Chapter 1 of 10

悲しみにこそ生きむ

楽しさにこそ死なむ

この二つの文句が、どうしてこんなにわたしの心を乱すのであろうか。二つが妖しく絡みあい、わたしの胸に忍びこみ、わたしの心を緊めつけて……誘うのである。いずこへ誘うのか。何の誘惑なのか。

その文句を、わたしは思い違いしてるのではあるまいか、そんな気持ちがふっと湧くこともある。だけど、いいえ、わたしの思い違いではない。たしかにそうなのだ。あの人は、机の上の原稿用紙に、鉛筆でいたずら書きをしていた。鳶が鳴いていたので、片仮名で、ピーとか、ヒョロとか、ヒョロヒョロとか、そんなのが幾つも書き散らされてるうちに、とつぜん、悲しみにこそ、が二度つづいて、生きむ、生きむ、生きむ、と三度かさなり、それから、楽しさにこそ、が一度、そして、死なむ、死なむ、と二度で終った。たしかに、悲しみに死ぬるのでもなく、楽しさに生きるのでもない。いいえ、そんなこととは全く違う。

悲しみにこそ生きむ

楽しさにこそ死なむ

わたしにはよく理解できないけれど、感じだけは分る。二つ別々なものではなくて、一緒のものなのだ。一つだけでは意味をなさない。ヘルメスの杖についてる、二つの翼……二つの蛇……。あの人にとって、それは、翼なのかしら、蛇なのかしら。どちらだって、つまりは、ヘルメスにとって同じなように、あの人にとっても同じなわけだ。けれども、わたしとしては……いえ、もうどちらでもよい。

あれを、あの人は明らかに、わたしが見てることを知っていて、わたしに見せるために書いた。わたしは見た。それをあの人は知っている。けれど、わたしは何とも言わなかった。あの人も何とも言わなかった。

直截に、簡明に、ぶしつけに、いろんなことを話せないのが、淋しい。お互に、愛し合ってることが分っておりながら、なぜそうなのであろうか。

わたしはいろいろなものに囚われている……とも違う。いろいろなものに束縛されている……とも違う。そうだ。なにかきまりきったものの中にわたしは置かれているのだ。そういう所にわたしは置かれているのだ。だから、例えば……。ああ、例えばなどという言葉がなぜ必要なのかしら。それもまあいい。例えば、愛情の問題にしても、結婚という枠の中に封じこめられてしまうのだ。

わたしにはいろいろな縁談があるらしい。あると言うよりは、周囲の人たちがそれを探し求めているらしい。母が時々、若い男の写真を見せて、それとなくわたしの意向をさぐろうとする。だけど、わたしに意見のありようはない。美醜の点にしても、ある水準以下は嫌だけれど、その水準だってどうにでもなる。映画俳優のブロマイドを見るのとは違って、愛情の問題なのだ。わたしはいつも、曖昧な微笑と冷淡な言葉とで、うっちゃることにしている。

けれども、生きてる人間については、そうはいかない。家のお客さんの中や、弟の年上の知人の中には、わたしとの結婚が可能な人もいるらしい。結婚可能……わたしはこの言葉を口の中で繰り返して、腹がたってきた。如何にたくさんの男が、そして如何にたくさんの女が、結婚可能なことか。わたしもその一人なのだ。ああ、せめてわたしだけは、わたし一人だけは、結婚不可能であり得るとしたら、どんなに素晴らしいことだろう。

いろいろな人の名がほのめかされ、そして消えたり現われたりしてるうちに、いつしか、田島章吾さんの名だけが、大きく浮き出してきた。章吾さんの亡父の一周忌がすんでからのことだ。家と家との交際もあり、わたしも章吾さんを識っている。だから、この話は、わたしには苦手だ。その上、父との応対という、いちばんの苦手が加わった。

母との応待ならば、のらりくらりと、なんとでもごまかせる。けれど、父とはそうはいかない。父の前に出ると、裁判官の前にでも出たように、わたしは自然に、身も心も縮みこませてしまう。わたしたち姉弟三人ともそうなのだ。つまり、親に対して甘えたり我儘をしたりする方面を、すっかり母へ持ってゆき、親に対する畏敬礼節の方面を、すっかり父へ持っていってるのであろうか。一家うち揃っての楽しい談笑の時間が殆んどない家庭の中の、父と母との長年の夫婦生活というものが、この頃わたしには奇妙なものに思われてきた。それかといって、父はいつも無口で厳格なだけで、怒り猛けるようなことはないし、酒に酔えばすぐに寝てしまう。社会に出てはどうだか分らないが、家庭では孤独な人のようにも見えるのだ。

父は、わたしをじっと見つめるでもなく、わたしから眼をそらすでもなく、やり場に困ったような眼差しで、それでも言葉はぴしぴしと、のっぴきさせず問いつめてくるのだった。

「こんどの話、先方ではたいへん乗気だし、こちらでも異存はない。然し、当人のお前があやふやでは困る。お前の意見をはっきり言ってごらんなさい。」

ところが、はっきりした意見なんか、わたしにはなかった。

「いったい、お前は、田島君を好きなのか、それとも、嫌いなのかい。」

困ったことに、わたしは別に好きでも嫌いでもなかった。ただのありふれた普通の人にすぎないのだ。その普通の人、何の恩怨も関心もない人に対して、好悪の感情を持てというのは、わたしのプライドを傷つけることではあるまいか。然しこんなこと、どういう風に父に説明してよいか、わたしには分らなかった。

「好きなところがあるなら、これこれの点が好き、嫌いなところがあるなら、これこれの点が嫌いと、はっきり説明してごらんなさい。」

いたずらめいた眼色が動きかけたのに、わたしは自分で気がついて、つとめて神妙にいった。

「箇条書きでも宜しいんですの。」

「箇条書きでもなんでも宜しい。はっきりした方がよい。それから、田島君の将来の方針というようなことも、考慮に入れておく必要がある。」

驚いたことには、田島さんの将来の方針などについては、実業界によりも政治界の方に野心があるようだという推測以外に、わたしは何も知るところがなかった。けれど、父が田島君の、とだけ言って、お前の将来の方針などと言わなかったので、わたしはほっとした。将来の方針など、わたしに何があろう。

わたしは父の顔色を窺って、最後に返事をした。

「よく分りましたわ、も少し考えさして下さい。」

「うむ、軽率にことをきめてはいかんから、よく考えておきなさい。」

それでおしまいだった。そして父の癖として、これから先の返事はなかなか催促しないだろうと、わたしはすっかり安心してしまった。へんにおかしかった。父との話の間にちらと浮んだことが、あれが、はっきり思い出された。ソロバン……父の話はソロバンをはじくような工合なのだ。

わたしは学校で、ソロバンが下手くそだった。どうにも気乗りがしなくて、うまくいかなかった。その後も、家で、母や女中が家計をソロバンではじいてるのを見かけると、なんだかおかしくなった。あの丸い珠が、加え算や引き算で、指先から押し動かされるのを見ていると、珠の方が却って、人をこばかにしているようだ。そのソロバンを、父の話の間にふと思い出したのが、わたしにはまたおかしかった。わたしは父を軽蔑しているのではない。おそらく父を愛してもいるし、畏敬している。けれど、ソロバン……は別のことだ。

ソロバン、ソロバン……そのことを、わたしはあの人に、菅原洋平さんに、話してしまった。つとめて面白そうに話した。父のことは伏せて、例えば結婚では……というように話した。

ああ、良家の令嬢が――わたしはこの言葉を決して自ら恥じはしない――若い男性に向って、自分の縁談のことを打ち明けるのが、どういう意味のものだか、わたしは知らないではなかった。知っていながら、眼をつぶった気持ちで敢てした。わたしに勇気づけたのは、あの人が、あなたをとわたしをはっきり名指しはしなかったが、愛していますという言葉を、ごく自然に、微風のように、わたしの耳に入れていたからなのであろう。

ところが、あの人には、ソロバンのおかしさが少しも通じなかった。

「愛情の問題と結婚の問題とは、社会が今よりずっと進歩しない限り、なかなか一致しませんよ。例えば、僕はあなたを愛していますけれど、それはソロバンには……。」

おう、あの人の方でも、例えば……なんだ。わたしの方からは、例えば……ときりだしたからといって、それは女のことだもの、男の方には、何とかほかに受け応えの仕様はある筈だ。それとも、わたしへの返報のつもりだったのかしら。いいえ、そのようなけちな返報をするような人ではない。

あの人の愛について、わたしは苦しい疑いを持ちはじめた。あれから一度か二度、ソロバンはどうなっていますかと、冗談のように聞かれたことがあったけれど、わたしはそれに返事をしなかった。例えば……についてばかり思い悩んでいた。

とうとう、わたしの方から、はしたないぶっつかりようをした。

「わたしを愛していると、仰言ったわね。だけど、それ、ほんとの愛かしら……。」

ああなんというよそよそしい言葉だったろう。けれど、良家の令嬢として――わたしはこの言葉にむしろ誇りを持つ――それが精一杯だったのだ。

あの人の確信は小揺ぎもしなかった。

「ほんとの愛です。ほんとにあなたを愛しています。」

「そんなら、例えば……。」

あ、またしても、例えば……が出てきた。わたしは自分に腹が立った。むちゃくちゃになった。

「いいえ、愛するとだけなら、誰だって言えます、誰に向っても言えます。売笑婦に向っても言えます。ほんとの愛は、誓うことです。誰よりも深くとか、生命にかけてとか、生涯つづけてとか、永遠にとか、何でもよいから、誓うことです。あなたは卑怯よ。それとも……。」

あの人の眉根がぴくりと動いた。なにか切なそうな眼色だった。しばらく間をおいて、でも静かな調子だった。

「あなたの言うことはよく分ります。けれど、誓うのは人間のすることで、それが守れるかどうかは、自然の手の中にあるんです。」

自然か、天か、神かが、それを決定するとは、わたしもそうだと思う。そして、生涯変らず永遠にという誓いは、ただ文学的な表現だということを、いくらか小説なども読んでるわたしは、知らないではない。けれど、わたしがうっかり言った卑怯だということ、それに対してあの人は何も抗弁しなかった。いいえ、わたしは決してあの人を卑怯だなどと思ってはいない。その反対だとさえ思っている。それなのに、愛について、恋愛について、なにか卑怯に似た影を感ずるのは、どうしてなのだろうか。

言葉がとぎれて、無言のまま、あの人は殆んど無意識のように、原稿紙にいたずら書きをしていた。鳶の鳴き声が聞えていた。

それから、あの文句が出て来た。わたしはそれをはっきり読み取った。

深い謎に包みこまれていくような気持ちだった。硝子戸の外にはちょうど、その謎をますますぼかすような強烈な光景が、かなたに展開されていた。

雑木の茂みがこんもりと高まってる、その上に、椎の古木が更に高く聳えている。その巨大な幹は、梢近くでぶつりと断ち切れて、幾つもの空洞をこさえ、太い腕を四方に伸して、小枝の茂みを作っている。そこに、多くの小鳥が住んでいる。椋鳥や雀が群がり、尾長や燕の姿も見える。その中の王者のように、二羽の鳶が巣くっていた。

その一羽が、今、美しい声で鳴きながら、ゆるやかに舞いながら、腕木に戻って来た。足に何かを掴んでいる。鳩ぐらいの大きさの鳥らしい。足でしっかと押えて、嘴で羽根をむしりはじめた。白い羽根が微風に散って、花ふぶきのようだ。初夏の緑葉の茂みが、燃え立ち盛り上ってるのへ、羽根のふぶきが散りかかる。鳶は時々、頭を真直に立て、あたりを睥睨し、それからまた獲物の羽根をむしり、その臓腑を喙むらしい。やがて、他の枝へ飛び移り、小首をかしげ、両翼を少しくいからせる、ぱっと、白いものを尻から放出した。

「あ。」

わたしは思わず声を立てた。

まだ粘質の糞は、日光に白く光りながら、長く伸び、曲線を画いて、緑葉の中に没していった。

わたしはちょっと戸惑った気持ちで、そして顔が少し赤らむ気持ちで、振り向くと、あの人は、わたしの視線を避けて、立ち上ってゆき、硝子戸を一杯に明け放した。そしてそこの縁側の手摺にもたれて立ち、独語のようにわたしへ言った。

「あの鳶の声を、この春から聞きなれているので、もう、家族の一員のような気がしますよ。けれど、今日は少し不作法でしたね。あなたは、あんなところ、はじめてでしょう。」

返事の代りにわたしは微笑したが、あの人はあちらを向いたままなのだ。

わたしの返事がなかったからか、あの人は向き返った。とつぜん、どうしたというのだろう。ひどく憂鬱な表情になっている。

「千重子さん。」

ああ、はじめてあの人はわたしの名を呼んだ。いつもは、松本さんと姓の方を呼んでいたのだ。

「誓いの代りに、ただ一つ約束しましょう。時が来たら、いろいろなことを、なにもかも、お話します。待っていて下さい。」

あの人は手を差出した。わたしの方から立ってゆかねばならなかった。屈辱ではない。その時はそれが自然だった。あの人はわたしの手を執り、片手を更に持ちそえて、両手でわたしの手をしっかり握りしめた。逞ましいそして少し冷い掌だった。その重圧が、あの人のその時の憂鬱な様子と一緒に、わたしの胸をしめつけた。わたしは首垂れて、もしそのままでいたら、泣き出したかも知れなかった。やがて、あの人はわたしの手を離した。

鳶の声がした。鳶は獲物をまだ掴んだまま、飛び立って、横手の方へ舞い失せていった。

わたしも辞し去った。

それからのわたしには、あの人のことを想い耽る日が多くなった。しかしそれは、愛とか恋とかいうものとは少し違う。わたしが想像したり小説で読んだりしたものとは、だいぶ違う。それでもよろしい、とわたしは思った。あの人はわたしとは異った世界に住んでるようだ。その世界に対して、窓が開かれたような思いだった。窓から外を覗くことが、あの人を想うことになる。でも、何にもはっきりは見えなかった。待とう。あの人がすっかり話すのを待とう。約束を破るような人ではないのだ。

それでも、あの人はいつまで待たせるつもりなのだろう。あれから幾度かわたしたちは逢った。前とちがって、眼差しには、心と心とが通じ合うような親しい笑みを浮べたが、言葉には、愛のことも、ましてソロバンのことも、少しも出なかった。何かちらちら閃めくものはあったが、それもはっきりは捉えがたく、ただ、一緒に鳶を眺めたり、コーヒーを飲んだり、新聞記事のことを話したり、それきりだった。

わたしの方では、田島さんとの話は小康を得ていた。さっぱり要領を得ないように母をごまかしておいた。先方にも、亡父の三周忌がすんでからでも、という肚があったらしい。ところへ、思いがけないことが起った。北村さんが、酔っぱらった上のことではあるが、田島章吾さんをさんざん悪口して、あんな奴は社会の蛆虫だと言ったらしい。その話を弟から聞いて、わたしは胸がどきりとした。北村さんの二階に、あの人が、菅原洋平さんが、同居しているのだ。しかし、弟は何にも感ずいていないらしいし、北村さんはたぶん、菅原さんのことなどは匂わせなかったのだろう。そして北村さんのその悪口が、いくらか母に影響を与えたらしくも考えられる。

わたしとしては、田島さんとのことばかりでなく、すべての縁談を、中ぶらりんにしておきたかったのだ。どうせ、一つを拒絶すれば、次のが現われるにきまっている。煩わしいだけだ。柳に風、暖簾に腕押し、そういうのが、いちばん巧妙な作戦らしい。どうせソロバンの中に坐らせられてるからには、じたばたすれば怪我するにきまっている。

それにしても、ああ、時々胸が切なくなるのは、なぜだろう。その辺に、わたしのとは異った世界に、何かわたしの知らないものがある。そこまでわたしは飛び出してゆきたい。しかし、わたしにも人間としての矜持があり、はしたない真似はしたくない。待とう。あの人がきっと手引きして下さるだろう。

その、菅原洋平さんが、八月のはじめに九州方面へ旅行して、それきり帰って来ないのだ。一週間ばかりというお話だったが、四週間たっても、五週間たっても、音沙汰がない。せめて絵葉書の一枚でも、わたしのところへは来る筈だ。ほかのところへはとにかく、わたしのところへだけは、何か便りがあってもよい。

わたしはそれとなく、北村さんに尋ねてみた。菅原さんが関係してる天元社という出版所にも、二度ほど電話してみた。それでも、何の手掛りも得られなかった。

天元社では、いつ帰って来るか分らないと、ひどく曖昧なことを言う。北村さんは、そらとぼけた調子なのだ。

「そう、一週間ばかりだと言っていたが、なあに、菅原君のことだから、いつ帰って来るものやら、分りゃあしないよ。然し、大丈夫、心配なことはない。」

そうは言うものの、北村さん自身、なにか気にかかることがあり、それを自分で打ち消そうとしてるのが、言葉の調子や様子に現われている。

不安なものが、しだいに、わたしの胸に濃く淀んでいった。何かある。わたしの知らない秘密が、何かある。

わたしは紹興に行ってみようと思いついた。一人ではへんだから、北村さんをそそのかして、連れていって貰うことにした。家の人たちには内緒なのだ。北村さんは家と親戚になるのだが、あまり評判はよくない。飲んだくれということになっていて、酒と貧乏とがつき物だ。またペンキ屋さんという影口もある。あの人の書く絵がペンキ屋の絵に似てるというのだ。北村さんに言わせると、それは、極端にマチエールを生かしてるからだとの自慢になる。そのペンキ屋さんに、わたしは気まぐれな絵を習ってるのである。

「表向きには営業は出来ないことになっているから、うまい物はないよ。ただ……君が酒を飲むといいんだがね……。」と北村さんは言った。

料理も酒も、わたしにはどうでもよいのだ。菅原洋平さんが、北村さんの二階に住んでいて、朝食はそこですまし、夕食はたいてい紹興でする、そのことをわたしは知っていた。

往来からすぐ硝子戸になってる粗末な家で、とっつきの土間のわきに、二階への階段がある。その階段を北村さんが昇ろうとするのを、わたしはさえぎって、他に客がないのを幸に、土間の片隅の卓をえらんだ。北村さんは怪訝な眼付きでわたしを見た。

背の高い中国人の給仕が、うす汚れの割烹着をつけて、流暢な日本語をしゃべった。

「お食事なら、うえがあいております。」

「ここでいいわ。」とわたしは北村さんに言った。「ほんのつまみ物でいいの。わたくし、ビールにしようかしら……。」

それだけでも、わたしとしては一生懸命のことだった。でも効果はあった。北村さんは腑におちない顔付きだったが、わたしのビールを大喜びで、自分はウイスキーにした。

背の高い給仕は、やがて、物を運んでくると、思い出したように北村さんに聞いた。

「菅原さん、どうしましたか。まだ帰りませんか。」

北村さんは何か考えている。

「あの人、のんきですね。無籍者ののんきだから、あてがない。」

北村さんは酒のコップで卓上を叩いた。

「もう一杯。」

わたしは眼を見据えて囁いた。

「無籍者って、何ですの。」

「……渾名だろう。」

北村さんはじっとわたしの方を見た。それからもう、菅原さんのことも、この紹興の店のことも、天元社のことも、ちょいちょい話しかけていたのを、すっかり口にしなくなった。わたしは失敗したのだ。あまり真剣になりすぎたため、肝腎なところで北村さんに気付かれてしまったらしい。

考えてみると、そういうことがすべて、怪しいのだ。わたしが不安を感ずるのも、実は根拠のないことかも知れないし、無籍者という言葉にびっくりしたのも、実は思いすごしかも知れないし、北村さんがへんに隠し立てするようなのも、他に何の理由もないのかも知れないし、すべて取るに足らないことかも知れない。しかし、その取るに足らないことごとが、へんにわたしの気持ちを波立たせるのが、怪しいのだ。これも、ああ、愛情の故か。いいえ、違う。何かある、たしかに何かある。

わたしは無理にビールを飲んだ。そして他に事もなく、用があると言って北村さんに別れ、不忍池のまわりをぶらついた。

菅原さんは、やがて東京に帰って来るだろう。それは確かだ。あの人が無籍者だというのは単なる渾名だろう。あの人にはそういう色合いがある。けれど、あの人が東京に帰って来たら、きっと、なにか変事が起りそうだ。わたしの身にとってではない。あの人の身にとってでもない。あの人を中心に、その周囲に、なにか変事が起るに違いない。それが、恐ろしいとか怖いとかいうのではないが、やはり、大きな不安の影をわたしの心に投げかけるのだ。

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