1
あめんちあ
富ノ沢麟太郎
彼はどっしり掩いかぶっている雨催いの空を気に病みながらもゆっくりと路を歩いていた。そうして水溜のように淡く耀いている街燈の下に立止るたびに、靴の上へ積った砂埃を気にするのであったが、彼自身の影さえ映らない真暗な路へさしかかると、またしても妙に落着きを装うて歩きつづけるのであった。
彼がようやく辿り着いたこの路は、常に歩きつけているなじみの場所である。そうしてたった今、彼の歩いている左手には、二軒の葬儀社が店を構えている。しかしいまはそこが見えない。そうしてその一軒の大きい方の店頭には、いつも一匹の黒斑の猫が頸も動かさずに、通りの人人を細目に眺めながら腹這って寝ている。彼はその猫の鳴き声を聞いたことがただの一度もない。若しかしたなら彼女はかも知れない。たとい彼が路傍の一人の男としても、そうたびたび歩き合わせているうちには、一度ぐらい彼女の鳴き声を耳にしてもいい筈である。そうして必ず日に一度、彼はその店の筋向いの三角卓子のあるカフェのレコードに聞き惚れて、そこに立ちつくすこともあるからには、その猫の声を味わっていなければならない。
彼は常に思い惑うていることを、またしても気に病むまま想い浮べているうちに、一軒の古本屋の前を通り過ぎていた。赤い電球が電柱の蔭に見え隠れして、歪んだ十字架のような岐路の一方に、ひとり夜の心臓のように疼いている。その標的は交番所である。彼は急に足早に歩調を刻んだ。この時突然、彼には二間とは間隔のない路巾が、彼自身の躯を圧しつぶすように、同じ速度を踏んで、左右から盛り上り盛り上り逼って来るように感じられた。彼は右へ曲ろうとするはずみに、ちらりと交番所のなかを窃み見した。鬚のない若い警官が、手にペンを握ったまま入口へ乗り出して、彼の様子をじっと※めていた。彼の瞳には、開かれたままの白い帖簿が映った。彼は瞬間に心持ち歩み悩んで、その足並みを崩さず、交番所に隣接した郵便局へ心を向けていた。
「金……金……金……」
彼は胸のうちで呟いて、後ろを振り返ってみた。警官の土龍のような眼は、突き出る首とともに彼の後姿を追うていた。彼は自分が踏み早める靴音に驚いていた。そうして彼はまっしぐらに路地から路地を潜り抜けながら、墨色の深い杉森の寺院のなかを縫うて、ようやく煙草店のある路地へ忍び込み、そこから宿の前へ跫音を止めた。
この宿の戸は夜中でも錠の必要がないほどやかましくがたつくので、彼はその開閉のたびに宿の人人へ大へん気の毒な思いをする。それにいまは決して必要もなさそうな振鈴が、軋む戸とともにその倍以上も鳴り響くので一層気がひけていらいらとさせられる――しかしいまはそんな臆病な気持に捉われていてはいけない。絶対絶命の時ではないか。どんな種類の犯人でも、一度は逃げのびられるだけは逃げのびたいと願うものである。たったいまの彼の心もそれと少しの変りもない。交番所に隣接した郵便局には、女事務員が四人も働いている。そうして彼女等に雑って一人の老人がいるに過ぎない。そこで、彼は夜中こっそりとこの郵便局へ忍び込んで、金庫をねじあける、そうしてそこにある金銭をみな持ち出す。これがうまうまと成就すれば、彼はこの金銭を自分の部屋の火鉢の灰の底へ掩蔽してしまう。この思いつきは、彼にとっては一つの誇りであるとさえ思える。そうして彼はそしらないふうを装うて小金から費い出す。彼が先日以来気まぐれに考えていたことを、あの鬚のない若い警官がちゃんと飲み込んでいる。彼の胸のなかを伝心的に見破っている。警官は彼の考えをすっかりと胸のなかに感じている。彼は怕しいと思った。
彼は狼狽てない態度で部屋のなかを見廻した。部屋のなかの疲れたような静寂は、急に室内の壁の表面へ喧噪な響を波打ちはじめた。彼は歩き廻っていた。
彼は捕えられて法廷へ引き出される。彼は考え続けた。そうしてその裁判の結果、彼は七年ぐらいの刑を受ける。こんな凡俗な智慧を誰が彼へくれたのか。こんな放肆な精神を誰が彼へ授けたか。こんなものと無二の仲間になるように誰がしたのか。この不幸な考えは、彼を三倍も四倍もの苦みに悩ませる。しかし彼はこの親密な関係から離れることが出来ないのである。彼の人生へ対する役割は、こうした薄命な悲惨と煩悶との桎梏であろうか。彼はしばしの慰安もこの世に持てない。彼は文字通り本当に棄てられて途方に暮れている。否、彼は人生から放逐されてしまった。それというのも、彼自身の艀が大船に寄りそこねたその反動で、彼は艀のまま押し流されている。戻るに戻れない羽目に彷徨うている。嘗て彼は神のような心を持っていたが、捉えるべき機会を捉え損ねた。そうして彼は自分自身にすら予想されずにいたその割当てられた役を、後生大事に演ずる機会を永久に失ってしまった。それともこうなったことが、彼自身の役割であったのであろうか。果してどうであろうか。
それに彼が貧乏に見舞われてからは、一層外部との調子が不和になりはじめた。そうして彼の一人の親友を除いた他の債権者は、彼をあらゆることで侮辱した。彼はあらゆる誘惑の罠に嵌って呪われてしまった。彼自身は不義者であり、悪徳の保持者でもあるかのように言いふらされた。心ある人間であったなら、疾うの昔に自殺していた筈であるとさえ言われた。
「自殺!」
彼はこの言葉を幾度か彼自身の胸のなかへ叫び返した。そうしてこの精神の力を実感に求めようと藻掻いた。彼には自分で無限の力と信じていた、このことが出来かねた。しかし彼は他の人人が毒薬や兇器で自殺したように毎秒毎分、時という輪廓のないもので自殺していた。――否、自殺した。そうして彼のこの考えは、友人を訪問している最中とか、散歩の折とかに、奇妙にも失恋の反撃のように飜ってしまうのであった。
彼はこの自殺の考えから連想される彼自身の本能が、直ちに一種の熱情に変えられることを感じた。これは彼が人間生活へ対して知り得た最初の熱情であった。彼はこの熱情のために自分の躯が、希望で心から顫えるのを知った。しかし彼自身の周囲には、一種の羨望と卑屈と冷淡と臆病とで組合せられた多角型の隠謀が散在していた。彼は自分の息を吐くにいい生活のなかに、かくも重苦しい重荷の存在のあることを知った時、溜息の生活に過ぎない彼自身の生活を充すものは何一つなくなってしまったと思った。彼の熱情は、一瞬の閃きすら耀かさずに消えようとしていた。彼は神のような心を抱きながら、或機会をとり逃がそうとしていた。しかし彼は自分の内心を疑えなかった。そうして彼は何らの懸念も危険もなくなるに違いないと知った。彼は宗教を知らない、思想を知らない、これらの相手になれる彼自身ではない――
「おれが相手として望む者はおれ自身に外ならないではないか!」
彼は血の滲み出るように叫んだ。この時、彼自身の内心は決定した。彼は自分の胸を平手打ちして悦んだ。しかしこの悦びとても、瞬間にしてその小波を曳き去ってしまった。同時に彼は自分で自分を揶揄しているのではないかと疑った。そうして彼には自分の考えと感情とが、毒悪と憎怨とに制限されているのではないかと、呪わしく思われないこともなかった。そうして彼は虚無的な憤恨を抱いているかたわら不正型な意志を持っていることを知った。
「とうとう遂行した?」
彼は他人の言動のことのように自分自身を振り返ってみた。そうして彼は徐ろに巻煙草へ火をつけて喫みはじめた。彼の考えは吐き出される煙草の烟のように渦巻いた――彼は刑事に尾行されている――彼は郵便局の現金を盗み出したのであろうか。否、決してそのようなことは全然ない筈である。それにしても彼は自分自身が怕しいと思った。彼は妙な気持からこっそりと部屋じゅうを歩いた。そうしてかなり苛立つ気持が落着いたと思った時、彼は服を脱ぎはじめた。彼はワイシャツを脱ごうとして、右の方のカフスボタンが紛失しているのを知った。きょう、彼は他人と喧嘩はしなかったし、また酒を飲みもしなかった――こんなものの相手になれる彼自身ではない――それなのに、どうしてこのボタン一つだけが見えなくなったのであろうか。けさ、ちゃんと嵌め込んだカフスボタンを失ったと思えばいやな気持になった。部屋じゅうを見たところで落ちてはいない。それとも途中でおとしてしまったのであろうか。それにしては余りに物足りない。こう考えたからと言って自慢になるものではないが、若しかしたなら彼は疾うにあの郵便局へ闖入していたのかも知れない。彼は自分の心にはそんなことのなかったように肯定させて置いたにも拘らず――それとも若しかしたなら彼自身ではない別の人が、彼の胸のなかをすっかり読み知っていて、彼が決行しようと思っていたことをなしとげてしまったのかも知れない。そのためにその人は、彼のカフスボタンをいつの間にかこっそりと盗み取ったのかも知れない。そのボタンがその人に必要なことは疑いもないことである。その人は彼自身が考えた盗みをするために彼のカフスボタンを盗んだ。そうしてその人はカフスボタンを故意に犯罪の現場へ捨てる心であろう。すでにその人はその盗みをしてしまったかも知れない。その人とは誰であろう? あの若い警官であるかも知れない。警官であろうと、盗みをしないとは限らない。警官などはうまい口実を見つけるにいい境遇にある。それとも彼自身の第二体が、彼の決行しようと思っていたことをなしとげてしまったのかも知れない。その時、そのドッペルゲンゲルは彼自身である本体には知れないようにと、余り急ぎ過ぎたので、カフスボタンをうっかりしているうちに、現場へ取りおとしたのかも知れない。それとも彼等は彼のこうまで落魄している境遇へつけこんで、同盟して彼一人を奈落の底へ突きおとすのであるかも知れない。そうして彼はたった一つのカフスボタンのために、冤罪の悲運に陥るのであろう。それにしても先刻、あの警官の睨んだ眼はなんと怕しいことであろう。その眼光は、或確さを持っているのみでなく、更に人の心を射るような或もので輝いていた。それは警官を注意してみる者にとっては、或不安であると同時に冷淡の表示でもある。あの眼は、単に夜中ただ一人、路傍を歩き廻る者を穿鑿吟味するだけのものではない。あの眼の底には、隠れた意味が含まれている。警官とそれを見る者の相手との外には、解らない謎が含まれている。その説明は、事実が暴露しない以上第三者の誰にも解らないのである。しかしその二人だけなる者は、一人の警官を中心にして幾十人幾百人おるか知れない。そうして彼は、恥かしいながら、そのうちの一人であると思ってみてもいいのであるが、すでに行われてしまったかも知れないその犯罪には、何らの関係もない。否、しかし虚空のなかへ徐ろに流れ込んで行く水の響のようなざわめきたつ事実は、全然彼自身に関係のないことでもない。彼は自分で盗みを考えたが、何者かはっきりと解らない者が、それをものの見事に盗み取った。その人は彼の考えを横領してしまった。その人は彼の盗心を盗み去った。そうして彼は二重に苦しまなければならなくなった。何故であろう? その人は彼自身のカフスボタンを竊取してしまったから。
この苦悩は、彼の脳裡のなかへ黒雲の旋風を捲き起した。彼が予想するすべては、彼自身の最期を感じさせる。電燈などは点っていても消えていても一向差支えなくなった。そうして怕しい静さは室内に溢れはじめた。その静寂のうちに彼を見張っている何者かが潜んでいそうである。その者は彼の心臓の動悸を数えている。彼は自分がもう堪えられなくなった。
彼は立ち上ると蹣跚いて行って、北窓をがらりと開けた。その刹那、彼の躯は、ひやりと夜の空気に打たれたと同時に、何ものかにナイフででも切られたかのように掠められた。彼は眼が眩んだように感じた。その時、彼はその何者か解らないものは、いままで部屋のなかに潜伏していた一人の陰謀者の輪廓のないたましいではないかと思った。彼がこう思えば当然であると会得出来る。しかしこれは莫迦莫迦しいほど無智な表白ではなかろうか。ところが、この無智こそ人間に対する一つの威嚇である。この愚鈍と交流してこそ人生は荘厳になるのである。何故なら、自己の絶えない失脚は、自己の実現に無駄骨を折っているから。若しも――彼は考えつづけた――一流の賭博者は、素人である相手に、現金を山と積まれて勝負に熱中したところで、その札の山を切り崩して行くことは出来ない。この羅針盤の紛乱こそ人間の胸のなかへ挑まれる内心からの抵抗の動乱である。この電流と稲妻との焦噪は、物理学上の実験とも合致する。これは兎も角として、人間が自分一人で自慢出来るようになるのは、あの奇妙に角張った威嚇が存在するために外ならない。人間は一種のマニアのポーズを持っている。そのために彼等は人間らしく見えるのである。そうして彼等は人生の矛盾を中和して行く技巧家である。彼は何か纏めてみようと企てていたが、それは全く無益のことであった。それどころではない。彼は自分の陰謀者のたましいを見た。この怕しさ、この苦しさ、この快さは、彼自身を悲しませなかった。そうしてその陰謀者が逃げて行ったということは愉快に感じられた。こんな思いに耽りながら彼はひょっくりと、十間とは離れていない杉森の間を透して、北向いにある墓地の最初の列の石塔が、部屋から洩れる電燈に、その半面を鈍く輝かしているのを見た時、自分のたましいがひやりと慄いたのを感じた。そうして彼は日毎に見馴れすぎているこの墓地が、常と違って振向いても見たくなかったので、直ぐカーテンを引いた。カーテンの環はかすかに軋んで、その響を消したと同時に、セピア色の染のはいったカーテンは、彼の眼を外界から遮ってしまった。カーテン自身がひとりでそんな作用をしたかのように。