一
台湾の北から南へかけて、まるで牛の背骨のように高く、長く連っている中央山脈の丁度まんなか辺りに、霧社という名前で呼ばれている有名な蕃社がある。
蕃社は北の方の合歓山から延びた稜線と、南の方水社大山から東北に延びた稜線とが相合うところに、ひとりでに出来あがった高台の上に在る。高さは海抜四千二十九尺。脚もとはるか低くには濁水渓の源流が岩石の間に水しぶきをたてながら流れており、渓谷の周囲には能高、合歓、次高、北トウガン等の山々がうっすらと木の葉の色に重なりあって聳えている。
昔から風景が卓れていることで名高いのであるが、更らに春の季節になると、その南の島には珍しい桜の樹が、緑の山々を背景に、その花ばなの見事さを高台いっぱいに誇る。この蕃社くらい台湾に住む内地人に、異常な憧憬を感じさせる土地も少いのである。
台湾名所案内に重要な地位を占めるばかりでなく、霧社はまた能高越えと呼ばれる中部台湾横断の要衝にも当っている。北部や南部やを迂回することなしに、西海岸の台中から東海岸の花蓮港へと出るためには、どうしても中央山脈の嶮しい山坂径を越えなければならない。埃を吸った脚絆姿の旅びとや、リュックサックを背負った登山客や、皮革くさい軍隊やはその疲れた脚をこの高台で休めてゆくのが普通である。高台いっぱいに植っている桜の樹蔭には、そのために警察分署、旅館などの設けがあり、それを中心に小・公学校、蕃産品交易所、茶店などが小さな内地人部落を形づくっている。自ずと付近一帯に散在する蕃人部落を撫順するための、理蕃政策の中心地にもなっているというわけである。
この霧社では毎年秋の好日、高台の一隅に在る公学校で能高郡下小・公学校の連合運動会を催すしきたりになっている。
児童ばかりではなく、その父兄たち謂わば山間で警備や、教職についている人たちにとっても、最も楽しい年中行事の一つである。いったいに台湾の山地に住んでいるこれらの人たちは、たまさかの視察者や旅行者が訪ねてくる以外は、めったに内地人に会う機会もない。運動会はそういう人たちのために一種の懇親会の役割をはたしているのである。
今から約十年ばかり前昭和五年秋の十月二十七日。この年も毎年の例に従って、霧社公学校では連合運動会が催されることになった。能高郡下の辺りいったい、山間の峰や丘やに住んでいる警察官吏や、学校職員や、農耕指導者やは、家族づれで二人三人と、既に前日からこの高台めがけて参集してくるのも例年の通りであった。夫は制服の脚に黒い脚絆と草鞋とをつけ妻君はたまさかにとり出して着た晴れ着の尻をはしょって、高い峰の細い山径づたいにいそいそと連れだって歩いてくる。径から谷にむかって、低く垂れている、狭い、急な段々畑には、背に籠を負い、脚にまっ赤な脚絆をつけた蕃人の娘が佇んでいて、訊ねかけてくることもある。
「大人、奥さん、どこ行くか」
「霧社まで……あしたは霧社で運動会があるのよ」
晴れ着の背に送られた蕃婦の羨しそうな視線を意識しながら、妻君は急ぎの脚をふりむきもしないで、浮ついた調子に答える。霧社に着くと人々は、それぞれ宿屋や、知人の家に分宿しなければならない。受けもち教師に引率されて既に先着している子供たちが、そこでは自分たちの来るのを待っているのである。
夜が大変である。運動会の前夜は毎年の例に従って公学校で学芸会が催される。自分たちの子供が蕃童に混って、朗読や、唱歌やを演ずる合間には、知りあいの誰彼に、積りに積った一年ぶりの挨拶を交わさなければならないのである。鵞鳥が増えたこと、百歩蛇が鶏と喧嘩したこと、誰それが転勤になって平地に降りたこと、――熱に浮かされたように、そういうことを語りあう女たちの顔にはみんな云い合わしたように白粉の匂いがぷんとしており、その珍しい匂いがまた男や女やの気もちをいっそう賑やかに弾ませているのである。
この年。運動会の前奏ともいうべきこの学芸会で最も一同の喝采を博したのは、花岡一郎のオルガン弾奏であった。花岡一郎というのは、まだ若い蕃人の巡査である。幼い頃から聡明で、勇気があり、霧社に住む内地人一同に深く可愛がられていた。早くから内地名も貰っていた。公学校を終ると、台中師範に学び、その頃は巡査の資格で、蕃童の教育に携っていたのである。
花岡がオルガンをひき終った時、人々はようやく感嘆のため息から放たれて、はげしい拍手を送った。声に出して讃辞を送った者も少くなかった。ただしかし、当の一郎だけは、なにか心に鬱屈するところがあるらしく、憂愁に充ちた顔つきをしていた。それは驚くほど深刻な顔つきであった。心の浮きたっている人々は、けれどその暗い表情の蔭に大きな苦悩が隠されていることに気がつく筈がなかったのは勿論である。
いよいよ運動会の当日、この日は霧の多いこの高台も、珍しいほどに晴れわたっていた。澄んだ山の陽ざしは赭土色のグラウンドいっぱいに溢れきっており、それはそのままの明るさで、そこに集ってきている子供や、その家族たちやの胸のなかに射しこんできた。子供たちが場内の整理や、着更えなどに小止みもなく動きまわっている間、テントばりの父兄席では、そこここに楽しい交歓が行われ、噪いだ話声や、賑やかな笑い声が雲のように湧きあがっていた。前夜語りきれなかった一年の話題がまだなんとたくさん残っていることであろう。能高郡守小笠原敬太郎がわざわざ埔里の町から出張に及んで会に臨席していることも、父兄たちの誇らしい話題になっていた。植民地の郡守といえば羽ぶりのいいことは内地の知事以上である。そういうえらい役人の臨席を得て、会はいやが上にも運動会気分をそそられていたのである。それはまったく楽しい団欒であった。
そして、その団欒の蔭に思いもかけない恐ろしい悲劇――この文明の世界では考えることもできない野蛮な惨劇が待ち伏せしていようと、出席者の誰が予想し得たであろう。
会は予定どおり、午前八時を期して始められた。
校長新原重志の開会の辞につづいて、小笠原郡守の祝辞、霧社警察分署主任警部佐塚愛祐の訓辞が滞りなく終った。
つづいて場の中央にたてられたポールに国旗を掲揚するために児童を中心にし、一同は起立して君が代を合唱し始めた――丁度、その瞬間であった。
突然、だしぬけに人々の頭上に、意外な不幸が落下したのである。不幸などというなまやさしい言葉では言い足りない悲劇にちがいない。場内に集っていた内地人の大部分百三十四名が、無智な、兇暴な蕃人たちの計画的な襲撃に遭って、みな殺しにされてしまったのである。
始め、君が代を合唱し始めた時、人々はまるでその歌声を打ち消しでもしようとするような「うおう」という、物すごい集団的な喚声が、すぐ背後に湧きたち、おし迫ってくるのを聞いた。人々は自分の耳を疑うように異様な表情を浮かべた。瞬間、合唱の声が乱れたような気がした。しかし、既にその時、手に手に竹槍や、蕃刀やを提げた百五十人ばかりの蕃人が、雪崩れをうって場内に駈けこんできたのに、人々は気がついた。
グラウンドのすぐ背後には桜台と呼ばれる小さな台丘がある。桜の樹や、雑木やが土の色も見せない位繁っているが、蕃人たちはその樹の繁みの間にひそみ隠れていた。ある者は蕃刀をぬき放ち、ある者は鋭利な竹槍を小腋に抱え、息をひそめ、眼を光らせ、頃合いを見計っていたのである。
グラウンドでは自分の周囲に何が起きたのか、その重大な意味を人々がまだ理解することも出来ない間に、忽ち異様な悲鳴が湧きあがった。五六人の内地人が蕃人の槍先の犠牲となったのである。
「非常警戒、非常警戒」
佐塚警部は抜剣しながら、血走った声で叫んだ。
純白なランニングシャツ一枚になった内地人の子供たちが、恐怖に充ちた叫び声をあげながら、右往左往するなかを、その父や母たちは気ちがいのように、子供たちの名を呼んで求める。場内に集っていた蕃童たちは、もうその時はただの一人もそこには姿を見せていない。蕃人たちが桜台を駈け降りると同時に、その母や姉やが一人一人どこか安全な場所へ連れ去ったものにちがいなかった。
蕃人巡査花岡一郎は始め巡査の制服を着て司会者側に参列していたが、いつの間にか制服はぬぎすて、陣羽織に似た麻の蕃布を身にまとっていた。彼が蕃装することはめったにないことである。前もって同族の不穏な計画を知っていたものにちがいなかった。しかし、花岡は血の出るような声をふりしぼって、同族たちの兇行をおしとめようとしていた。
「夕方までまて! 夕方までまて!」
それはなにか目算があってのことか、あるいはまた単に衝動的にか、わからないが、恐らく彼自身にとっても言葉の意味は無かったであろう。
しかし、血を見て既に野性が生き返っている蕃人たちの耳に、そのしゃがれた、悲鳴にも似た叫びが入ってくる筈は無かった。女、子供の区別なく内地人とさえみれば相手かまわず突きすすんでゆくのである。
剣をふりかぶって蕃人たちときりむすんでいた佐塚警部の頭に、ふっと、通り魔のように頭目モーナルーダオの顔が浮んだ。恐るべき兇行の首謀者は彼を措いては、他に考えることはできない。佐塚警部は忙しくそう考えた。