Chapter 1 of 6

アリューシャンを越えて

七月六日の午後、ノース・ウェスト機で羽田を立った時は、雨の中であった。しかし間もなく雲の上に出たので、気象状態はそう悪くなかった。

ときどき霧雨が窓を濡らし、灰色の雲がちぎれちぎれにとぶ。そして機は時々軽くゆれた。ところが千島の沖へかかった頃から、急に気流の状態がよくなった。三十六人乗りのあの大きい飛行機は、まるでぴたりと空中に静止したように、ちっとも動揺が感ぜられない。海上はすっかり濃霧にとざされて、霧頂は五千フィートくらい、その霧の上面は、水平な平面になっていて、積雲型の細かい凹凸が綺麗に並んでいた。

霧の状態は極めて安定なようであった。あとでフェアバンクスの気象台で、その日の天気図を見せて貰ったので分ったことであるが、弱いが複雑な構造の不連続線が、ちょうどこの頃にこの航空路を通り抜けて、太平洋側に出た後だった。それで気流の状態は上々であった。

薄明が長く続いて、午後八時頃に、太陽がようやく霧の曠原の彼方に落ちた。水平線に近い空が、一面のあかね色に染まり、一点の雲もない青磁色の天空に、そのあかね色が美しくとけこんでいた。霧頂は見渡すかぎり、一面の薄青い透明な鼠色である。名墨を淡めたような色をしている。羽田を出て五時間くらいで、もう全く別の世界に入ったのである。

しかしこの天空の世界と、濃霧の底に横たわっている地上及び海上の世界とは、全くひどい違いなのである。戦争中に根室の町はずれで、この濃霧の研究をした頃の思い出が、ふと頭に浮んできた。物質文明からも、近代文化からも、全くかけ離れた荒涼たる磯辺で、人々は霧雨にぐっしょり濡れて、黙々として終日働いていた。この太陽から見放された世界は、色のない世界であった。

北国の海に特有なこの恐しい濃霧が、千島からアリューシャンにかけて、じっと垂れこめている今の時期には、海上の人々は、生命がけで手さぐりの航海をしなければならない。しかし飛行機にとっては、今が一番有難い気象条件にある。九千フィートから一万フィートくらいの高度で、西寄りの気流に乗って、滑るような飛行を続けている。というよりも、飛行機は空中の一点にじっと止っていて、景色だけが極めて徐々に移ってゆく。

プロペラの廻転もそうやけに激しくはなく、速いがしかし落着いた廻転を定常的に保っている。非常に力強い感じである。定期航空路も、ようやく本物になったという気がする。空のあかね色もいつか消えて、周囲はようやく暗くなってくる。すると今までは気がつかなかったが、エンジンカバーの隙間から見える排気の火が、赤く見えてくる。九百度くらいにもなっていそうな火の色である。その火の色をじっと見ているうちに、いつの間にか眠ってしまった。

スチュワーデスにバンドを締めてくれと注意されて、目をさましてみると機は大分ゆれている。外は真暗であるが、霧の中に降りたらしい。セミア島に着陸の用意をしているのであろう。何も見えない真暗な霧の中で、機はランプを明滅させている。ランプをつける毎に、窓を打つ霧が白く光る。そのうちに海面が黒く見えてきた。海面に近いところだけ、霧がちょっと切れているのである。そして真暗な海上の彼方に、たくさんの灯が、一直線に並んだのが一瞬見える。セミア島の滑走路の照明である。

アリューシャン群島の先端にあるこの孤島に、夜間着陸装置の完備されているのにも、隔世の感が深い。リンドバークの『北方の旅』も、そう旧い話ではない。この魔の空路を征服するために、リンドバーク夫妻は、生命を賭ける思いをしたのである。この十年の間、日本だけが取り残されているうちに、世界は飛躍的に進歩していたのである。

機は完全に霧の下に降りた。大きく一廻りすると、滑走路の灯が二列に並んで近々と見え、やがて機は正確な着陸をした。午前零時三十分である。

真暗な外に出てみると、風が烈しく吹いている。そして冷い霧雨が顔にあたる。周囲六、七マイル程度のこの北海の孤島は、丘らしいものもない平らな小さい島である。樹はもちろん一本もなく、千島からアリューシャンにかけての烈しい風に、いつも吹きさらされている恐しいところである。給油の一時間の間、バスで少し小高いところにある待合室に運ばれる。草らしい草も生えていない、裸の黒い土地であった。

待合室の建物も、途中の倉庫めいた建物も、みな土地を掘って建てられ、半分は地面よりも下になるように造られている。もちろんこうするより外に仕方がないのである。待合室の中は暖かく、電灯があかあかとついている。熱い珈琲を一杯のんで、真暗な外へ出てみる。

よく見ると、掘り上げた土を建物の周囲に盛って、それを幾分ロックガーデン風に造ってある。この恐しい島に住まねばならない人たちへの、せめてもの心づくしなのであろう。このガーデン風にちょっと手を入れてあるところに、千島などと同じような高山植物が、可憐な白い小さな花をつけている。その外には、牧草風な雑草が少しあるくらいで、一面に荒れ果てた土地である。霧雨に濡れて寒いので、直ぐ部屋の中へはいる。

一時半出発。僅か三十分くらいのうちに、もう外は薄明りとなり、東の空が白んでいる。時計の針を三時間進めて四時半にする。もう大分東へきたという気がした。

機は急速に高度をとって、どんどん昇って行く。そして六千フィートくらいのところで、やっと霧の上に出る。そしてまた落着いた静かな飛行にうつる。アリューシャンの島々は、一面にこの霧の下に埋めつくされ、相変らず平坦な霧頂の上の飛行をつづける。セミア島の画面をカットすれば、前どおりの景色の連続である。しかし空はだんだんと白んでくる。

いつの間にか寝込んでしまったが、ふと眼を覚ますと、茶褐色の平らな土地の上を飛んでいる。空はよく晴れ、白いちぎれ雲が、点々と下を流れている。アラスカの本土からずっと西へ伸び出ているアラスカ半島の上を飛んでいるのである。初めて見るアラスカの土地は、予想どおりに、人界を遠く離れた景色である。

立木らしいものは、ほとんど見られない。ただ一面に平滑な、赭くはげた土地の上を、原始状態の川が縦横に流れている。そして彼方にアリューシャン山脈のけわしい岩山が、たくさん並んで黒く見える。いづれも雪渓が無数にあって、細い真白い線をなして岩肌を筋どっている。どの渓谷もみな、よほど険しい深いV字型渓谷になっているのであろう。

やがて遥か彼方、煙霧めいた層雲の上に、高い真白な峻峰が二つ並んで、その姿を現わしてくる。初めはちょっとマッキンレイかと思ったくらいの壮大な岩山である。しかしやはりアリューシャン山脈中の高峰であることが分った。一万数千フィート級のものらしい。それでも寒帯地方の高山だけに、初めて見る峻厳な山の姿である。あこがれのアラスカへ遂にきたという感じがした。

アンカレージの近くへくると、さすがに緑の土地になる。しかし針葉樹の疎林と灌木との平坦な土地で、見渡す限り一面の湿地帯である。氷河の名残りである小さな沼が、この平らな湿地帯の中に、無数に散在している。人間の営みらしいものの気配は、やはり全く見られない。依然として原始の土地である。この湿地帯のつづきの中に、近代設備の完備したアンカレージの飛行場が出来ているのである。

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