Chapter 1 of 4

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傷痕の背景

豊島与志雄

比較的大きな顔の輪郭、額のぶあつい肉附、眼瞼の薄いぎょろりとした眼玉、頑丈な鼻、重みのある下唇、そして、いつも櫛のはのよく通った髪、小さな口髭……云わば、剛直といった感じのするその容貌の中で、斜に分けられてる薄い頭髪が微笑み、短く刈りこまれてる口髭が社交的に動くのである。むろん、肩幅が広く、背が高い。前陸軍少佐…………。

陸軍少佐の職を弊履の如く捨てた、彼である。退職将校というよりも、落選代議士という感じの方が強い。

酒に酔うと、右の膝をまくって見せる癖がある、膝頭より上、大腿部の外方に、長さ七八センチの、可なり深そうな傷痕がある。

有吉の例の武勇談……そういった微笑で、親しい友人等は眼を見合った。

「天保銭」をねらわず、語学の勉強に力を入れ、外国語学校、大使館附武官、教育総監部、陸軍省……と、そういった方面を重にめぐってきて、実戦は勿論、実地兵科の方に縁の薄かった、そしてそれを一面得意とした有吉祐太郎のことだから、その「武勇談」といっても、ごくつまらないことだった。然し……。

「君たちだったら、美事に、横っ腹をぶすりとやられるところだ。それを……その時まで全く冗談だったが……冗談にせよ、はずみで……ぱっと払ったのが、腿にきた。彼奴案外真剣だったらしい……。」

そして、そのぎょろりとした眼付に、心をこめて、遠く、上海にいる杉本浩の面影を、追い求めるのだった。

「不徳漢で……卑怯者で……。」

だが、口で云うほど実は憎んではいなかった。何としても、憎悪の念なしに対抗意識が自然とその方へ向いてゆく、親しい対象だった――感情的にも、思想的にも。

彼の交友仲間――彼が中立候補としてたった代議士にも落選後、ひそかに結束の機運が醸成されかかってる少数の一団――の中には、日本ファシズムの気分が多く支配していた。その原動力の一つは、彼が大腿部の傷痕にあることは事実だった。

「彼奴が、日本に舞い戻ってきたら……。」

一種のなつかしみと力の自負とを以て、有吉祐太郎はそう思うのである。

杉本浩は粗末なアパートの一室に住んでいた。そして彼の生活は、飜訳と、雑文執筆と、読書と、漫歩と……。

浅草、銀座、新宿、その表通りや裏通りの雑踏の中に、彼の茫漠たる風貌がよく見られた。

いつも一人。古ぼけた帽子の下から、蓬髪の縮れが少し覗いている。肉の豊かな赤みの濃い頬に、そして円みのあるに、黒いこわ髯が、根強く、芽を出しかかっている。鼻が目立たず、口が小さく、強度の近眼鏡の下に、底深く眼が光っている……。その眼が、舗装道路の上に踊ってる衆人の足先を見る。そして彼は考えるのである。――人は次第に、ダンスや靴の影響よりも先んじて、踵より足先に力を入れて歩くようになった。これは生活が苛立ってる証拠だ。もし体重の百パーセントが足先にかかるようになれば、その時は、生活が狂うだろう。――そんなことを、全く没我的に考えながら彼自身は、踵と足先とに体重の五十パーセントずつを托して、のっそりと、漫歩するのだった。太いステッキを引きずって、和服の襟をはだけ加減に、そして時々朝日の煙を吐いて……。何かしら、茫漠としている。

高層建築、自動車の疾駆、燈火、器械音楽、騒音、色彩、蟻の巣をかき廻したような、人、人、人……。

「おい、杉本!」

通りすがりに、声のした方へ振向いて、足を止めて、相手の顔を見て取る――その眼には、人なつこそうな笑いが浮びその顔には、よくいろんな男に逢うものだなという表情が浮ぶのだった。

「どうだい。」

「うむ……。」

漠然と答える時には、もう眼の笑いも顔の表情も消えて、掴みどころのない顔付になっていた。

「どっかで、いいだろう、一寸……。」

その先の、酒かお茶かを察しながら、にやりと彼は笑った。

「駄目だ、今日は……。」

「急ぐのか。」

「いや。……ないんだ。」

「少しなら、持ってるよ。」

「少し……。」そして眼が揶揄的に光った。「だが、腹が空いてるわけでもなし、喉が渇いてるわけでもなし……。」

酒を飲んでは止度のない彼だった。また、飲むことにさほど興味を持たない彼、相手の議論を聞くことにも興味を持たない彼だった。

「いやに、はっきりしてるね。……この頃、何かしてるのか。」

「何にも……。」

その、仕事の上に就ての彼の口癖の返辞だけで、友は満足して、それ以上は徒労だと見た。

「じゃあ、また……。」

「失敬……。」

赤みの多い顔に、蒼白い笑いを浮べて、杉本は、また、雑踏の中の孤独な漫歩を続けるのだった。光と色と音との錯雑した卑俗な渦巻きの中に、何を見るでもなく、何を聞くでもなく、背はさほど高くない肉附のいい身体を運んで、そして心には、周囲と全く別な、朗かな而も何かしら退屈なものを湛えて……。

倦きてくると、帰りは、バスで……。

金はなくとも、バスの切符はいつも用意があった。

なぜなら、彼は市街電車が嫌いだった。市街電車は、どこから云っても、箱の感じだ――出入口の小さな踏段と、扉と窓と、堅牢そうな車体と、前後につっ立ってる制御機の鉄の円筒と……を以てして。それが人間を一杯つめこんで、二本のレールの上を、のろのろと走るのである。牢獄的交通機関……。だが、バスの方は、フォードの古型でも、まだよい。電車よりも、軽快で、自由で、危険な愛嬌があって、速力が早い。速力……汽車や高架地下の電車のことを思えばこれが最も肝要な点……。

杉本はぼんやり考えながら、バスを待つのだった。

そのバスに乗った或る時――

昼間の散歩の帰りで、没しかねてる夕日に、慌しい街路がぱっと照らされていた。そういう時刻に、時折、妙にすいたバスが通ることがある――一寸息をついたという形で。不安なせかせかした夕方の、ひと時の隙間なのだ。

杉本は一層茫漠たる様子で、五六人の乗客を、ぼんやり眺めていた。

「……頼みますよ。」

声に気がついた時、バスは上野広小路から、切通下で一寸停ったのが、もう動きだしていた。車外に、白シャツ半ズボンの、商店の若者らしいのが、ちらりと見えた。

田舎の街道を走る、自動車や馬車や電車などには、殊に夕方など、私用の伝言や品物を車掌に頼むのが、よくある。頼む方でも頼まれる方でも、無償で、親しげに笑っている……。

その、ちらと頭に沈んだ印象に、杉本はうっすらと微笑みかけたが、見ると、女車掌の習慣的な掌で背を支えられて、五六歳の女の子が、ひょいと、入口近くの席に坐った。

おかっぱの、しなやかな髪。怜悧にませて見える、整った顔立。金と黄との、胴のつまった上衣。桃色の短いスカート白の靴下。リボンのついた可愛いい黒靴……。宙にういた足をきちんと揃えて、五十銭銀貨を差出した。

「まさご町……。」

そして、車掌から渡された、切符を右手に、つり銭は、紐のついた赤い小さな金入と一緒に、左手に握って、肩を斜めに、首をねじって、窓から外を見てるのである。

その利発そうな顔、柔かな白い皮膚、支那めいた服装を、夕日が赤く反映で染めて……。

杉本は、やさしい眼付をその少女から離さなかった。せめて、つり銭をあの金入に入れてやるくらいの親切が……と一種の公憤を、疲れてぐったりしてる女車掌の背中に投げながら、それとは全く別な、少女の可憐な姿を見守った。

停留場を二つ過ぎて、真砂町になると、少女はすぐに、切符を渡して、金と金入とを片手に握ったまま、車掌の機械的な掌に送られて、バスから降りた。

杉本も慌てて立上って、降りた。

電車通りを少し、それから左へ横丁……。手を振り振り、飛びはねるように歩いてゆく、少女の後から、のっそりした杉本の姿が、ついていった……。

軽く、形式だけのノックをして、扉を開いてはいって行くと、待ち受けてたらしい英子の顔と、ばったり出逢った。尋ねるまでもなく、見合せた眼色で、互に、何か変ったことがあったこと、話があることが、分った。

「今ね……。」

だが、杉本は気を変えて、帽子を釘に投げかけると、横倒しに坐って、云った。

「腹が空いた。飯にしよう。」

「ええ、じきよ。……なあに?」

いつも、自分のことを先に、快活に、話してのけて、けろりとする彼女だったが、それが、妙に慎重に、尋ねかけてきた。

「何よ?」

杉本は苦笑した。そして変に憂欝な調子で、バスの少女のことを話した。

無雑作に束ねた若々しい髪、細く長い眉、下眼瞼の円く開いた眼、理知的に尖った、口角の頸にある贅肉のふくらみ……そのふくらみを中心に、彼女は可愛い笑いを浮べた。

「それから……。」

「それきりさ。いくら待っても出て来ない。何だかうまそうな料理の匂いがしてきた。犬にでも吠えられそうだ。急に、腹がへったのを思い出して、帰ってきた。」

「…………」

「あれが、自分の家らしい。遊びに行って、戻ってきた……。待ったって、出て来やしない。」

「それが、初めから分らなかったの。」

「ばかな。そんなこと、そんな時に、初めから考える奴があるか。」

彼女は笑わなかった。真面目に、つんとして――多少真剣な時はつんとなるのが癖で――彼の方をじっと見た。

「あなた、そんなに子供が好きなの。」

「好きか嫌いか、分らないが、兎に角、いいよ、可愛いのは……。」

「そして、御自分には、可愛い子供が出来ないと思ってるの。」

「自分……僕に……?」

「…………」

下眼瞼の円く開いた眼が、一脈の皮肉を湛えて、光っていた。

「ばか……ばか……そんなことを、云う奴があるか、そんな……。」

だが、彼女は云っていた。

「生殖と、性慾満足と、性慾享楽……。第一のに立戻ることは、人間の生活が許さない。第三は、頽廃階級のことだ。第二だけが、生活的に正しい……。君は……君は……子供を産んじゃいけない……。また、浪費的に……。」

記憶の奥を見つめた眼付で、舞台で台詞を云うような調子で……。

「ばかなこと、止せよ、そんな……。」

彼は立上って、彼女の肩を捉え、笑ってるその両の頬を押え、仰向かして、接吻してやった。彼女は静な息をついた。

「どうしたんだ、今日は……何か……。」

「変に見えて? 自分でも分らないわ。いろんなことを考えたの。おかしいわ。ばか、ばかって、自分に云っても、ひとりでに、頭の中に、いろんなことが浮んでくるのよ。……あたし、随分、なまけ者になっちゃったわ。特別にして貰ってるけれど、いくらなんだって、場銭を出す時なんか、おかみさんの前に、顔が挙げられやしない。みんなにも、極りが悪くって……。そりゃあ、そんなことをして、何になる……そう、あなたと同じことを、自分で云うこともあるけれど、それだって、生活のためじゃないの。……いいえ、そうよ。だけど、やっぱり、生活って、一体、何だろう。ばかげてるわ。……女の仕事というものは、結局、百パーセントの媚を呈しなければならなくなる。男からそれを要求される。要求されてそうなる時には、百パーセントの媚が、百パーセントの犠牲になる。そして……その……百パーセントの犠牲を払って、少しの……十パーセントの生活を……。ああ面倒くさい! でも、よく覚えてるでしょう。あなたが云った通りよ。あたし、女優になればよかった。立派に台詞を云ってみせるから……。頭がいいんだわ。……安心してて大丈夫よ。よく覚えてるわ。決して、百パーセントの媚なんか……。いえ、五十パーセントの媚も……。それこそ、断じて! だけど、あたしが、あんなことしてるのを、やはり、女給なんかに出てるのを、あなたは嫌なんでしょう。あたしも嫌。……だと云って、どうすればいいの、働くことがいいんだ! 何をして働いたらいいの……。そんなこと、頭がくしゃくしゃしちゃったわ。自分で考えるわけじゃないけれど、いろんなことが、変に……。」

どこか甘えたような、笑いをさえ含んだ調子で、彼女は口を利いていた。頭と心とがちぐはぐになってるような様子だった。その顔を、彼は見守りながら、底にあるものを探りあてようとした。

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