二、経過
かくして本会は成立し、その年十一月を以て機関誌『唯物論研究』を創刊し、また十一月二日第一回講演会を保険協会に開催して四百余の聴衆を得た(この際、当時合法団体として存在していたサヴエート友の会の宣伝ビラを会場内に於て頒布したものがあり、これに対して所轄署の厳重な注意を受けたことは場内世話係の不慣れに基づくもので、一大失態であった)。続いてその月二十日、建築会館に於て第一回の総合研究会を開いた。この会合は予め幹事会の決議により、研究内容及び方法に関する意見及び希望を会員から募ったものを参考として組織部案を作製し、これを提出して会合後の研究組織を決定する為のものであった。その結果、研究活動は次のような組織によって行われることになった。
a 自然科学関係 (1) 自然科学一般研究会 (2) A部門(数学、物理学、化学、技術学、地理学)研究会 (3) B部門(生物学、医学、心理学)研究会 (4) C部門(自然弁証法、自然科学史)研究会b 「社会科学、文化に於ける唯物論」関係 (5) 史的唯物論部門研究会 (6) 歴史研究会 (7) イデオロギー論(宗教、道徳、芸術、その他)研究会 (8) 経済学批判研究会c 哲学関係 (9) 唯物弁証法研究会 (10) 唯物論史研究会 (11) 現代哲学批判研究会
他に総合研究会(ab及びcの共同)、合同研究会(aとb、aとc、或はbとcの共同)、研究年会、公開研究会等。
この組織により十二月から着々研究プログラムを定めて研究活動に入ったのである。参加者毎会三十乃至四十名、会場は初めは如水会館、学士会館を使用したが、経費の関係から昭和八年以後は研究会事務所(麹町区内幸町一ノ三東北ビル)を充てることにした。
しかるに創立後僅かに二、三ヵ月、昭和八年二月に入り不幸にして会員中に数名の共産党シンパ嫌疑者並に一両名の党関係者を出すに至ったが、吾々幹事のこの現象に対する認識は普通の官衙・学校・会社・工場等の職場に於てその種の被疑者を出す場合に、かかる種類の職場の管理者が有つところのものと聊かも異なるところはなかったのである。越えて四月に至り、第二回講演会を本郷区仏教青年会館に開催したが、長谷川の開会の辞半ばにして突如臨監の警官から解散を命じられたことは吾々主催者として最も意外とするところであった。それが翌日の新聞紙に報ぜられた為に、寺田寅彦、小泉丹等十余名の有数な専門家会員を失うに至ったことは、本会の遭遇した最初の打撃であった。この解散を命じた当局の意図は今以て吾々の理解に苦しむところであるが、第一回講演会に於けるビラ事件といい、また会員中より二、三名の被疑者を出した直後ではあり、余程慎重に考慮し、事前に当局に対し十全な諒解を求むべきであったのではないかと考える。次に吾々は従前機関誌の発行を書店(木星社、後隆章閣と改称)に委せていたのであるが、その書店の財政状態思わしからず、会財政部に、ひいては会各部の活動に事毎に影響するところ大なるに鑑み、会員中の有志からの少額宛の出資(返済期限一年内外、利子年一割)を得、機関誌を会出版部の手によって発行するようにしたのは六月号からであった。七月号には付録として『学問のすすめ』なるパンフレットを添付し、本会の趣旨を更にひろく表明するところあった。夏に入って、主としてインテリ層の間に全国的に多数のシンパ嫌疑者を出したが、本会員中にも二、三の検束者が出た。被検束者は間もなく釈放せられたが、会は吾々の主観的認識にも拘らず、客観的・社会的認識の点に於て、ここでも亦多少の打撃を免れなかったのである。
この年第二回総会は十月二十九日、事務所に於て開催せられた。出席者約三十名、舟木重信を議長とし議事を進め、各部の事務的な報告、機関紙原稿料改正、その他についての会員からの議案提出等あり、新幹事の改選に入ったが、この際夏季中に起った事件の影響が現れ、従来の幹事中、相当数の辞任者を出したのは誠に余儀なき次第であった。新幹事名は左の通り
戸坂潤 岡邦雄 服部之総 清水幾太郎
富山小太郎 小倉金之助 羽仁五郎 内田昇三
並河亮 丘英通 林達夫 舟木重信
内山賢次 田代三千稔 松浦喜久太郎 船山信一
相川春喜 堀真琴 永田広志 早瀬利雄
三浦恒夫 石川湧 石原辰郎 中村平三
秋本佐夫 相沢秀一 玉城肇 刈田新七
森宏一 新明正道 喜多野精一 山田章
一方に於て毎週数回開催し来った研究会は、既に述べたように当初に於ては三十人乃至四十人の参会者があったが、この年の春以来漸次減少し十数人を普通とするようになった。これも主として外部的な条件によるもので、研究そのものは相当レベルも高く、討論も活発に行われたのである。
次に機関誌の出版は、さしあたり会の対社会的事業として唯一のものであり、又わが国に於ける唯物論哲学の研究に一歩前進的な貢献を為しつつある唯一のものであることは明かであるが、印刷部数三千、販売部数約千、会員その他への配布三百五十という現状に於ては、生産費と事務所経費の一部を支弁し得るに止まり、到底寄稿者に対し謝礼を支出する域に達せず、従って寄稿者を広く会員外にも求め、優秀なる原稿を得て雑誌の内容を充実せしめ、傍らジャーナリズムチックな編集をも敢てして販路を拡張することが急務なるに、その実行が中々困難な事情に在り、そしてこの状態は今日に於ても依然として継続している。
越えて昭和九年に入る。この年単に研究組織を次のように改めた。
a 研究組織部を自然科学、社会科学、哲学の三部より構成し、その下に部門研究会を属せしめる。但し自然科学部には部門別を設けない。b 社会科学部をイデオロギー部門、経済学部門及びその他の部門に大別する。 この年また二、三の会員が検束せられたる事件があり、対外的にも、実質的にも有害な影響を及ぼしたのは遺憾であったが、いずれも会員個人の事情によるものであり、会としては不可抗の現象であった。夏期にはプロパーの研究会を休み、特別研究会を組織し、幾分低い水準に於て比較的基礎的・啓蒙的な方面の開拓に従ったが、秋になって通常の研究会が復活するに及び、研究活動は多少の活気を呈し、参会者数も従前よりは幾分の増加を見るに至った。十一月に開催せられた第三回総会に於て更に研究組織部が次のような構成をとることとなった。
a 自然科学部、社会科学部及び哲学部の三部を単位とし、各の部門別を廃止する(即ちこれによって社会科学部及び哲学部も、従前の自然科学部に傚うこととなったのである)。b 凡てを総合研究会とし(部門研究会、合同研究会を廃止し)、各部をしてそれぞれ主催せしめる。c 研究会は毎週一回土曜日に開催する。d 特別研究会(哲学、経済学等)を常設し、土曜日以外の日に開催する。 以上の研究組織部組織の改変経路が示すように、本会の研究活動が漸次整理、縮小の途を辿って来たことは否定すべからざる事実である。これは主として会創立後に於ける客観的情勢に余儀なくされて研究力ある会員の漸減を来たしたことを物語るものである。
一方、財政状態を顧れば、昭和九年は会財政部にとって全く失敗の一年であったといえる。即ち三月頃より前年の出資者中資金の返済を迫るものを生じ、已むを得ず機関誌生産の為の融通資金より返済した為に、忽ち雑誌生産に支障を生じたが、当事者はこの難局を機関誌の発行を再び書店の手に委ねることによって突破しようとした。しかるにこの発行を引受けた大畑書店の経営状態が矢張り思わしからず、発行僅か一ヵ月にして会は又もやその発行を自らの手に取戻す他なかったのである。かくの如き「擾乱」と損害とは全く財政当事者が資金の調達乃至機関誌生産費の融通方法にいま一段の努力を払わなかったことに起因する。
この年の第三回総会は十一月十一日日比谷東洋軒に於て開催せられた。出席者二十九名、堀真琴を議長として議事をすすめ各部の報告があったが、研究組織部に於ては過去一年の研究成果に就て、山岸辰蔵が哲学関係、相川春喜が社会科学関係をそれぞれ受持って多少概括的な経過報告を試みた。また銓衡の結果選ばれた新幹事は次の通りである。
戸坂潤 岡邦雄 相川春喜 石原辰郎
森宏一 小田一夫 石井友幸 中村平三
徳永郁介 秋沢修二 刈田新七 田中康夫
内山賢次 堀真琴 永田広志 山岸辰蔵
神近市子 平田小六 皆川宗橘 丘英通
小倉金之助 小西栄治 辰巳経世
この第三回総会後に於て多少の衝撃を与えた事件は、当局の如何なる意図に基くか吾々として窮知すべくもないが、各警察署特高係員が所轄管内の会員を歴訪し、甚だしきに到っては退会を勧告強要することをさえ敢てしたという事件である。元来本会の構成メンバーは主として学校教師、官吏、会社員等のインテリ、小市民層に属するものであり、警察官の単なる事務的な行動に対してさえそれがただ警察の手によって行われたというだけの理由によって、何等かの疑念と危惧とを抱くところの極めて温良なる職場関係、家族関係乃至親戚関係等に囲まれている。従って警察官の単なる歴訪も本人の地位、職場に影響を及ぼすかの如き臆病な誤解を抱き、本人よりはその周囲を驚かし、本人また純良なるインテリなるため、容易くその周囲の意見に服するを普通とする。今度の歴訪事件によっても、その結果四十名に上る退会者を出すに至った。本会としては非常に打撃であるが、かかる衝撃を受け易い層に会員を求める他なき本会としては、これ又不可抗の現象なのである。