Chapter 1 of 1

Chapter 1

五月のある晴れた土曜日の夕方だつた。いつになく元※のいい、明るい顏付で勤め先から帰つて※たM会社員の青木さんは、山の手のある靜かな裏通りにある我家の門口をはひると、今まで胸に包んでゐたうれしさを一時に吐き出すやうにはしやいだ声で奧さんの名を呼んだ。と奧さんはびつくりした様子で小赱りにそこへ迎へ出て※た。

「お帰んなさい。――いつたいまあ何なの? いきなりそんな大きな声をなすつて……」

さうたづねかけながら、奧さんは女学生らしさのまだ十分にぬけきらない若々しいひとみを青木さんに投げかけた。

「いゝ事、素適な事があるんだよ。」

さう答へて玄関にあがると、機嫌のいい時にするいつもの癖で、青木さんは小柄な奧さんの體を軽く引き寄せながら、そのくちびるに短い接ぷんを與へた。

「まあ、何んでせう?」

奧さんはたくましい青木さんの肩に片手をかけたまゝこびるやうにその顏を見上げた。

「うむ、あれさ。あれをとうとう今日受けとつて※たんだよ。」

「あれつて?」

「ほら、あれさ。」

「ああ、わかつた。うれしいわね。――どんな番号だつて?」

「それがさ、馬によささうな番号なんだよ。――ちよつとお待ち……」

さういひながら、玄関つゞきの茶の間へはひると、青木さんは紙にくるんだ額面十円の△△債劵を背広の内がくしから、如何にも大事さうに取出した。

「これなんだよ。――ほらね。ちの一万二千三百七十五号、何だかいゝ番号だらう?」

「ちの一万二千三百七十五号、さうね、ほんとにいゝ番号だわ。」

奧さんは晴れ晴れしくひとみを輝かしながら、暫らくその額面に眺め入つてゐた。

「何だかあたりさうね。」

「さうなんだ。僕はその番号を一目見た時、直感的にさう思つたね。」

青木さんは興奮した声でさう相づち打つた。

「あたつたら、実際素適だな。」

「素適以上だわ。――一万二千三百……」

「……七十五号。第一、五がつくのなんて半端な処がなくて馬にいいよ。」

「さうね。ちの一万二千……」

青木さん夫婦はこの頃にない張りのある、明るい※持で、希望と信頼の笑顏を互にぢつと見交し合つた。

従兄妹同志で恋し合つて、青木さんの境遇にすれば多少早過ぎもしたのであつたが、互に思ひつめた若々しい熱情のまゝに思ひ切つて結婚生活にはいつた二人は、まる三年間を※たその頃になつて、可成りな生活難にとらはれてしまつた。といふのは、少年時代に両親に死に別れた一人つ子の青木さんは、僅かなその遺産でどうにか修学だけは済ましたものの、全く無財産の身の上だつた。で、新婚生活は七十円足らずの月給で始められたが、間もなく女の子が生れた上に、世間的な物價騰貴で、その後の暮しはだん/\苦しくなるばかりだつた。そしていつとなく青木さん夫婦は、かつては夢にも想像しなかつた質屋の暖廉くぐりさへ度重ねずにはゐられなくなつてしまつた。

「いやだいやだ。僅かな金で月々こんなみじめな思ひをさせられるなんて……」

月末が近づくと、青木さんはいつも暗い顏付でそんな事をつぶやきながら、ため息づいたり、いらだつたりした。そしてそんな時、人のいい※の弱い奧さんは何の詞もなくたゞまぶたをうるませてゐるばかりだつた。

相当な身柄の家に育つただけに青木さん夫婦は相方共に品のいい十人並な容姿の持主で、善良な性格ながらまた良家の子らしい、矜持と、幾らか見えを張るやうな※質もそなへてゐた。で、世間眼にすれば、どこにも生活に苦しんでゐるらしい様子は感じられないのであつたが、もとより切りつめた、地道な所帶持などには全くならされてゐない二人にとつては、それだけにその苦しみや不快さが一そう深かつた。とりわけ空想家で何かの趣味道楽なしには生きられない青木さんにとつては、ただ金に追はれてばかりゐるやうな、あくせくした日々の生活がむしろのろはしいくらゐだつた。しかし、月給の上る見込みもなかつたし、ボオナスも減るばかりの上に、質屋や近しい友達からの融通もさうさうきりなしとは行かなかつた。結局、このまゝ暮し続けて行くとしたら? さう考へた時、二人はせうさうをはげしい心に感じた。

「やつぱり金だ。少しでも生活に余裕のつけられるやうな金が欲しいな。」

表面にこそ見せなかつたが、青木さん夫婦の頭にはさういふ思ひがいつも一杯だつた。

そこへ突然一つの誘惑として現はれたのが、政府発行の△△債劵を買ふ事だつた。それはある日会社りの勧誘員がすすめて行つたものだつたが、額面十円一等二千円のあたりくじ二本を最高として額面倍増の最低のあたりくじまで総計二千本、あたらずとも六分利付で損なしといふやうな事が、可成り空頼めな事ながら、一面空想家の青木さんの※持を強く刺げきした。悲運な者にめぐつてくる時ならぬ福運、そんな事までがしきりに考へられた。そして、奧さんの熱心な賛成を得た上で、苦しい内から漸く工面して、非常な期待とともに買ひ求めたのが、ちの一万二千三百七十五号といふたつた一枚の、その△△債劵なのであつた。

背広を軽いセルのひと衣にぬぎ換て、青木さんが奧さんと一緒につましやかな晩さんを済ましたのはもう八時近くであつた。青木さんはすぐに縁の籐イスに身を寄せて煙草をふかしながら、夕刊を読みはじめた。やがて台所の片づけ物を済ました奧さんは次の間に寢かしてある子供の様子をちよつと見てくると、また茶の間へはいつて※て、障子近くに引きよせた電燈の下で針仕事にとりかゝつた。靜かなよひで、どことはなしに青葉の香をにほはせたかぐはしい夜風が庭先から流れてくる。二人の間にはそのまま暫らく何の詞も交されなかつた。

「ほんとに※持のいゝ晩だな。」

間もなく夕刊を縁に投げ出した青木さんはさうつぶやきながら、奧さんの方を振り返つた。

「ええ、ほんとにね……」

奧さんは針の手を休めて、靜かに答へた。

刹那に、二人の口元には何とない微笑が流れあつた。さつきまでの※持の興奮はいつとなくさめかかつてゐたが、それは心のどこかにまだほのかな明るさを投げてゐた。そして二人は暗默の内にもお互が何物かの中にぴつたりとけあつてゐるやうな、その日頃にない甘い、しみじみした幸福感をそれぞれに感じてゐた。言葉はそれなりに途切れて、青木さんは庭の暗やみの方に眺め入り、奧さんは針の手を再び動かしはじめた。

「でもね、あなた?」

やがて奧さんはまた口を切つた。

「何?」

「あれ、ほんとにあたるでせうか?」

「さあ、そりや分らない。すべては運命の神様の御意のまゝなんだからな。」

青木さんはちよつとさびしさうな表情でいつた。

「だつて……」

「いや、だからさ。僕はやつぱりあたるものと信じるな。信じるだけでも、今の僕達には楽しいんだからね。ははははは……」

青木さんはうつろな声で笑つた。

「ええ、そりやほんとにさうね。」

奧さんは一心に針を動かしながら、うつ向いたままさういつた。

「でも、若しほんとにあたつたら?

「そりやうれしいね。飛びあがつて、※※ひのやうにおどりまはるかも知れないよ。」

青木さんの声は何となく上ずつてゐた。そして、わざとらしいはしやぎ方で身體をゆすぶりながら笑つた。

「だがね、うれしいどころか、反対に凄くなりやしないか知ら? 一等だと二千円――僕の二年分の給料以上のお金がいきなり懷に飛びこんでくる……」

そこで言葉を途切つて、青木さんは不意に眞顏になりながら、ぢつと奧さんの顏を見詰めた。

「何だかこはいやうね。――さうさう、いつかあつたぢやないの? 千円かの無尽にあたつて発狂したといふおぢいさんが……」

「はははは、僕達はそんなに※が小さかあない。しかしいいな。今それだけのお金があつたら……」

「ほんとにさうね。あたしお借りしてある方のを、一番にお返ししたいわ。」

奧さんは針の手を無意識なやうに膝に休めて、ほの白んだ、硬張つた顏を青木さんの方に向けながら、眞劍な声でいつた。

「そりや無論だね。」

青木さんは強く相槌打つた。

「それから、あなたどうなすつて?」

「さあ、ヴイクタアを買ふね。武井の持つてるやうな……」

「ええ、ヴイクタアはいいわ。ずゐぶん欲しがつてらつしやるんだから。――あたし、何にしようか知ら?」

「君の欲しいのはやつぱり着物かな?」

「あら、着物なんかいらなくつてよ。――さうね、あたしの今一番欲しいのは上等の乳母車よ。ほらキルビイさんのお宅にあるやうな。あたし※子をあんなのに乘せてやりたいわ。」

「しかし、乳母車なんてお安い御用さ。」

「それから、柳のイスやテエブルを一組と、茶だんすのいいのを欲しいわね。」

「さうださうだ。イスやテエブルは第一番だな。だが、さうなると、紅茶器なんかの上等も欲しくなる……」

「あら、それぢやきりがないわね。」

奧さんは朗かな声で笑つた。

そのまま暫らく詞は途切れた。青木さんも奧さんも明るい、楽しげな表情で、身動きもせずに考へこんでゐた。

「でもね、美奈子。二千円あつたら、どうにか家が建てられるかも知れないよ。そしてそんな一つ一つの品物なんかよりも、考へてみりや、その方がずつと根本的な事だと思ふ……」

「ああ、ほんとにさうだわ。幾ら道具が立派だつたつて、こんな家ぢやあね……」

奧さんはあたりを見まはしながらさういつてやんちやらしくひよいと首をすくめた。

「で、建てるとなると、やつぱり郊外ね。」

「うむ、そりやさうだとも。大井だの目黒だの。僕すきだな。あすこら辺のちよつと高みに、バンガロオ風の家でも建てられたら、どんなにいいか知ら?」

「とても素適だわ。」

奧さんは高く声をはづませた。

「全く惡くないね。間数はと? 僕の書斎兼用の客間に君の居間、食堂に四疂半ぐらゐの子供部屋が一つ、それで沢山だが、もう一つ余分な部屋が二階にでもあれば申分なしだね。そして庭はなるたけ広くとつて芝生にする。花壇をこしらへる……」

「あたし、野菜畑も作りたいわ。」

「いいね。普通の野菜物は無論として、外にトウモロコシだのトマトウだの、トマトウのとり立てつて、ほんとにおいしいからな。」

「さうね。それからダリヤも思ひつ切り植てみたいわ。」

「うむ、六七月頃になると、それを切花にして客間に飾る……」

「ああ、どんなに奇※でせう?」

奧さんは黒未勝ちな、若々しいひとみを夢見るやうに見張りながら、晴れやかにつぶやいた。

言葉はまた暫らく途切れた。と、程近くのイギリス人の家でいつとなく鳴りはじめたピヤノの音が、その沈默をくすぐるやうに間遠に聞こえて※た。それに聞くともなく耳を傾けながら、青木さんは靜に煙草をふかし、奧さんは針の手を休めたまま、互にうつとりと今までの空想の跡を追つてゐたが、その空想はなぜかだんだんに影を薄めて行つた。そして、二人の意識の中にはたつた三間しかない古びた貸家である自分の家が、ほんとに猫の額ほどの庭が、やつとの思ひで古道具屋から買つて※たただ一脚のトイスが、いや、あまりにもそれとかけ隔たつたさういふみじめな現実のすべてがうつすりとよみがへつて※た。

「さうさう、それからねえ……」

やがて青木さんはその冷やかな現実の意識を逃れようとするやうに、新たな空想をゑがきながら、奧さんを振返つた。

「何?」

「さうなつたら、何か小鳥も飼はうぢやないか? カナリヤ、目白、いんこ……」

「ええ、それもいいわね」

奧さんの声にはもう何となく張りがなかつた。そして、そのままひざに視線を落すと、思ひ出したやうにまた針の手を動かし始めた。

「しかし、いいな。若しすべてがそんな風に行つたら、ほんとにどんなに楽しい、どんなに美しい生活だか知れないな。――一日でもいいから、たつた二日でもいいから……」

青木さんはふと一人言のやうにさうつぶやいて、軒先に見える晴れた夜空をぢつと見上げた。が、さういふ空想の明るさとは反対に※持は妙に暗く沈んで行つた。

奧さんは青木さんのさういふ※持をすぐに感じた。そして、青木さんの横顏に――夜やみの中に浮んでゐるくつきりした横顏にちらと視線をそゝいだが、すぐに眼をしばしばさせて、くちびるをかみながらまたうつ向いてしまつた。

「しかし、そりやさうとして、何とかくじがあたらないものかな? 今の僕達には何等だつて構はないんだ。ねえ、さうだらう?」

青木さんは不意に奧さんの方を見返つた。

「ええ。――ですけれど、もうそんな話しよしませう。あたし何だか……」

奧さんはうつむいた侭いつた。

「どうしたの?」

「いいえね。幾ら思つてみても、そんな事、あたし達には駄目なんですもの……」

奧さんはかすれたやうな声で答へながら、青木さんの顏を見上げた。

そのせつ那に、奧さんのまぶたに一杯にじんでゐた涙にひよいと※がつくと、今まで何※なさを装つてゐた青木さんの心は思はずよろめいた。青木さんはあわててイスから立ち上つた。が、すすり泣きはじめた奧さんの肩に手をかけると、また心をとり直しながら、力強く、慰めるやうにその耳元にささやいた。

「そ、そんな事考へちやいけない。僕達はせめてさういふ夢でも楽しんでゐたいぢやないか。――それにまた、思ひ掛ない巡り合せで、人にはどんな好運が向いて※ないとも限らないからね……」

ヽヽヽヽヽヽヽ

それから半年ほどたつた時、ちの一万二千三百七十五号の△△債劵は仲買人を※て、ある田舍の大地主の手に渡つてゐた。青木さん夫婦は僅かな金の融通のために仕方なく手離したのであつたが、それが間もなく五等百円のくじにあたつた事は無論知るはずもなかつた。―一四・四・一八―

●図書カード

Chapter 1 of 1