Chapter 1 of 8

球突の球の響

アントン・チエエホフの名戯曲「櫻の園」の第三幕目の舞台の左奧手には球突塲がある心になつてゐる。舞台はいふまでもなく櫻の園の女主人ラアネフスカヤの邸宅の廣間で、時は春の夜、その地方の名家もやがて沒落といふ悲しい運命の前にあるのだが、そこにはロシヤのいはゆる「千八百八十年代の知識階級」である處のラアネフスカヤを初め、老若の男女達の十余人が集まつて舞踏に興じてゐる。然し、さすがにどことなく哀愁にみちた空氣。間もなく邸宅にいよいよ買手がついたといふ話が傳はつて、ラアネフスカヤが悲しみに打たれて卒倒する塲面となつてくるのであるがその間裏手からカチン、カチインと絶※ず聞※てくる球突の球の響きはさういふ塲面の空氣と對應して、いかにも感じの美しい、何ともいへない舞台効果をなしてゐる。いつたい「櫻の園」には第一幕の汽車の音、第二幕のギタアの音色、第四幕の終りの櫻の木を切り倒す斧の響きなどと、塲面々々の感じと相俟つて音響の効果が實に巧に用ゐられてゐるが、私の狹い知識の範圍では、戯曲に球突の球の響きなどを用ゐたのはひとりチエエホフあるのみのやうである。

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