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黒岩山を探る
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黒岩山を探る
沼井鉄太郎
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Original Public Domain
Chapter 4 of 5

四、ヨイチ澤(コダ池澤)の下り

名殘惜しくも僅か一服で黒岩山の頂を離れた私達は其れから南に尾根の偃松を分けて下つた。國境の切開きは可成り新しい標木を連ねて餘り損する事もない。途中から國境の南西に屈曲して行く黒い森林を眺める。上州側の中の岐澤の上流は深く隱れてはゐるが、其のあたりは黒岩ダンの樣に物靜かな仙境を成してゐるであらう。けれども水源の黒岩山に接する所は森の内に急に聳えて、奧底も知られない。偃松は二千米位の所で別れて、見るから寒冷な針葉樹林の間を縫ふて行く。稍々右に曲ると傾斜の一寸急な下りがあつて、其の邊から林班の標木は凡そ十間毎に明かに數へて行く事が出來る。笹もない綺麗な平が、もう私達の足下となる。けれども時々痛い小灌木に見舞はれて嫌な氣持がしないでもない。かうして終に私達は全くたるんだ、黒木の直立した山の上に來てしまつた。さゝやかな小流が何處ともなく流れてゐたりする。之から少し上りになる樣子であつたが、暫く偵察をして、愈々豫定の下り場所に違ひないと見極めた。午後四時の事である。

たるみから下りると野州側はすぐと澤の窪に水が湧いて出た。よし此れなら泊は安心と、澤の右の山べりを傳ひがさ/\と笹の間を下りると、其處は澤の水が潺湲と流れて、水際の砂の上は平らに恰かも平土間の樣に出來た、恰好な野營地であつた。そして又私は此の澤の平が餘りに好過ぎる、山の水の急轉する前兆ではあるまいかと恐れる。さう思つて進むと、僅か一町にして私達は高い瀑の上に立つたのである。瀑は總計十二段若しくは其れ以上も階をなして、兀々たる岩の上を飛んでゆく。其の下の流は猶さん/\と水沫を擧げて、左から來る小澤と合し、直きに山蔭に隱れてしまふのであつた。『どうしやう? 四時二十分過だけれど、此の平で泊らうか、それとも下りてしまはうか』と私は下流には幾らか平らしい所も見えるので内心二人の氣を引いて見る。『うん下りて見よう』。其處で私は先頭になつて瀑の頭から崖頭に群がる木の間を左に辛くも切り拔けて、左の小澤との間を下つて行く、傾斜は隨分急であつたが、しなやかな木の枝から枝へと傳ひ、笹の莖を握つて、轉落を防ぐ事が出來る。左の小澤の水は殆ど無いが矢張り段々を刻んでうつかり寄りつけない。大きな白樺の根元から少し左寄りに移つて、漸く左の小澤の岩の上に駈け下りた。落合は足下である。十二階の瀑を見上げると、又しても苦行を谷に求めに來た旅人の心を自ら憐んだ。日も暮に近い。豫想した平は一向見當らないので、一行はなほも岩から岩へと跳び下りねばならなかつた。水は少いから瀑布と云ふべきものも無くて幸ひであつたが、岩と水の階段は其れから其れへと連つて現れる。遂に空の白色がうすれて左右の森の奧が分らなくなつた時、やう/\一箇所の平地を見附けた。其處は一つの瀑の下で、岩の上が三坪ばかり稍々平らになつてゐる。岩の縁には清冽な水の流があり、左側には森林が程近く墜石の恐れも先づ無い所であつた。時刻は午後五時、早速天幕を張る。そして午後十時就床の時は氣温は七度半、氣壓は六百十九粍、バロメーターの標高千七百十米を示してゐた。きらめく星に對して名越君自慢の葛湯をすゝつて、私達は寢に就いた。

明くれば十一月三日、午前四時半に起きて火を焚き付ける。澤の旅も幸にして好天氣である。三合しか炊けない小鍋一つで飯も汁もこしらへるので手間を取つて、出發したのは九時十五分過であつた。氣温十五度、氣壓は昨夜と同じであつた。野營地の下は尚ほ瀑が續いて、爪先の痛い程急な岩の面を注意して下らねばならない。谷の末にはだかる山は鬼怒川本流の右岸と覺えたが、其れ迄は可成り遠いと感ずる。九時五十五分、地形圖に水源を示した澤に合した。其れは鬼怒沼山の北方から東を指して流れ來るものである。十二三分休んで出懸けると、空の雲は南から動く。澤は最早や神經質的な瀑の連續を示さないで、先づ助かつたなと思ふ。次にコダ池澤のコの字の邊に休んで來た方を仰ぐと、私達の下つた國境のたるみの左の山が立派に見えた。其の下には崖が高くむき出して、附近には又高い瀑がかゝつて見えた。十時四十五分發。其の手前だつたか先だつたか忘れたが一寸美事な瀑がある。谷一杯に流れ落ちて、私達は稍々危い思ひで左岸をへづつて下つた。二十分許りして左岸に釣師か何かの小屋がある。聲をかけても誰一人居ないので其儘進むと、磧は漸く廣くなつて來る。磧の内に枯木が二本にゆつと立つてゐる所は最も廣い。其處に大きな四角の岩が轉つてゐたので、私達は上に攀ぢ上つて休んだ。十一時二十分過である。(此處は恐らく鬼怒沼山の東方から流れて來る支流の下で、地形圖で示すとコダ池澤の池の邊であつたらうと思ふ。なほ此の澤には今擧げた瀑の外に二つばかり著しいものがあつた)

再び出かけるともう磧は廣くて瀑は藥にしたくもない。日もうらゝかに照つて、私達は本流に觸れる喜びを豫感して雀躍りする。然し凡そ三、四十分の後に其の廣い磧は一縮みに縮まつて、流れは左寄りに忍びやかに隱れてゆく。はてなと其の後を追つて稍々深い徒渉をして行くと、其處は又豪壯な一瀑布の頭であつた。けれどもかうなると本流落口の瀑であるに違ひない事は總ての事情から明かである。試みに元へ戻つて右岸に渡り、瀑の頭まで腕の如く伸びた小山を上つて見ると、眼前には廣やかな鬼怒川本流がコダ池澤の流を合して、谷の音樂を奏するのであつた。其して私達の足下からは小徑が下りてゐるので、思はずも三人は歡聲を擧げる。終に一散に駈け下りて、鬼怒川左岸の沙上に腰を下す。正に午後零時十分。コダ池澤落合の瀑布は高さ五六間で、其の勢は流石日光裏山の水の權威を示してゐる。岩蔭からどつとおめいて姿態もかまはず止む時もなく落ちる水のさまは、ヨイチ澤(コダ池澤)最後の傑作であり、且、其れが全部の象徴でもあつた。

Chapter 4 of 5
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