六
裕佐はその日の日暮れ近くまで客を待っていた。しかしだれも来なかった。で、彼は先刻から選りそろえておいた七、八冊のさし絵入りの漢書――それは皆彼の父が丹精して手に入れたものであった――を風呂敷に包み、また、彼の父が始めて南蛮鋳物の術を習いに幕府からヨーロッパへ派遣させられた時のみやげである小さい浮き彫りの鋳物をふところに入れると包みを抱えてふらりと表へ出た。
古書と古道具の一切を売買する銅座町のある店で彼はその漢書を売り、またその浮き彫りを見せた。それは「大天使みける」が竜とたたかっている黙示録の中の一図で、むろんキリスト教に関係のある物ではあるが、直接ヤソの生涯を題材にしたものではないので、単なる異国の美術品として、門外漢に見せてもすぐさま疑られるおそれのある品ではなかった。
「結構なもんですなア。なんですか、これも譲っていただけましょうか。」
狡猾そうな主人はよだれを流さんばかりの表情を隠し得ずにこういいながら彼の顔色をうかがった。
「いや、それは売るんじゃないんです。」
裕佐は思わずこう答えた。彼はそれを売るつもりで持って来たのであったが、それを主人に見せると同時に急に惜しくなったばかりでなく、なぜかそれは自分にとって売ってはならぬ意味のある物のようににわかに思われてきたのであった。そうしてそう答えたのにホッと安心した一息をもらして、漢書の金を受け取ると、またその鋳物をふところにして愴惶と店を出た。
「これでおれはまた、二度や三度はあの女にあう事ができるのだ。確実に。」
こう思うと彼はもう胸がぞくぞくとおどるように身をふるわせた。そして興奮した足どりで、北風に逆らいながら坂道を上って行った時、
「萩原さん」と後ろから思いがけない声がした。
彼は振り返った。そして一人の青年が小走りに彼を追って来るのを見た。
「藤田君?」
と裕佐はいった。そしてサッと顔をあからめながらも何か思いがけぬ喜びに出あったように、にこにこして逆戻りにそちらへ近づいて行った。
「しばらく。どうもあなたじゃないかと思った。」
と青年は寒気の中を急いだためにその健康な色の頬をなおりんごのように紅くし、汗ばんだその額を一ぬぐいして、息を吐きながらいった。
「ほんとうにしばらく。すっかりごぶさたしてしまって。」裕佐は少しもじもじしていった。「皆さん、お変わりないの。」
そうして彼は頬をあかくした。「皆さん」という言葉がすぐある人をさしての意味にこの青年に取られることをおもいながら、しかもその意味に取ってもらいたいために。「え、ありがとう。皆丈夫です。」と青年は何か工合わるげに下を向いて答えた。「こちらこそごぶさたしています。」と口ごもるようにいったあとで、「これからどちらへ?」ときいた。
「別にどちらへというわけでも――」
「そう。じゃ、よかったら少しいっしょに歩きませんか。久しぶりに……」
美しい青年はそのぱっちりした大きな黒いひとみに、弟の兄に対するような親しみをこめて裕佐の顔をのぞいた。彼は一つの包みを持ち、紺飛白の着物に羽織も着ず、足袋もはかずに、ヒビの切れた足にほお歯の下駄をはいていた。
「え、歩きましょう。」と裕佐はいった。「どこへ行ったんです?」
「何、ちょっと町へ。売り物があって――」
「売り物?」
「ええ、」青年は少しはずかしそうにいった。「造花を売りに。」
「造花、造り花をですか。」
「ええ、ちょっと必要があって。」そして彼は包みの中から一つの白ゆりの造花を出して見せた。「こんな無細工なものだからどうせ少ししか売れやしませんが。」
「君が造ったんですか。」
「いいえ、みんなで造ったんです。僕の母や姉や近所の人たちで。」
裕佐はうつむいて、黙り込んだ。
「このごろでは始終造花を売っておられるんですか。」彼は突拍子もなくこんなことをきいた。
「いいえ。――今日だけです。今夜は――」と青年は声を低めて「降誕祭ですから。」
「降誕祭。――今夜がですか。」
「ほんとうは今夜ではありません。明後日です。」彼はあたりを見ながらいった。「――けれどもほんとうの当日には詮索がきびしいからかりに今夜ひそかな御祝祭をするんです――よかったら来てごらんなさいませんか。」
裕佐はあかくなった。偶然にも吉三郎というこの青年も自分もともに町へ売り物に行き、そしてともに若干の金をふところにしている。「しかし自分のは女を買わんがための金であり、吉三郎のは聖なる人の誕生を祝し、それを記念せんためのひめやかな集まりを飾ろうとしての金子である。むろんおれには切支丹とならない立派な理由があるのだ。そしておれがあの女を『買う』というのも、それにはいやでも応でも金銭が必要とされる不快な事情からで、決していわゆる遊蕩ではない。なんで恥じるにあたるものか。」少しでもまじめな心あるすべての遊蕩者が初めに必ずするごとく彼は心の中にこう弁解した。
しかしそうは思いつつも彼はこの青年と並んで歩きながらなんとなく自分を汚れたものに感じないわけにはゆかなかった。吉三郎は自分より三つしか齢下ではない。しかもいつまでも童顔の失われぬ、あふるる日光のうちにのびのびと育つ若木のようなそのまっすぐな善良さ。顔の明るさ、星のごとく澄んでみじんも濁りの見えぬ子供のそれのようなきれいなひとみ。そのみずみずしい健康なからだの全体に現われているふっくらとしたやわらかみ。それらはこの世の意地わるを知らず、皮肉を知らず、淫欲の妄想に苦しめられる不眠の夜な夜なを知らぬ者のごとき顔である。単純な信仰者にのみ見られる平和の顔である。その人と今並んで歩く自分の顔のいかに不健全に病人のごとく蒼ざめ、頽廃して見えることであろう。彼は自分のぞべぞべした絹の着物と青年の粗末な着物の対照からも、ついこう意識せずにはいられなかった。
「こいつは単純なんだ。羊や兎のように。しかしその単純がなんだ。」
彼はこう思ってのん気に吉三郎を子供扱いしようと思いながらも、どこかに引け目を感じずにはいられないのが自分で不快であった。「よかったら来てごらんなさいませんか。」と吉三郎にいわれて、「いや、僕はある遊女の所に行かなければなりませんから。」とはいえるものではない。
「僕がですか?」裕佐は口を切った。「しかし僕は信者ではありませんからね。」
「かまやしません。来てくださればうれしいのです。」と青年はいった。「もっとも万一のことがあってはご迷惑ですから、無理におすすめもしませんが。」
「発覚ですか? そんなことは平気ですが。――あなたのお家で僕が行ってはご迷惑でしょう。」こういって裕佐は自分の言葉の刺に顔をあかくした。
「そんなことあるもんですか。」と青年は苦しそうに打ち消した。「それに僕の家でやるんではないです。わきでやるんです。おそく夜中に。」
「しかしいずれあなたのお家の方もいらっしゃるんでしょう。」
「ええ。父は病気で来られませんが、母と姉とは行きます。あなたがいらっしゃれば姉は喜ぶでしょう。」
この一言を聞くと裕佐は耳の根までをサッと赤くした。彼はさわってもらいたくない、そのくせまったくさわられなかったらまた不満である傷口にさわられたのである。それは永い涙の忍従と苦い苦い血とによってようよう皮をかぶせたばかりの深い傷手であった。しかも再び皮を引きはがされた傷口からは、皮のできる前よりはさらに治しがたいほどの痛みをもってだくだくと血が流れ出さずにはいなかった。彼はほえたい口を封じられたように全身をふるわせた。
「よしましょう。――お気の毒だから。あなたの方にも僕自身にも。」
裕佐は青年の同情ある慰め言にかえって立腹したかのように、顔を火のごとくほてらせて苦々しくこういった。
吉三郎は苦しそうに口をつぐんだ。
「あなたはご自分を切支丹と認めないだけのために、何かこうご自分のうちの宗教的な性質をまで否認しようとしていらっしゃるんじゃないでしょうか。」褐紫色の桜のわくら葉を下駄の歯でかき寄せながら吉三郎は口を切った。「そうしてしいてその方の門をご自分でとざそうとしていらっしゃるんじゃないでしょうか。いったい良心の鋭い、理性的な人に限ってそうなる傾きがあるのはまったくなげかわしいばかばかしいことだと思いますね。」青年はつづけた。「僕にいわせると、そういう人たちは皆あまりにキリスト教にとらわれているのです。なぜといえば今時ほんとうに良心と理性との目ざめた精神的要求の豊かな人が、自分を無良心だと思わずに、その門にまったく無頓着であることは不可能なことだからです。もっとも中には自分が信者になれないのは発覚して殺されることがこわいからだと人から思われたり、自分でも思うことが業腹なので、ただ自分のむなしい勇気を示したいだけのために洗礼をうけたりしたものもありますが、そういうばかばかしい『潔さ』に負けないだけの強さとひがみを持った人はまた無理に悪魔主義になって、その尊い生命を持ちくずし、やけに棒に振ってしまったりするのです。――あなたが苦しまれたことは私はよく知っていますよ。」
「まったくもし芸術がなかったなら僕は破滅したでしょう。」裕佐はさえぎった。「――しかし今では僕はまるでちがった考えを持っています。僕が異端なのは決して自暴自棄からではありません。ただ天性そう生まれついているからなのです。僕は悪魔主義者でもなければ神主義者でもない。いわば一種の自然主義者です。そしてそのことにすこしも良心の苛責を感じてはいません。実際のところ僕はもう宗教には冷淡です。僕は信仰の素質があろうとなかろうと、それを君がきめることは勝手ですが、僕にはどっちでもいいことなのですよ。」
「そうです。結局どっちでもいいという放任した気持ちにまでならなくてはだめです。それは自暴自棄に似ていて、およそ反対なものです。つまり御心のままにならせたまえという一番敬虔な気持ちと同じわけですからね。」
「ふむ。その意味とはちがうのですが。」裕佐は冷ややかに苦笑した。「しかし君の親切な厚意から出る故意の誤解を僕は拒もうとは思いません。僕の方からいわせれば、君こそ単にキリストのお弟子としてのみ一生をおわることは惜しい気がするのですが。しかし僕は、君が自由思想家になることを君に勧めようとも思いません。それは人間として僭越なことですからね。だから君も僕をこのままに打っちゃっといてくれたまえ。」
彼はその「人間として僭越」という言葉に皮肉な力を入れていった。
「そうです。人は要するにめいめいその課せられた道によって神に近づくよりないのですからね。」青年はあきらめたようにさびしそうにいった。「ただ僕は今日本でキリストの像を真に生けるがごとく写すことのできる人がいるとしたら、それはあなただけということを知っています。お世辞ではありません。だから僕は安心してあなたを信じていますよ。」
「ふむ。恐縮ですね。」と裕佐はいった。「ともかくそのゆりの花を一つ買わせてもらいたいものですね。いけませんか。」
「どうぞ買ってください。――しかしちょっとここで休んで行きましょうか。」
「ここでもいいが、あの神社の中はどうですか。あそこにはもう少しキレイな茶店があります。」
「神社仏閣は僕らに少し鬼門なのですよ。ただの参拝者のようなふうをしてそれとなく礼拝しない者を探りに来ているお役人がよくいますからね。」
「うるさい狂犬たちですね。じゃまあここにしましょう。」
そして二人はある見晴らしの縁台に腰をかけた。