一 子供時代の教育と精神
私は、明治六年に生まれた。そうして七日ののちに、父をうしなった。私は、父親を知らない人間である。
私は、駿河の国(静岡県)の海岸の袖師で生まれた。興津の隣り村である。私は生まれてまもなく、母にいだかれて東京に移った。母の生家は、徳川時代から神田明神下にあった。母の実父、すなわち私の祖父は、播州(兵庫県)林田の旧藩主であったが、まだ生きていたのであった。母は、その生家の建部家をたよって、東京に出たのである。
私は、一家が無録移住をした駿河で生まれたのであり、生まれながらにして、逆境におかれた不運な一人間であった。
当時の東京は、おごれる薩長人をはじめ、各藩から集まりきたった勝利者の占領地となった直後であった。すなわち、革命後の混乱の社会であった。
私の母は、やがて麹町三番町の実弟、坪内家の邸内に移ることになった。私はそこで、十五歳まで、母とともに生活した。私は七歳以後は、当時から有名な番町小学校に学んだが、学問、思想、行動は、先生から模範少年としてほめられていた。ただし、町の人びとには、いたずら者として、市ヶ谷見附から九段にいたる間の人びとからは、憎まれはしなかったが、評判されていた。
私はそのあいだに、漢学を清田先生に学び、英語を無名の先生に習い、また特に数学の先生について、代数や算術を学んだ。私の母は、親切に私を養育した。「一大人物となるよう。」にと、母はいつも私をはげました。母は私に、わが家の昔からの歴史を、よく説ききかせた。また、維新当時の事情を、よく話された。
私が五歳のときに、空中にものすごい帚星があらわれたが、母は深夜、私を庭につれだして、そのおそろしい大きな星を指さし、「あれが、西郷の怨霊だと、みんなは言っている。」と、私にきかせた。私は、まだほんの五歳の子どもであったが、永年、かき消すことのできないほどの強い感じを、そのときに受けた。七十四年をへた今日でも、その大きな、かがやいた彗星とその場面とは、私の眼に映っていて、消えさらない。
私はある日、母につれられて、小石川の大学植物園へいった。十歳ぐらいの時であったろう。母は私にむかって言った。「ここは、蜷川家の下屋敷であった。明治元年三月から十月までのあいだ、一家は二人の旧臣と数人の下男下女とともに、この屋敷に住まっていた。その五月には、彰義隊の敗兵数名がこの屋敷に逃げこんできた。一家は、今夜こそは官軍の刃にかかって、皆殺しにされるだろうと心配もしたが、覚悟もきめた。しかし、敗兵はどこにか去って、一家は無事だった。しかしその後、ある夕刻に、父も母も中二階で夕食をともにしていた時に、山上から、突如、一発の弾丸が飛んできた。その弾丸は、座敷のかもいにあたった。父母は食事をやめて、階下におり、静かに山上のようすをうかがって見たが、なんの異変も見られず、そのままで終った。」と、私に話してきかせた。子供ながらにも私は、それをきいて憤りなきをえなかった。そのときの母の姿と容貌とは、今もなお、私の眼底に残って消えない。
私は、子供の時代に、三番町に住んでいた清田という漢学の先生の塾に、毎日かよった。先生は、幕府時代には与力の身分の人で、漢学には深い造詣があった。漢文の著書も数種あった。生徒も、たくさん通っていた。先生は、いつも、維新当時の江戸の実相を私に話しきかされたが、そのなかには、西郷が江戸市中に放った強盗五百人の掠奪事件のくわしい話もあった。与力は、幕府の警察官として、強盗押入りの知らせがあれば、ただちに隊を組んで、その捕縛にむかって、挺身するのであった。人民の財産を強掠するのが西郷らの仕事であって、幕府を攻めるのでもなく、市内に反乱をおこさせるのでもなかったことを、いつも先生は、くわしく私に話された。彼らには、なんらの道義心のなかったことを、力強く私に話されるのであった。正義心にもえていた少年の私は、子供のときから、彼ら政争者の残虐非道をにくまずにはいられなかった。
私は、その時代からすでに、レジスタンス式の精神を、うえつけられていたのである。私は、張良が秦の始皇帝を、挺身襲撃した古事を、漢学によって学び、張良の強く正しい意気を、深く敬慕していたものであった。後年にも、私はその絵を床の間にかけて、観賞するのをたのしみとしている。