今日の文化は、その一つ一つの分枝が夫々の独自性を有っているにも拘らず、つまり文学は文学・道徳は道徳・映画は映画・で夫々の独自の原則を有っているにも拘らず、近代科学との或る一定の連帯関係と共軛関係とを有たずには、全くの文化的ナンセンスに終らざるを得ない。この認識を自覚しないものは、何等の文化人でもあり得ない位いだ。

処で科学的精神というものを媒介として考えれば、広範な意味に於ける認識なるものが、科学の認識や何かに限定されないにも拘らず、なお且つ科学的認識でなければならぬ点を了解するのに、少なくとも一応の便宜があっただろう。それはさておき、一切の認識が科学的であるべきだとすれば、一切の認識は理論と無関係ではあり得ない。ただ認識は理論という形を取ることもあれば、エッセイの形を取ることもある。ばかりではない、道徳的判断や行為という形を取っても現われるし、文芸作品の各様式となっても現われる。文芸が思想の表現と見られる以上、文芸の夫々のジャンルは又、云わば認識の夫々のジャンルでもあるわけだ。だがこういう様々の形態やジャンルに於ける認識も、理論という形の下に於ける認識と決して無関係ではない筈だ。もし本当に之が無関係ならば、小説や詩について批評家はなぜ評論の筆を起こすことが出来るのだろう。評論は文芸についての理論形態を持った認識表現だが、理論と元来無関係な、いや元来原則的に理論との間に潜在関係を有っていないような文芸作品が、間違っても評論の対象になり得る筈はない。この点は充分注目しなければなるまい。

認識が科学的でなければならぬと云って、夫が必ずしも理論的形態を取らねばならぬということにはならぬ。と共に、だからと云って理論的な認識と無縁なものであっていい、ということには決してならない。他の理論を無視してよい認識などはあり得ないのだ。認識に於ける体系というものに就いても似たことを云うことが出来る。科学は自覚された理論的体系である。理論として自覚しているだけではなく、体系として自覚しているものである。だが凡ての認識が理論でないのは勿論、体系として自覚してもいないし、またしなければならぬとも云い切れない。物語り作品には筋というものはあっても体系というものはあり得ない。まして理論的体系をやである。

だがそれにも拘らず、一切の認識は体系乃至理論体系と無縁であることは出来ない。なぜなら、理論は常に体系的であったからだ。――併しそれだけではない。体系は認識に於て或る不可欠な性能でもあるのである。体系というと、出来上った図式か布置のようなものを普通考えたがる。だが之は体系の終結状態であって、体系の動きではない。体系とは実を云うと体系づけ、組織して行く過程、なのである。所謂体系は之に便宜上、どこか断面を造って見た体系の模型にすぎない。こういう模型としての体系は、必ずしも一切の認識の属性ではない。科学的理論はその認識の体系性を充分自覚しているあまり、外見上この模型的な静止体系をもつように思われるのだが、之とても事実はそうではない。まして体系というものを表面に押し出さない本性をもつ場合の(科学以外の)認識では、そういう模型的体系などは却って認識の不充分さをしか意味しない。併しだからと云って、思想を組織し、考察を推進させ、観察を整理して行く処の、或る意識的乃至無意識的なメカニズムがなくては、認識とも思想とも云われない。この意味に於て、認識は常に体系的なものだ。体系を示さなくても体系的なのだ。――考えて見れば、科学的精神の属性の一つはこの体系性にあっただろう。ただこの体系性を理論という形で表わした所謂「体系」と考えると、科学的精神を単に科学だけのものと考える考え方に、帰着することになる。

認識の有つ体系なるものは、認識という生きた動きのメカニズムなのであり、プロセスなのだから、体系と云っても方法と云っても構わない。ヘーゲルは方法を嗤い、ジェームズはヘーゲルの体系を嗤っているが、例えばH・コーエンなどに於ては、方法と体系とは交互作用に立つ観念とされている。コーエンは科学的認識を認識の唯一の領域と考えるマンネリズムに立っていたのだったが、その限界内では、この点についての認識というものの性質を、よく見抜いていたようだ。

だが私は、認識は科学的でなければならぬとか、体系的(つまり方法的)でなければならぬとか、そういう主観的な側面からばかり認識なるものを説明して済ませることは出来ない。なる程認識は意識の内の、又意識を通じての、出来ごとである。又認識の主観的内容(E・フッセルルが「対象」から区別した「内容」のような意味での内容)は、たしかに観念である(之をドイツの哲学では表象と呼んでいる)。いずれも広義の認識を論じる広義の認識論にとっては重大課題だ(私は之を後に逐章論じて行こう)。だがそういうものも要するにただの意識やただの観念・表象・ではなくて、或る夫々の一定意識・一定観念・であり、つまり特に認識という名に値いするという資格をとった意識や観念である限り(つまり又、認識である限りだ)、之は何かの客観的なものの認識なのである。認識とはそういう対客観的な本性を有たずには無意味である。

F・ブレンターノは意識というものが凡てそういう客観乃至対象を指向する本性のものであることを明らかにし、同時に表象の機能の分析に着手した。之は心理がなぜ論理的な作用を営み得るかという、認識論上の根本問題に解決の鍵を与えることになったが、今、ただの意識やただの表象ではなくて、体系的な科学的「認識」としての意識や観念であっても、この対象・客観・への指向性という主観の「客観化」的機能には、勿論変りがない。

この機能を主観的側面から見れば、指向性とか何とかいうのであるが、対象や客観が意識や表象を超越して彼岸にあるというフッセルル(之はブレンターノの後継者である)風の「現象学」が徹底しても、この指向性が客観の側から自発的に生じるという結論にはならぬようだ。なぜなら、もし之が本当に自発的なら、指向性によって初めて対象や客観が創造されるという処まで行かなければ、徹底しないだろうからだ。ブレンターノ=フッセルルの哲学的心理学は、そのスコラ的観念論にも拘らず、そういう宇宙創造説には行かないのだから、結局、この指向性という意識の機能は、客観との関係に於て、模写説に帰すると批評されているわけである。

吾々も亦、一種の模写説を仮定しよう。模写説についての論証はその機会に譲ろうと思うから、ここでは仮説としておいてよい。だが吾々の仮説はもっと組織的な詳細なものだ。そこではただの指向作用が問題ではない、なぜ指向作用が生じねばならぬかが、問題だ。そこで初めて問題は、ただの意識や観念の問題を越えて、正に認識の問題になるのである。と云うのは、認識はただの認識ではなくて、正に真理=真実の認識であるからだ。

で認識は少なくとも真理=真実という客観的な側面から、理解を進めて行かれねばならぬ。認識を仮に主観的な作用であると考えても、認識は真理という客観関係を対象としなければならぬ。処が認識は、普通この言葉が使われている通り、単に主観の作用ではなくて、認識のもつ出来上った内容である。作用でなくて内容だと云っても、まだ主観的だと考えられるかも知れないが、夫は現象学的意識分析の狭い視野に立って物を云うからであって、之を社会的角度に於て見れば、認識内容は一つの客観的「対象」なのだ。――して見ると、認識と真理、少なくとも認識内容と客観的真理、とは合致しなければならぬ。認識は常に真理でなくてはならぬ。真理という名詞と一つであるばかりでなく、真理という形容詞と一つでなくてはならぬ。認識は真でなくてはならぬ、ということになる。

真理は却って主観的なものではないか、という揚足取りは問題にならぬ。単に内部的内面的なものはヘーゲルも云っているようにケチなものに過ぎぬ。内面的なものに価値があるのは、それが初めて公平無私な去私則天的な客観性を有っているからなのだ。尤も真理は必ずしも客観物ではない、単に客観性を有つにすぎぬ。だが客観物そのものとの関係を離れて、どこに客観性の根源を求め得よう。そうでない限り主観相互間の便宜的な約束乃至習慣(D・ヒューム)かそれとも先天的な約束(カント)にでも持って行く他はあるまい。

だが真理については後章にゆずるとして、認識は真であり又真理の認識でなければならぬと云ったが、之は認識の例の体系的本性を離れて考えられてはならぬ。認識は真理の獲得であり開拓であり実現であるわけで、そのプロセスが体系でもあり方法でもある。吾々は認識をそういう人間の生涯の経験を一貫するスケールに於て、ばかりでなく人類の歴史的経験を一貫するスケールに於て、理解しなければならぬ。真理の獲得・開拓・実現・のためには、認識は人間の全生活を以て機能しなければならぬ。もしそう云っていいなら、認識は極めてヒューマニスティックなものなのだ(F・C・S・シラーの「ヒューマニズム」という言葉もあるから)。それは人間の社会的活動に直接し又連関する。人々はこの関係を「認識に於ける実践の役割」と云っている。

かくして初めて、認識内容=真理内容の社会に於ける歴史的蓄積である処の、諸文化というものが理解出来る。認識とは文化のメカニズムのことに他ならなかったのだ。文化はその文飾的な又政治支配的な要素を別とすれば、真理の社会に於ける歴史的形態のようなものだ。科学も亦、初めて、そういう認識・真理・文化・の一つの場合に他ならぬ(尤もそう云ったからと云って、科学の真理の他に宗教の真理もあるのだ、などという多くの文化的俗物に口実を与える心算ではないが)。

真理=真実が独り科学の専有物に限らぬことを、改めて述べておく必要はない。文学的真理・芸術的真理・其の他其の他のものを考えねばならぬ。ただ、一方に於て真理であったものが他方に於ては虚偽となるとか、一方に於て許されない嘘も他方に於ては真実だとか、そういう文化的アナーキズムは許されない。と云うのは、科学に於ける真理は例えば如何に宗教の名を以てしても虚偽に変えることは出来ないのである。この点詳しい分析を必要とするが、とに角今必要なのは、認識というものの文化全般を貫いての統一ということなのだ。そしてこの統一のためにこそ、科学的精神というようなものも重大だったのである。なぜと云うに、科学的精神こそは、文化をその現実的母胎である社会の生産機構と媒介する技術的精神だろうからである。

だが今まで特に注目して来たのは、認識に於ける云わば思想的な側面であった。処が認識には云わば風俗的な側面もあったことを忘れてはならない。認識に於ける風俗の役割を注目するのでなければ、実は充分に広範に認識に於ける思想的側面さえ理解することが出来ないだろう。認識と風俗との関係を見逃して、認識を専ら単なる思想との関係に於てだけ見ようとするのは、認識を科学に於ける理論的認識に制限するマンネリズムと五十歩百歩の処にあるもので、認識の社会的実在性を把握するに欠ける処があるだろう。

思想と風俗との関係、之は最近文芸評論などで重大問題化して来ているが、この関係は風俗を認識の問題として捉えるのに、恰好であるように見える。風俗は認識論上の問題とされる時、初めて本当に文化上の意義をみずから知ることが出来るのだ。そうしないと、風俗は文化の大きな要因であると見做されながら、なぜそれがそうなのか、どうしても判らないだろうと思う。風俗と思想・風俗と文化・を結びつけるものは、認識という観念だ。

文学的認識に於ける風俗の役割は、よく注目されている。だが風俗小説などと呼んで片づけられる場合には、風俗はつまり文学的認識の内容として重んじられていない時である。だが実は風俗こそ社会に於ける思想の最も端的な表現だという事実を考えて見ただけでも、こういう片づけ方が間違いであることがわかる。映画を見るがいい。映画の芸術的な新しさと将来性とは、全く風俗のカメラによる描写に根ざしている。なぜ又映画が風俗がうってつけの宿命であるかと云えば、カメラの実写的機能が、社会描写に向かって発揮されると、夫が風俗描写になるからなのだ。演劇・舞踊・なども亦、風俗を抜きにしては、何物をも観衆に訴え得ない筈だ。之に気づかない鑑賞者は、強いてこの風俗的なものを思想的なものへ撓曲して解釈することによって、初めて文化的認識へ押し込もうとする、甚だ不正直な評論家と云わざるを得ない。

風俗は最後に、大体娯楽的なものだ。そして多くの芸術が娯楽という側面を持っているということ、或いは或る意味ではそういうものを持たねばならぬものだ、ということを思うなら、芸術的認識と娯楽との関係に思いをめぐらすことは自然な態度だ。娯楽は認識の一環なのである。感覚が認識の一端であるのに、なぜその感覚と感性とをめぐるだろう娯楽というものが、認識と全く別な世界の出来ごとで、真実を探求することとは無関係な、人生のただの時間潰しでなければならないのか。

さて認識というものは、このような広範な意味に理解さるべきであり、又このような組織的な連関の下に、一見無縁な他の多くの人生の要素とからみ合わせて、観念されることを必要とする。なぜであるか。文化というものを統一的に理解するには、是非ともそうなければならぬからである。かくて広義の認識論こそ初めて、哲学・文化理論・の全般を代表する資格を有つのである。論理学や弁証法も亦、具体的には之に準じてその自由と社会的実在性とを拡大しなければならぬ。もし之を強いて方法論と呼ぶなら(方法論主義は知らぬが)、それもよいかも知れない。

私は、「認識」について、夫々の要点をめぐって、多少具体的に考察を試みよう。

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