Chapter 1 of 6

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椎の木

豊島与志雄

牧野良一は、奥日光の旅から帰ると、ゆっくり四五日かかって、書信の整理をしたり、勉強のプランをたてたりして、それから、まっさきに、川村さんを訪れてみた。

川村さんはもう五十近い年頃で、妻も子もなく、独りで老婢をやとって暮していた。学者だが、何が専門で何が本職だか分らなかった。書斎にはいろんな書物がぎっしり並んでおり、雑誌や新聞に詩や批評や随筆などいろいろなものを書き、私立大学に少しばかり勤めていた。ひどく真面目なところと出たらめなところとがあった。その川村さんを、良一は尊敬もし好きであった。自分の遠縁にあたるのが自慢だった。

風のない薄曇りの日で、雪にでもなりそうな底冷があった。良一はマントの襟を立てて、川村さんの家へ急いだ。

老婢が出て来た。暫く考えてから答えた。

「いま、お留守ですよ。あとで電話をかけてごらんなさい。」

この婆や、いつもとぼけた奴だが、留守なのにあとで電話をしろとはおかしかった。だが、良一はそのまま、暫く外を歩き、それから見当り次第の喫茶店にはいり、時間をつぶして、電話をかけて見た。すぐに来てよろしいとの返事だった。

行ってみると、川村さんは熱をだして寝ていた。痩せた頬に髭がもじゃもじゃはえていた。

「おうちだったんですね。留守だというんで、時間をつぶすのに困りました。」

良一が不平そうに云うのを、川村さんはほほえんできいていた。

「うむ、誰にでも、留守だから電話をしろと、そういうことになってるんだ。面倒くさい者には会わないことにしてるものだから……。」

良一は苦笑した。――元来、川村さんは電話がきらいで、こんな不都合なものはないと不平を云っていた。戸締りをしておいても、夜遅くでも、電話というやつは、いきなりりりんととびこんできて、話しかける。家の中を往来と同じものにするというのだった。そんな嫌なものならやめたらいいでしょう、というと、それでも使いようによっては人間以上に役にたつ、というのだった。病気の時なんかうまく使ってるというわけなのであろう。

そこへ若い女が茶をくんできた。一度も見たことのない女で、それも、普通の女ではなさそうだった。洋髪に結った髪がばかに綺麗にさらっとカールしていて、黒襟のかかったはでなお召の着物をきていた。襟頸がすっきりとぬけて、顔の皮膚が不自然になめらかだった。木の葉にちらつく日の光のようなものが眼の中にあって、それが淡い香水のにおいといっしょに、良一の方へおそってきた。

女が出てゆく後ろ姿を、良一がけげんそうに見送っていると、川村さんは事もなげに云うのだった。

「ちょっと、手伝いに来てる女だよ。」

「ひどくお悪いんですか。」

「なあに、心配して来てくれてるんだが、ただの感冒だ。熱が少し。九度五分ばかりあるきりで、それも、すぐにさがる筈だ。」

ただの水枕きりで、氷もあててなかった。頬が少し赤くほてってるだけで、元気ではっきりしていた。酒に強いと同じに、熱にも強い、四十度くらいまでは平気だ、と彼は笑っていた。そして良一の旅の話をききたがった。

「奥日光……あの辺はいいね。戦場ヶ原から湯本温泉へかけて……。あすこに、温泉の湖水があるのを知ってるかい。湖水のふちから熱湯がわきだして、それが一面にたたえている。そして湖水の底からは、清水がわいている。そこに姫鱒が養殖してある。釣りに出ると愉快だよ。舟にのって出かけるんだが、よく釣れる。針にかかったやつを、ゆっくり遊ばせながら引上げると、湖水のおもては熱い湯だろう、手元にくるまでには、鱒がほどよく煮えて、それを、酢醤油で食べるってわけだが……。」

湯の湖のことだなと良一は思いながら、笑ってききながして、スキーの話や熊の話をした。

「ずっと奥までは、雪のために行けないんだろうね。」と川村さんは云った。「こんど雪のない時に行ってみ給え、あれから山を越した先に、面白いところがあるよ。やはり温泉がふきだしているんだが、どういうわけか、温泉の中にとけこんでいる鉱物質がわかれて、それが岩のように固まり、次第に高く積って、今では小さな山ほどになっている。温泉は無限にわきだすし、鉱物質はかたまりつづけるし、毎日毎日高くなるので、何年か後には、世界にくらべ物のない名物となるだろう。湯の中の鉱物質、まあ湯の花だね、それがつもって富士山みたいになり、更に日に日に高くなりながら、その頂上からは温泉がふいている……。すばらしいじゃないか。」

川俣の噴泉塔のことだなと良一は思ったが、こうなると、少し腹がたった。子供あつかいにばかにされてるような気もしたし、或は川村さんはやはり熱にうかされてるんじゃないかと思った。そして何だか落付がなく、その上、菓子や珈琲をもって、ちょっと顔を出してはまた引込んでゆく、若い美しい女のひとのことがへんに気にかかった。そしていいかげんに帰ろうとした。

その時、川村さんは急にまじめな顔をした。

「実は、君に少し頼みがあるんだが……。」

「ええ。何ですか。」

「金が、五千円ばかりいるんだが……どこか、僕に借してくれるようなところを、心当りがあったら、頼んでみてくれないか。担保になるようなものが何にもないので、全く信用だから、少しむずかしいかも知れないが……。」

良一は眼を見張った。

「ほんとですか。さっきの……湖水や山の話みたいに……。」

「いや、これはまじめな話だ。五千円ぜひいるんだ。もし出来なければ、出来ないだけの覚悟をしなければならない。」

良一は考えこんだ。

「急ぎなんですか。」

「一日も早い方がいいが、いつと期限はきまってはいない。」

「そうですね、五千円なんて、僕から話せるようなところはありませんが……考えて見ましょう。」

「ああ、頼むよ。五千円出来たら、ほんとに助かる。」

とにかく奔走してみると約束して、良一は辞し去った。玄関で、黒襟の女のひとが、馴れた手付でマントを着せてくれた。

良一は狐にでもつままれたような気持だった。元来掴みどころのない川村さんのことではあるが、九度五分の熱、黒襟の女、人をばかにした話、それから五千円……。然し、この五千円だけはどうもまじめらしかった。金のことなんか今迄に一度も口にしたことのない人だけに、よほど困った事情があるのかも知れなかった。

良一は心当りを物色してみた。話してみるようなところは一人きりなかった。それは彼の伯父で、川村さんとも知合いだった。然しそんな話は、伯母さんや家族の人たちの前ではしにくいので、会社の方に行くことにした。他に用もあったので、なか一日おいて、電話できき合せると、四時頃来てくれとのことだった。

丸の内のオフィス街は、冬の四時頃にはもう日の光がなく、退出の会社員等が散乱して、慌しい気分にぬられていた。良一は他国にでも来たような気持で、伯父の会社にはいっていったが、その応接室で、三十分ばかり待たされた。それから伯父の室に案内された。

古ぼけた羅紗で蔽われた大きな卓子の前に、革の椅子にぎごちなく腰掛けた時、良一は用件をきりだすのに困った。伯父は何かの印刷物をもてあそびながら、鼇甲ぶちの大きな眼鏡ごしに、じろじろ良一の方を眺めた。めったに顔をみせたことのない良一が、しかも会社の方で逢いたいというので、好奇心を起したのであろう。それでもやさしい調子で、いろいろなことを話してくれた。そして遂に向うから、何の用事かと尋ねた。

「少しお願いがあって参ったのですが……。」

「だから、その用向は……。」

「伯父さんは、あの、川村さんをよく御存じですね。」

「川村好太郎さんか、知っている。」

その時伯父は、探るようにじっと良一の方を眺めた。良一はその視線に堪えられなくて、用件を簡単に述べた。――川村さんがひどく困った事情になってるので、五千円かして頂きたい……。

かなり長い間、伯父は黙っていた。良一は不安になった。

「どういう事情で五千円の金がいるか、君は知っているのか。」

良一は返事が出来なかった。

「どうして困るようなことになったのか、君は知ってるのか。」

それも、良一には返事が出来なかった。

暫く沈黙が続いた。

「何にも事情の説明も出来ないで、ただ五千円かしてくれとは、君にもあきれたものだ。それはまあいいとして、君は川村さんのことをいったいどう思っているかね。」

「…………」

「あの人は、気狂いだよ。」

良一は眼を丸くした。一昨日逢ったばかりなのだ。感冒でねていたのだった。

「尤も、どこがどうと目立つところはないから、ちょっと分らないが、あんなのが、実は一番始末に悪い。」

「伯父さん。」と良一は身をのりだした。「くわしく説明して下さいませんか。」

「ははは、こんどは僕に説明せよというのか。まあこっちに来給え。」

彼は良一をそばの椅子によんで、それから話した。――本郷神明町の高台に、非常にみごとな椎の大木がある。根本の周囲は二丈にあまる古い木で、それが、一丈ばかりの高さのところから、四方に枝を出し、枝は水平にのびて、百坪ほども拡がり、そして全体がこんもりと、円屋根のように茂っている。珍らしい木で、市の指定保存木となっている。ところが、その木をこめて、三百坪ばかりの地面が、更地となって売物に出ていた。川村さんは所有者と交渉して、椎の木のところ百五十坪だけを借り受けた。それも、よくは分らないが実は年賦で買い取る約束だとの話もある。いずれにせよ、椎の木のところ百五十坪を、年賦の条件か、高い地代を払ってか、とにかく自分の権利にして、板塀をめぐらした。それがこの夏のことで、何をするかというと、毎日のようにそこへ散歩にいって、椎の木の下でぼんやり一二時間をすごして帰ってくる。ただそれだけだった。それでももう充分、正気の沙汰ではない上に、これは内密のことであるが、或る青年をそそのかして、いろいろ非常識な悪事を行わせ、その気持をこまかくきいて、何かの研究の材料にしてるということである。本当かどうか分らないが、もし少しでもそういうことがあれば、これは常人のやるべきことではない。それにまた、さる芸妓となじんで、それを家に引き入れたり、外に連れ歩いたりして、そのために経済状態がめちゃだという。いろいろ考えて見ると、狂人としか思えないのである。

「そういうわけだから、君も、あの人と親しくしてるなら、それとなく様子を探ってみないか。僕もあの人を学者としては尊敬しているから、いよいよの時には何とか考えてみることにしよう。」

良一はさっぱり腑におちなかった。芸奴の一件は、あの女かと見当はついたが、椎の木とか青年のことになると、時々出入りしてるのに、さっぱりそんな様子は見えなかった。何かの誤解かも知れないし、も少し調べてみなければなるまいと、良一は気にかかってくるのだった。

そして用件はそれだけにして、良一は誘れるままに、支那料理をたべに伯父のお伴をした。伯父は老酒が好きだったので、良一もその相手をしてるうちに、いいかげんに酔ってきた。

伯父と別れて八時頃、良一は川村さんの方へまわってみた。

川村さんの家は、ちょっと引込んだ構えで、通りから五六間はいったところに、すぐ洋式の扉となっていた。良一がそこにはいりかけると、軒燈の光がうすくさしてる石の門柱のうしろに、背のひょろ長い青年が、帽子はかぶらず、外套の上から腕組をしてつっ立っていた。良一は伯父の話を思いだし、嫌な気持になって、一先ず通りすぎた。暫くして、戻ってきてみると、青年は先程と同じ姿勢で立っていた。良一は顔をしかめたが、思いきってはいっていった。

「もしもし……。」

声がしたので振向くと、良一の方をすかし見て云った。

「川村さんをお訪ねなさるんですか。」

良一は黙っていた。

「只今、お留守ですよ。」

良一がなお黙っていると、青年は鋭い眼付で見つめながら寄ってきた。

「もう一時間ばかりすれば、帰ってこられます。僕も先生に逢いに来たんです。ここで待っていても仕様がないから、一緒にお茶でものみにいきませんか。」

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