Chapter 1 of 4

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There are more things in heaven and earth, Horatius, Than are dreamt of in your philosophy.Shakspeare, Hamlet.

ハムレット「――この天地の間にはな、所謂哲学の思いも及ばぬ大事があるわい。……」

シェクスピア

M警視総監閣下 日頃一面識も無き閣下に突然斯様な無礼な手紙を差し上げる段何卒お許し下さい。俗間の所謂投書には既に免疫して了われた閣下は格別の不審も好奇心をも感ぜられず、御自身で眼を通すの労をすら御厭いになる事かとも存じますが、私の是から書き誌す事柄は他人の罪悪を発かんとする密告書でも無ければ、閣下の執政に対する不満の陳情でも御座いません。実は私は一人の女を撲殺した男でありまして、――と申しましても私自身その行動に就いては或る鬼魅の悪い疑問を持っているのでありますが、然も己が罪悪を認めるに聊かも逡巡する者でなく会う人毎に自分は人殺しだと告白するにも拘わらず、市井の人は申すに及ばず所轄警察署の刑事迄が私を一介の狂人扱いにして相手にしては呉れません。閣下の部下は、閣下は、我が日本国の捜査機関は、一人の殺人犯を見逃してそれで恬然と行い済ませて居られるのでありましょうか? 私は私の苦しい心情を、殺人犯で有り乍ら其の罪を罰せられないと云う苦しさを、閣下に直接知って戴いた上其の罪に服し度いとの希望を以て此度斯うして筆を取った次第であります。一個の文化の民として、罪を犯し乍ら其の罰を受けないと云うのは、如何許り苦しい事でありましょうか?――。是は其の者に成って見なければ判らない煩悶でありましょう。何よりも私は世間の者より狂人扱いにされる事が堪らなく苦痛なのでありまして、此の儘此の苦痛が果し無く続くものであるならば、いっそ首でも縊って我と我が命を断つに如かないと屡々思い詰めた事でありました。私が何故一人の女を、私自身の妻房枝を殺さなければならなかったか?――。其の理由を真先に述べるよりも、私が初めて妻の行動に疑惑を抱いた一夜の出来事から書きつづる事に致しましょう。斯く申し上げれば閣下は「お前の女房は焼け死んだのではないか」と反駁なさるかも知れませんが、私は他ならぬ其の誤謬を正し私と共々此の不気味な問題を考えて頂き度いのでありますから、短気を起さずと何卒先を読んで下さいまし。それは昨年の二月、日は判乎と記憶にはありませんが、何でも私の書いた原稿がM雑誌社に売れてたんまり稿料の這入った月初めの夜の事でありました。現在でも私は高円寺五丁目に住んで居りますが、其の頃も場所こそ違え同じ高円寺一丁目の家賃十六円の粗末な貸家を借りて、妻の房枝と二歳になる守と共々に文筆業を営んで居たのであります。元々私の生家は相当の資産家で、私が学生で居る間は、と申しましても実際は一月に一時間位しか授業を受けず只単に月謝を払って籍を置いて居たに過ぎませんが、其の間は父から毎月生活費を受けて居たのでありますが、一度学校を卒えるや、其の翌日から、――前々から私の放蕩無頼に業を煮やして居た父は、ぴたりと生活費の支給を止めて了ったのでありまして、そうなると否でも応でも自分から働かねばならず、幸か不幸か中学時代から淫靡な文学に耽溺して居た御蔭で芸が身を助くるとでも謂うのでありましょうか玉ノ井繁昌記とかレヴュウ・ガァルの悲哀とか云う低級なエロ読物を書く事に依って辛じて今日迄口を糊して参ったのであります。或る秘密出版社に頼まれて、所謂好色本の原稿を書き綴って読者に言外の満足を与えた事も再三でありました。……

偖、斯うして家庭が貧困の裡に喘いで居乍らも、金さえ這入れば私は酒と女に耽溺する事を忘れませんでした。病的婬乱症――此の名称が男子にも当て嵌るものであるならば、其の当時の私の如き正に其の重篤患者に相違ありませんでした。最早や二歳の児がある程の永い結婚生活は、水々しかった妻の白い肉体から総ての秘密を曝露し尽して了いまして、妻以外の女の幻影が私の淫らな神経を四六時中刺戟して居りまして、その為大事な理性を失って居た位であります。其の日、二月某日の夜は寒い刺す様な風が吹いて居りました。金を懐に七時頃家を飛び出し、其の頃毎夜の如く放浪する浅草の活動街に姿を現わしました。都バアで三本許りの酒を飲んでから、レヴュウ見物に玉木座の木戸を潜りました。婦人同伴席にそっと混れ込んで、――是は私の習癖で御座いまして、一時間余り痴呆の様になって女の匂いを嗅ぎ乍ら、猥雑なレヴュウを観て居る裡に、忽ちそんな場所に居る事が莫迦莫迦しくなり一刻も早く直接女との交渉を持った方が切実だと謂う気になりまして直ぐ態其処を飛び出して了いましたものの、何分時間が早いので一応雷門の牛屋に上りまして鍋をつっ突き酒を加え乍ら、何方方面の女にしようかと目論見を立てる事に致しました。飲む程に酔う程に、――と申しましても私は如何程酒精分を摂っても足許を掬われる程所謂泥酔の境地は嘗て経験した事無く、只幾分か頭脳が茫乎して来まして所謂軽度の意識溷沌に陥り追想力が失われる様で有ります。従って酔中の行動に就いては覚醒後全然記憶の無い場合が往々有ったのであります――益々好色的な気分に成って未だ当の定らない裡に最早や其の牛屋に坐って居る事に怺えられなく成り、歩き乍ら定めようと元の活動街の方へ引返して参りました。池之端の交番を覗くと時間は意外に早く経過したものと見え時計は十一時半頃を示して居りました。閉館後の建物は消灯して仄暗い屋根を連ね人脚もばったり途絶えて、偶に摺れ違う者が有れば二重廻しに凍え乍ら寒ざむと震えて通る人相の悪い痩せた人達許りで、空には寒月が皎々と照り渡って居りました。酔中の漫歩は自ら女郎屋に這入る千束町の通りを辿りまして、軈て薄暗い四辻に出た時です。――旦那、……もしもし、……旦那。……と杜切れ杜切れに呼ぶ皺枯れた臆病想な声が私の耳の後で聞えました。私は立ち止って振り返る必要は無かった、と云うのは電柱の蔭に夫迄身を潜めて居たらしい一人の五十格好の鳥打帽にモジリを着た男が、素早やく私と肩を並べて恰も私の連れの如く粧い乍ら、ぶらりぶらりと歩調を合わせて歩き始めたからであります。私は其の男が春画売りか源氏屋に相違無い事を、屡々の経験から直ちに覚る事が出来ました。案の定男は、相手の顔から些の好色的な影も逃すまじとの鋭い其の癖如才無い眼付きで、先生、十七八の素人は如何です?――と切り出して参りました。矢張り源氏屋だったのであります。私とて是迄彼等の遣口には疑い乍らも十度に一度は真物に出喰わさない事も無かろうと微かな希望を抱き、従って随分屡々其の方面の経験は有りましたが、其の範囲内では毎時ペテンを喰わされて居ました。三十過ぎにも見える醜い女が、小皺だらけの皮膚に白粉を壁の様に塗りたくり、ばらばらの毛髪をおさげに結って飛んでもない十七八の素人に成り済まし、比類稀なる素晴らしきグロテスクに流石の私も匆々に煙を焚いた程の非道い目に会った事も有りまして、当時は一切其の方面の女には興味を失って居る時でしたが、其の夜は奇妙な事に、十七八の素人と謂う音が魔術の如く私の婬心を昂らせたのであります。十七八の素人か、悪くは無いな、だけど君達の言う事は当にならないんでね、と私は平凡な誘惑に対して平凡な答をしますと、男は慌てて吃り吃り、と、と、飛んでもない、旦那、ほ、ほんものなんでさあ、デパアトの売子なんで、……堪りゃせんぜ、あったく、サァヴィス百パアセットですよ。と掻き立て乍ら相不変にやついて居ります。売子だとすると朝は早えな、と訊きますと、へえ、其処を一つ勘弁なすって、何ひょろ、もう一つ職業が有りますんで、と揉手をし乍ら答えます。忙しいこったね、と此方もにやにやし乍ら冷かしますと、男は頭を押えて、へへへへ、此奴も不景気故でさあ、お袋が病気で動きがとれねえんで、そう云う事でもしないてえと――と、答えます。私は益々乗気になって、まさか、お前さんの娘じゃあるまいね、と追及すると、相手は急に間誤間誤し出して、と、と、飛んでもねえ、と、ムキになって否定しましたが、不図パセティックな調子となり、でも、沁々考げえりゃあ他人事じゃ御座んせん、と滾しました。並んで歩き乍らこんな会話を交わして居ると、知らない裡に遊廓の横門の前迄出て了いましたが、気付いて立ち止った時には私の心は其の男の案内に委せる可く決って居りました。承託を受けると男は忽然欣喜雀躍として、弱い灯を受けつつ車体を横えて客待ちして居る陰気な一台の円タクを指先で呼び寄せました。嗟、閣下よ、其の夜其の男の誘いに応じたが為に、其の行先の淫売宿で不可解な事実に遭遇し貞淑であった妻に疑惑の心を抱き始め、遂には彼女を撲殺しなければならない恐ろしい結果を導いて了ったので有ります。

男は運転手に行先を命じはしましたが、小声である為に私には聞き取れず、遠方かい、と訊きますと、いいえ、直ぐ其処です、と答える許りで、自動車は十二時過ぎの夜半の街衢を千束町の電車停留所を左に曲し、合羽橋、菊屋橋を過ぎて御徒町に出で、更に三筋町の赤い電灯に向って疾走して行きました。遊廓付近はそれでもおでん立ち飲みの屋台が車を並べ、狭い横丁からカフェの女給仕の、此の儘別れてそれでよけりゃ、気強いお前は矢張り男よ、いえいえ妾は別れられぬ、別れられぬ――と音律も哀愁も無視した黄色い声が聞えて来、酔漢や嫖客が三々五々姿を彷徨わせて居り、深い夜更けを想う為には時計を見る等しなければなりませんが、一度其の区域を外れ貧しい小売商家街に這入りますれば、深夜の気配が求めずして身に犇々と感じられます。更けると共に月は益々冴え、アスファルトの道に降りた夜露は凍って其の青い光を吸い込んで居ります。自動車が三筋町の電停を一二町も過ぎ尚も疾走を続けようとした折に、夫迄石の様に黙り続けて居た男が、運ちゃん、ストップ、と陰気な嗄れ声を発しました。閣下に是非共其の場所の探索を命じて戴き度い為に地理的正確さを以て誌し続け度いとは存じますが、何分其の際軽度乍ら酔って居りましたし、酔えば必ず記銘力を失い、時間と地理の観念が極端に薄れて了うのが至極遺憾で有ります。男の案内に従いて上った問題の家と云うのは、電車街路に面した古本屋と果物屋、――多分斯うだったと思いますが、――の間の狭い路次を這入り、其の突き当りの二階家だったのであります。奥に二坪許りの空地が有りまして、共同水道が設置されてあり水の洩れて石畳の上に落ちる規則的な点滴の音が冷たそうに響いて居たのが私の耳に残って居ります。其の家は、――判乎記憶には在りませんが、其の貧相な路次の中では異彩を放つ粋な小造りの二階家で、男が硝子格子に口を押し付ける程近寄せて、今晩は、と声を懸けると、内部からはいと答える四十女らしい者の婀娜めいた声が聞えて来、夫迄消えていた軒灯にぽっと灯が這入りまして、私達の立って居る所が薄茫乎と明るくなりました。と同時に、家の内部で人の動く気配がして誰かが階段を登る軋音が微かにミシリミシリと聞こえた様であります。少々お待ちを、と男は言って、私を戸外に待たせた儘するすると格子を開けて忍びやかに内部へ姿を消しましたが、それと同時に其の家の二階に雨戸を引く音が聞えたので思わず見上げますと、隣家の側面に向いた小窓から島田に結った真白い顔を覗かせ、柔軟な腕を現わしつつ雨戸を引き乍ら私の方を見下ろして嫣然と流し目を送って来たのであります。閣下よ、女は悪くないものです。其の夜の一夜妻が其の小娘で有る事を直ちに悟り、期待した以上の上物なので情炎の更に燃え上るのを覚えました。稍々あって男が二三寸格子戸を開き、どうぞ、と声を掛けたので、いそいそと内部へ這入りましたが、男は私を玄関の三和土の上框に座布団を置いて坐わらせた丈で、何故か室内には招じ入れませんでした。寔に恐れ入りますが、もう少々お待ちを願います、と言われて見れば詮方無く、不承不承命じられた所に腰を下ろして、暫時合図を待つ事に致しました。斯う云う家が客を極端に警戒するものである事は、特に説明する必要も有りますまい。私の腰掛けた場所の右手の恰度眼の位置に丸く切り抜かれた小窓が有りまして、障子と障子の合わせ目が僅かに三四分程開いて、其の隙間から細い光線が流れて居ります。其の部屋は茶ノ間と覚しく凝乎耳を澄ますと鉄瓶の沸る音がジィンジィンと聞え、部屋には最初の男を加えて三四人は居るものと想像され、時折大きな影法師がユラリユラリと其の丸窓に映るのであります。暫くの間私を案内した男は其の宿の内儀と、――多分斯う想像するのですが、――周旋料に就いて小声で秘鼠秘鼠と相談し合って居る様子でありました。何事か符牒を用いて争って居るらしいので有ります。動ともすると両者の声の高まる所から想像すると、話が仲々妥協点に達しないらしく時折内儀の叩くらしいぽんぽんと響く煙管の音が癇を混えて聞えて参ります。私は所在無さに室内の空気に好奇心を覚え障子の隙間に片眼を当てて、ついふらふらと内部を覗いて了いました。私の想像した通り、隙間の正面には、長火鉢の傍らに四十格好の脂肪肥りにでっぷりした丸髷を結った内儀が煙管を弄び乍ら悠然と控えて居るのが見え、右手に坐って居る男、――是は見えませんでしたが内儀の視線の方向からそれと想像されます、――に向って熾んに捲し立てて居るのであります。内儀の隣りに、即ち私の方から向って左手に、正しくもう一人の女が居る事が想像されました。彼女は南京豆でも噛って居るらしく時折ぽきんぽきんと殻を割る音を立て乍ら、内儀の云う言葉に賛同を示すらしく至極下品な調子で含み笑いをしつつ男に揶揄的な嘲笑を浴せて居ります。最初の裡こそ私は単なる好奇心を以て窺いて居たのでありましたが、閣下よ、次の如き内儀の吐いた言葉を突如耳にして、ギクリと心臓の突き上げられる様な病的な驚愕を覚えたのであります。内儀は眉をキリキリとヒステリックに釣り上げ、首垂れて居る男に向って斯う叫んだのでありました、――バラされない内に、へえ左様ですかと下手に出たらどうだい、女だからってお前さん方に舐められる様な妾じゃないんだよ、ねえ、おふささん?……

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