Chapter 1 of 4

Chapter 1

裕福な家庭の、特に才能があるといふ程でもない青年が、「文学でもやつてみるか」といつた調子で、文学志望を抱いたとする。四年五年と経つても、いつかう何も書けさうもない。「書いてゐる奴等はいつたい、いかなれば書けるのであらう?」とやがてだんだん愚痴になる。おのづと「書いてゐる奴等」のアラを探しだす。「アラだらけだ!」と彼は思ふ、「あんなにアラがあるから、あのアラが契機となつて、却て奴等は仕事が出来るのであらう……」

ところでさういふ場合に彼のアラと云つてゐるものは、概ね処世的要領の稚拙の如きを指してゐるのである。つまり、彼は事文学に関して考へ乍ら、而も文学的アラを云つてゐるわけではない。かう云つてしまふと話は簡単だが、当人としては随分無理もないことである。何しろ文学的素質がないのだ、そこでアラを探すにも彼らしくアラを探すことになる。

(茲で一寸断つて置くが、ホンの少しの事が分ると、分つたことが当人にとつて余りに珍しいので却つて書けるといつたあの生々しい文学青年をも「書いてゐる奴」の中に入れて話してゐるのではない。実際文壇に出ることが容易になつた此の頃は、さういつた文学青年も少くないことで、一知半解の故に却て元気がいいといつた風の元気が、本当の元気と間違へられる風景は、毎日のやうに見受けられることである)。

扨、件の裕福な青年は、漸く、文学そのものではないかも知れぬが、文学の話をする奴は嫌ひになつてゆく。仮りに相手は文学的個性があるので、自然、文学の話をするやうになるのである場合も、その相手が嫌になる。否、相手に個性があればある程嫌になる。勿論、当人としては相手の個性を嫌つてゐるつもりはない、相手の話しぶりだの手ぶりだの、要するに相手の人間臭を嫌つてゐるつもりなのだが、そんならその話の特に個性的な部分だけでも聴くかといふと強ちさうでもない。

かうなると件の青年は、次第々々に心理的には発達してゆき、其の他の点では寧ろ退化しはじめるといふやうなことになるのである。つまり、人の顔色を見るやうな能力はみるみる発達する一方、瞑想だの理念だのは、さなきだに濃厚ではないのが、発展の余地を持たなくなり、益々衰へてゆくのである。

今、件の青年をAとし、相手の青年をBとするとして、二人の交游がどんな有様を呈するであらうか、以下そのことを誌してみたい。

だがいつたい、茲で心理的に見るといふのは、如何いふことであらうか?

例へば茲に一農学士があり、非常に立派な耕作法を学び、百姓に教へに行く任務を帯びるとする。その耕作法その物は、真に偉い学者が発見したものであるが、その農学士は、唯それを暗記したに過ぎないとする。そこで彼農学士が、百姓等の面前でその耕作法を述べる時、その述べる態度は甚だ心許ない。扨百姓達の方は、その態度が心許ないせゐではないが、何分嶄新なその耕作法は、聴けども聴けども分らない。やがて中の一人が、「云ふことは分らないから、一つ農学士様の話す様子を見てやらう」といふことになり、「なんだい、まるで腰抜みたいぢやないか。ぢやどうせ、云つてる事柄だつて、大したことぢやない」といふことに迄なる。――此の場合、その百姓は、農学士を心理的に判断し、その判断を、序でに耕作法その物にまで及ぼしたのである。

又、右の話の反対の場合がある。講述する耕作法その物は、かいさ詰らぬものであるが、農学士は心理的には、甚だ発達してゐて、聴いてる方では、耕作法としては何が何やら分らぬ乍ら、なんだか好いことを教へて呉れつゝあるやうに思はれてならないといふ場合である。

則ち、右の二つの場合に就いてみると、心理的優秀といふことは、必ずしも実質的優秀を意味しない。その二つの場合が、心理的といふことの全てだと云ふのではないが、先づ普通一般に見られる心理的といふことは、そんなものである。

或る日退屈なるまゝに、AはBを訪ねる。

Bは「此の頃僕は、どうも身体の調子が悪くて」と云ふ。みれば蒼い顔をしてゐる。Aは気の毒に思ふ。「どうも貧乏暇なしでね」とBは云ふ。Aは益々気の毒に思ふ。

ところでBは文学談を始めるとする。Aにはなんだか腑に落ちない。気の毒にみえた奴が、忽ち自分の不得手なことを始めたからだ。然しさうとは気が付かない。何しろもともとAは文学的素質には乏しいのだ、そして、尠くも家庭内では、甚だ謂はば心理的生活を営んでゐるのだ。「今といふ今、文学談でもないだらう」、そんな気がする。

Bとしたら、何も格別文学談ではないのだ、彼は営んでゐるのが、だいたい文学的生活だといつたわけなのだ。然し、やがてAの怪訝な顔を見て、では此の話をやめようといふことにする。

「ホラ見ろ、そんな話は、時候外れだらう」とAは思ふ。若くは、「俺をやつぱり畏れてゐるな」。其の他等々々々。

ところで、心理的生活(要するに一般生活)を営んでゐる者が、文学的生活(文学でなくもともあれ何かに打込んでゐる生活)を営んでゐる者に会つたつて、あんまり話のあるものではないのだ。勝負事でも始めるか酒でも飲むしか仕方はない。そこで沈黙が続く。Aの方では「つまらない奴の所へ来たもんだ」と思ふ。BはBで、「やれやれ」と思ふ。

まづ、酒場へでも赴くといふことになる。「お二人とも、憂鬱さうねえ」と女給が云ふ。Aは、微笑でそれに答へる。答へないBは、そこで忽ち劣等人種の立場に廻る。尚黙りつゞけるとしても、Aは兎も角女給なり、従つて酒場の空気なりと交流が始まる。女給はBを、「失恋でもしたんだらう」とか、「Aさんに頭が上らないんだらう」とか、ともあれ彼女等なりに適当な解釈を与へる。Bとしたことが、意外千万なだけである、従つて意外千万だといふ顔になる。「オヤ、負けん気だよ」、「怒つてるよ」と女給は思ふ。「全くだ」とAも思ふ、「しかしま、お手柔らかに」と、表情以て友達甲斐を発揮する。

やがてBは、其の場の空気を批判しだす。恐らくBとしたことが、眼前に起つたことは何にもあれ批判するのがその生来なのだ。友達が前にゐるから、その批判を話し出しただけだ。もし彼が独りであつたら、記臆に蓄へるか、それとも帰つてからノートに取るなりする所だ。そして、尠くも批判が発展する限りに於て、彼は生甲斐を感ずる次第だ。

ところでAでは、Bが「弁解をしだした」とか、「強がりだした」とかしか思へないのだ。女給ときたら尚のことだ。Bはまたそれを感ずるから、「君等の考へてることは違ふ」とかなんとかいふ、とまれ形勢は悪くなるから、それ聴く方は漸く面倒臭がりだすから、尚も云はうとすれば声は次第に金切声になるとか、怒りつぽくなるとする。

するともう、Bは何を云つても駄目なのだ。云へば云ふ程てんであらぬ効果を生むばかりなのだ。云へばいふ程、相手は心理的観察の対象を、益々得るといふわけだし、云ふ方は、益々話の内容自体の中に突き進むといつたわけだ。

Bはガツカリする。Aは益々元気になる。やがて再び、AはBを気の毒がりさへし始めるのだ。

気の毒がられては、Bとしては冠履転倒も甚だしいものだ。やさしくすれば、諛ふと取られ、ひどくすれば憤慨したとなる。

別れゝばいい。――さうだ、別れゝばいい。いいどころかBは別れたいのだ。

然し別れると云つてみろ、「負けて逃げちやひやがンの」とか、「勝手な奴だよ」とか云ふことになるのだ。それではBとしてやりきれたものではない。誤解されたことを忍んで別れるより仕方もなくなると、忍んだ故にもう一段誤解されるのだ。

然し何しろ今、Bの声は金切声だし、Aを憎まないまでも、ニコニコは出来ないのだ。心理的なAとして、どうみたつてBが劣勢だとしか思へはしない。

そして、かういふ誤解といふものが、長い間には、どのやうな所まで増大してゆくものか、それは頗る大した増大なのだが、かゝる誤解は、特殊的なものであるので、世間一般からは、顧みらるべくもなく、Bはそれを、創作にでもするよりほか、致し方もないことだ。

おまけに、Aは今後益々その志望に於て衰耗してゆくであらうし、Bは尠くも、文学の点でだけは発展してゆくであらう。

「あんな奴が、段々偉くなりやがる」、ハテ面妖なとAの方で思ふのだが、Bとしたら、変な話ぢやないか。自分が其処で暮し、其処で耕した所から花が咲いたのに、別の所で暮し、別の所で耕してた奴が、その花を面妖がるのが変な話でなくてなんとしようぞ。

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